AAR/陽の沈まぬ帝国

Last-modified: 2010-06-10 (木) 14:09:14

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AAR

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1、序論

 大英帝国の地政学的な位置が非常に有利であることは言うまでもない。四周を海に囲まれる天然の要害を有しているからだ。あらゆる国は我が大英帝国に上陸するためには海軍力を備えなければならず、後世の海洋戦略家A・マハンの言うところによる海軍国と陸軍国の両方を志向する国家は必ず凋落するとの言の通り、ことごとくその海を渡ることはできなかった。フェリペⅡ世のスペイン王国が良い例である。
 大英帝国は本国の他に3つの海外領土と、保護国として13植民地を有する。前者はカリブ海のジャマイカとバハマ、そしてハドソン湾岸地域である。後者は北アメリカ大陸東岸の13州。いずれも大英帝国が新大陸における地盤を保つには不可欠である。特に13植民地に至っては将来的に大英帝国に併合することが決まっており、必然的にその周辺勢力の跋扈を駆逐することは宗主国の使命であろう。
 となれば取り得る戦略は一つ。
 北アメリカにおける大英帝国の覇権を確立すること。これこそが我が大英帝国に神が課された使命である。

2、ウィリアムⅢ世の統治(前期1700~1708年)

 1689年、名誉革命により国王に即位したウィリアムⅢ世を抱く英国議会は1700年に植民地の拡大を達成するには強力な陸軍力の整備が必要だという信念のもと、英領ジャマイカとバハマの整備を開始する。そして、13植民地併合のため、ジョージアとチェロキーの領土を侵略するという目的のもとに軍の配置変換を計った。 
 1700年時点における英軍戦力は、陸軍兵力に関してはジャマイカに戦列歩兵連隊1個、パイク兵連隊1個、民兵連隊1個、砲兵1個そしてバハマに民兵1個連隊、海軍兵力に至ってはフリゲート艦が2隻、内洋型フリゲート艦が2隻という極めて弱体なものであり到底戦力と呼べるものではなかった。もっとも、それは本土に関しても同様で、海軍こそフリゲート艦5隻、小型フリゲート艦2隻を有してはいたが、陸軍に至っては植民地軍に比べて毛の生えた程度のものであった。
 国内情勢に関しては、適正な税制が守られているため不穏な空気こそ無かったが、基幹産業、とりわけ農業力の低さは他のヨーロッパ諸国に比して大きく後れをとっていた。また、国内にケンブリッジ大学の1校しか技術研究機関が存在しておらず、体力面に関して潜在的な敵性国であるフランス王国、スペイン王国に大きな後れをとっていることも確かであった。この状況を回復するには交易が非常に大きな要素になることは言うまでもない。そこで、英国議会は1706年までに貿易船6隻の建造、並びに内洋型フリゲート艦4隻の建造を王立海軍に命じた。また、インド亜大陸のマラータ同盟、並びにムガル帝国との通商条約の締結を目指し、これは1700年中には両方とも達成する。ただ、ここで問題に浮上するのがインド亜大陸から英国本土までの交易路である。

海軍戦略の基本方針

 遥かインドの地から喜望峰を超えブリテン島まで結ばれるシーレーンは、大英帝国の潜在的な敵性国であるフランスとスペインに常に扼される位置にある。陸軍国フランスこそ強大な海軍はもたず、また造船所の存在するブレストもブリテン島から近く、その動向を監視できる位置にあったが、スペイン王国海軍はそれとは比べ物にならない海軍力を有していた。無敵艦隊と過去に呼ばれたころの規模こそないものの、強力な砲力と高い防御力を持つガレオン船を大量に有するスペイン海軍がフリゲート艦を主力とする大英帝国海軍を鎧袖一触することは火を見るよりも明らかである。仮に大英帝国とスペイン王国が交戦することになればその艦隊が英国の交易路を圧迫し、英国経済を困窮の極みに追いやることは言うまでもない。ならば、王立海軍に課せられた任務はこれと逆のことをすればよい。ガレオン船はその性質上海洋における移動力はさして高くない。それに比べて我が海軍は足は速い。また、フランスにせよスペインにせよ海洋交易によって収入の大半を得ているのも変わらない。ここに当面の王立海軍の任務が決まった。

  • 敵通商路の遮断。
  • それを察知した敵海軍の接近に際しては可能な限り交戦を避ける。
  • 可能ならば交易路外へと誘引して間接的に交易路を防衛する。
  • そのための艦隊の編制。万一に備え4等戦列艦3隻の建造は順次行う。

陸軍配置返還

 一方、ハドソン湾岸の植民地は西方をヒューロン族に、東方をフランス王国によって囲まれており、現地の資源生産も決して芳しいものとは言えなかった。大英帝国がここを固守する必要は全くない。しかし、現地の守備隊は民兵連隊、レンジャー隊、パイク兵連隊が各1個駐留しており、この戦力が植民地獲得に大いに役立つことは確かである。しかし、ここでヒューロン族と交戦する必要は必ずしもない。ならば、フランスにここを明け渡しヒューロンと戦争に持ち込ませるのはどうか、というのが当時の内閣の思惑でもあった。その案は議会により可決し、1700年冬にニューフランス条約が締結された。条約内容は大英帝国がハドソン湾岸地域をフランス王国に譲渡する、その代りにフランス王国は在地英国人並びに駐留軍を最寄りの大英帝国植民地へと輸送せねばならないという破格のものであった。この条約により、英国は一部領土を失ったものの3個連隊を無償でジャマイカに移駐させることに成功する。
 こうして大英帝国の兵力配置返還はつつがなく進み、1705年には英国本土より名将ジョン・チャーチル率いる騎兵3個連隊、戦列歩兵1個連隊、パイク兵2個連隊、砲兵2個連隊を載せたフリゲート艦隊が海賊の襲撃を振り切り無事にジャマイカに到着した。ジャマイカにはバハマで集められた。
 国内の資金の投入は産業の確立に向けて投下されていたため、ジャマイカに集められた陸軍が増強可能になるのは交易船団がコートジボワールに展開し、国内経済が軌道に乗り出す1708年になってのことだった。
 しかし、既に新・旧大陸では大きな動きが起こっていた。