高瀬神社

Last-modified: 2013-05-10 (金) 23:25:05
 

高瀬神社
たかせじんじゃ
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(参拝日:平成25年1月6日)
住所:富山県南砺市高瀬291mapionlogo.gif
主祭神:大己貴命
一宮:越中国一宮
社格:式内小社、国幣小社、別表神社
主な祭礼:9月13日(例大祭)
webサイト:高瀬神社

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↑一の鳥居↑
(由緒:パンフレットより)

千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和して建つ当神社の御社殿は、国費をもって昭和十七年より数ヶ年の計画で
建て直しされる予定で工事が始まりましたが、基礎工事が終了した昭和二十年八月終戦を迎え、
GHQ(極東軍司令部)の指令によって国費による建立が中止となりました。往古の面影は消滅し、
参拝する人の数は皆無といった状況でしたが、地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹令数百年の銘木を寄進され、
多くの方々の社殿建立の情熱にさゝえられて、昭和二十二年に御本殿(流造)、翌年に拝殿(入母屋造)、
更に昭和六十二年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座二千年の歴史を偲ぶ完全な竣功を見るにいたりました。

御鎮座の年代は、景行天皇の御代と伝えられており、太古悠遠の時代に属します。

文武天皇の御代に蝗害により勅使を遣わされており後、光仁天皇宝亀十一年(七八〇年)従五位に、
さらに清和天皇貞観元年(八五九年)正三位に、安徳天皇治承四年(一一八〇年)に正一位に列せられました。
当時は多くの社領荘園を有していましたが、現在は「神子畑」という地名だけが残っています。
また、「大宮司」「勧学院」など往時の面影を偲ぶ地名も残っています。

戦国時代に入り、往古の繁栄は何処へ。社頭は荒廃し、人心も乱れた時代でした。
江戸時代になると、加賀藩主前田家の篤き崇敬の誠心のもと、御神威は高揚し、明治以降は明治六年に県社、
大正十二年に国幣小社となり、翌十三年、摂政宮(昭和天皇)の御使が御参拝されるなど皇室国家からも篤く待遇されました。
昭和二十年に大東亜戦争終結となりましたが、戦前戦後を通し、この地域の守護神として崇敬され今日に至っています。

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↑鳥居と拝殿↑
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↑拝殿↑
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↑高瀬稲荷社↑
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↑功霊殿↑
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↑藤井秀直翁之像↑
(以下、余談)
高岡から南へ向かい、砺波平野の散居村の風景が広がると越中一宮があります。
正月だったこともあり、早朝にも関わらず参拝者の姿を見かけました。
ちなみに、越中一宮を名乗る神社は、他に射水神社気多神社雄山神社?があります。

手水舎は昭和45年に伊勢神宮より移築されたものです。水鉢は只見川より運ばれた自然石でつくらた神石です。
水の中に高瀬遺跡(約1,200年前の役所跡)から発掘された建物の柱が保存されています。

雪が積もっているので分かりづらいですが、境内は思った以上に広いです。
その広い境内に鬱蒼と杉の巨木などが生い茂っていました。