「今こうやって見てみると色々バグってんなこの国」-誘湊管理者
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概要
誘湊国は前身である「誘湊」を含めると現在惑星イツモノンに存在する国家の中ではっきりとした記録が存在する最古の国家で、その歴史は紀元前8世紀にまで遡る。
歴史の大部分は周辺地域との結束と魔法の進化、現ヤ連との戦いによって構成されており、現在の海軍主義などにも影響している。
年比較
統一0=龍3863=妖2561=北1048=皇250 周期は同じ。
歴史
時代区分について
誘湊における歴史の時代区分は、一般的に黎明期、古代、中世(建国時代以降)、近世(第二次魔法革命以降)、近代(共栄圏以降)、現代(イツモノン大戦以降)とする区分方が受け入れられる。
古代の始期は誘湊の成立が判明する「神龍人妖」の編纂に合わせて、西暦において紀元前800年代、または皇歴元年を始期とすることが多い。
中世については、誘湊が「誘湊国」として成立した1341年から1635年の第二次魔法革命?の発生までの約300年間とされる。
近世は、第二次魔法革命の発生から誘湊共栄圏の成立前後であるとされる。
近代は、19世紀前半における1824年のインシア戦争を始めとする誘湊共栄圏の設立を始期として現代に続くとされる。
黎明期
神龍人妖以前
元々誘湊列島各地に集落が存在し、それぞれが近所と交流しながら生きて行く中で近くの集落が合併していき、誘湊や霧上、博銀?といった古都市が生まれて言ったと思われる。誘湊国各地に残る遺跡や発掘品などから、大陸部ではりんごとの交流が行われていたこともわかっている。
当時はまだ渡航能力が発展していなかったため誘湊列島と大陸部に交流はなかっとされる。列島内の島同士の交流の証拠が残る遺跡の年代は、およそ紀元前1500年前であり、近距離の渡航能力はその頃に獲得したと言われている。
古魔導時代
年代的には紀元前2500から紀元前250年(皇紀元年)に相当する。この頃の誘湊人(と呼称する)は古代式魔法?を使用していた。魔法や弓矢を用いた狩猟、近海での漁などを行い、また遺跡の痕跡から植物の採集、栽培と農業を行っていた証拠も見つかっている。
御所遺跡?の一つから、初期の天皇家が住んでいたと思われる住居が見つかっており、古魔導時代中期には既に天皇が誕生していたと思われる。
また古魔導時代後期には渡航能力の発展により現在の大陸部との交流も始まり、地域ごとに「国」と呼ばれる大型集落を形成し始めた。これらの一部はそのまま現在の都市になっている。
古代期
七王時代
七王時代の開始時期は曖昧で、皇歴元年である紀元前250年、または神龍人妖によって誘湊の街が初めて記述された紀元前800年頃からの間を開始時期として、逓信同盟が成立する611年までの時期を七王時代と呼ぶ。そのため七王時代の解釈によって古代期の開始時期が前後する。
紀元前4世紀頃に発生したシステム化された魔法と、それに伴う誘湊人の活動範囲の広がりにより、誘湊列島、大陸部各地に散っていた国々が合併し、特に古魔導時代からの大型集落は周囲の国を吸収し、誘湊や霧上といった現代につながる都市を建国した。また、当時の列島、大陸の大型国家の内、誘湊、霧上、三菱、本銀?、川崎?、角川?、湯良の7国家には大々的な交易の痕跡がある。
宗教的分野では、紀元1年頃に大陸南部で神道が発生し、また大陸北部からは仏教が伝来した。仏教は神道の一部分だと捉えられたため、これら二つの宗教は競合することなく両方が誘湊地域に広がっていった。
また誘湊では、この頃既に発生していた天皇崇拝と神道が結びつき、天皇は神の1柱であるという信仰(天皇現人神信仰)が発生、「誘湊神仏道?」と呼ばれる神仏道の分派が発生した。
逓信時代
逓信同盟が制定された611年から誘湊国が建国される1341年までの時代を逓信時代と呼ぶ。
初期の同盟加盟国の間で通信魔法の開発による情報伝達の革命的発達と文字の開発による記録能力の発生によって、中央集権型の律令国家体制が形成され、特に三菱、誘湊では王権思想による天皇や皇帝とその部下による統治体制が形成されていた。国ごとに時期や程度に差があるものの、概ねこの時期には貴族制や兵士制、参宮制といった支配が行われた。また、中期には戸籍による個人把握、上官層への地方における農産業経営委託などを主とした農戸体制へ移っていった。この頃、各国は各地域が害獣や魔法獣?対策に独自に持っていた戦力を中央にまとめ、国家が運用する「軍団」を編成し、国家が戦力を持ち始めた。
この時代には魔法災害や旱魃、大火、地震とそれによる津波等、各地で災害や疫病が多発した。この時期の特に大きな災害、疫病のことを「逓信時代の4大災害」と呼ぶ。
また4大災害以外にも多数の災害が発生したことで、当時の7大国では民衆、王家を問わずに神仏信仰が広がり、国家的な神仏教信仰を推進した。
文化面では前期に「誘湊之書?」、「本銀一元?」、「風土記?」、「縁陸物書?」などの歴史書、風土書が編纂された他、中期から後期にかけては印刷技術が登場したことで庶民向けの小説や娯楽本が書かれるようになった。また、これら庶民向けの本が作られるようになったため、各地に学校機関が建設されるようになり、識字率も逓信時代後期には主要国の平均で75%程度になっていたと言われている。
書籍の他には各地で工芸品の製作が流行し、各地で独自の文化が発展していった。
中世期
誘湊国の成立
1341年5月2日、峨々賀王国?の王であったガイル7世が角川の暗殺者によって暗殺される事件が発生した。(ガイル7世事件?)これをきっかけとして急速に関係が悪化した角川?と峨々賀?は、同年8月に峨々賀王国の宣戦布告によって戦争に発展した。さらに他の加盟国もそれぞれ角川、峨々賀についたことで逓信戦争?が勃発した。しかし、この角川の暗殺者は後にキッティ帝国?が送り込んだ工作員だったことが判明する。
対戦が始まると同時に、当時領土拡大政策を行なっていたキッティ帝国は?、これを好機と見て逓信同盟国全てに宣戦布告し、侵攻を開始した。最初に侵攻の被害にあった峨々賀?、我々賀?、豊士見?は突然の背後からの侵攻になす術もなく降伏し、同盟中部の国家も圧倒的物量に要塞化が間に合わず、後退していった。この状況を非常事態と捉えた誘湊は、列島部に位置していたことで比較的被害が少なかった博鐘、本銀と連名で逓信同盟緊急会議を開催し、同盟国間の戦闘の即時停止と休戦を提示した。共通の強力な敵が現れた同盟国は、暗殺者が角川出身ではない可能性を提示されたこともあり身内で戦っている場合ではないと判断しその場で誘湊に追随する姿勢をとった。戦争開始から二ヶ月、キッティの進行から一ヶ月半という速さで和平条約が締結されたおかげで、被害が軽微な同盟域南部や列島部の国は全力を以って戦うことができ、11月にはキッティ軍を峨々賀南部周辺まで押し返すことに成功した。
キッティ軍を押し返し、戦況に余裕が生まれてきた逓信同盟は休戦状態で共同戦線を張っていることに疑問を抱き、三菱の提案で即時終戦を決定した。同時に戦争の停止後に希望する全加盟国で国民投票を行い、3分の2が賛成した国家を統合して誘湊を首都とする新たな国家「誘湊国」を建国する「誘湊宣言?」を決定した。
宣言の4ヶ月後にはキッティ帝国軍を従来の国境まで押し戻したことで逓信同盟とキッティ帝国は休戦条約を締結した。休戦状態に入ったことで「誘湊宣言?」の前提条件を満たしたことで全加盟国で国民投票が行われた。(全加盟国が希望した。)その結果加盟国全てが八割以上の賛成票を得て「誘湊国」の建国に同意し、1342年5月1日、ガイル7世事件の1日前に現在の誘湊国が建国された。
中世期
建国時代
逓信戦争?が勃発した1341年から第二次魔法革命?が発生する1635年頃までは建国時代と呼ばれる。
元々逓信同盟によってある程度政治が統一されていたため建国による混乱はそれほど大きくなかったが、建国時代初期は休戦中のキッティ帝国に対しての警戒から軍拡と半戦時体制中にあった。互いに不利益しか生んでいないことを悟ったキッティ、誘湊両国は1345年に白紙講和を行って終戦したものの、両国の関係はあまり改善されることなく、断交に近い状態だった。
第一次誘湊戦争
1436年に旧誘湊工廠爆破事件をきっかけに休戦が解除され第一次キッティ=誘湊戦争が発生した。キッティ陸軍の戦力は誘湊国を大きく上回っており、1439年初頭には大陸領のほぼ全土が占拠され一時は誘湊列島上陸の危機が迫ったが、「戦艦皇居」や「誘湊型戦艦」を始めとする強力な誘湊海軍によって上陸は阻止され一時的に戦線が停滞、海軍による強襲作戦を計画した誘湊は翌年1439年5月16日に発生したキッティ沖海戦にてキッティ帝国海軍を文字通り壊滅させ、18日にはキッティに対する強襲上陸が成功したことで停戦、翌年3月に「豊士見条約?」が締結され、キッティ=誘湊戦争は終結した。
帝国の分裂とヤーブロキア統一戦争
16世紀後半、キッティ帝国が分裂し、その影響で帝国から独立した小国が幾つか同盟国として誘湊に追随する形となった。この国々の加入により、当時貧弱だった陸上戦闘が発展し、現在につながる非魔法銃などが開発されたが、妖精族と人間族との違いや思想的障壁、歴史的背景などから完全に融和したとはいえない状態だった。さらには1550年、落雷による結界魔法の誤作動と高位魔獣出現による穢れと歪みにより嵯々賀北東部の妹才(もざえ)が爆炎と魔力風に包まれ壊滅、これにより帝国で成立した魔法禁止令と魔女狩りが始まる。亡命してきた魔導士やその家族こそ温かく迎え入れられたが、誘湊国の帝国への感情はさらに冷え込んでてゆくことになる。
隣国のキッティではヤーブロキア統一戦争が勃発していた。旧領の一部を領地としていた誘湊国は当然警戒していたが1603年、ついに宣戦布告がなされ、第二次キッティ=誘湊戦争の戦端が開かれた。200年前の陸戦大敗の雪辱を果たすべく誘湊国各地から集結した高位魔導士を集めた魔導師団を投入し、キッティ軍に対して大きな打撃を与えることに成功した。しかし内燃機関を用いた"装甲車"という新兵器に対して有効な反撃ができず、各地で戦線が崩壊、海浜部や虎の子の特別魔法師団*1を投入した地域では優位に立っていたがキッティ旧領や大陸内部の砂漠地帯では敗退を繰り返すこととなった。
1605年、角川で秘密交渉が行われ、キッティ旧領と誘湊国としては使い道がなかったガイヤーク砂漠の割譲を条件に軍部へ帝国内に残る多くの魔導士の亡命援助を認めさせ、角川密約が締結された。これを機に表舞台の戦争も、旧帝国領からはみ出してきた戦車部隊が特別魔法師団によって塵にされたことで戦線が停止、休戦条約が結ばれることになり、旧帝国領は元の国へ戻ることとなった。なお軍部は約束通り魔女狩りを逃れた魔導士たちを安全に誘湊領まで導いたことやヤーブロキア連邦成立によって帝国地域が安定したことでヤーブロキアと誘湊は少しずつ関係を改善していくことになる。