スナイパーライフル

Last-modified: 2013-07-20 (土) 23:08:48


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武器名攻撃力連射力反動正確度機動性装弾数価格
Kar98k100010100755/20初期装備
Mosin-Nagant100010100755/2027000
SVT-409517101007510/4038000
G43902551007010/4035000
Lee-enfield1000101007510/--日本未実装
MN-Btype100010100755/20ガチャ景品


Kar98k



Kar98k.jpg
解 説
Kar98kは通称であり、当時の軍マニュアル等によれば正式名称はKarabiner98kで、その略称はK98kである。
Karabiner(カラビナー)は騎兵銃を意味し、98は母体となったGew98が制式採用された1898年を示している。末尾についているkはkurz(クルツ)、つまり短いを意味し、全体として「1898年式の短型騎兵銃」たるを示している。アメリカのカービン銃のカービンは、このライフルのカラビナーと同意である。
騎兵は馬上射撃が求められるので、取回しのしやすさから短めの全長、また、背負った場合の安定性から負革が銃側面に存在すること等が、騎兵銃の形状の特徴となっている。これが転じて、後のドイツでは負革が銃側面に付く小銃をKarabinerと呼ぶことにもなっている。
口径は7.92mm、装弾数は5発のボルトアクション式ライフルである。制式採用時点で、アメリカ合衆国やソビエト連邦等では半自動小銃の実用化が進められており、既に旧式化しつつあったものの、命中精度や安全装置の設計に優れており、高い信頼性や生産性から1945年の終戦時まで生産が続けられた。その生産は、開発者であるモーゼル社の二つの工場の他、国内の複数の銃器メーカーはもちろんのこと、占領下の国外銃器工場まで動員して行われ、総生産数は1,400万丁を超える。精度の高い個体は4~6倍程度の望遠照準鏡との組合せで狙撃銃としても威力を発揮し、戦争末期におけるドイツ狙撃兵は前進する連合国兵士の脅威となった。

(c)Wikipedia Kar98k

Mosin-Nagant



Mosin_Nagant.jpg
解 説
第二次世界大戦以前までソ連赤軍の代表的な小銃としてはモシン・ナガンM1891がある。この小銃は帝政ロシア時代のセルゲイ・モシン大佐とベルギー人のレオン・ナガン兄弟によって開発されたボルトアクションライフルで、1890年代に帝政ロシア軍に制式採用された。当時の小銃は単発後装が主だったが、M1891は5連発の弾倉を装備することで火力も格段にあがった。しかし銃の全長が長く戦場で使うのにはいささか不便であった。またタンジェントサイトの距離表尺の標示に帝政ロシア独自の単位であるアルシンを使用していたため、兵士の間では不評であった。
1892年からロシア帝国の依頼によりトゥーラ造兵廠、イズマッシュ・アーセナルなどの兵器工場で本格的に生産が開始されたが、500,000丁の依頼に対して生産が追いつかず、一部はアメリカ合衆国やフランスの国営兵器工場にて生産された結果、1904年の日露戦争時には380万丁のライフルが納入された。

ゲーム内では『モシン』と呼ばれる。

SVT-40



SVT40.jpg
解 説
この時代にソビエト軍が使用していた代表的な狙撃銃には、しばしばモシン・ナガン狙撃銃が挙げられるが、この銃は機関部がボルトアクション形式だった為に連続して狙撃を行う事が困難だった。
1930年代に入り各国の軍隊では次世代小銃として半自動小銃の開発を進めていた。ソ連の銃技師フョードル・トカレフは、このスコープから目を離さず連続狙撃が可能である半自動小銃の研究を1920年代末頃から開始した。そして1932年、試作型の半自動小銃が完成。しかし機関部の不具合からこの試作銃は制式採用されることはなかった。F.V.トカレフは、この試作銃の欠陥を解消したうえで更なる改良を重ね、1938年にトカレフM1938半自動小銃を完成させた。別名、SVT-38(Samozariadniya Vintovka Tokareva:トカレフ式自動装填小銃の略)とも呼ばれた本銃は機関部はガス圧作動式を採用、使用する弾丸は以前から小銃に使用されてきたリム付き 7.62mm×54Rを併用可能という高い互換性を備えていた。しかし当時のソビエト軍が使用していた弾薬には粗悪品も多く混じっていたため、発射圧でふくらんだ空薬莢がチェンバー(薬室)内部に貼り付き作動不良を起こす事が少なからずあったという。トカレフM1938半自動小銃にはこの作動不良を防ぐために、チェンバー内に細かな溝を刻む事で空薬莢がチェンバー内に貼り付かないよう改良が施されている。

G43



G43.jpg
解 説
19世紀末から各国では自動装填式の小銃、すなわち半自動小銃の開発が盛んに行われるようになったが、強力な弾薬を使用する歩兵銃の自動化はかなり困難であった。
ドイツでは1896年にC96自動拳銃を完成させたパウル・モーゼルが研究を進めていたが、試射時の事故で左眼を失いながら、結局成果を得ることができないまま彼は1914年に亡くなっている。その後、第一次世界大戦の開戦と共に半自動小銃は一層着目されることとなる。それは当時まだ実用化されたばかりの軍用航空機上で使用するためであった。開戦当初の軍用機はまだ機関銃を搭載しておらず、搭乗していた航空兵がお互いボルトアクションライフル銃で撃ち合う状態だった。そこで軍は、より速射のできる小銃を求めてスイスのSIG社のモンドラゴンM1908半自動小銃を15型航空兵用自動装填騎兵銃(Flieger-Selbstladekarabiner15)として採用、輸入に至った。また、モーゼル社でも研究が続けられ、やはり航空機や飛行船の搭乗兵用として1916型自動装填銃(Selbstlader Mod.1916)が完成する。この両者の採用は、地上戦ほどの悪条件下での使用ではない航空兵用だったからこそ可能であったものであり、その機構の複雑さ、重量、そして射撃精度の低さは地上戦用の歩兵銃としては重大な欠点であった。その後軍用機には機関銃が搭載されて空戦ではライフル銃は使用されなくなった一方、歩兵銃としての半自動小銃の研究は継続されたが、重量の増加や埃や泥に弱いといった欠点、さらに軍隊における半自動小銃の用兵枠も確立していなかったことも重なり、新型銃の開発は多難を極めた。

Lee-enfield



[添付]
解 説
リー・エンフィールド(Lee-Enfield)は1895年から1958年の60年以上もの間イギリス陸軍の制式小銃であった、脱着可能な10発入りダブルカラムマガジン(複列弾倉)を備えたボルトアクションライフルである。 リー・エンフィールドとは、設計者であるジェームス・パリス・リー(James Paris Lee)のリーと、王立小火器工廠がある地名のエンフィールドから来ている。

一言にリー・エンフィールドと言っても、同じタイプの銃を使い続けたのではなく、改良を加えながら使い続けた為、各タイプごとに名前が異なり、外見・仕様・弾薬共に変わっている点も多く、多くのタイプ・ヴァリエーションが存在する。 このためリー・エンフィールドシリーズと呼んでも過言ではない。

日本未実装

MN-Btype



MN_Btype.jpg
Mosin-Nagantの別バージョン
・ガチャ「Legend Box 002」景品
ゲーム内では『布モシン』と呼ばれる。

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