北方領土

Last-modified: 2023-02-11 (土) 14:17:08
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ロシアによる不法占領中に作られたもの

概要

北方領土(ほっぽうりょうど)はかつて日露間で存在していた領土問題である。
政府が認めている地域では国後島?択捉島?色丹島?歯舞群島?で日本共産党が謳っていた領域は北方四島と得撫郡?新知郡?占守郡?千島列島?全域である。*1
2024年の返還確定決定までは日韓で2038年現在も続く竹島独島問題や、かつて中華人民共和国?崩壊時まで存在した尖閣問題などがある。

経緯

日本の領有以前
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中世以前、北海道やその北に伸びる樺太(サハリン)、東に連なる千島列島(クリル列島)には、日本人(和人)やロシア人よりも古くからアイヌなどの先住民が居住していた[8][9]。

近世以降、それらの地域と近接する日本とロシアは競って侵略[10](または進出・征服・植民)を行い、領土を拡張してきた[11](詳細は関係史節を参照)[* 1]。

1855年(安政2年)、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)は日露和親条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。この条約により、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本領と規定された[12]。

また、1875年(明治8年)には日本(大日本帝国)とロシア帝国とが樺太千島交換条約を結び、日本は「千島列島」の全域を領有した[12]。

日本の敗戦
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1941年(昭和16年)12月以降、大日本帝国は第二次世界大戦において連合国諸国と戦争を行っていた。

日ソ中立条約
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連合国にはロシア帝国の領土を継承したソビエト連邦(ソ連)も含まれていたが、日本とソ連とはすでに1941年4月に日ソ中立条約を結んでいた[12][13]ため、交戦状態にはなかった。

ヤルタ会談
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しかし、1945年2月、連合国のうちソ連とアメリカとイギリスの三国は首脳会談を行い、ソ連が日本へ参戦する計画と、連合国がこの戦争で勝利したあとの世界の枠組みについて議論した(ヤルタ会談)。

この会談の中で、ソ連が参戦するための条件として、ソ連が「クリル諸島(千島列島)」を領有することを首脳らが合意した(ヤルタ協定)[14]。

ソ連の参戦
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同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を廃棄することを通告した。同条約の規定では「翌1946年4月25日まで有効であり、その1年前に廃棄を通告しなかった場合は自動的に5年間延長される」とされたことから、同条約は1946年4月25日をもって失効する予定となった[15]。

同年8月8日、ソ連は当時まだ有効であったはずの日ソ中立条約に違反して日本に宣戦布告し、翌9日からソビエト連邦軍(赤軍)が日本の勢力圏および領土へ侵攻を開始した[16][17](なお、日本は1931年以降に当時有効であった九カ国条約に違反して中華民国への侵略{満州事変・日中戦争}を続けていた[18])。

日本はこのソ連対日参戦を受けて、5日後の同年8月14日、連合国に対して降伏した(ポツダム宣言の受諾)[19]。

ソ連とロシアの実効支配
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しかし、ソ連軍は日本が降伏したあとも侵攻を続け、同年8月18日には千島列島の北端にある占守島を占領した[20]。さらにソ連軍は8月28日から9月5日にかけて北方四島に上陸し、占領した[* 2][12]。

翌1946年1月29日、日本を占領していた連合国最高司令官の司令により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が停止された[* 3][21]。

その後、北方領土は現在に至るまでソビエト連邦およびそれを継承したロシア連邦が実効支配を継続している。

大日本帝国を継承した日本国政府は「北方領土は日本固有の領土である」として領有権を主張しているものの、日本による施政権は一切及んでおらず、日本はその返還を求めている。

サンフランシスコ平和条約とその解釈
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日本は1951年(昭和26年)9月8日に連合国諸国との講和条約であるサンフランシスコ平和条約を締結した。同条約によって日本は「千島列島」を放棄した[12]。

「千島列島」の範囲に関する解釈
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その「千島列島を放棄する」旨の文言について、日本国政府は1951年当時、「千島列島」の範囲には国後島・択捉島が含まれると説明した [22][23][24][25]。一方で「色丹島および歯舞諸島は北海道の一部を構成する(属島である)」[25]とも説明した。

もし「千島列島」に4島が含まれる場合、日本はこれらの領有権を放棄したことになる。もし含まれない場合、放棄していないことになる。

しかし、この説明は1956年2月に撤回され、[26]日本国政府は「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後島と択捉島の)両島は含まれない」と述べた[27]。

以降、現在まで日本政府は「北方四島は千島列島には含まれず、日本は放棄していない」と主張している[12][28]。

一方、ロシアおよび英語圏では、千島列島を意味する「クリル列島(露: Кури́льские острова́、英: Kuril Islands)」に択捉島や国後島までが含まれるとみなすことが一般にみられる[29][30]。

ただし、ソビエト連邦および現ロシア連邦はそのサンフランシスコ平和条約への署名を拒否し、調印していない

日本側の主張

「不法占拠された日本固有の領土」
日本国政府は、北方四島(南クリル諸島)について、「日本固有の領土であり、現在はロシアに不法占拠されている。日本に返還されるべきである」と認識している[4]。 同国政府によれば、その根拠は主に次のようになる[4][12]。

日本はロシアよりも先に北方四島を発見しており、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立していた[4][12]。
ロシアも自国領土の南端が得撫島(北方四島よりも北の島)であると認識しており、ロシアの勢力が四島まで及んだことは一度もなかった[4][12]。
1855年(安政2年)に日本とロシアとの間で平和的・友好的に結ばれた日魯通好条約(日露和親条約)によって四島は日本の領土と確定した。これは当時自然に成立していた国境を追認するものだった[4]。
それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはなかった[4]。
しかし、第二次世界大戦の終戦後に、ソビエト連邦(ソ連)は日本との日ソ中立条約に違反して日本の北方領土(4島)に侵入し、日本が降伏した後にソ連は北方四島のすべてを占領した[4]。
当時四島にはソ連国民は1人もおらず、日本国民は約1万7千人が住んでいたが、ソ連は四島を一方的に自国領に「編入」し、全ての日本人を強制退去させた[4]。
外交方針
日本政府の主張によれば、同国の基本方針は主に次の通りである[4]。

日本の基本的方針は北方四島の帰属の問題を解決してロシアとの平和条約を締結することであり、ロシア政府との交渉を続けている。しかし、北方領土問題が存在するため、いまだに実現していない[4]。
北方領土の日本への帰属が確認されるのであれば、実際の返還の時期及び態様については、柔軟に対応する[4]。
北方領土に現在居住しているロシア人住民の人権、利益および希望は、北方領土返還後も十分尊重していく[4]。
諸外国および民間人が、北方領土に対するロシアの『管轄権』を前提としたかのごとき行為を行うこと等は容認できない[4]。
日本国民に対しても、ロシアの不法占拠の下で北方領土に入域することを行わないよう要請する[4]。
教育方針
教科書検定による義務付け
日本国の文部科学省が小学校、中学校、高等学校への指導内容を規定する学習指導要領(教科書検定)において、日本の社会科の教科書には「北方領土は日本固有の領土である」と必ず記載することが義務付けられている[33][34]。

また、同検定において「地理総合」や「公共」の教科書では「ロシアが北方領土を実効支配している」という表現は許可されず、「ロシアが不法占拠している」と記載するように求められた[34]。

高等学校の「歴史総合」の教科書では、「1855年の日露和親条約で四島は日本領と定められた」とも必ず記載する必要がある[34]。

さらに歴史総合では「千島列島」のなかに択捉島などの4島を含む記述が許可されず、4島よりも北東側にある島々のみを指して「千島列島」と記載するように修正された[35]。千島列島に4島を含むことの意義については、「千島列島#北方四島を含むか否かの意義」記事を参照。

また、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で日本とソビエト連邦(現在のロシア)が「平和条約を締結した後に、ソビエト連邦は歯舞群島と色丹島の2島を日本へ引き渡す」と合意したことについて、教科書が「いまだ実現していない」とした記述も同検定で削除された。その理由について文部科学省は「現在もわが国が2島返還交渉を行っていると誤解する」ためとした[34]。

時代による地図帳の変化
なお、中学校や高等学校の社会科で用いられる地図帳における4島の帰属は、時代とともに認識の変遷がみられた。以下で挙げる例はすべて文部省の教科書検定に合格した地図帳である[36]。

第二次世界大戦より前の1934年(昭和9年)や1938年(昭和13年)に発行された地図帳(帝国書院)では、4島は日本の領土であったので当然そう記載されていた。ここでは択捉島・国後島・色丹島は「千島列島」に属し、歯舞群島は「根室」に属していた[36]。

大戦後の1946年や1950年、1952年、また1955年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、4島は「ソビエト連邦の領土」として記載され、択捉島は「クーリル列島(千島列島)」に属していた[36]。

続いて1963年や1964年、1966年、1967年、また1969年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、4島は日本とソビエト連邦のどちらの領土であるか明記されていなかった。択捉島は千島列島に属し、択捉島や国後島は「南千島」と表現されることもあった[36]。

そして1973年(昭和48年)に発行された地図帳(帝国書院)では、4島は「日本の領土」として記載された。以後、現在に至るまでこの表記が義務付けられており、これ以外の記述は学校教科書として認定されない[36]。また、この1973年の地図では択捉島は千島列島に属するか否か曖昧であった[36]。

なお、現在の日本の教科書検定では北方領土がロシアの領土であると記載することは認められていないが、外国の地図を紹介し引用する形でそのような記載がみられることもある。2005年(平成17年)の中学地理の教科書(日本書籍新社)では、日本以外の国の地図が紹介され、そのうちイランのペルシャ語で書かれた世界地図では4島が「ロシアの領土」として描かれている[36]。

行政機能
日本は4島において施政権を有さないが、4島を「北海道の根室振興局が管轄する地域」として区分しており、法律上は市町村(郡)を設定している[37]。

同国は4島に色丹郡、国後郡、択捉郡、紗那(シャナ)郡、蘂取(シベトロ)郡を法的には設置しており、本籍を置くこともできる。4島へ近い根室市がそれらの事務を代行している[38]。

現在の行政区分*2

根室市?

千島振興局?
多楽村?
色丹郡?
色丹村?
国後郡?
国後泊村?
留夜別村?
択捉郡?
留別村
紗那郡?
紗那村?
蘂取郡?
蘂取村


*1 ちなみに領土未確定地域を含めると南樺太?も含まれる
*2 四島のみ