『やれやれ』 (76-798)

Last-modified: 2008-01-15 (火) 23:33:57

概要

作品名作者発表日保管日
『やれやれ』76-798氏08/01/1508/01/15

作品

 どこで見聞きした話なのかはもう忘れてしまったのだが、因果応報という言葉には、元々は『善い行いをした者には善い結果が、悪い行いをした者には悪い報いが返る』という意味はなかったのだそうだ。
 本来の意味としては、ただ単に『原因』と『結果』の結び付きを表しているだけのことらしい。だが、そういったことを言われても頭の悪い俺にはよく解らん。
 きっと『風が吹いたら桶屋が儲かる』だとか、そういうことなのではないか?と勝手に解釈している。
 
 確かに、我らがハルヒ団長の無茶な思い付きや行動が元で起こる騒動に、毎度のごとくSOS団員残り四名が奔走させられてばかりということを考えれば、『原因』と『結果』からなるシビアな現実というものを俺は受け止めざるを得ないのかもしれない。
 
 だが、今回の事件は、ちょいと様相が異なるような気がするのだ。
 きっとどこぞの神様か仏様が気紛れで、我侭な姫君にお灸を据えたのではないか、と俺はついつい想像してしまうのだった。
 全く、大きなお世話だぜ。やれや――おっとっと、危ない危ない。
 
 事の発端は、おそらくあの日の放課後だ。
 ここ最近の、やんちゃをするハルヒ、それをたしなめる俺、口論になって険悪な空気になる部室内、という一連の流れを改善すべく、ある計画を俺は実行していたのだった。
 と言っても、ハルヒの行動を力ずくでどうにかなんて出来るわけもない。そもそも、最初からどうにかなるんだったらとっくに俺はそうしているだろうし、そうならなかったからこそ、こうして俺が気を揉んでいるわけなのだからな。
 これまたどなたかの受け売りで恐縮なのだが、『自分の努力で他人を変えようとしても上手くいかない。でも自分自身なら変えることができる』という座右の銘みたいなものにしたがってみることにしたまでなのだ。
 というわけで、その数日前から俺はハルヒに対して一切の抵抗を行わないことにしていた。無抵抗主義って奴だな。文句も決して言わない。受け答えも『そうか』と『解った』と『お前の好きにしろ』で極力済ませる。
 当初はハルヒ以外のみんなも、俺に対して違和感を抱いたようだった。
 古泉の奴は俺のことを心配でもするかのように
「おや、少々元気がないご様子ですが、如何なさいましたか?何かお悩みでしたら、いつでもご相談ください。僕でよろしければ、何でもお力になって差し上げますよ」
 と、人畜無害なアルカイック・スマイルで囁く。どうでもいいけど顔を近付けるな。
 長門も、数分間に亘って読書の手を止め、
「…………」
 と、いつもの無感動な表情に、ほんの僅かにその瞳に不思議なものを見るような光を灯して、例によって無言のまま俺を観察していた。
 気の毒だったのは朝比奈さんだ。
 相変わらずハルヒに悪戯をされ続け、到底文字で表記することもかなわない素っ頓狂な悲鳴を上げながらも、俺の方に縋り付くような目線を送ってきた朝比奈さんであったのだが、その意に反して、俺は何のアクションを起こす素振りも見せない。
 ハルヒはというと、俺が咎めないのをいいことに、朝比奈さんへのセクハラ行為を延々繰り返すのであった。
「みくるちゃん。あなたって最高だわ。温かくって、柔らかくって、肌触りもスベスベでとっても気持ちいいんだから。へっへーん……羨ましいでしょ、キョン。でもダメよ、みくるちゃんの身体は、あたし専用なんだからね」
 と、朝比奈さんに密着して、服の中に手を潜り込ませてまさぐっている。ああ、羨ましいともさ、コンチクショウめ。
 だが俺は、
「やれやれ。お前の好きにすればいい」
 といって、これ以上見ていても目の毒なので、視線をそらすのみであった。
 絶望的な表情をしているであろう朝比奈さんに心の中で詫びる俺。すみません。この償いはいつか必ずさせていただきますよ。
 
 というわけで、そうこうしている間は、約一名、即ちハルヒの生贄となった朝比奈さんを除いて、表面上はおおむね平和な時間が流れていたのだった。
 
 とまあ、そんな経緯で例の日の放課後に至るわけなのだが、その当日、俺の思惑とは裏腹にハルヒの傍若無人っぷりはエスカレートする一方であり、とうとう臨界点を突破してしまった。
 頬をピンク色に染め、艶かしい吐息と共に身体を震わせながら、朝比奈さんはハルヒからのエロエロ攻撃を必死に耐えていた。
 が、ハルヒめ、一体何をしやがったんだ?ついに限界を迎えたのか、名状しがたき淫靡な泣き声を発したかと思うと、ハルヒの腕を振り払って脱兎のごとく飛び出した。
 バニーガールのコスプレ経験は伊達ではないということか、ってそんなの全然関係ないことだな、すまんかった。ウサギにツノ、もとい、とにかくこの普段から物静かで大人しいメイド姿の妖精さんがこれほどまでに素早く動くところを俺が見たのは初めてだ。
 何も無い空間ならばただそれだけのことだったのだろう。だが、ここは狭い部室内であり、所狭しと雑多にモノが点在しているのだ。
 案の定、PCの電源ケーブルに足を引っ掛けた朝比奈さんは、長机を蹴っ飛ばしただけでなく、その向こうの本棚に思い切り頭突きを食らわした。派手な音を立てる長机。大きく揺らぐ本棚。
 と、直後、室内は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わり果てたのだった。
 机の上の飲みかけのお茶をまともにズボンの上にぶちまけられた古泉。目も当てられん。
 苦笑いとはいえ、表情から笑みを途絶えさせることがなかったのは褒めてやろう。まあ、さすがの古泉も、このことには結構なショックを受けたみたいだった。
 本棚の上のガラクタの入ったダンボールの中身は、読書中だった長門の頭上に降り注いでいた。そのとき、なんか固いもの同士が接触するかのような鈍い音が聞こえた気もする。
 おい、大丈夫か、長門?
「……平気」
 と言いつつも、あろうことか長門が少し涙目になっているような気がしたのは俺の気のせいなんかじゃないと思う。
「ふみぃ~……痛いですう――ぐすっ」
 頭を押さえてしゃがみ込んだ朝比奈さんはしくしく泣き出してしまった。たんこぶでも出来てしまったのだろうか、なんとまあ、可哀想に。
 
 以上のような惨劇を目の当たりにした俺は、奇跡的に何の損害も受けなかったとはいえ、さすがの事態に少々キレそうになりかかる。
 だが、ここで怒鳴ったりしたら今までの努力も水の泡だ。ぐっと堪えると、努めて冷静な声で告げる。
「……おい、ハルヒ。一言みんなに謝っておけ」
「――な、キョン。あんた、あたしのせいだって言うつもり?」
 途端にハルヒはいつものあのアヒル口で頬を膨らせた。
「自分の胸に手を当てて考えてみろ。最早――俺はお前が何をしようが止めたりはしない――つもりだ。でもな……これだけは言わせてくれ」
「キョン?」
 怪訝そうなハルヒに俺は続ける。
「あんまり無体なことばかりしていると、いくらお前でもそのうち罰が当たることになるんだからな。ちょっとだけでいいから、頭を冷やしてこれまでの自分の振る舞いを反省してみればいい。……それじゃな。俺、今日はもう帰るから」
 と、おもむろに鞄を手にした俺は『やれやれ』とだけ言い残して部室から足早に退散した。
 
 俺の雑用係って立場を考えれば、その場に残って、せめて室内の後片付けぐらいは引き受けるべきだったのかもしれない。みんなには少し悪いことをしたな。
 でも、あのままその場に居続けるような根性は俺には無かった。ああ、解っているさ。俺はどうしようもないヘタレ野郎だとも。反論弁解の余地なんてこれっぽっちもねーよ。
 どちらかといえば俺の方が頭を冷やしたかったのかも知れないな。ずっと居座り続けていたら、きっとまた口論にまで発展していたかもしれない。それじゃ、元も子もないじゃないか。
 それに、俺が見ていなければ、ハルヒの奴も案外素直にみんなに謝ったりするんじゃないか、とか俺は期待してもいたのだ。
 ちなみにその期待がハズレではなかったことは、あとで古泉から教えてもらった、が、このことに関しては後述するので今は脇に置いておくことにする。
 しかし全く、俺の前でも、もう少しでいいから素直になって欲しいものだがな。
 
 とまあ、以上がその日に起こったことの大筋だ。
 長い前振りで恐縮だが、今回の、想像だに出来なかった奇妙な事態は、その翌日からハルヒの身に降り掛かることになったのであった。
 
 というわけで、ハルヒの様子がおかしい。
 
 突然、こめかみの辺りを押さえたまま黙り込んでしまうことが増えたのだ。しかも、その直前までいつもの調子で活発そうにおしゃべりしていたとか、今だって、性懲りも無く朝比奈さんに抱きつきながらじゃれていたのが、急にフリーズ状態、といった具合だ。
「あ、あの――涼宮さん。どうかしたんですか?」
「ああ、みくるちゃん。大丈夫よ。……なんでもないわ、多分」
 そう言って、朝比奈さんを解放すると、パソコンに向かうハルヒ。どことなく憂鬱そうに溜息を吐く。
 古泉は、そんなハルヒの様子を見て何か思うところでもあるのだろうか、いつものスマイルもどことなく硬さのようなものが感じ取れる。
「…………」
 今のところ長門は、ページを捲る動き以外を全く見せない。だが、いつもよりも読書がスローペース気味に思われた。どことなく、集中力を欠いているようにすら思える。
 何か妙だ、と直感した俺なのだが、結局はその日はそれが何か解らず終いであった。
 ちなみにハルヒは調子でも悪いのか早々に帰ってしまい、その放課後のSOS団の活動はお開きとなったのである。
 
 その翌日。
 
 本日のハルヒからは妙にイライラしている様子が見て取れた。触らぬ神に祟りなし、とは言うものの、教室では前後の座席、放課後はSOS団の活動、そうは問屋が卸さぬというものだ。
「こら、キョン!あんたヒマでしょ?あたし喉が渇いたから、ちょっとジュース買ってきなさい!」
 唐突に俺に命令するハルヒ。ここまでは普段通りだ。いつもとなんら変わりない。
「解った解った。全く、少し待ってろ。やれやれだぜ」
「――っ!」
 と、また頭を抱えて固まるハルヒ。おい、お前本当に大丈夫か?
「……ん、何でもないわ。ほら、あんたは急いで買って来る。今から三十秒以内!」
 へいへい。了解しましたとも。
 俺は慌てて教室を飛び出す。しかし、ハルヒの不機嫌さよりも、昨日からの不可解なフリーズ具合が気になって仕方がなかった。
 放課後、部室ではオドオドと怯えた様子のメイド服の未来人。貼り付けた微笑をさらに少しだけ引きつらせた感じの超能力者、読書しながらも何かに気を取られている様子の宇宙アンドロイドに囲まれて、ハルヒがパソコンに噛り付いているのだった。
 俺はハルヒの背後に回り、コッソリ画面を覗き込んだ。って、なんだ、検索サイトで『頭痛』に関連した項目を調べてやがる。退屈しのぎにしても、これはちょっと妙だ。
「おい、ハルヒ。お前もしかして頭が痛いのか?」
 ハルヒは俺の方も見ずに憮然として答える。
「うるさいわね。キョンには関係ないでしょ」
 はあ、結局今日は終日不機嫌なままかよ。
 画面に猫背で集中しているハルヒに、俺は無駄だと思いながら声を掛ける。
「なあ、どうでもいいけどお前、ちょっと姿勢が悪いんじゃないのか?目が疲れたりだとか、肩が凝ったりってのが、頭痛の原因だとか聞いたことがあるぞ」
「だから、違うって言ってるじゃないの。しつこいわよ、あんた」
 な、やっぱり無駄だろ。
「……やれやれ。とにかく、もっと背筋をだな――」
「んっ!」
 また頭を押さえるハルヒ。それみろ、ちょっとパソコンから離れて、休憩がてらにストレッチとかしてみたらどうだ?なんなら、俺が肩揉んでやってもいいぞ。
 俺が伸ばした手を振り払い、ジロリと睨みつけるハルヒ。何だよ、俺は別に疚しいことなんてこれっぽっちも考えてねーぞ。
 と、ハルヒは急に立ち上がり、
「今日はもう――帰る」
 と言って、電源もそのままに自分の鞄を手に部室からとっとと出て行ってしまったのだった。
 
 沈黙と共に残されたSOS団員四人。長門が本を閉じる。えーとつまり、今日はもう解散、ってことなのか?
「……あの、キョンくん。涼宮さん――大丈夫なんでしょうか?わたし、ちょっと心配です」
 心配そうに呟く朝比奈さん。さすがにハルヒも今日は朝比奈さんには何も悪戯しなかったようだ。だからこそ、朝比奈さんもそれを疑問に思っているに違いない
「そうですね。実は僕も、先程あなたがいらっしゃる前に、涼宮さんに具合を伺ってみたのですが『何でもない』との一点張りでした。逆にそれが引っかかります。まるで、僕たちに心配を掛けまいとしているように思えましたので」
 古泉もいつになく不安そうである。そういえば、今日はずっとハルヒは不機嫌だったんだが、そっちはどうなんだ?
「ええ、今のところ閉鎖空間の発生は確認されていません。だからこそ、余計に涼宮さんのことが気掛かりです」
 しかし、そうなると、純粋に健康上の理由ってことになるのか?ダメだ、考えても俺には解らん。
 
 俺は長門にも尋ねてみる。
「なあ、長門。お前ひょっとして、ハルヒの身に何が起こっているのか知ってるんじゃないのか?」
 俺の予想は外れてはいなかった。だが、長門は僅かに顔を上下させて肯定の意思を示すと、俺の予想を上回ることをあっさりと口にした。
「涼宮ハルヒの頭痛の原因は……あなた」
 ええっ、俺が原因?そりゃ一体どういうことだ、長門。
「彼女は現在、自分に対して『罰が当たる』という強力な暗示にかかっている。先日あなたから言われた通りのこと」
 何だそりゃ?確かにそんなことを言った気もするが、普通そんなことぐらいで暗示に掛かったりするモノなのかね。
 さらに長門は解説を続行する。
「ここしばらくあなたと涼宮ハルヒを観察していてようやく判明したことがある。彼女の頭痛症状のトリガーとなっているのは、あなたが特定のキーワードを発音すること。先日あなたが退出する間際に発した、その言葉は……」
 俺は正に今その言葉を出しそうになって、思わず両手で自分の口をふさいだ。
 
『やれやれ』
 
 俺がそうぼやく度に、ハルヒは文字通り頭を抱える羽目に陥るのか。ひょっとして、ハルヒが聞いていなくても、俺がそう言えば――
「彼女が聴覚的にその言葉を認識したかどうかは関係ない。キーワードがあなたの発声器官から物理的に出力されてしまえば、先に述べた症状は確実に発現する」
 なんてこった。しかしまた、なんでそんな自虐的な暗示とやらに掛かるなんてことをハルヒは考えたんだ?
 古泉は納得尽くといった感じで告げた。
「涼宮さんはあなたに窘められたときのことが相当ショックだったのでしょう。件の放課後、あなたがお帰りになった後、涼宮さんは僕たち三人に丁重に謝罪してくださり、お一人で部室の片付けをなさってました」
 ハルヒがそんなことを?
 古泉は優しげに微笑んで続けた。
「それも、僕たち三人の手伝いを固辞してまでね。片付けの最中も、力なくあなたの名前を呟いていらっしゃいました――何度となく。おそらく、あなたにも心の底から謝りたいと思っていたんでしょう」
 だが、あの後俺はハルヒからそのことで何も言われてないぞ。
「これは推測ですが、涼宮さんのその罪悪感は全て今回の暗示による現象と同化してしまったのでしょう。ご自分の中の辛く嫌なことを全て封印するかのように。ひょっとすると、今回の一件に関する記憶も、すっかり消失しているのかもしれません」
 だがな、あの時俺は、そんなにショックを受けるような言い方はしてないはずだぞ。それどころか、その数日前からなるべく俺はハルヒには抵抗しないように心がけてたんだし。
「あの、キョンくん。そのことなんですけど……」
 朝比奈さんがおずおずと俺に語りかける。
「涼宮さんがショックだったのは、その、それだけじゃないと思うんです。多分ですけど――『何をしようが止めたりしない』――って言葉なんじゃないかな、って、わたしは思います」
 えーと、朝比奈さん。それは一体?
「えっと、涼宮さん、本当は自分が無茶したときは、キョンくんに止めて欲しいって思ってるんじゃないでしょうか。……でも、ここ最近はキョンくんが全然構ってくれないから、それで――」
 朝比奈さんはちょっとモジモジしたかと思うと、頬を赤らめて更に続けた。
「わたしにイタズラすれば、いつもキョンくんはわたしに味方してくれるし、きっと止めるはず。でもそれもダメみたい…………で、ついエスカレートしてしまって、あんなことに――」
 って、まさかハルヒは俺の無抵抗が気に入らなくって、ワザと止めさせようと、延々と朝比奈さんをオモチャにしてたってことなのか?
「結局最後まで止めてもらえなくって、それだけじゃなく、冷静に、もう『止めたりしない』って宣言されて、涼宮さん、ひょっとして自分はもうキョンくんから見放されてしまったのかも、って。それがショックだったんだと思います」
 なんとまあ……。
「涼宮ハルヒがあなたを選んだのは自らの行動を無意識的に抑止するためでもあると推測可能」
 要するに、長門、俺はあいつのブレーキ役ってことなのか?
「そう」
 古泉がいつもの仰々しいポーズでこう締め括る。
「自動車などにおいても、『ブレーキ』と言うのは一番信頼性が必要とされる部分です。つまり、涼宮さんはあなたを――自分とあなたとの絆というものを――最も信頼しているということなのですよ。全く、羨ましいの一言に尽きますね」
 しかし、『鍵』だか『ブレーキ』だか知らんが、ハルヒみたいなお化けエンジンの暴走車両を俺に制御できるなんて、到底思えないんだがな。
 
 やれや……っと。全く、難儀なことだな。早く何とかしないと。
 
 さらにまたその翌日、つまり、冒頭の時点にようやく話は追いつく。
 
 その日の四限目は体育の授業、グラウンドに降りる階段の上で、男子の一群は適度にサボりながら、女子のハードル走を眺めていた。まあ、その中に俺もいたことは否定しない。
 そうとも、ハッキリ言ってしまおう。俺の目はいつの間にかハルヒの姿を追ってしまっていたのだ。
 今日は朝からハルヒは元気がなかった。なんというか、俺の顔色を伺っている、とでもいうのだろうか、全くもってハルヒらしくない態度だ。
 しかし、どうすればハルヒの暗示を解くことができるんだ。長門も
「あなたに全て任せる」
 と言ったきり、結局何も教えてくれなかった。でも、具体的にどうすればいい。全然解らん、くそ。
 丁度ハルヒに走者の順番が回ってくるあたりで、谷口がいつもの軽口で俺に話しかけてきた。
「よう、キョン。なんだお前、そんなに『嫁』のことが気になるのか?」
「何のこった?」
「隠すな隠すな。お前、さっきからずっと涼宮の方ばっかり見てるじゃねーかよ」
 クソ、バレバレじゃねぇか。
 そうこうしていると、国木田まで話に首を突っ込んできやがる。
「そういえばキョン。涼宮さんって今朝はいつもより静かみたいだったけど、何かあったのかい?」
 こいつらに話せることなんてあるわけないし、適当にトボケるしかないな。
「さあな、俺は知らん」
「おいキョン、そりゃいくらなんでも冷たいんじゃねーか。ちゃんと『嫁』のことはケアしてやれよ。俺様を見習って、レディーにはジェントルに接しないとな」
 油断していた俺は、つい禁じられた言葉を口にしてしまった。
 
「谷口、少し黙っててくれ。今、俺ははそれどころじゃねーんだ。……全く、『やれやれ』だ」
 
 ――って、ヤバイ!
 
 丁度その瞬間は、ハルヒが最後のハードルを跳ぶための踏み切りの瞬間だったのだ。
「!」
 身体を硬直させたハルヒが、まともにハードルに突っ込む。と、その刹那、動きを取り戻したハルヒは間一髪で宙返りを決め、走路の外に落ちて尻餅をついた。
 
 気が付くと、俺はハルヒの元へ駆け出していた。
 既に集まっている数人の女子の人垣を割って入り、ハルヒの元へと近付く。
「ハルヒ、おい、ハルヒ!大丈夫か?」
 隣のコースを走っていたらしい阪中に体を助け起こされつつ、しかめ面していたハルヒは俺が突然現れたことに驚いた様子で、目を大きく見開いてこっちを見た。
「な――キョン!何であんたがこんなところに」
「そんなのはどうでもいいだろ。それより、お前どこか怪我してないか?」
「大丈夫に決まってるじゃない。あたしはあんたなんかみたいにドジじゃな……痛!」
 と悲鳴を上げ、左の足首を押さえてうずくまるハルヒ。きっと着地のときに捻るか何かしたに違いない。とりあえず、保健室に連れて行かないと。だが、呆然とする阪中を始め、女子の連中は顔を見合わせてばかりで誰一人手を貸す様子がない。おいおい。
 動揺していた俺は、周囲の目も全く気にせずに、両手でハルヒの身体を横に向けて抱きかかえると一目散に保健室を目指そうとした。
 
 はて、後で冷静になって思い返してみれば、これはなんというか、いわゆる『お姫様抱っこ』って奴だったのではないか?
 
 急なことにしばらく反応できなかったハルヒだったが、我に返った途端、猛烈に抵抗を始めた。
「って、こらー、エロキョン!あんたどこ触ってんのよ。今すぐ降ろしなさーい!」
 って、おい、暴れるなバカ。落っことしたら余計に怪我することになりかねんぞ、と言ったところで聞く耳を持たないハルヒである。
 
 仕方ない、最終手段だ。すまん、ハルヒ。
 
「全く、『やれやれ』だ。大人しくじっとしてやがれ」
 
「――んっ!」
 
 効果覿面、一瞬で身体から力が抜け、目を閉じてぐったりとするハルヒ。
 俺は無抵抗なハルヒの身体をしっかりと抱え直すと、今度こそ保健室に向かうことにした。
 気のせいだろうか。後ろの方から拍手と大歓声と口笛の音まで聞こえてくるではないか。いつの間にか男子連中まで集まってきていたらしい。
 後々考えてみれば、俺はどうもすっかりクラスの皆にハメられたみたいだ。まるで何かの映画とか小説でよくあるパターンの、陰謀に巻き込まれた主人公、にでもなった心境だよ。
 まあ、今それを気にしたところで仕方ない。俺は後ろを振り返ることなく、目的地に向かって静かにその歩みを進めるのだった。
 
 保健室で、ハルヒは捻挫の治療をしてもらう。ついでに、『貧血による頭痛』という理由で、しばらくこいつを休ませることにさせてもらったのだ。
 養護教諭は何を勘違いしたか、『あんまりおイタしなさんな。じゃあ、ごゆっくり』と言い置いて、俺たち二人を残して出て行きやがった。
 
 ベッドに横たわるハルヒ。その脇で丸椅子に腰掛けている俺。沈黙が重い。こんなとき、何て声を掛ければいいのか、俺には全然解らん。
 ありがたいことに、しばらくしてハルヒの方から口を開いてくれた。
「ねえ、キョン。――その、さっきは……ありがと」
 さっき、って、ここまで連れてきたことか。なんだ、そんなこといちいち気にするなって。
「うん。……キョン、ちょっと、話、いいかしら?」
 ああ、別に構わんぞ、と答えた俺だったが、ハルヒはしばらくまた黙ってしまった。
 どれくらい時間が経ったのだろうか、唐突にハルヒは話を再開した。
「……キョンって――死ぬのは嫌?」
 はあ、何を言い出すんだこいつ?
「嫌、って――そんなの当たり前だろう」
「そうよね。……あたし、今死んだりしたら絶対この世に未練が残るわ。もし幽霊になったら、あんたのところに化けて出てあげるからね」
 縁起でもない。全然笑えん冗談だな。
「もう、ちょっとは気を利かせて笑いなさいよ。――――やっぱりダメ。今死んだりするのなんて、あたしは絶対に嫌!」
 突然、興奮気味にハルヒは言い放った。かと思うと少々の間があって、また静かに語り始めた。
「最近、急に頭痛がするの。すごく痛くって、そのせいで身動きもできないくらい。病院に行って検査とかも受けたけど、原因も全くわからないし。一体、あたしどうしちゃったんだろうな」
 まさか、お前それで死ぬかも、とか思ってるのか?
「ねえ、キョン。あたし、もう一生治らないのかしら、この頭痛。――ずっとこのまま、痛みに怯えて暮らさないと――」
「おい、ハルヒ!」
 つい俺は大声になってしまう。こいつがこんなに自信なさげな顔を見せたのは多分初めてだが、無論そんな表情なんて、俺からすれば願い下げってもんだ。
 俺は無意識の内にハルヒの手を握ると一気にまくし立てた。
「何を弱気になってるんだ。そんなの全然お前らしくないぞ。いいか、ハルヒはいつだって笑っていないとダメなんだ。ずっと元気爆発状態で、病気なんてどこかにすっ飛ばしてしまうぐらいでないとな!」
「キョン……」
 呆気に取られた様子のハルヒだったが、すぐにいつものアヒル口になって、俺にこう返した。
「そうね。キョンごときに説教されるだなんて、あたしもヤキが回ったもんだわ、ほんと」
 そう言って不敵に笑うハルヒ。その表情は、今日見た中で一番お前らしい顔だな。
 
 ふと、ハルヒのカチューシャが俺の目に入る。転んだ拍子だろうか、砂でちょっと汚れてしまっている。
「ハルヒ、ちょっといいか?」
 と断りを入れて、俺はハルヒの頭からカチューシャを取り、砂汚れを払う。
「『やれやれ』、全くどんな転び方したらこんなところに砂が――」
 おっと、迂闊過ぎだぞ、俺。また禁句を……って、あれ?
「ん――キョン、どうかしたの?」
 と何事もなく俺の方を見ているハルヒ。
 まさか……。俺はハルヒの頭にカチューシャを戻し、小声で『やれやれ』と呟く。
「――痛っ!」
 ハルヒが痛みに顔を歪める。
「まただわ。嫌になっちゃう」
 やはり。再度カチューシャを奪って、
「本当に『やれやれ』だな」
 とハッキリ声に出す俺。
 ハルヒは何も感じない様子で、
「もう、キョン。さっきからなにしてんの?さっさと返しなさいよ」
 と、憤慨したような顔。
 一瞬考えた俺は、ハルヒにこう頼んでみた。
「なあ、ハルヒ。このカチューシャ、一晩貸してもらっていいか?」
 ハルヒはなんのことか解らなそうにしていたが、急に顔を赤くしたかと思うと、
「バ、バカ――なに考えてるのこのエロキョン!あんたって、そういう趣味があったわけ?」
 と、怒鳴り散らした。って、アホか、お前こそ何か妙なこと考えてやしないか。
 結局、ハルヒは耳まで真っ赤にした顔を俺から逸らすと、渋々同意した。
「……変なことしたら、絶対に許さないんだから」
 解ってるって。明日の朝一に返すとも。
 その後、俺は午後の授業をサボタージュしてずっとハルヒに付き添ってやった。
 ここ数日ろくに寝てなかったらしいハルヒは、俺が手を繋いでいてやると、安心したのかすぐに眠ってしまった。その寝顔の少し朱に染まった頬を見ながら俺は、そういえば昼飯をまだ食ってなかったな、とかどうでもいいことを考えていた。
 
 その日の放課後。
 
 俺は、今こうしてハルヒを背負って長い坂道を下っているところだ。何故そういうことになってしまったのか、俺にはさっぱり解らん。それにしても腹減った。体力持つかな。
 ちなみに『お姫様抱っこ』と違って無抵抗なハルヒだったのだが、正直俺は今の方が色々と持て余している状態だ。背中に感じる柔らかな感触、こいつ見た目より出るべきところがデルベッキオ……って、煩悩退散、煩悩退散!
 
 で、ハルヒを無事家まで送り届けると、カチューシャを手に、俺は北高まで舞い戻るって次第なのだった。
 
 はい、旧館部室棟。場面転換も疲れるんだよ、色々とな。
 
 長門にハルヒのカチューシャを渡した俺は今、朝比奈さんのお茶と共に昼に食い損ねた弁当を平らげているところだ。
「……解析完了。涼宮ハルヒの暗示によって呼び出された情報生命体亜種の存在を確認」
 そう言って長門は俺の方をじっと見つめる。
まるで俺が何か言うのを待っているようだ。
「じゃあ、そいつが今回の悪さをしていたってことなんだな、長門。いいからさっさとやっつけちまって――ちょっと待て」
 慌てて長門を遮る俺だった。おい、また妙な空間に連れて行かれて、恐ろしげな化け物と戦うことになるのか?
「そう」
 あっさりと肯定する長門だった。すまん、頼むからもう少しだけ我慢しててくれ。俺が弁当を食い終えて、朝比奈さんのお茶を飲み干すまでな。
 古泉の奴は妙に楽しそうにニコニコしている。お前も少しは緊張しろ。
「さて、今度は一体どのようなお相手と対面することになるのでしょうか。それを考えただけで、実にワクワクしませんか、あなたも」
 だから、顔が近い。息を吹きかけるな。
 朝比奈さんは、何のことだか全く理解していない様子でキョトンとしている。まあ、きっと可愛らしくパニック状態になって、俺の目を和ませてくれるであろうことは既定事項だろうな。
 
 というわけで、その日の異相空間での巨大な猿らしきヌイグルミ野郎との対決は、何も報告することがないぐらいアッサリとしたものだったので、特に詳細については語らないことにする。面倒臭いだけだしな。
 
 しかし、なんでまた猿野郎なんだ?
 俺の疑問に、古泉が例によって解説を始めた。
「あなたは『緊箍児の輪』というのをご存知ですか?西遊記でおなじみの孫悟空の頭についている金の輪のことです」
 ああ、たしか三蔵法師がお経を唱えると、悪さをした孫悟空の頭を締め付けて懲らしめた、とかいう……まさか!
「その通りです。涼宮さんのカチューシャがまさにその『緊箍児の輪』であり、三蔵法師の経文は……」
 
「『やれやれ』。――本当に『やれやれ』だぜ」
 
 
 翌日のこと。
 
 俺よりも少しだけ遅れて来たハルヒは、まだちょっと痛そうに足を引きずりながら後ろの席に腰を下ろした――無理矢理作ったポニーテールを揺らして。
「ねえ、キョン。さっさとあたしのカチューシャ、返しなさい」
 もうちょっとだけ、その髪型を見ていたかったんだがな。仕方がない。あのカチューシャはハルヒのトレードマークみたいなものだしな。
 だが、ハルヒは俺の手からカチューシャを取り戻すと、さっさと鞄に入れてしまったのだ。意表を突かれてハルヒの顔をまじまじと眺める俺。
「な、なによ、勘違いしないで。ふんだ。別にあんたのためとかじゃなくて、ちょっと気分を変えてみたくなっただけなんだからね」
 俺はまだ何も言ってないんだがな。誰に対して言い訳してるんだお前?全く、もうちょっと素直になれば可愛げもあるだろうに。
「うるさいわね。あんたの方こそよっぽど素直じゃないわよ」
 ああ、俺はお前とは違って、自分が素直じゃないことぐらい、十分自覚しているとも。
「ちょっと、キョンのクセに偉そうじゃないのよ。大体、あんたって――」
「二人とも、仲がいいのも大概にしとけ。ホームルーム、始めてもいいか?」
 慌てて振り向く俺。
 岡部の奴がとっくに教壇にいた。クラスのみんなも俺たちの方を見て、生暖かい視線を――谷口だけは机に伏せて、何だろう、あいつ泣いてやがるみたいだが?
 
 と、シャーペンの先が俺の背中を刺す。おい、ハルヒ。痛いってば。
「ふん。覚えてなさいよ、キョン」
 そう言って、窓から外を見るハルヒ。
 俺は毎度のように
「『やれやれ』」
 と呟くのだった。
 
 なあ、ハルヒ。お前こそ覚えてろよ。きっといつか――そうだな、七十年ぐらい先のことになるかもしれんが、もし俺が先に死んだら、幽霊になってお前の前に化けて出てやるぞ。きっとビックリすることだろう。お前のマヌケな顔を拝んで大笑いしてやるからな。