魔法廃絶計画(まほうはいぜつけいかく)とは、1551年にりんご公国によって開始された国家計画の一つで、1551年から1580年までの29年間にわたって続けられた。魔法という技術とそれに関連した文化全てを破棄する事を目的に行われ、公国国内で大きな混乱をもたらした。公国の後継国家であるヤーブロキア連邦は、この国家計画を歴史の汚点としつつ、有意義であったとも評価している。
名目は「封建的文化、魔法主義文化を批判し、新しく科学主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だったが、実際はテクノクラート議会が単に魔法を嫌っており、その消滅を望んでいただけである。
背景
1550年、嵯々賀北東部に位置する誘湊国の都市の一つ、妹才(もざえ)が、魔法に関わる複合的な事故により壊滅した。そして、その情報は遠く離れた公国にも届いた。当時、不確定要素の多い魔法という技術に不信感を抱いていた公国のテクノクラート議会は、この事件を機に魔法関連の技術の放棄を決定、時の大公と手を組んで、魔法廃絶に乗り出した。
魔法禁止法
1551年、悪法と名高い魔法禁止法が公国で制定され、国内には魔法禁止令が発令された。テクノクラート議会は国中の学生を扇動し、魔法根絶計画の一助とした。扇動された、科学こそ絶対的な真理であると疑わない学生達は、科衛士(かえいし)と呼ばれる集団を形成した。魔法使いや、その支持者と見なされた政府幹部、知識人、貴族など、反科学分子と定義された層は、全て熱狂した科衛士の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが公国全土で横行した。結果、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、魔法文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財は甚大な被害を受けた。特に文書の類は壊滅的であり、公国の持っていたとされる魔法関連の書物や魔導書は9割が破壊され、残り一割は国外(主に誘湊)へと流出した。
さらに、誘湊の都市壊滅に驚いたのは、何も公国だけではなかった。旧キッティ帝国領の国々全てが、その大事故に驚き、そして魔法という技術に恐怖していた。そのため、殆どの旧帝国領国家で、公国と同様に魔法禁止令が出され、厳しい魔法使いの取締と焚書坑儒が行われた。また、公国の科衛士は国外にもその勢力を拡大し、旧帝国領全域で魔法根絶を推進した。結果として旧帝国地域からは魔の付くものは全て消え去り、生き残った高名な魔法使いの一族は殆どが誘湊国に亡命した。
迫害を逃れた魔法使い
勿論、全ての魔法使いがヤーブロキア地域から消え去ったわけではない。旧帝国地域の中で唯一、帝国の後継者であるキッティ臨時政府のみが、魔法禁止令を出さず、魔法使いの亡命を援助した。これは帝国貴族と魔法使いが古くから結びついていたことなどが要因の一つである。帝国時代からの由緒ある魔法使いの一族や、彼らが作った魔道具や魔法書を始めとする魔法技術は、これにより何とか壊滅を免れた。
影響
この一連の騒動の結果、当初の目的通りに旧帝国地域では魔法がほぼ完全に根絶された。その後成立したヤーブロキア連邦も、公国の後継国家であるため科学を主体とした国家であり、魔法に関しては否定的な見解を示している。