「二人の部屋 Side-H」 (81-767)

Last-modified: 2010-01-12 (火) 22:41:58

概要

作品名作者発表日保管日
「二人の部屋 Side-H」81-767氏08/02/2508/02/25

 

  • 「二人の部屋 Side-K」のハルヒ視点です。(作者注:もし宜しければ、事前に「Side-K」の方からお読み頂けることをお勧め致します)
     
    <<注意!>>
    前回に引き続き、途中のやや暗めな雰囲気に加えて、今回はオリキャラ(モブ)ぎみの描写もあるので、苦手な方はスルー推奨…。
    またハルヒの性格も、時間の経過等を考慮に入れた上であえて、やや落ち着かせたものとさせております。
    あと前回匂わせていただけのSOS団解散シーンの描写なんかは、書き始めるとまた無駄に長引きそうだったのでさすがにカットしたけど一応、ハルヒの力が無くなって機関等も自然と消滅?し、その後遠くからハルヒを見守っているだけの普通の世界、みたいな感じで漠然と捉えてくれるといいかも(~いつかきっと、またどこかで会う事もあるかもしれないよ的なノリで)。
    これらはあくまでもifの設定での話ですので、もしそれでも宜しければ、以上の事をどうかご了承の上、お読み頂けると幸いです。

作品

 
 あなたは、自分自身の居場所、というものをお持ちだろうか。
 
 あたしにはかつて、かけがえのない自分の居場所があった。大切な人達が居た。その中であたしは、人というものは他者との相互的な関わり合いの中から自身の立場を見出すものなのだと知った。
 それ以前のあたしは、誰にも頼らず、誰の力も借りず、自分ひとりの秀でた力さえあれば、きっとこの世界を変えてゆけるのだと漠然と考えていた。そうして果ての見えないトンネルの中で、ただ闇雲にもがき、あがき続けていていた。
 
 しかし彼らと出会い、苦楽を共にし始めると、そんな閉じられた世界がたちまちに開けて感じられた。それは、それまでいくら探し求めても、決して到達することの叶わなかった光景だった。
 次第にこの視界が明瞭に澄み渡ってゆき、冷たく透き通った風が流れ行く風景の中にあたしは佇んでいて、そこで彼らと互いに意思を交わし合っていた。
 すると普段の何でもない景色の中から、今まで自分だけの思い込みのフィルターに遮られて気付くことの出来なかった、限りない奥行きをそこかしこに発見した。それらに手を伸ばすと、この腕はその中へと、どこまでも深く深く沈み込んでいった。
 自分の世界、その認識を変えるような不思議なことは、ここじゃないどこか別のところにあるのではなく、ここにも、そしてどこにだって至る所に、その表面として仕切られた向こう側に潜んでいるものなのだと気付かされた。
 
 そうしてあたしは彼らと日々、街中を飽くことなく探索した。
 道行く人々の様子を窺い、そよ風の感触をこの肌に触れ、風になびく木々の騒めきを耳にし、木漏れ日の美しさに目を奪われていた。
 そんななんてことはないひと時ひと時を、あたしは彼らと共に語らい、分かち合っていた。
 かつてのあたしがただ孤独に何かを探求していた頃とは、この目に見え、耳に聞こえるものなにもかもが一変して感じられた。
 
 
 
 あたしは、きっといつまでも、そうやって彼らと共に何かを追い求め続けてゆけるのだろうと思っていた。
 でもそれはふと気付くと、まるで全て泡沫の白昼夢であったかのように、にわかにあたしの周囲から消え去り、この手から零れ落ちていってしまっていた。
 
 それは、ある日を境として唐突に、ひとり、またひとりと、あたしの立場からでは断じて抗いようのない各々の事情をその理由として述べながら、次々とあたしに、――あたしたちに、別れを告げていったのだった。
 一人はただただ申し訳なさそうに黙って俯き、一人は別れを惜しんで泣きじゃくり、一人は寂しげに、そして複雑そうに微笑み続けていた。
 あたしはその一人一人に労いと激励の辞を送り、いつの日にか必ず再会することを固く約束し合い、そうして最後には無理矢理に笑顔を作って彼らを見送った。
 
 そしてその後にはあたしたち二人だけが取り残されていた。それは、彼らと関わり始める以前より、最初から一緒に居て、ずっとこの傍であたしを見守ってくれていた人だった。
 彼らが離れていってしまった時、彼は、何かしらあたしの知らない彼らの実情を知っているようにも見えた。しかし、結局あたしに何も告げようとはしなかった。
 その時はあまり気にも留めていなかったのだけれど、こうして思い起こせばそれが、後に彼との距離を生み出した僅かな亀裂の、その最初の発生だったのかもしれない。
 
 あたしは本当は、彼に対してずっと恋心を抱いていた。でもいつも素直になり切れずに、その彼に対する態度を誤魔化し、あまつさえ自分の中ですら、決してそれを安易には認めようとしなかった。
 でも彼らが立ち去ってしまった後、このあたしを意味づけてくれる存在は彼一人だけだった。それだけが、あたしの拠り所、居場所だった。あたしはそこでようやく彼が、自分にとって、決して手放してはならない人物だったのだと思い知らされた。
 だからその時にこそあたしは、この先何があろうとも、ずっと彼と共に居たい、そして二人で一緒に寄り添っていようと、明確に自分自身に誓い、心に刻み込んだのだった。
 そうしてそれと同時に、あたしは自ずと彼を失ってしまうことへの恐怖を懐き始め、その為にはやはり社交性や社会性をもっと表に出してゆかねばならないと考え出した。自分を少ずつでも変えてゆこうと試み始めた。
 
 そうしてゆく中であたしは、一体何を得て、また何を失っていったのだろう。その答えは、かつての盲目的で反復的な錯誤を続けてきた記憶の中に埋もれてしまっている。
 彼とあたしがすれ違ってゆく中で、かつての自分と今の自分自身までもが乖離してゆこうとする。あたしはそれをこの場所から、必死に取り戻そうとする。自らの過去を、紐解いてゆこうとする。
 だから、あたしは語ろうと思う。今、この場で一律的な回旋に身を費やしてゆくことの中に、恐らくその答えがある筈はないのだから。
 
 
   □□□□□
 
 
 ――キョンが東京の大学を受験すると言い出したのは、高校生活もあと半年余りに迫った、ある夏の暑い日のことだった。
 
 学校は既に夏休みに突入しており、あたしたちはキョンの部屋でエアコンをきかせながら、共に勉強へと励んでいた。
 外では蝉たちがその儚い生命を削りながらも必死に声を上げており、道を覆うアスファルトは熱気で蜃気楼のように、ゆらゆらと歪んで見えた。
 あたしはキョンのはかどり具合を看てやりながら、その感じだと~~大か、~~大あたりになるわね、と地元の大学をいくつか挙げながら見通しを立てていた。
 するとキョンはそこで、ふと気付いたように言葉を返す。
「ああ、そういやまだお前に言ってなかったっけ。悪い、実は俺、東京に出ようかと思ってるんだ」
 
 あたしはその言葉を聞いて、しばし自分の耳を疑い、やがてその旨を理解すると同時に愕然とした。
 確かに東京なんかと比べると多少見劣りするかもしれないけど、この地元だって決して田舎ではなく、ちゃんと電車で通学し得る範囲内にピンからキリまで各種色とりどりの大学が揃っている。
 だから、まさかキョンがそんな事を言い出すとは、夢にも思っていなかったのだ。
 
 それまでは、もし上手くいけば大学もキョンと同じ所に行けたら良い、もしそれが叶わなかったとしても、この辺りの地域にお互い住んでいる限りはきっと今ある関わりを保ち続けてゆけるだろうと、漫然と構えていた。
 そんな中でキョンがあたしに告げたその内容は、その時のあたしにとっては実に晴天の霹靂と言ったところだった。その瞬間まで当たり前に思い描いてきた未来への印象を、根底から一偏に覆され、打ち崩されてゆく様な感覚に陥った。
 あたしはそんな内面の動揺を悟られないようにとどうにか隠しつつ、普段の会話通りの口調を保ちながらキョンに、なぜ東京へ行きたいのかと訊ねる。
 
「大学に行ったら俺、認知学に関してのちょっと特殊で専門的な研究を齧ってみたくなってさ。まあ有り体に言うと、人は、人の脳はこの世界を果たしてどう捉えているのか、だとかそういう事にちょっとしたきっかけで興味を持っちまってよ。で、その手の研究室がありそうな学校を調べてみたんだが、どうやら俺の思ってる様なのは、この辺りには無いみたいなんでな。それは仕方ない。だからどうせだったら、若い内に日本随一の大都市に出て独り暮らしでも始めながら、この社会のあり方ってもんを生活の中で一緒に学んでゆくってのも、ま、悪くはないかと思ってさ」
 
 へえ、このバカキョンがそんな哲学的?なものなんかに関心を示すなんてね。一体どんな気持ちの変化の表れなんだろう。でも、“仕方ない”なんて…。
 あたしはそう思った瞬間、あたしの前から忽ちに姿を消してしまった元SOS団のみんなの、別れ際の顔がふと頭を過ぎって、無意識的にどうしても目の前のキョンの顔をそれに重ねようとしてしまう。
 そんな一抹の不安に襲われて、その中であたしは瞬時に、この最初の決断を下した。
 
「東京…東京、か。そうね、確かに、何かまた見たことのない様な不思議が見つかりそうな予感がするわね。…面白そうじゃない、あんただけに独り占めなんて、このあたしはさせてやんないわよ」
 あたしはそう言いながら、キョンに向かってチェシャ猫の様にニヤリと、したり顔を投げかける。
 それに対してキョンは、またいつも通りのやれやれといった風情で溜息をつき、諦め顔をつくる。
 何よ、その顔。何か言いたい事でもあるんだったら、もっとハッキリと言いなさいよ。別にいつもの事だけど、本っ当そういうとこ男らしくない奴よね、もう。
 
 
 
 まあしかしどうであれ、キョンと同じ大学や学部を受けるであろう事は、あたしにとっては元より当然の予定だった。
 あたしも適当な理由を付けて、東京の大学を受けたい旨を親に伝えた。すると東京にある大学への受験自体に関しては許諾を得たが、しかし親は、もっと自分の偏差値に合った大学をちゃんと受験して欲しいと懇願してきたので、あたしは仕方なくそちらも一緒に受けることとなってしまった。
 もし仮に受かったってそんな所に行く気は始めからさらさらなかったけど、それでも念には念を入れて、その大学もキョンの受ける所に距離的に近いものを選んでおいた。
 
 その結果はもちろん、両方合格。まあそれは当然よね。
 そしてキョンも無事に受かったようだ。それを聞いてあたしは、これでまた次の春からも、キョンと同じ学校に通えるんだという期待に胸を躍らせた。
 でもキョンは、自分の進学する方ではなく、よりレベルの高い方の大学へ行くようにとあたしに告げてきた。
 たとえ親なんかに何をどう言われたって、また言いくるめていい加減に誤魔化してしまおうと考えていたのに、キョンはいつかの夢であったようにあたしの目を率直に見据えながら平に説き聞かせてきたので、あたしはその言葉に耳を傾けざるをえなかった。
 
 キョンはその所存を切々と述べる。今日の大学というもののあり方について。あたしと大学との関わり方について。そしてあたしの将来的な人生設計について。
 そうしているうちに、キョンが本当にあたしのためを思って言ってくれているという事がこの胸にひしひしと伝わってきたので、あたしは終いには、渋りながらもその説得にとうとう折れてしまった。
 でもあたしはその代わりとして、一つだけ提案を持ち出した。
 
「…あんたがそこまで言うんだったら、もう、分かったわよ…。でもそれだったら、一つだけお願いがあるの」
 するとこの胸が次第に高鳴ってゆくのを覚える。そして肌にまとわりついている時間の流れがやけにゆっくりと、遅くなって感じられる。もう、引き返せない。
 あたしはまるで清水の舞台から飛び降りる様な覚悟と気概で自らを奮い立たせ、なんとかその言葉を途切れ途切れに口にする。
「あのね…、二人で一緒に、ルームシェア、しない?」
 そう告げた瞬間、途端にこの顔に血が上り、それが急速に熱を帯びてゆくのが自分でも分かった。
 
 しかしキョンはそんなあたしの言葉を聞いて、見る間にいかにも訝しげな表情を浮かべる。
 あたしはそれを受けると、自分の心をキョンに見透かされたかと慌ててしまって、思いつくままにその当たり障りのなさそうな理由をあれこれと列挙して並べ立て始めた。
 
 
 
 …確かにこれでも、大学は違えど、どちらにせよ同じ東京に引っ越せることに変わりはない。
 でも東京という新天地、更に大学という見知らぬ環境では、たとえ同じ都内に住んでいたとしても、この地元での距離感とはきっとあまりにも異なるだろう。
 キョンはそのうちに、あたしを隔てた向こう側の生活の中で新しい交友関係を築き、もしかするとそうしてあたしの事なんて徐々に忘れていってしまうかもしれない。
 そんな懸念に駆られながらあたしは、どうしても同じ部屋で暮らしたいと頑なに言い張った。
 
 キョンはやはり、その決断に二の足を踏む。あたしがいくら様々な角度からの見解を申し出ても、のらりくらりと言葉巧みに返答してそれを切り抜けようとする。
 でもあたしだって、今度ばかりは決して自分から引くことは出来ない。正に背水の陣の心地だ。
 
 しかしそうこうしているうちに、あたしは自分の発言に対して段々ばつが悪くなってきてしまい、キョンの顔もまともに正視できずに足元に目を落としながら、あいつの反論を黙って聞いていた。
「お前、自分の言ってる事の意味分かってんのか? 俺たちはまがりなりにも男と女なんだぞ? そりゃ家賃はお互い軽くなるかも知れんが、それにしても同じ部屋で暮らすなんてなあ…」
 
 あ…。
 キョンはこれでも一応、ちゃんとあたしの事を、一人の異性として見てくれていたんだ。普段はただの男友達の延長上みたいな、どうでも良さそうな付き合い方しかしてくれてなかったから、実はそれすらもちょっと不安だったんだけれど。
 
「第一、うちの親も、お前のご両親もそんなの許す訳がないだろう」
 ――その言葉を聞いた瞬間、あたしはふと閃いた。
 実はお互いの両親の承諾に関しては、あたしにはある程度の勝算があった。それはいつかこういう日が来るかもしれない事を見越して、受験勉強を半ば口実に、普段から二人で双方の家を出入りして家族との親睦を深めるようにしていたからだ。
 きっと親の目からはさぞかし仲の良い恋人同士にでも見えていたことだろう。現実にはキスやその先どころか、告白さえしていないというのに。
 
 両親の同意さえ何とか得ることが出来れば、もしかしたらその勢いで押していけるかもしれない。そんな考えに一縷の望みを託し、あたしは思い切って一つの賭けに出た。
「だったら、一緒にお互いの親の所へ訊きに行ってみましょうよ。これ以上あんたと二人だけで話してても埒が明かないみたいだし、その答えを聞いてから判断しましょう。それでいい?」
 あたしが自らの決意に勢いづいて声も高らかにそう強く主張すると、その態度の変わり様に驚いたのかキョンは一瞬絶句し、やがて眉をひそめながらもようやくそれに同意したのだった。
 
 その結果、思った通りに、親達は特別な疑問も持たずに自然とあたしたちの話を聴き入れてくれた。
 そしてその様を目にしてキョンが言葉を失っている隙に、あたしは話を多少強引に脚色もしつつ、無理矢理形にまとめてしまった。
 ちょっと卑怯だったかもしれないけど、だってこうでもしないと、キョンとの連絡がふと途絶えただけでも、あたしたちは離れ離れになってしまうかも知れなかったから。それだけは、絶対に嫌だったのだ。
 
 
   □□□□□
 
 
 そうして次の春から、待望のキョンとの共同生活が始まろうとしていた。
 
 連日あたしたちは物件情報を眺めながら、ああでもないこうでもないと意見を交わし合い、その中で結局どうにか二人の大学の中間あたりに位置する2DKを発見し、そこを第一候補とするという事でひとまず話は落ち着いた。
 その部屋は、内部で二つの七畳間がダイニングを挟んで向かい同士に離れていた。その選択をしたのは、キョンからの意向だった。多少残念に思う部分もあったが、まぁあたしとしてもキョンに見られると色々とまずい姿もあるので、そこは同意を返した。
 
 大学への入学届けの申請も兼ねて事前に東京へと出向いた時、その部屋以外のものも含めたいくつかの候補地を、不動産屋さんを介して二人で実際に見て回った。
 その部屋は建物外観の参考写真から想像していたよりもずっと真新しく小奇麗な印象で、あたしはすぐに気に入った。
 キョンも概ね満足していたようで、その後のホテルであたしたち二人はやはりこの部屋に決めようと賛同し合った。あ、そのホテルの部屋は残念ながらシングルで別々だったけどね。念の為。
 
 やがて心待ちにしていたその春が訪れた。
 二人でホームセンターや電気屋さんを見て回って必要な家具家電を取り揃え、実家から送り届けた大量のダンボール箱の整理をした。
 そうして次第に二つの部屋の中がそれぞれなりの色味を帯びてゆき、その中間区域であるダイニングキッチンや洗面周りでは二人の色が混ざり合っていた。
 冷蔵庫には互いの好物が詰め込まれ、食器棚には共有の茶碗やお皿が並び、洗面台の横には二人の色違いの歯ブラシがコップの中に立っていた。
 
 ふとあたしがふざけて出し抜けにキョンの部屋の扉を開けたりすると、いつの間にやら床にゴミが四散しているのが目に入って驚き呆れ、そのまま腹を立てながら一緒に片付けてやった。
 逆にキョンが唐突にあたしの部屋に入ってきた時、あたしはちょうど無駄毛の処理をしていた真っ最中で、やはりあたしが真っ赤に怒って手元にあった本をキョンに向かって投げ付けた。そしてそれを顔面にまともに受けて鼻血を出してしまったキョンを、そのままむくれながらも手当てしてやった。
 
 キョンは予めイメージしていた通り、当然の様に無精なので普段はあまり料理をしたがらなかったし、あたしが手際よくさっさと作ってしまった方が、自分でいうのもなんだけど速くて美味しいので、キョンにも少しは手伝わせながらも普段はそうして二人でご飯にしていた。
 お金のある時には二人で外に食べに行ったりもした。しかしせっかくそうして出掛けようというのにキョンは何故か近所のラーメン屋さんや定食屋さんにばかり入りたがり、あたしは雰囲気がないと内心恨めしく思いながらも、しょうがなくそれに付き合ってやった。
 
 そうこうしているうちに大学生活も始まっていた。
 
 かつて実家で暮らしていた頃、あたしの両親は共働きで忙しかった為にあたしがSOS団の活動等を終えて家に帰っても、いつだって家の電気は真っ暗で、あたしは独りで料理を作って食べていた。
 でもキョンとの共同生活が始まってからは、毎日ではないけれど、学校が終わってアパートまで帰るとあたしたちの部屋の窓から柔らかな明かりがこぼれているのが目に入ってきて、自ずと胸が暖かくなるのを感じた。
 
 そういった中で時たま、キョンだけの手による料理を口にする機会もしばしばあった。あたしの帰宅が遅くなる際には、いつも簡単な晩御飯を作って待っていてくれたからだ。
 味自体は全然だけど、それでもあたしにとってはとても美味しく感じられた。そのまま二人で一晩中お酒を口にしながら、夜が明けるまで互いの学校の愚痴をたれていたりした日もあった。
 
 
 
 そんな生活を続けながら二年程を過ごした。
 表面上は特に何の問題もなかったように思う。でもあたしは、本当はその中で徐々に、どこか言葉では言い表し切れない孤独を常に自分の中で感じ始めていた。
 あたしたちは、生まれついての兄妹であるかの様に生活の呼吸がピッタリと適合し合っていた。
 でもだからこそ逆に、まるで全く摩擦を起こさない程に滑らかな、水で濡れた鏡面同士が潤滑に接するが如く、時が経つにつれてあたしたちの間でするすると何かが少しずつすれ違ってゆくのを感じた。
 それは、始めは大したことのない小さなひび割れの様なものだった。でもそれはやがて時が経つにつれて広がってゆき、次第にあたしの内部を侵食し始めた。
 
 あたしは何度も、この捉えどころのない気持ちをキョンに相談しようとした。でも気付けば、この穏やかな日々の生活を乱さないが為に、お互いの深い部分に無闇に踏み込んではいけない様な空気が二人の間には漂っていた。
 それは、あたしの一方的な思い込みだったのかも知れない。でも毎日キョンと顔を合わせて、そこにさり気ない笑みを発見したりすると、それはむしろあたしの内にどうしようも出来ない疎外感を生じさせた。
 
 ああ、こんな風に悩んでいるのはあたしだけなんだ。キョンは、あたしの事をただの同居人としか思ってくれていない。そしてそれ以上を、このあたしにはきっと求めてはいない。
 だからせめて、今あるこの二人の距離感を壊しちゃいけない、自分の懐いているこの気持ちを、粗忽に打ち明けたりなんかしちゃいけない…。
 でも、辛いよ。何でもない毎日なのに、その中でこんな気持ちを絶えず独りきりで抱えていなきゃいけないのは、すごく苦しいよ。
 キョン…、お願いだから気付いてよ。あたしの事を、もっとちゃんと見てよ。
 …助けて。あたしを、ここから救い出して…。
 
 けれども、どれだけベッドの中で泣き声を圧し殺して待っていても、夜も更けた後のあたしの部屋の扉は、決して物言うことなくひっそりと佇んだままだった。
 もし自分からその扉を開けて向こうにさえ行けば、そこにはすぐキョンの居る部屋がある。それなのに、その僅か数歩分の距離が、その時のあたしには無限に遠ざけられ、隔たって感じられた。
 
 
   □□□□□
 
 
 やがて気付けばあたしはまどろんだ意識の中で、どこか透明水彩で描かれた様な、淡い夢を見ていた。
 そこでは、あたしはまだ高校生だった。
 ああ、ここでならあたしは、今みたいにがんじがらめな気持ちに捕らわれることもなく、かつての自分自身の様に思ったことをただ率直にキョンにぶつけられるのかな、などと、うつらうつらと思った。
 
 そのあたしは北高の制服を身に着けて、通学鞄を手に道を歩いていた。
 空からさんさんと降り注ぐ陽射しはどうやら朝方のもので、あたしはあの坂道を登りながら学校へと向かっているようだった。
 そのうちに自然とこの“あたし”の意識は薄れてゆき、次第に高校生の頃のあたしの中に溶け込んで混ざり合っていった。
 
 
 
 やがて学校に辿り着き、教室の扉を開くと、クラスメイト達は既に約半数が着ていて、教室を雑多に賑わせていた。あいつは…やっぱりまだ登校して来ていないみたい。まぁあたしと違っていつもギリギリに来るからね。
 もう、普段からもっとちゃんと早めに朝起きる様にしないと、そのうち遅刻しちゃうんじゃないの、あの馬鹿。明日から電話でも掛けて無理矢理起こしてやろうかしら。
 
 そう言えば今日の一限目の英語の和訳がそろそろこの辺りに順番が周って来る頃だ。でもあんなの、あたしは授業中にちょっと目を通すだけですぐ出来ちゃう。でもあいつはどうせまた直前になってから慌ててやりだして、その上、分からなくて焦るんだろうな。バーカ。
 …でももし助けを求めてきたら、まあしょうがないから教えてやんないこともないけどさ。だって曲がりなりにもSOS団の一団員ともあろう者が、授業の英語の和訳すら満足に答えられないなんて、団長として断じて許しがたいことだからね。
 ああ、でもちゃんと自分で努力して理解しないと身につかないじゃないのよもう、バカキョン。…今度個人的に補習でもしてやんなきゃならないかな。
 
 そうしてあたしは自分の席に着きながら、しばらく外を眺めてぼんやりと物思いに耽る。
 この窓際の最後部はあたしの特等席。そしてそのすぐ目の前にはあいつの席。最初の席替えの時から何故かずっと変わらない、あたしたちの居場所。
 あたしはSOS団団長として、いつも皆の先陣を切って前に向かってゆく。あいつの手を引っ張って、突き進んで行く。
 でもあたしはこの場所でだけは、ずっとあいつの背中に護られている様に感じる。あたしよりも広くて大きな背中。
 もし何か不安な事があったって、あいつはそうやってあたしの目の前に、手の届く場所に居てくれる。そして呼びかければいつだって、ちょっと面倒くさそうに振り向いてくれる。
 
 あいつのまだ来ていないこの場所は、いつもよりがらんと開けてて少し寂しくなる。あたしは空を見上げる。
 空虚にどこまでも限りなく広がってゆくあの青空は、まるであたしの中にまで入り込んできて、この場所ごとあたしを呑み込んでしまったみたい。だからここは、周囲の空間より隔絶された、半径一、二メートル程の閑散たるエア・スポット。
 空を漂う小さな雲の落とす影が、この場を緩やかに覆ってゆく。ちょっと不思議ね、晴れ晴れとした空はいつもあたしを、あたしたちを力づけてくれるというのに。何であいつが居ないっていうだけで、逆にこんなにもむなしい気分になっちゃうんだろう。
 
 
 
 そうしていると、やがてキョンが教室の入り口から姿を現す。いつもと違って、まだ予鈴が鳴るには幾分余裕がある。
 キョンはあたしの目の前の席にまで歩み寄って来ると、鞄を机の上に置きながらあたしに向かって挨拶を投げ掛けてくる。
「よう、元気か」
 元気に決まってんでしょうが。そんな当たり前のこといちいち訊いてくるんじゃないわよ、もう。あんたにはもっと頭の使いようってものがないわけ?
「へいへい、我らが団長殿は本日もご機嫌麗しいご様子で。この脳のない平団員めの分際と致しましては嬉しい事この上ございませんよ」
 キョンは棒読み口調で戯れにそう言いつつ、椅子を引いてそこに腰掛け、前方を向いてしまう。
 
 でもあたしはキョンが来た事で、さっきまでの不安定な気持ちがすっと晴れて、自分の机の上に両腕と頭を伏せて丸まる。何だか冬に入る炬燵の中のような心地良さ。
 するとふと思いついて、あたしは体勢をそのままに、自分の身体を机の天板に沿って這わせながら前方へと擦り寄ってゆき、ふっと片足を振り上げてキョンの座っている椅子の裏をゴン、と小突く。
 キョンがこちらを振り返る衣擦れの音がする。でもあたしは机に顔を伏せたまま知らん振りする。
 
 やがてキョンが前へと向き直ったらしいことを耳で確認してから、少しだけ首をもたげてキョンの後ろ姿を視界に入れる。
 キョンはどうやら何かの勉強をし始めているみたいだった。きっと英語のテキストを広げているんだろう。あら、バカキョンにしては珍しいじゃないの。感心感心。
 あたしはそれを見て、机の中より音を立てないように注意しながらシャープペンを取り出し、その手をキョンの背にそろりそろりと伸ばしてペンの切っ先でツン、とそこをつつく。それと同時に一瞬でペンを手の内に隠しつつ、またすぐに上体を屈ませて机に伏せる。
 
 再びキョンの振り向く気配。今度はしばらくの間、キョンの視線がこの頭部にじっと突き刺さっているのを感じる。でもあたしはやっぱり知らん振り。
 程なくして諦めたのか再び前方へと向き直るキョン。あたしの中で、何だかくすぐったくて可笑しいような気持ちが胸から込み上がってくる。
 
 あたしはもう一度顔を上げ、その背に向かって小さく声を掛ける。
「キョーン?」
 …ノーリアクション。
 あ、怒った?
 
 まあいいや。今度こそ、ちょっとだけおやすみ、バカキョン、と思いながらあたしは三度、机の上に身を伏せる。
 
 やがてしばらく経った後、今度はあたしからは何もしていないのに、キョンも何故か三度こちらを顧みて、あたしに向かって唐突な言葉を告げる。
「なあ、頼むからこっちを向いて、その顔を俺に見せてくれよ、ハルヒ」
 …え?
「もっと俺の事をちゃんと見てくれよ」
 
 …ああ、そうか、違うんだ。
 違うの、キョン。そうじゃないの。あんたに、そんな科白は似合わない。
 それはきっと、あんたの気持ちじゃなくて、あたしの気持ち。キョンに対する、このあたしの願い。だから今のあんたは、あたしの心を模って代弁しただけの、ただの影。
 そう思ってあたしがキョンの顔を見上げると、あたしたちの居るこの場所だけが周囲より断絶されれてゆき――。
 
 世界がその変貌を開始する。
 
 
 
 そこはいつかの夢で見た、他より閉鎖的に区画・限定された灰色の世界の中。
 そしてあたしたちは校庭の中央付近で、互いに向かい合って立っていた。キョンの両手がこの肩に添えられている。
 そのまましばらくの間、キョンは無言であたしの目をじっと見つめていた。あたしも何も言わない。するとやがてキョンの顔は、モニター画面にノイズが走った様にブレて見え始める。
 
 そしてそのキョンは雑音を伴いながら、出し抜けに言う。
「俺、実はポニーテール萌えなんだ」
 …なに?
「いつだったかのお前のポニーテールは、反則的なまでに似合っていたぞ」
 ……キョン?
 
 あたしが戸惑っているうちにも、そのキョンもあの夢と同じように顔を寄せてきながら、やがて目を閉じる。
 そしてあたしたちはそっと口付けを交し合う。
 その中であたしの“面”と、キョンの“面”とが一つに重なり合い、あたしたち二人の存在性がその境界面上に集約されてゆく。
 そしてその面によって互いに分け隔てられ、その区分に於いてカテゴライズされていたこの“自分”としての“世界”が再び裏返されてゆく。
 
 そう感じた瞬間、あたしと“あたし”の間に僅かな齟齬が発生し、一つだった筈のイメージが二重になって歪み始めた。
 そしてまどろみの中でいつかの自分と融合していたこの意識は、唐突にブツリと分断されて乖離してゆく。
 騒めきながらこの視界を覆う砂嵐の中で、次第に薄れ、向こうへと遠退いてゆく、互いに接し合ったままのかつてのあたしたちの影――。
 
 
 
 ハッとして目を覚ました。浮き上がりつつあった不安定な意識が不意に、何かしら重く鈍いもので確かに固定された様な感覚。徐々に明確になってゆく視界。そこにある、現実。
 辺りは真っ暗で、カーテンの隙間から注がれるかすかな月明かりだけが、この空間の中をしんしんと照らしている。ここは、あたしの部屋。
 少しの間だけ、目眩を覚える。やがてこの自身の呼吸を確認する中で取り戻されてゆく周囲の空気。
 
 頭の下で抱きしめていた枕が、少し濡れていた。頬の辺りが空気に触れてひんやりとする。
 瞼を拭いながらベッドの中で身体を仰向けに返し、枕元に置いてあった蛍光時計を手探りで取り寄せて確認する。まだ丑刻をやや回ったところだった。
 なんて中途半端な寝方をしてしまったんだろう。朝方までもう一眠り出来るんだろうか。
 
 意識が次第にハッキリしてゆくと共に、何故だかまた無性に寂しさがこみ上げて来た。さっきまで見ていた夢の名残だけが、頭の中にまだぼんやりと漂っている。
 何か少し、物哀しい様な夢を見ていた気がする。しかしそれを思い起こそうとすると逆に、この胸の奥に柔らかくて危うげな、まるで母親に懐かれた赤ん坊の様に、ほんのりとくすぐったい気持ちが芽生えている事を覚える。
 でもそれと同時に、何かが自分の中から失われてしまったような気がする。なにか決して失ってはならないような、自分が自分であるための、そんな何かを。そういった当てどない想いがあたしを震わせて、この身を切なくさせる。
 
 あたしは上半身をベッドの上に起こし、立てた膝のその上で自分自身の肩を両手でぎゅっと抱きしめる。そしてあたしはその交差した腕の中にそっとこの顔を埋め、先程見たおぼろげな夢を今一度、自分の中に思い描こうとする。
 
 
      □□□□□
 
 
 ある日、あたしは学部の主催する飲み会に参加した。
 いつもは別にそんなものに興味はない。でもその時だけは、普段お世話になっている先生との関係から、形だけ顔を出すこととなってしまったのだ。
 念のため失礼など起きないように、携帯電話は予めマナーモードに設定しておく。
 
 場所は街中にある、やや広めの宴会場で行われた。
 その中であたしはしばらくの間、周りの雰囲気に合わせて、適当に頷いて相槌を打ったりしていた。あたしはこういう表面的な上面も、キョンの居ない、ただ自分を黙って受け止めてくれる人の存在しないあやふやな大学生活の中で、必要に応じていつしか自然と身に着けていた。
 すると近くに座っていた一人の男が何やら馴れ馴れしく頻繁に話しかけてきた。あたしは内心距離を置きつつも、場の雰囲気を崩さない程度に受け答えして、おざなりにあしらっていた。
 全く、昔の遠慮知らずだった頃の自分から比べると雲泥の差、考えられない程の変化だなと自分でも思った。当時の自分が今のあたしのこのあり様を目にしたら、きっと呆れ返ること請け合いだろう。
 
 二時間ほどでその宴は終わりを迎え、あたしは帰り支度を始める。
 すると先程の男を含め、あたしの周囲に居た何人かの男女と、向こうからそれに近寄ってきた数人が合流して一つのグループを形づくる。
 そうしてしばらくの間、彼らは何やら歓談していたが、やがてその中の女性の一人があたしに話しかけてくる。先刻まであたしの向かい側の席に座っていた人だ。
「ねえ、私たちこれからカラオケにでも行こうかって話してるんだけど、良かったら涼宮さんも来ない? あなたって、普段こういう席にあまり顔を見せないんだから。せっかく珍しくこうして会えたんだし、一緒に遊びましょうよ」
 あたしは出来れば早めに立ち去りたかったのだけれども、その彼女は一応同じゼミの先輩でもあったので、少し断りづらかった。
 しばし逡巡した後、まあ付き合いもあるし、たまには声でも出して日頃のストレスを解消するのもいいかななどとほろ酔いの頭で気楽に考え、あたしはそれに合意を返した。
 
 
 
 それからまた数時間が経過し、カラオケボックスを出たところの入り口付近で各自解散とあいなった。
 彼らは各々二、三人ずつくらいに分かれて、挨拶を交わしながら方々へと散ってゆく。
 そうしてあたしも、思いのほか遅くなってしまったなと考えながら帰路に着こうと歩き始めると、一次会の時の男が何やら、自分も帰る方向が一緒だ、女ひとりの夜歩きは危ないなどと口実がましく述べながら、あたしの歩みの横に並んでくる。
 
 あたしは正直放っておいて欲しかったけれど、まだ先程のお酒が頭の中から抜け切っていなかったので上手くその対応が思い浮かばず、面倒になり特にそれを拒みもせず好きにさせておいた。
 やはりあたしはあまり、お酒にあまり強くはない方らしい。昔はそのせいで、もう二度と飲まないなんて誓ったりもしたものだったけれど。
 
 男はその道中で先程に引き続き、またどうでも良さそうな話題ばかりをあれこれと振ってくる。あたしはそれに対して、やはり投げやりに相槌を打っていた。
「なあ涼宮って、男と一緒に同居してるいるんだって? 何か俺らの周りじゃあんま聞かないよな、そういうの。やっぱりお前、そいつとは付き合ってるのか?」
 付き合ってはいない、とあたしは答える。別にこんな奴にわざわざ教えてやる義理もないけれど、まあ、事実だ。
 
 そうしているとやがて男はふと立ち止まり、その道の脇にあったバーへとあたしを促し、寄っていかないかなどと訊ねてくる。
「あ…、でもあたし、そろそろ家に帰らないと、キョンが心配するといけないから…」
 うとうととし始めた頭で辟易としながらも、あたしは男の誘いにそう返す。
 
 そこであたしはようやく、はたと自分の中で気がつく。
 そういえばキョンに、こうして遅くなる旨を連絡していない。もしかしたら朝だって、あたしは飲み会の話なんて何も言わずに出てきてしまったんじゃないだろうか。今朝は少し寝坊してしまって、慌てて準備して家を飛び出した覚えがある。そして学校が終わった後も、その脚でそのままこちらに向かって来てしまったのだ。
 今、一体何時だろう。キョンは何してるんだろうか。あまり気にしないで、早めにちゃんと休んでてくれると良いんだけれど。
 
「キョン…って一緒に住んでるって奴の事か? おいおい、付き合ってもいないのに同じ部屋で暮らしてんだろ、そいつ。どうせ不能なんじゃねえの? それともホモか? まあどうでもいいけどさ。いいからそんな奴放っといて…」
 不意にそんな言葉だけが、あたしのこの漠然としていた脳裏を引き裂き、そこに鮮明に響いてきた。そしてその意味を解した瞬間、突如として背中に氷でも落とされたかの様な怖気がこの身を駆け抜け、あたしはふと我に返る。
 そしてあたしは反射的に、まるで能面のようにこの顔からのっぺりと表情を消し去り、同時に猫のようにただ目だけを大きく見開いて男を睨めつける。それと共に自分の中で、何かしらドス黒くて重量のある禍々しい存在が、ゆっくりと頭をもたげてその形を成してゆくのを感じた。
 
 昨今のこのあたしなら、自身の平穏な日常の一部を成している関係性を保つ為であれば、多少はそれに甘んじて愛想笑いもしよう。下らない世間話にだって乗ってやろう。
 しかし相手が誰であろうとも、キョンに対する、自分にとって一番大切な人に対する浅はかな侮辱だけは、あたしの中で断じて許してはならない。あたしは決してそれを受け流したりなどしない。
 やがてかつての暴虐武人だった頃のあたしの一部が自分の中に蘇ってきて、このあたしを勢い込ませる。
 
 あたしはこの自らの、おぞましげに浮かぶ表情はそのままに、ただ静かに声帯だけを震わせながら、男に向かってゆっくりと言葉を吐き出した。
「はぁ……? あんたなんかにキョンの何が分かるのよ…? あんたが何を知ってるのよ? 調子こ『禁則事項』んじゃないわよ、この『禁則事項』。頭に『禁則事(ry』でも『禁則(ry』てんじゃないの? …いいから今すぐに訂正して、さっさと『禁(ry』を『(ry』しながら心の底から謝罪しなさい。『(ry』『(ry』のよ、『(r』が…!」
 
 それを聞いた男はしばし困惑した後、徐ろに顔を醜く引きつらせて紅潮させてゆきながら、やがてその口を開く。
「は? おい、いきなり何だよ。お前今、俺に向かってなんつった?」
 男はそう言いながら、腕を伸ばしてあたしに掴みかかろうとしてくる。
 
 しかしそれがここに届く直前、あたしは瞬時に左脚を軸にして右足で地を蹴り、両腕を右方に振って回しながら上半身と下半身を逆方向に大きく捩じり、その躍動に乗じて右膝を上方へ向かって鋭く放つ。
 腹から吐き出された息と共にそうして勢い良く蹴り上げられたこの膝は、男の上体の中央部を寸分の狂いもなく的確に捉え、そのみぞおちに鮮やかに突き刺さってめり込んでゆく。鈍い音と、そして緩んだ肉のブチブチと潰れてゆく感触。
 
 男は大きくその目と口を開きながらやがて一、二歩後ずさり、青ざめた苦悶の表情で吐瀉物を口から地面へどぼどぼと撒き散らしつつ腰を折って屈み込み、ぐげぇ、とヒキガエルの様な呻き声を上げてその場にうずくまる。
 そうやって無様に身を丸めて突っ伏しながら、苦しそうに何かを喚き立てていたが、あたしは当然聞く耳など持たずに捨て置いて、膝を手で払いつつ男に対して一言捨て台詞を残してやってから早々に立ち退き、その場を後にした。
 
 
 
 その後一人になってからも、未だ身の内より湧き上がってくるこの興奮が冷めやらず、どうしても心が地に落ち着かずにいて、あたしはそんな気持ちを自分の中だけで、ただただ持て余していた。
 あたしはこの通りがどこに続いているかも知らず、自分が一体どこに向かおうとしているのかも分からずに、ひたすらに目の前に広がる道の上を歩み進んでいた。
 そしてその中で、先ほど無意識に自分の口を突いて出た言葉を、頭の中で反芻し続ける。
 
 あんたにキョンの何が分かるのよ、…か。
 でもそれじゃああたしは、キョンの一体何を知っているんだろう。キョンの何を理解しているっていうんだろう。
 こんなに近くで暮らしてきたのに、あたしは二人でいる時以外のキョンの姿を、そういえば何も知らない。
 キョンは…、あたしの何なんだろう? あたしは、キョンの何なんだろう?
 
 ただの友達同士というよりは、少なくとも深い関係だろうとは思う。でもだからといって、親友という言葉は適切には当てはまらない。そして今やクラスメイトでもない。
 仲間…としてあったかつてのSOS団も、今やもう無くなってしまい、ここにはただあたしたち二人だけしか残っていない。けれど恋人同士でもない。それでもやはり、単なるルームメイトでしかないなんて薄情な考えは、あたしは持ちたくない。
 キョンはあたしのことを、あたしたち二人の関係を、一体どう思っているんだろう。一体どう捉えているんだろう。
 そんな答えの見えない問いを際限なく繰り返してゆくうちに、あたしはもう、自分がこれからどうすればいいのかを見失ってしまっていた。
 
 そうしたあやふやな問答の反復の中で、自分の内から次第に家に向かう気も薄れてゆき、あたしはこの朦朧とした頭と空虚な気持ちだけを抱えたまま、こんな時間でも色とりどりのネオンが光り輝き、無数の人々が交錯する眠らない夜の街の中を、当ても無くさ迷い歩いていた。
 街角に立つポール状の時計をふと目に入れると、日付はいつの間にかもう、とっくに変わっている事に気付かされた。
 時折、いかにも頭の弱そうな男達に軽薄に声をかけられ、そのぶしつけな視線を向けられた。もちろん全て振りほどいて無視したけれど、そうした中で自分の心が少しずつ荒んでゆくのを感じた。
 
 ただこのどこにも行けない様な気持ちを早く消し去って、その苦しみから逃れてしまおうと、あたしは目に付いた自動販売機で適当にお酒を買い求め、歩きながら咽に勢い良く流し込んだ。
 やがて、より一層の空白がこの頭の中を覆い始めてゆく。
 
 
   □□□□□
 
 
 その後、自分が一体どういう経路を辿ってきたのかもよく覚えていない。
 気付くと空は既に白み始めており、電線に停まった小鳥たちがさえずるその下で、あたしは自分達の住むアパートの前にいつの間にか佇んでいた。
 空っぽな気持ちで階段をのろのろと一歩一歩上り、部屋の前で鍵を回してから扉を開け、その中へと入る。するとふとあたしたちの、ふんわりと柔らかい生活の匂いが空気に乗って漂ってきて、この鼻をくすぐる。
 
 それを受けてあたしの意識は、スイッチが押されたかの様にそれまでのものから突如パチリと切り替わる。
 あたしは今まで一体、何をやっていたんだろう。ほとんど見ず知らずの、行きずりの男なんかと路上で喧嘩したりして。そして家に帰ろうともせずに、独りで夜道をほっつき歩いて。
 ここにはこうして、キョンとのかけがえのない生活がちゃんとあるのに。あたしの、帰るべき場所が。それを勝手に見失って、あたしは独りで無益にも、ただまごついていただけなんだ。
 そんな自分が急に情けなくなり、惨めな気持ちに苛まれながらあたしは束の間のあいだ、黙って壁に手を付きうなだれたままその場に立ち竦んでいた。
 
 
 
 やがてあたしはしおしおと靴を脱ぎ捨て、部屋に上がる。ふとそこで、人の気配に気付いて目を上げる。
 そこに、キョンが立っていた。どこか、寂しくて哀しげな表情を浮かべて。それでもあたしは、キョンの姿を目にしてほっと安堵し、胸を撫で下ろした。
 キョンはもしかして、あたしの事を夜通し待っていてくれたんだろうか。心配させたのかも知れない。そう思うと、申し訳ない気持ちがこの胸に湧いてきた。
 
 あたしが口を開こうとした時、しかしキョンは突然その声を張り上げてあたしを問い詰めてきた。
「お前はこんな時間まで何をしてたんだ! 一体どこに泊まってきたんだよ! ずっと誰かと酒でも呷ってたってのか!? この馬鹿野郎、だったら一言連絡くらいしやがれ! お前、今まで…」
 
 いや…。キョン、何で? どうしてそんな言い方するの?
 もしキョンに嫌われて見放されたら、今のあたしはきっとバラバラに壊れてしまう。駄目になってしまう。
 この状況は、元はと言えばあたしが悪いんだ。でもだからって、そんなに頭ごなしに叱らないで。怒鳴らないでよ。
 キョンはあたしのこの状況を誤解して、きっとどこか勘違いしている。ねえ、お願いだから落ち着いて、ちゃんとあたしの話を聞いて…。
 
「あ…あの、キョン…」
 キョンの珍しく威圧的な態度に怯えながらも、それを何とかなだめようと、たじたじと矮小な声であたしはキョンに呼び掛けようとする。
 しかしその言葉もキョンの怒号の中で無残にもかき消され、そんなかすかな願いも、理性を失っているこのキョンには伝わらない。
 
 すると次第にこのどうしようもない気持ちだけがまた、突然自分の内から溢れ始め、あたしの視界を一杯に満たしてゆく。
 あたしたちの気持ちは、やっぱりそうやって平行線を辿ったままなんだ。きっとどこまで行ったって、決して交わることはないんだ。
 あたしはそう考えつくと、どこからかとても哀しくなってきて、寂しくなってきて、そしてそれらまでがあたしを一杯に溢れかえらせてゆき、目の辺りがどんどん熱を帯びてゆくのをありありと感じた。
 
 やがてそんな思いが限界にまで追い詰められたとき、気付くとあたしも声を喚き立てて、真っ白な頭のまま訳も分からずに、自分の想いとは裏腹な、上辺の言葉だけでキョンに食って掛かっていた。
 それと共にあたしはキョンの胸を、もはや力も入らない拳で幾度となく殴りつける。あたしたちのずっとすれ違い続けてきた不透明な関係を、腕ずくで無理矢理打ち壊そうとでもするかのように。
 
「何であんたなんかにそんな事いちいち言わなきゃいけないのよ、ゴチャゴチャとうるさいわね! あたしが外で何やってようと、あんたには関係ないでしょうが! あんた、あたしの何だっていうの!? 旦那にでもなったつもり!? あんたの方こそ馬っ鹿じゃないの!? あんたに、あんたなんかに…!」
 
 あんたなんかに…、あんたなんかに、あたしの気持ちは決して分からない。絶対に、理解できない。
 あたしが、あんたの事をどれだけずっと大切に思ってきたか。どれだけあんたとちゃんとした関係を築きたいと望んできたのか。それをあんたは何も分からずに、あたしの方に碌に目を向けようともせずに、ただあたしとの距離を最初から勝手に線引きして決め付けてかかっている。
 
 だったらもう、もう…、いいよ。どうせあんたはあたしの事なんてどうとも思ってないんでしょ? あたしの事なんて何も関係ないんでしょ? ただのあたし独りの片想いに過ぎなかったんでしょ?
 だってそうじゃないのなら、どうしてあたしが同じ学校に行く事を拒んだの? どうしてあたしの気持ちに、この哀しみや苦しみに何も気付いてくれないの?
 それにこうやって同じ部屋で暮らして二年間にもなるのに、あんたはあたしに、一度たりとも手を出す素振りすら見せてこようともしないんだもの。
 
 今ならかつて出会った、キョンの事を“親友”と称していたあの佐々木さんの気持ちが、痛いほどに理解出来る。
 こんなにも長い間一緒に過ごしてきたというのに、あたしたちの距離は、ずっと隔たったままだった。それなら。
 
 それならもう、全部、終わりにしようよ。
 
 こんな、ただ辛くて苦しいだけの関係。
 そんなもの、何もかもリセットしてしまって、あたしたちの間には始めから何もなかったことにしようよ。
 あたしたちは仲の良い“友達”だった、ただそれだけなんだから。…ねえ、そうでしょ?
 
 
 
 あたしがそうして叫喚し、咽びながら荒れまわっていると、今度はキョンが唖然として、その言葉を失う。しかしあたしの、この一旦流れ出した感情の洪水は、もう止められない。
「いっつも口ばっかりで本当は心配なんてしてないくせに! あんたなんて自分から何もしようとしないじゃない! 何もかもあたし任せにしようとして! もう、勝手にしてればいい…! あんたなんて、あたしが、あたしが…!」
 違う、そんなことない。キョンは優しいから、きっと本当にあたしの事を心配してくれていたんだ。それは、キョンのあの顔を見ればちゃんと分かっていた筈なのに。
 それにキョンに頼ろうとしていたのは、本当はいつだってあたしの方だった。あたし自身がキョンにかまって欲しくて、自分から勝手にキョンに対してお節介を焼いていただけなのに。
 それなのに、あたしはそんな浅ましい発言の数々を、自分では決して止められなかった。
 
 やがてそれにもくたびれてきて、あたしはキョンの胸部に向かって自分の体重を預け始めたけれど、それでも未だ声を張り上げて、そのキョンの胸をこの締まりの緩んだ手で脆弱に殴打し続けていた。そしてキョンはずっと何も言わずに、黙ってそれらを受け止め続けていた。
 そうしていつしかこの二つの拳をただキョンの胸の上に押さえつけ、声も徐々に絶え絶えになってきた時、キョンが不意にその両腕を広げてこの身を抱き寄せる。あたしはビクッとして一瞬言葉に詰まるけれど、以降もまたその腕の中で、キョンのその胸に向かって直に自分の気持ちを届けようと語り続ける。
 しかし程なくして、あたしはキョンに身体を擁かれたままその力を失ってしまい、すっと床にへたり込んでしまう。
 
 そのまま束の間の時が過ぎた。やがてあたしが泣き疲れ、喚き疲れて意識も次第に薄れかけてきたとき、ふとキョンがあたしの名を呼び掛ける声だけが、その頭の中に明瞭に響いてきた。
「なあ、ハルヒ。聞いてくれ」
 しかし、あたしは言葉が既に枯れ果ててしまっていて、何も返事を出来ない。
 それでもキョンは、静かにその言葉を紡ぎ始める。
 
「俺はさ、きっと恐かったんだと思うんだ。近づき過ぎて逆にお前を見失ってしまったり、触れ合って傷付け合ったりしてしまうことが。ずっとお前と正面から向かい合って、関わろうとすることを先送りにして、それから逃げ出そうとしていたんだ。…卑怯だよな、本当に」
 あたしはやはり何も応答せずに、ただじっとその語りの続きを待ち受ける。
 
「でも今日、お前が帰ってこなかった時間の中で嫌ってほど思い知らされたんだ。俺が、お前をどれだけ必要としていたのかを。お前を、どれだけ求めていたのかを。だから痛みなんかを恐れずに、お前と触れ合ってゆきたいと思ったんだ」
 静寂に包まれたこの世界の中に、ただキョンの声だけが明澄に行き渡る。
「今になってようやく気付いたよ。俺は、お前のことが好きだ、ハルヒ――」
 
 あたしはその言葉の意味するところを確かめようとするかの様に、ふとキョンの顔を仰ぎ見る。
「こんなに、遅くなっちまった。ずっと、お前のことを待たせていたんだな。ごめんな」
 キョンのそんな言葉の一つ一つが、あたしの骨身を渡って内面にまで緩やかに沁み込んで浸透し、この気持ちをしっとりと静かに満たしてゆく。
 
「キョン、あたし…」
 そしてあたしはそれを受けて、自分からもこの形にならない何かをどうにかしてキョンに伝えようとするも、込み上げてくる気持ちで胸が一杯になり、言葉を上手く口にできなくなった。
 キョンはそんなあたしの唇の上に、何も言わなくて良い、とでも言うかの様に、そっと口付けをする。いつかの夢の中で味わったような、甘くてちょっと切ない触感。そしてしばしの吃驚の後、あたしもこの目をゆっくりと閉じてゆく。
 
 あのかつての夢の中でのキスの感触を、この現実へと手渡しで届けて繋げる、あたしのこのファーストキス。
 その唇の感覚を通じて、今まで背き離れていたあの頃のあたしと、いまここにある“あたし”がその刹那の中でリンクし、邂逅を果たす。
 何故なら、あたしは今もあの時と同様に、こうしてキョンと共に、あたしたちの為だけに用意された、この閉鎖的な空間――あたしたち二人だけの部屋の中に、在るのだから。
 そしてその中で、これまで、その二点の過程上で失われてきた全ての想いが満たされ、その間にそっと線が紡がれて、あたしという存在が再生されてゆく。
 
 あたしの唇を奪ったキョンが、すっとその顔を離すと、あたしは全身からたちまちに力が抜けてしまい、目を閉じたままこの頭を下方へこっくりと倒してゆき、再びキョンの胸元へと落とす。
 今までこの身に滞留していたあらゆる汚濁がやがて感情の滝となり、激しく音を立ててあたしの外部へと流れ落ちてゆく。また同時に、あらゆるしこりが独りでに決壊し始め、小さな破片へと離散し、崩れ落ちて消えてゆく。
 そしてその中から逆に、ただ一つのささやかなフレーズだけが抽出されて浮上し、その形象を得る。
 あたしはそれをこの手の中に確かに捉え、震えた擦れ声を介して、静かにキョンへと呈しようとする。
「あたしも…、キョンが好き。…大好き。絶対に離れたく、…ない」
 
 やっと、言えた。
 これまでただ漠然とあたしを苛んできたこのどうしようもない気持ちを、ようやく言葉に、形にすることが出来た。
 
 キョンが再度この腕の力を強めて、あたしの気持ちを確かに受け止めようとするかの如く、堅牢にこの上体を擁く。
「キョン、あたしね、あたし…、ずっと、キョン…」
 言葉にならない無数の気持ちの洪水が再びあたしの内から溢れかえってきて、目から、口からその欠片としてこぼれ落ちていった。
 キョンはそんなあたしが落ち着きを取り戻すまで、ずっとずっと固くこの身を抱きしめていてくれた。
 
 
 
 その日、あたしたちは初めて一つになった。
 
 二人が交互にその服を脱がし、下着を剥ぎ取り、そして労わり合うように愛撫を重ね合った後、あたしの局部が水溜りのように音を立てて湿り気を帯びると、キョンはあたしの両脚をその手で広げて、そこに自身の固い陰茎を宛がってくる。しかしそれはあたしの膣内を切り裂き、そこに想像以上の激痛が走った。
 でもキョンは始め、そんなあたしに負担がかからないようにと、そのまま黙ってじっと留まっていてくれ、徐々にあたしがその痛みにも慣れてきた後、ゆっくりとその激しさを増していった。
 それでもやはり痛かったけど、でもそれ以上に、あたしはただ嬉しかった。キョンという存在がこうして、あたしに対して向かってきてくれているというその事実が。
 そしてそんな痛みが逆に、あたしたちがここに居て、こうして二人がすれ違わずに、摩擦を起こしながら触れ合っているのだと教えてくれる。その中であたしという実在性が、その現実味を伴いながら、今、この場へと取り戻されてゆく。
 
 しばし遠退き、でもまたすぐに近づく。そんな一律の周期を幾たびも、果てしなく繰り返すあたしたち二人。
 呼吸を荒げて熱く火照ってゆくこの身体に、周囲の空気の流れが余計にひやりと冷たく感じられる。
 あたしたちは初めてだというのに、互いにひと時の別れすら惜しみ合うかのように、一旦行為を終えてもまた何度も求め合い、交わり合い、再び絶頂に達してしまう。
 やがてあたしたちは精も根も尽き果てて空になり、それと共にまるで洗いたてのタオルの様な柔らかさにこの身が優しく、暖かく包まれ始めた後、もう二度と双方がその姿を見失って離れ離れにならぬようにと願いながら、互いに強く抱きしめ合ったまま、そうして深いまどろみの中へと落ちていった。
 
 
   □□□□□
 
 
 思えばあの日からもう、かれこれ五年もの歳月が流れていた。
 あたしたちはあれからも、たびたび何度も喧嘩もした。…ううん、すれ違ったりせずに、ちゃんと喧嘩“出来た”。そしてもちろん、その都度仲直りだってした。
 キョンはその度ごとにうろたえて、でも最後には結局いつも、あたしをその太い腕で強く抱きしめてくれた。でも実は、そうしてあたしの為におろおろと取り乱して当惑しているキョンの姿は、ちょっぴり可愛いかった。
 
 そして二人が付き合い始めた記念日である今日、あたしはキョンに、とあるホテルのレストランへと呼び出されていた。
 その名前は初耳だったけれど、こっそり事前に調べたら何やら豪華そうなホテルのワンフロアらしいということもあって、恥のないようあたしは、いつか大切な日に着ようと思って買っておいたドレスをクローゼットの奥から引っ張り出してきた。
 でも去年までだって、確かに毎年この日は街へ外食しに出掛けたりしていつもより少し贅沢してたけど、ホテルって、ちょっと…ねえ? あたしたちには少し大げさじゃない?
 そう思ったところで、不意にあたしはハッと息を呑む。このシチュエーションって、もしかして、…プ、プロポーズ?
 
 な、訳ないか。あんな甲斐性なしが。
 まあ五年前の今日のあいつだけは、このあたしですらちょっと惚れ直しちゃ…見直しちゃうくらいだったけどさ。
 あの後はもう、またいつものキョンに戻っちゃって、てんで駄目ね。ダメキョン。
 全く、あのとき少しはこれから改善されていくかと思ってたのに。しばしば何かしらお互いのいざこざを解決しても、その後はいつの間にかぶっきらぼうな態度を取り戻してあたしに接してきてしまう。
 
 そうしていつも、一時密接に近づいたと思っても、そのうちにまた離れてしまっていることにふと気付く。今のキョンは、このあたしのことを一体どう思っているんだろう。ちゃんと好きでいてくれているんだろうか。
 あのキョンの性格のことだから、もしかするとあたしは、ただ単に惰性で付き合われているだけなのかも知れない。あり得る。…でも、こうしてちゃんと自分から二人の記念日を祝おうとしてくれてるんだから、ちょっとは期待してもいいのかな。
 
 ちなみにあたしは昨日までのうちに、キョンへのプレゼントだってちゃんと用意しておいた。それはキョンに似合いそうな、シンプルだけど、それでいて完成度の高さや作り手のきめ細やかさが随所に窺える、デリケートなデザインの腕時計。
 あいつ、喜んでくれるかな。もう、結構高かったんだからね。
 キョンは、今年はあたしに一体何をくれるんだろう。そろそろ、結婚指輪? …なんちゃって。まさかね。この食事自体がプレゼントってことよね。
 
 
 
 とっぷりと日も暮れた後、あたしはわざわざタクシーを使ってそのホテルに到着し、中にあるエレベーターに乗って上階へと昇る。
 入り口で出迎えてくれたウェイターの男性にキョンの名前を告げると、そのまま席へと案内される。
 キョンは既に席に着いていた。いつもよりちょっと上等なスーツを身に纏って、テーブルの上に頬杖なんかつきながらあたしを待っている。
 ふん、何よ。キョンのくせに気取っちゃってさ。バッカみたい。でも、そんな姿も意外とダンディーに見えて似合って…、なんてないんだから。
 
「よう」
 もう何よ、いきなり。こんな所に呼び出したりして。
「ん、まあこんな日だし、せっかくだからと思って、な」
 …まあ、今日が何の日なのかちゃんと覚えてくれてたのはそりゃ、もちろん嬉しいけどさ。でも、ここって見るからに高そうな場所じゃない。あんたの安月給なんかで本当に大丈夫なの?
 あたしのそんなざっくばらんな疑問を耳にして、キョンは苦笑する。
 
「そんなこと、いちいち心配すんな。…しっかしお前もこんな機会だってのに、いきなりムードもへったくれもない言葉から始めるもんだね」
 キョンは呆れがちにそう答える。
 そういうあんたのその科白だって十分に雰囲気ブチ壊しよ。ちょっとは社交界のマナーやエチケットってものを学んだらどうなのよ。もう、やっぱりてんで駄目じゃないの。ダメキョン。
 そんなやりとりをしていると、ふとなんだか可笑しくなってしまって、あたしたちは自ずから互いに笑い合う。
 うん、大丈夫。こういう場所でも、ちゃんといつも通りのあたしたちだ。
 
 
 
 ディナーはやはりキョンが事前にコースで頼んでいたようで、あたしたちが簡単な料理の選択だけをウェイターに告げると、オードブル二皿から始まってスープ、お魚、グラニテ、お肉、デザートと相次いで料理が運ばれてくる。
 キョンも意外と、あまりマナーに違った食べ方などせず、巧みにナイフとフォークを操って料理を口に運んでゆく。あのキョンでもさすがに社会人にもなると、やっぱり少しは違うものなのかしらね。
 その中であたしたちは思いつくままにあれこれと様々な話題を交わし合い、やがて最後にコーヒーが運ばれて来た後、いつかの二人で共有してきた記憶なんかを語り合い、回想し合っていた。
 
「あ、そうだ。ねえ、これ」
 そのうちに、そういえばそろそろタイミングかな、と思ってあたしは持参したあのプレゼントを自分のバッグの中から取り出し、キョンへと手渡す。
 キョンはそれを受け取ると、あたしに向かって開封しても良いかと尋ねてくる。あたしはもちろん快諾する。
 やがて中から出てきたその時計を見やると、キョンは少しだけ目を丸くする。

「ブランドがどうこうだとかは正直全くの無案内なので疎いんだが、何だか立派そうに見受けられる一品だな。上手くは表現できないが、何やら洗練されているように見える、とでも言えばいいのか…。でもまあとにかく、ありがとな。明日から早速着けてみるよ」
 あたしもそれに、強気な笑顔で応える。
「頑張って選んであげたんだから、大切にしなさいよ」
 でも、案外ちゃんと見る目も持ってる奴よね。ふふ、まあこのあたしを恋人として選んでくれた人なんだから、当然だけど。
 
 するとキョンが、何やら躊躇いがちに言う。
「なあ、お返しと言っちゃあ何だが、実は俺もお前にちょっとしたプレゼントがあるんだ」
 あ、この食事の他にもちゃんと用意してくれてたんだ。でも大丈夫かな、負担かけ過ぎてないかな。
 そうは思ったけど、そんなキョンの配慮にやっぱり思わず嬉しくなってしまい、あたしは自然とこの表情を緩めてしまう。
「ん、本当? ありがとう」
 
 やがてキョンはテーブルの下――恐らく上着のポケットに入れていたのだろう――から、手のひら大の小さなケースを取り出して、あたしの前に提示する。
 え? これって、もしかして…。
 キョンがその上蓋を開けると、そこには果たして、ハイビスカスの様に真っ赤な宝石のはめ込まれた指輪が、照明の光を反射してきらきらと照り輝いていた。
 
「ハルヒ、結婚しよう」
 
 瞬間、あたしの思考が全停止する。キョンはややあって、目線を少し外しながらも言葉を続ける。
「ずっと一緒に居て、お互いに支えあってゆこう。俺はこれからも、苦しい時や辛い時、ハルヒに傍にいて欲しい。そしてお前の懐く苦痛や悩みも、頑張って癒してやりたいと思うんだ。…お前は、どうだ?」
 
 この、キョンの手の上にある宝石の照り返す暖かな光が乱反射し、周囲の空気中を漂っている無数の粒子へと四散して届けられ、そしてそれらが、あまたに舞い散る煌めきの欠片となってこの空間を包み込む。
 
 あたしが何年もの間ずっと切に待ち望んで、想像していたことが今、現実に目の前で起こっている。
 その時が遂にやって来たのだと、そんな中でようやく、あたしは頭ではなくこの身を以って理解した。
 そう思うと不意にまた捉えどころのない気持ちがこの胸に込み上げてきて、あたしを一杯に満たしてゆく。でもそれはかつての様な、どうしようもない疎外感なんてもう生まない。だって今、自分の目の前にはキョンが居て、このあたしを確と見守ってくれているのだから。
 
 あたしは湧き上がってくる嗚咽をどうにか留めようと、この口に片手を当てる。でもその甲斐もなく、目から自然と涙が零れ落ちてしまう。
 何か返事をしたくても、この頭は依然としてその活動を一切休止してしまっており、想いが何一つ言葉へと変換されようとしない。でもこの溢れかえってゆく気持ちを何とかしてキョンに伝えようと、届けようと、あたしは俯きがちにただ首だけを縦に振って何度も頷く。
 やがてキョンはその手をこちらに伸ばし、テーブルの上に置いたままのあたしの片手の上に静かに乗せ、それを柔らかに覆う。
 
 
 
 ふと目を上げると、キョンがいつもの、あの柔らかな微笑みを向けてくれていた。
 ここにはキョンが居て、あたしが居る。互いに面と向き合いさえすれば、その空間はどこだって、あの五年前のあたしたちの部屋の様な、二人だけの限定的な居場所になり得るんだ。
 
 キョンが本当に心の奥底で何を考えているのかは、やっぱりこのあたしには分からない。
 人は、どれだけ互いに深い繋がりを持っていても、本音だけで関わる事なんて決して出来ないのだから。そして個人的な存在として隔てられた中で、相互がその本音を懐きながら触れ合おうとする為には、必ずそこに、表面的な上面や建前を意図的に用いようとすることだって必要になるのだから。
 何かに面して向かってゆくということは、それ以前の留まっていた状況に於いて保たれていた関係性を、常に改変し続けてゆくということ。だから実は、どれだけ何かを目指して進んで行っても、永遠にその対象に到達することは叶わない。あたしたちの存在は結局、距離を隔てられたまま。
 
 それでもあたしたちは、始点と終点のその両側から、互いに見据えて向かい合ってゆける。もし最終的に一つになり得なかったとしても、互いの個々としての存在を、そこにある距離を見つめ、認識し合っている。それによって、そこに場というものを生み出すことが出来る。
 だからその中で、どれだけすれ違って傷つけ合ったって、また手を繋ごうと、取り合おうと、こうしてそれを差し伸べ合える。そして各々の存在を、その隔たりがあった上でちゃんと確かめ合うことが出来る。あたしたちはただ、此処に居るんだ、と。
 だから、互いに向かい合って、面して、そこにある境界面の上であたしたちは、そっと手を繋いでいよう。もしそれが途切れてしまっても、また何度だって手を伸ばし合って、この場所から想いを届け合ってゆこう。
 
 やがて時の移ろいの中でいつしか見失っていた、あの茫漠とどこまでも広がり続ける風景が、あたしの周囲に次第に蘇ってくる。
 あたしは二人だけの為に存在するこの部屋の内側から、窓を介してそんな外の風景をじっと眺めていた。
 開け放たれた窓の向こうから陽の光がここに差し込み、そしてどこか懐かしい香りのするいつかの透き通った風が、この部屋の中へと入り込んでくる。
 今はその天に広がる青空を見上げても、不思議といつかの様なむなしい気持ちには、もうならない。だってここには、キョンがこうして共に居てくれるのだから。
 
 その中で、あたしは再び思う。
 うん、きっと、大丈夫。
 あたしは瞼の涙を手で拭って、ようやく自分もキョンに向かって微笑みかける。
 あたしたちは、そんな二人だけの世界の中でいつまでも、互いのその愛しみと哀しみをそっと伝え合い、支え合いながら、ずっとそうして手を取り合っていた。
 
 
 
   - Side-H end -