『涼宮戸川 -お春キョン七なれそめの段-』 (93-361)

Last-modified: 2008-07-06 (日) 11:21:32

概要

作品名作者発表日保管日
『涼宮戸川 -お春キョン七なれそめの段-』93-361氏08/07/0608/07/06

作品

 どんどんどんどんっ!
 何度目になるかわからんくらいに木戸を叩いて声をかけ、それから俺は大いに溜息を吐いた。
 全く、うちの親父の気難しいことといったらないね。いい歳の倅がちょいと門限を過ぎたからって閉め出すことはないだろうに。
 まあ確かに『囲碁将棋に現を抜かす奴は親の死に目にも逢えない』なんて昔から言うわけで、そりゃ過ぎないに越したことはないんだがさ。
 今日だって幼馴染みの古泉のところへ遊びに行ったはいいが、野郎が勝てもしないのに「もう一局、もう一局」なんて悪止めしやがるから、結局こんな時間になっちまった。
 まぁ、あいつだけが悪いわけじゃなく、悪止めを断らなかった俺が悪いんだがね。それにしても、なんだって下手なヤツほど食い下がるもんだかね。
 さて、どうしたもんだか……。
 とにもかくにも閉め出されたんじゃ仕方ない。このまま外で寝るわけにもいかないし、とりあえずどこかに一晩の宿を求めて、明けたら親父に詫びを入れることにしよう。
 俺はそんな風に考えながら、さてどこに宿を取ったもんだかと、提灯片手にブラブラと歩き出した。
 すると向かいの家前で、さっきまでの俺と同じようにドンドンと木戸を叩いている人影がぼんやりと見える。
 ん……ありゃ、幼なじみのお春じゃないか。やれやれ、あいつも閉め出されたってわけかね。
 おいおい、あんまり無闇矢鱈と木戸を叩くんじゃないよ。近所迷惑だってな事は俺も言えた義理じゃないんだが、お前の馬鹿力で叩きすぎると、その木戸がバッキリと壊れちまうぜ?
 押し込み強盗じゃあるまいに。ひょっとして、それが目的でやってんのか? よしとけよ、幼なじみが家の木戸をぶち壊して身内に訴えられるなんて、つまらない事になるのは願い下げだぜ?
「……さっきから、後ろでごちゃごちゃとうるさいわねえ!」
 やれやれ、親切で言ってるんだ。怒りの矛先をこっちに向けるんじゃねーよ。で、どうした。閉め出し食らっちまったのか。
 俺がそう声をかけると、お春は憤然と鼻を鳴らしながら応えた。
「情けない話だけどそういうこと! お有希のとこに遊びに行ってたんだけどね。歌留多取りに夢中になっちゃってさぁ。あの子もまた存外に負けず嫌いでしょ? あたしは一勝一敗の痛み分けでいいじゃないって言ったんだけど、聞かなくってね」
 なるほど、お有希相手ならさもありなんってところだな。
 俺は無表情に歌留多札をきっちりと並べて次戦を促すお有希を思い浮かべ、思わず吹き出しそうになった。
「まぁ遅くなって門限を破ったのは事実だし、楽しんだ分の割を食うのは仕方ないけどね。それにしたって年頃の娘を閉め出すことはないじゃない?」
 そう言うと忌々しげに木戸を睨むお春。全くこいつは器量はいいのに、どうにもこう気が強いのがいけないね。おいおい、木戸を蹴るんじゃないよ。
「いちいち、うるっさいわねぇ。あんたはどうしたのよ。こんな時間から夜歩きってわけ?」
 いや、それがな。情けない話だが古泉と指しててしくじっちまってな。お前と御同輩ってわけだよ。
「はぁ? あんたまた碁でしくじったの? 情けないわねえ」
 いやはやどうにも面目ないね。俺の場合、お前のように今夜たまたまってわけでもないからなぁ。
 そう頭を掻くと、お春は「全くいつまでたってもガキなんだから……」なんて溜息交じりにぶつくさ言っている。
 まぁ自分がガキであることは否定しないが、それでお前に迷惑をかけたことがあるわけじゃねえだろ。
「あんた本当にそう思ってんの?……まぁいいわ。で? あんたは今晩どうするのよ?」
 まぁこのまま外で寝るわけにもいかねえからな。古泉の家に戻るかして、一晩宿を貸してもらうさ。
「ふぅん……じゃ、あたしも便乗させてもらおうかしら」
 はぁ?
 思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
 おいおい、何を言ってんだ。いい若い娘が男二人と一つ屋根の下に一晩共宿りなんて許されるわけがないだろう。お前はお前で、お有希のところへでも戻りゃいいじゃないか。
「それも考えたんだけどね。お有希の家は今から戻るには少し遠いし、それにあの子は夜が早いからね。今から行って起こすのも忍びないし……第一こんな時間に若い娘を一人歩きさせる気?」
 そう言って、くりくり目玉を輝かせ、悪戯を思いついたような表情を見せるお春。まぁ、この顔になったが最後、俺の言うことなんざ聞いてくれた試しがないんだが……今度ばかりはそういう訳にもいかない。
 ただでさえしくじっちまってるのに、お春と二人で夜明かししただの泊まっただのなんてのが親父にバレようもんなら勘当されかねないからな。
 そういう訳だからな、俺だって何も薄情でお前と古泉んとこに行くのを拒んでるわけじゃねえんだ。俺のところの事情も考えてだな……。
「あんたの事情なんか、あたしの知ったこっちゃないの。さ、行くわよ!」
 やれやれ、どうしたもんかねえ。
 俺は曇天の夜空を見上げて溜息を吐いた。悪いことは重なるもんで、どうにも一雨来そうな気配だ。早いところ屋根のある場所を得ないことには、本気で風邪でも引き込みかねない。
「何も一緒の床で寝る訳じゃないんだしさ。いいのよ、あたしは。土間でも納戸でもね。一晩雨露さえ凌げりゃいいんだからさ」
 バカ言ってんじゃねえよ。女をそんな扱いできるわけもねえだろうが。そういう事情になったんなら、俺が土間へでも納戸へでも行くよ。
「あら、いいとこあるじゃあないの。それじゃ尚更に心配はなくなったってわけよね? さ、それじゃさっさと行きましょ?」
 そう言って、最前よりも一層瞳を輝かせた悪戯笑いを顔に浮かべると、すたすた先を歩き始めるお春。
 まんまと言質を取られちまったなぁ。まぁ土台こいつに口でかなうわけもねぇんだが、こうもあっさり丸め込まれるってぇのは、我が事ながらどうにも情けないねぇ。
 
 ◇ ◆ ◇
 
「なるほど、事情はよく解りました。こちらもしつこくお引き留めしてしまいましたからね。責任を感じますし、あなただけなら床を貸すのは吝かではないのですが……」
 やっぱりそうだよなぁ。普通に考えりゃ嫁入り前の堅気の娘が、いくら幼馴染み同士とはいえ、同じ年頃の男衆二人と一晩宿を共にするってのは無茶ってもんだよなぁ。
「えぇ。あなた方が天下に恥じるところのない、両家認め合った許嫁か恋仲でもあれば、また話は別なんですがね」
 そう言うと古泉はいつものニヤケ面を三割ほど増した笑みを浮かべて、意味深に片目を瞑って見せた。
 おいおい、よしてくれよ。あんなお転婆と恋仲にだって? 俺は今から自分の将来を、女の尻に敷かれて過ごすなんていう風に決めるつもりはないぜ。
 上がり框に腰掛けて俺と古泉の相談次第の成り行きを見守っているお春を背中越しに見やってから、俺と古泉はお春に聞こえない様に密談を続けた。
「そう仰るわりには、結局いつでもお付き合いをして面倒をみてらっしゃるじゃないですか。どうでもいい厄介者なら、今夜だって無視してお一人でいらっしゃればよかったんです。違いますか?」
 全く口の減らない野郎だな。別段、お春がどうこうでなくとも、男として困っている女にはよくしてやれって躾られたもんでな。それだけのこった。まぁ付け加えるってんなら、幼馴染みの誼ってなだけだよ。
「ふむ。左様ですか。『困っている女性にはよくしてやれ』……なるほど、よくわかりました。ええ、確かに僕もそのように躾られて来ましたからね。それでは僕も僕なりに出来ることをさせていただきましょう」
 古泉はそういうと顔を上げて、お春を振り返り「お待たせして申し訳ないですが、今しばらく時間を下さいな」なんて、いつものニヤケ面で微笑みかけると、土間から奥へと上がっていってしまった。
 なんだってんだかね。
「随分長いことひそひそしてたけど、結局どうなったの?」
 うーむ。言い辛いんだが、その、なんだ。まだ何も決まってねぇんだ。
「はぁ? じゃあ、男二人が頬寄せ合って、今の今まで何を話してたのよ」
 いや別に頬寄せ合ってなんかはいねぇっての。気味の悪いこと言うんじゃねぇよ。
「ふん、どうだか! じゃあ何を話してたってのよ」
 ぐ……そ、それはだな……。
 思わず言い澱んだ俺を見逃すようなお春じゃあない。魚屋の棒手振りが桶から落とした小鰺を、すかさず掠め取らんとする猫のような素早さで食いついてきた。
「なによ、あたしに言えないようなこと話してたってぇの?」
 框から立ち上がって、ついと詰め寄るお春。全く、こいつはこういうヤツだからなぁ。勝ち気というか男勝りというか。何かって言うと突っかかって来やがる。
 しかも、その相手が大概の場合俺だっていうのは、一体どういう了見なんだかね。
「おやおや、人の家の戸口で痴話喧嘩とは、犬どころか猫も食いませんよ。馬に蹴られないか心配ですが、少しばかり割り込ませてもらってもよろしいですか?」
 奥の間から戻ってきた古泉は、なにやら書状を手にして、またぞろわけのわからない事を言いやがった。
 今の何をどう聞いたら痴話喧嘩になるんだってんだ。碁のヘボが耳にまで祟りやがったのか。
「随分ご挨拶ですね。まぁいいでしょう。碁の敵は碁で返すとして……差し当たっては、まずこれを」
 そう言うと先ほど奥に引っ込んだときに認めてきたらしい書状を俺に手渡した。
 なんだいこりゃ。
 俺は訝しげな表情を浮かべつつそれを受け取る。
「お春さんも聞いて下さい。今晩のことは不運でしたが、そんな中で僕を頼って下さったにも関わらず、ご期待に添えず申し訳ありません」
 なんでぇ。もったいぶっといて結局断るんじゃねえか。
「つっかかんじゃないわよ! いいのよ古泉くん。気にしないで。無理を言ってるのはこっちなんだから」
 なーんで俺と古泉とじゃこんなに扱いが違うんだ?
「いや、お二人をお泊めしたいのは山々なのですが、何分小さな長屋の一人住まいですから、お客様の寝具もないのです。土間でも納戸でもと仰りたいかもしれませんが、そういうわけにもいきません」
 まぁそうだろうな。
「ですが、だといってお二人を野晒しにさせるような真似はいたしませんので、ご安心を。三軒ほど先に僕の実家で奉公をしてくれた新川という小父さんの住まいがあります。お二人とも面識はあるでしょう?」
 ああ、いつぞや島で磯遊びをしたり、山で雪遊びをしたときに面倒見てくれた髭の小父さんか。懐かしいな。こんなところに住まっていたのか。
「ええ、というよりは小父さんの近所の長屋に僕の方が住まっているという方が正しいですね。みっともない話ですが、お目付役とでも言いますか……」
 なるほどね。古泉は小間物問屋の若旦那だ。だが、こいつの親父さんってのが変わり者で、息子を家の外におっぽりだしやがったんだよな。
 といっても、遊びをやりすぎてしくじった末に勘当されたとか、そういうわけじゃない。なんでも一人暮らしで世間ってもんを、しっかり見てこい、とまぁこういうわけなんだそうだ。
 しかし、それで自分とこで使ってた奉公人の近所に住ませるってのは、また随分過保護な話だよなぁ。
「何言ってんのよ。優しくて良いおとっつぁんじゃないの。でも、それじゃ夜っぴて遊んだり、いい人を連れ込んだりってのも難しいわねえ。新川の小父さんから、おとっつぁんに御注進がいくかもしれないものね」
 にっと笑って滅多なことを言うお春に古泉は少しも動じず、
「そうなんですよ。ですから気楽な一人住まいとはいっても、せいぜいこちらにヘボ碁の御相手をしていただくのが精一杯でして。全く困ったものです」
 なんて返しやがった。
 どの口がそんなことをよく言ったもんだかね。共連れだって歩けば町娘たちがざわつきやがるし、茶店に入れば看板娘が「あら若旦那」なーんて寄ってくる御身分のくせしやがって。
「娘さん達の考えまでは僕の責じゃありませんよ。さて、話を戻しますが……」
 まぁ間々の無駄話を省くと、新川の小父さんのところは二階があるけど普段は使っていないし、お客用の布団もあって、自分が風邪で倒れたときに使わせてもらったこともあるから、まず間違いないそうだ。
 で、俺たちの事情を書いて、よくよくよいようにしてくれるようにと記した書状を用意したから、これをもって新川の小父さんのところへ行って一晩泊めてもらえと、こういうわけだ。
 自分が行って直接頼めば間違いはないんだが、一応は独立した身。面と向かって世話になるわけにもいかないから書状で、ということらしい。
 なんかすまねぇな古泉。
「いいえ、せっかく頼って下さったんですし、悪止めした僕にも咎がありますからね。これくらいはさせてくださいな。お春さんもお困りの様子ですし、あなたの言葉じゃないですが、幼馴染みの誼ですよ」
 まぁ都合の良い話だが、今はお前のニヤケ面がありがたいね。今度打つときにゃコミを増やしてやろうか?
「おや、ありがたい。それじゃもう四目ほど」
 バカ言うな。つけて三目、これまでと合わせて八目だ。
「世知辛いですねぇ。こんなことなら書状の中を、あなただけ土間に転がしておけとでも書いておけばよかったかもしれませんね」
 おいおい。
「あんた達その辺にしときなさい。新川の小父さんだって、あんまり遅くなればもう休んじゃうわよ。いくら書状があったって、そんなところにお邪魔するのは気が引けるわ。早く行きましょ」
 まぁそれもそうだな。それじゃ古泉、ありがとうな。恩に切るぜ。明日の朝一番でまた礼に来るわ。
「それはどうもご丁寧に。新川の小父さんでしたらまだ起きてると思いますので、遠慮無く木戸を叩いてください。それでは、おやすみなさい」
 
 ◇ ◆ ◇
 
 こうして俺たちは三軒先の新川の小父さん宅前まで来たんだが……ここで間違いはないんだよなあ?
「そうじゃない? 三軒先といったら他にないんだし」
 まぁそうなんだけどな。なにしろもう遅い時間もいいところだからな。間違いがあっちゃいけねぇし。
「じれったいわねぇ。間違いだったら間違いで謝ればいいのよ! ごめんください! ごめんくださーい!」
 俺が溜息を吐く間もなく、俺の身体を押しのけて進み出たお春は、遠慮も何もなく木戸を叩き始めた。
 おいおい、なんだってお前はそう気が短いんだ。
「……こんな夜更けに、一体どちらさまですかな」
 ややあって木戸の内から聞こえてきたのは、渋く低い声。江戸の町人には似つかわしくない慇懃な口調だが、長いこと代々続く御用達の大店で大番頭を務めてきたからなんだろうな。
 新川の小父さん、夜分にどうもすみません。俺です。キョンです。
 どうにも自分であだ名を名乗るってのはいただけないね。だが、親にもらった名前より、こっちの方が通りがいいってんだから仕方がない。
「おやおや、これはこれはお懐かしい。少々お待ち下さい。今、木戸を開けますので」
 木戸が開くまでの間に俺はお春を後ろに回して、新川の小父さんを待った。紹介を受けたのは俺だし、お春に余計なことを言われてこじれたんじゃ困るしな。
「どうもご無沙汰しております。いつぞやの雪遊び以来ですか。いや、ご立派になられましたなあ」
 いやいや、なりばっか大きくなったってなもんでして。それより、こんな夜更けに申し訳ありません。
「いえいえ、まだ手前どもも起きておりましたから。……はて、そちらのお方は?」
 新川の小父さんは髭を撫でながら、提灯の薄明かりに照らされたお春の方を見やる。
「新川の小父さん、お久しぶりです。お春です」
「おーおー! 覚えておりますとも! いやいや、あのお転婆娘さんが、お綺麗になられましたねえ。……はて」
 そう言うと小父さんは思案顔を作って見せて、
「お若い二人がこのような時間に手前どもの家をお尋ねになる……となりますと……これは、お二人の仲をご両家の親御様に説明する知恵でも、この年寄りに借りに参られた、とこういうわけでしょうか?」
 と、鷹揚な笑みを浮かべて見せた。
 いやいやいや! そんなことじゃあないんです! 第一俺とお春はそんなんじゃないんで! っててて! なんだって人の背中を抓るんだよお前は!
「はっはっは。まぁまぁお二人とも。ですが、それでは今夜はどういったご用件でございましょうか?」
 ええ、実は……。
 俺はかくかくしかじかでとかいつまんだ事情を話しながら、小父さんに古泉からの書状を手渡した。
 小父さんは俺たちを木戸の内へと招くと、寝支度を整えようとしていたらしい一人娘のお園さんにも挨拶をさせて、手燭の灯りで古泉からの手紙を熱心に読み始めた。
「なるほどなるほど、事情はよくよくわかりました。若が原因でご迷惑をおかけしたようで……」
 そう言いながら深々と頭を下げる小父さん。
 いやいや! よして下さいよ! 年上の方に頭を下げられるような身分じゃないんですから。
「若の仰る通り、手前どもの家には狭いながらも二階がございますし寝具もございます。お二人とも幼い頃より存じ上げておりますし、お身元も確か。若からも、くれぐれもとありますし、そうした事情でしたら、お二方を一晩お世話するのに全く否やはないのですが……」
 そこで言葉を切ると、新川の小父さんはほんの少しだけ思案顔をして見せてから、こう繋げた。
「誠にあいすみませんが、布団を裏も表も鼠にやられましてな。今、手前どもの方でご用意できますのは二階にある一組だけなのですよ」
 それでしたら、俺は土間にでも寝かせていただけりゃ構いませんので。
「いやいや、そういう訳には参りません。なにしろ若からくれぐれもよろしくと言付かっておりますので。ささ、お二人とも、二階の方へ」
 そう言いながら新川の小父さんは俺とお春の背中を軽く押すようにして、框から二階ヘと上がる梯子前に促した。
「なにしろ急な梯子ですからね。ささ、お先に上ってお春さんの手を引いてあげて下さい」
 いや、小父さん、ちょ、ちょっと。そんなに急かさないで下さいよ。それに二階に一組しか布団がないのに二人でってのは拙いですって。
「いえいえ、なにもご心配されることはございません。若からくれぐれもよろしくと言付かっておりますので」
 いや、それはもう何度も聞いていますし、ありがたいんですけどね。俺は体は丈夫な方ですし、土間でも何でも構いやしないんです。二階にはお春だけ寝かしてやって下さいな。お願いしますよ。
「そうですな……ふむ。ああ、そういえば……いや実は先頃から娘のお園が流行病を患っておりましてな。なんでもお医者のお見立てでは、膝より高いところにいればうつることはないそうでございますから。そういうわけで土間や框をお貸しすることは出来ません。ささ、二階の方へ」
 な、なんなんですか、その取って付けたような流行病の話は。お園さん元気そうだったじゃないですか。
「或いは、そうであるのかもしれませんな。はっはっは」
 いやいや「はっはっは」じゃないですよ小父さん。って、なんでお園さんも思い出したように咳してるんですか。さっきまでぴんしゃんしてたじゃないですか!
 わかりました、わかりました。上がりますよ、上がりますからね、その、綿入れ袢纏の古いヤツでもありませんか? 俺はそれを引っ被って寝りゃ十分なんで。
「はっはっは、ございませんな」
 えっと、それじゃあ、もう綿のはみ出したような座布団でも構いませんから。二、三枚貸していただけりゃ、それを敷き敷き上掛けにもして寝ますし!
「はっはっは! ございませんな!」
 ないわきゃないでしょうに! こんだけ立派なお住まいなんだから!
「はっはっはっはっは! ございませんなっ!!」
 そうこうとじたばたしていたもんだが、結局小父さんに尻を押されて不承不承二階に上がらされてしまった。あいつが上がるのに手を貸すってのは吝かじゃないんだが、こいつはどうにも困ったね。
 まぁ、お春のやつを引き上げたところで入れ替わりに下に降りればいいやと思っていたのだが、階下から手燭を渡されて二階に灯りを点し、手元を明らかにしてから、お春の手を引いて二階に引っ張り上げると、その端から掛け梯子の突端がふいっと消えちまった。
 おいおい! こりゃどういうことですか! 小父さん! 新川の小父さん! 梯子がなくなっちまいましたけど! 小父さん?!
 俺の必死の呼びかけに返ってきたのは渋く朗らかな笑い声だ。おいおい、お園さんまでくすくす笑ってやがるじゃねえか。
「先ほど申し上げましたとおり、お園は流行病を患っておりますのでな。こそりと下に降りられて土間にでも寝込まれますと、うつるおそれがございます。若の大事な幼馴染みであるお二方に、身内の病をうつしたとあっては、若にもお二人のご両親にも会わせる顔がございません。そういう訳でございますから、大人しく二階でおやすみくださいますよう」
 いやいや、ですからね? お園さんはぴんぴんしてるし、俺とお春が一緒の床にってのは拙いんですって。
 お春、お前もなんか言えって! おいおい、なに早速布団敷いてんだよ!
「あ、あたしは別に構わないわよ? お園さん流行病ってんじゃ仕方ないじゃない」
 お前ね、あっさりとあんな大法螺を信じるんじゃないよ!
「さあ、それでは手前どももそろそろ床に入らせていただきますので。失礼ですが以降はお声掛けなさいませぬよう、お願いいたします。そうそう、明朝は手前どもが起こすまで、ごゆっくりお休みください。お若い方には、まだ夜は長ぅございますから」
 小父さんがそう言って笑うと、お園さんも実に朗らかな声で、おやすみなさいと言って、わっざとらしく咳込んだ。まったく、なんてこったい。どうしろってんだよ。
 振り返れば、お春は敷いた布団の横にちょこんと座って、袖の裾なんかいじってやがる。
 えーとだな。まぁなんだ、こうなったら仕方ない。幸いにも二階はそこそこ広いからな。お前は布団で寝ろ。俺はそこいらで横になるからよ。
「な、なに言ってんのよ。元はと言えば、あんたの伝手で泊まらせてもらったんだから、あんたが布団で寝ればいいじゃない。あたしこそ、そこいらで横にならせてもらうから」
 馬鹿言っちゃいけねぇよ。お前がどんなにお転婆だろうが男勝りだろうが、やっぱり女は女だ。お前が布団で寝りゃそれで話は済むんだって。
 そんなこんなのやりとりを繰り返したんだが、どうにも強情で人の話なんか聞きやしない。擦った揉んだの挙げ句には、
「あーもう! だったら二人で寝ればいいじゃない! あたしは平気だし、あんたのことなんか気にしないんだから!」
 とかなんとか言い出しやがった。おまけに「大体、子供の時分には、みんなで並んで午睡だってしたじゃないの。何が違うってのよ」と来たもんだ。
 やれやれ、見てくれは随分娘らしくなったと思っていたんだが、こいつの中身はまだまだ洟をすすり上げてた時のまんまらしいな。
 わーかったよ。だがな、布団はどうしたって一組しかねえんだ。だからこう、互いに背中合わせになってだな。この布団の真ん中よりこっちに来ちゃいけねぇよ? わかったな?
「全くもう……陣取りやってんじゃないんだから。まぁわかったわよ。背中合わせに寝て半分より向こうにはお互い行きっこなし。それでいいんでしょ?」
 そういうこった。お互いの身と将来の安全のためにもな。
 
 ◇ ◆ ◇
 
 そんな風に言って、とりあえず布団にぎこちなく潜り込んだもんだが、背中合わせの布団ってのは隙間が多いもんだから、どうにもスースーしていけない。
 布団を被っていても感じる肌寒さに思わず身を竦めていると、屋根をぽつぽつと叩く音が聞こえてきた。
 と、ぽつぽつとした音が途端に、ざぁっという大きな音に変わる。どうやら外は大雨になっちまったようだ。道理で冷えるわけだな。
「……ねぇキョン……起きてる……?」
 背中越しに声をかけられたが、とりあえず寝たふりをして誤魔化してみる。しばらく無言の間があったのだが、今度はなにやら背中側でもぞもぞと動く気配だ。何をしてるんだかね。
「ねぇ……ねぇったら」
 つんつんと背中を指でつつかれる。
 おいおい、こっちに寝返ってんじゃないよ。話が違うじゃないか。
「やぁっぱり狸寝入り」
 くすくすとさも可笑しそうに笑う気配を背中に感じながら、俺はどういうわけだか顔が熱くなって仕方がなかった。
「雨……すごいわね。冷えてきたみたいだし……ね、このままでもいいでしょ……?」
 下で寝ている小父さん達を慮っての事かもしれないが、えらく儚げな、か細い声で言うお春。なんだってんだ、冷えてきただって? こっちは顔が熱くて仕方がないんだよ。
「生憎と夜目は利かない上に、背中に目もついていないんでね。このままってのが、どのままなのかは知らないが、好きにしたらいいや」
 顔の熱を抑え込んで、なんとかそんな風に言い捨てたが、どうにも声が上擦っちまう。
「うん……ありがと……」
 驚いたねどうも。こいつが素直に礼を言うなんて雨でも降るんじゃないだろうか。あ、外は大雨か。
「ふふっ……やっぱり、こっちのが温かいわ。あんたも寒けりゃこっちを向いたらいいのに」
 とっ、とんでもないことを言うもんじゃないよ。
 俺は半ばうつ伏せになるように身を固めて背を向け直す。全くお気楽なこと言ってんじゃないってんだ。
 お前はどうだかしらねえが、こっちは若い女と一つ布団に寝るなんざ初めてのことなんだ。俺だって男なんだし、何かあってからじゃ遅いんだっての。
 口の中でそんなことをブツクサ言いながら屋根を打つ雨音に耳を任せていると、背中に感じていた温もりが少しばかり強まった。
 着物越しに身体が触れているのがわかる。お春のやつ、背中合わせどころか布団の半分を越えないという取り決めまで破りやがったな。
「おいおい、なんだってこっちに来るんだよ。取り決めをほいほい違えるんじゃないよ」
 俺はさっきっから高鳴りっぱなしの胸の音をお春に気取られないよう、身を背けながらお春に苦情を申し立てた。
「……だって、雨音がさっきから凄くって……心細いんだもん」
 知らねえよ。俺が降らせてるわけじゃないんだから、俺にそんなこと言われたって困るっての。
――大体なんだってそんな甘えた声出すんだよ。耳まで熱くって仕方がないじゃないか。
 そう心の内でぼやいていると、半鐘を石畳に落としたような音に続いてゴロゴロという響きが聞こえた。どうやら本格的な嵐になってきたらしい。
「……きゃっ!」
 そう遠くないところに鳴り響いた雷鳴に、びくっと身体を震わせるお春。
 なんだい雷が怖いのか。ガキじゃあるまいに、そうそう落ちやしないから、臍でも抑えときなよ。
「ばっ……馬鹿言ってんじゃないわよ。なんであたしが雷様なんか怖がらなくっちゃいけないの? ちょいと大きな音だったもんだから吃驚しただけよ。あ、あんたこそ怖いんならこっち向いたらいいじゃない。そうなさいよ」
 平気な割には妙に言葉数が多い上に、言ってることも滅茶苦茶だ。
 大きな音ねえ。雨音に追いやられて随分遠くに感じたんだがなあ。それに生憎と雷なんか怖かないんでね。そんなもんでてめぇから言い出した約束を違えるもんかい。
――カカッ! ガラガラガラン!
 おおっ。今度は近いな……って、おいおい、なんだってお前は俺の着物を掴んでくしゃくしゃにしてるんだよ。雷なんか怖くないんじゃないのかい。
 俺は着物の背中やら袖やらを、ぎゅっと握りしめられて、内心大いに動揺しながら軽口を叩いた。
「こ、怖くなんかないけどっ……!」
 やれやれ、ガタガタ震えてそんなこと言ったって、人を説得できる道理があるわけもないだろうに。
 人の着物引っ掴んでないで、布団をしっかり被って寝ちまいな――そう言って、少しばかり身体を寝返らせ、すっかり崩れてしまった掛け布団を直してやろうとした瞬間。
 薄く開いた雨戸の隙間からさえ、焼き金を目の前に当てられたかのような真っ白な光が差し込み、続いて
――ビシャーッ! ドーン!!
 という轟音に続く地響き。どうやらそう遠くない場所に雷が落ちたらしいんだが、こっちはそれどころじゃない。
 光と同じか、音と同じだったか。お春が小さく悲鳴を上げたと思うと、俺の首っ玉にがっしりしがみついて全く離れやしない上に、身体を預けたまんま俺にのし掛かるようにしてきやがった。
 俺にむしゃぶりつくように抱きついて、懐の内で震えるお春。
 その濡れた前髪が頬にあたり、鬢づけ油と白粉の匂い、そしてお春自身の匂いが俺の鼻から入って、熱を持った俺の胸を否応なく刺激する。
 胸の音も昂ぶりも、さっきからか身体に感じていた妙な熱も、こんなに引っ付かれちまったんじゃ隠しようもない。
 それよりもなによりも、俺の腕の中で半べそになりながら震えているお春がたまらなく愛おしくなって――。
 
 俺はお春の背に回した腕に、ぐっと力を込めてお春の身体を抱き寄せた。
 
 するとまた一つ稲光が部屋に差し込み――。
 
 俺の眼に飛び込んできたのは、すっかり乱れた着物の裾。
 
 その下から覗く真っ赤に燃え立つような緋縮緬の長襦袢が割れて、膝の上まで露わになったお春の足。
 
 その雪のように真っ白い肌が、俺の心を容赦なしに妖しく掻き乱す。
 
 俺は衝動に抗いようもなく、何かに操られるかのように、そこへと手を伸ばし――。
 
 ◇ epilogue ◇
 
――ごくり。
 
 鶴屋さんを囲む全員が、一度に喉を鳴らした。
 顔に熱を感じながら見回してみれば、全員が全員顔を真っ赤にしながら目を見開いて、話の続きを待っている。いつもとあんまり表情が変わらないのは長門くらいのもんだ。
 
「……実はこの先は本が破けちゃって続きがわっかんないにょろ~!」
 
――っぷはぁ~……。
 
 今度は全員分の溜め息だ。
 すっかり恒例となった鶴屋さんによる落語披露。その三回目は古典落語を「あんまりアレンジしないで、なるべくそのまんまで演るにょろっ」という事だったんだが、まさかこんな寸止めなオチの噺を持ってくるとは……。
 全くもって鶴屋さんという人は油断のできない先輩だ。いや、この場合は江戸時代から続く落語というジャンル自体が油断ならないというべきなんだろうかね。
「いやいや参りましたね……。こんな風に肩透かしを喰らうとは……ちなみにその下げは、原作通りなんですか?」
「そうにょろ~。ホントは後編もあるらしいんだけっどもね! あんまり面白くもない噺だからさっ。大体の噺家さんは、ここでやめちゃうにょろ!」
「ふわぁ~顔が熱いですぅ~……ま、窓開けてきますねっ!」
 まだ顔を真っ赤に上気させた朝比奈さんが、ぱたぱたと窓際へと向かう。自身が恥ずかしい目に遭わされたわけではなく、耳まで真っ赤になった朝比奈さんというのは、これまた趣がありますな。眼福眼福。
「……」
 ん? どうした長門。
 顔の熱を天井に逃がすように伸び上がっていた俺の裾をちょんちょんと摘んだ宇宙人謹製ヒューマノイドインターフェースに顔を向けて問いかける。
「……続きは」
 いやいや、今ので終わりなんだとさ。
「理解できない。彼女によって語られたストーリーは完結をしていない。中途半端」
 んー……だからな、そういう風に気を持たせておいて肩透かしするっていう話芸なんだとさ。続きはあるんだけど、そんなに面白くないってんじゃしょうがないだろ。
「……」
 おいおい、なんだってちょっとムッとした顔をしてるんだかねコイツは。まぁ宇宙人にはちょっと難しかったのかもしれないなぁ。
 そういえばコイツにはお笑いとかそういうものを理解する素養はあるんだろうか。情報としては知っていても、爆笑する長門なんて想像もできないよな――。
 そんな事を考えていると、朝比奈さんが開けて下さった窓から、涼しく穏やかな風が吹き込んできた。やれやれ、それでもまだ顔は熱いが、あんな艶っぽい噺を聞かされたんじゃなぁ。
 と、今の今まで無言で固まっていた約一名の観客が、座っていた椅子から身を乗り出しすぎたところに追い風を受けたからか、ぐらりと揺れると盛大に音を立てて椅子から転げ落ちた。
 言うまでもなく涼宮ハルヒ、その人だ。
 やれやれ、大丈夫か? と声をかけようとしたんだが、なにやら打ち所が悪かったのか、別の理由でか、身悶えながら地面をごろごろと転がっている。まぁ大丈夫そうだな。
 全員がきょとんとした目で、部室の床で身悶えるハルヒを見守っていたのだが、ハルヒはすっくと立ち上がると、掴みかからんばかりの勢いで……っていうか、実際掴みかかってるんだがな。まぁ鶴屋さんに飛びかかった。
「つっ……! つつつつつつつつつっ!!」
「は、ハルにゃん落ち着くにょろ! まずは日本語を取り戻した方がいいっさ!」
 天下無敵のマイペース娘である鶴屋さんも、さすがに耳どころかうなじの下まで真っ赤になって赤鬼化しているハルヒに両肩をがっしり掴まれては、動揺を隠せないらしい。
「つっ……! つつつっ!! 鶴屋さぁんっ!!」
「は、はいにょろっ!」
 危うし鶴屋さん。絶体絶命の危機というヤツか。だが、誰も助けに入ろうとしないSOS団員である。古泉はいつものニヤケ面だが、若干頬を引きつらせておののいているし、既に涙目状態の朝比奈さんは最初から戦力外だ。
 唯一頼りになりそうな長門は、定位置に戻って本を……読んではいないが、ブツブツと何事かを呟きながら、無心に何か思索しているらしい。こっちの出来事にはまるで無関心だ。
 となると、やはり俺が矛先を引き受けて、この明るく優しく、何度言っても俺とハルヒの名前を落語に使って語る無茶な先輩を助けなきゃいけないってわけだな。はぁ……全くもってやれやれだ。
 おい、ハル――。
「うっさい! あんたは黙ってなさい! このバカ鈍ボケエロキョン!」
 名前さえも最後まで呼ばせてくれない剣幕だ。それにしてもバカキョンまではいつもの事だが、その他後半の三つは、今この場にあっては全く身に覚えがないんだがな。
「だから黙ってなさいっつってんでしょっ!」
 いかん。鶴屋さんすみません。あなたを助けることは出来ないようです。
 俺がサバンナを駆け巡り、槍一本で獅子をも倒す勇敢な狩人だったらいいんですが、残念ながら俺はそんなナイスハンターではないですし、場合によっては今のコイツは空腹状態の雌ライオンより強いので。
「さて……鶴屋さんっ!……っと! 今日は逃がさないわよっ!」
 俺に矛先が向いた隙をついて、こっそり逃げだそうとした鶴屋さんのカバンを、がっしりと掴むハルヒ。ああ、世の中に神……えーとハルヒ以外が存在するならば、哀れな先輩をお助けください。
「ちょっと、こっちに、来なさいっ!」
 そう言いながら、鶴屋さんの腕を抱きかかえるようにして、つかつかと部室を出て行くハルヒ。
「ああっ……! みくるぅ~! 助けてぇ……は無理だろうからぁ、あたしのカバン、あとで持ってきてにょろ~……!」
 傍若無人極まりない人間台風に拉致られながらも、割と現実的な事を言いつつフェイドアウトしていく鶴屋さんの声。
 ああ、ドップラー現象ってこんなところでも体感できるんだな――。
 
「で? お前乱暴な事はしなかったんだろうな?」
 落語が終わった後にしては珍しく、全員揃っての帰路の途上、俺はハルヒに最前からの懸案事項をぶつけてみた。
「ふんっ! そんなことするわけないじゃないっ! 仮にも鶴屋さんは我が団の名誉顧問なんだからね!」
 やれやれ。部室から鶴屋さんを強制連行していった後で一体なにがあったもんだか、再び部室へと戻ってきた二人は、一人は今まで以上に顔を真っ赤にして、一人はいつもの満面の笑みだった。ま、前者がハルヒで後者が鶴屋さんなんだけどな。
 そしてハルヒはっていうと、未だ耳まで顔を赤くしたままの仏頂面である。
 さて、何をどうしたら、あそこまで興奮したハルヒを宥められるんだか、後学の為に聞きたいところなんですが……。
「えっへっへ。それはね、キョンくんっ!」
 先頭をつったかと歩くハルヒから離れて訊ねた俺に、鶴屋さんは悪戯っぽく微笑むと、
「女の子同士の秘密っさっ!」
 と軽快に言って、俺の背中をぽーんと叩いた。
 うーん、参考になりません。
「あっはっは! まぁその内キョンくんにもわっかる日が来るかもねっ!」
 いつのことになるんだか。
「あ、そうそうっ! それだけじゃキョンくんが可哀想だからさっ、お姉さんが、ちょびんっと面白いおまじないを教えてあげるにょろっ」
 そう言うと、鶴屋さんは「ちょいとお耳を拝借ぅ」なんて言いながら、俺の腕を引っ張って耳を近づけさせると、ぼそぼそと俺に耳打ちをする。
 頬に添えあてられた手の温かさと、鼓膜に伝わるひそひそ声に妙にどぎまぎしてしまったが、その内容は全く意味不明のことだった。
 えーと、こんなんでハルヒの機嫌が直るんですか? そりゃ確かに苦手でもなんでもないですけども。
「くふふっ! いいからいいからっ! 二人っきりになったら早速試してみるにょろ! 賞味期限、早いからねっ。あ、そんじゃあたしっ達はこっちだからっ! ばいばいにょろ~!」
 ふむ。なんだかよくわからんがありがとうございます……?
 と礼を言い終わる前に、鶴屋さんは朝比奈さんの腕を抱えて別れ道を去って行ってしまった。
「それじゃあ僕もこのあたりで」
「……また」
 と、古泉と長門も自分の家へと向かってしまう。この先しばらくは、ハルヒと俺の二人だけだ。しかし会話がどうにも続かない。
 不機嫌ってわけでもないんだろうが、相変わらず耳まで真っ赤な仏頂面のまんまだし、話題を振っても「うん」とか「そうね」とか単発の言葉しか返ってこない。
 女の子同士の秘密って言いますけどね、一体なにをしたんですか鶴屋さん。
 どうにも気まずい雰囲気のまま、とうとう俺とハルヒの別れ道まで来てしまった。
――やれやれ、意味のわからないまま言ったんじゃ本当にただのマジナイじゃないか。
 そんなことを考えながらの別れ際、俺は鶴屋さんに教わった『おまじない』をハルヒに試してみることにした。
 
「ハルヒ」
「なによ」
 
「俺、雷とか別に平気だからな」
 
――どうやら鶴屋さんの『おまじない』は効果覿面だったらしい。それまで仏頂面のアヒル口だったハルヒは、見る間にさらに顔を赤くして再び赤鬼化だ。
 だが、怒っているというわけではなく、信じられないものでも見たように、ただでさえ大きな目をさらに見開いて、口をぱくぱくとさせている。得意の金魚の物真似なら、今日のは赤出目金だな。
 
「ばっ……!」
 ば?
「ばばっ……!」
 ばばっ?
「この、バカキョーーン!」
 うお危ねっ! お前な! 前にも言ったけど中身の詰まった通学バッグは鈍器なんだって! そんなもんで殴られたら、ちょっとした事件だぞ事件!
「うっさい! バカ! アホンダラゲ! エロキョン!」
 だから、バカでアホなのはよくはないが、まだわかるとして、最後の一個がわかんないっつってんだろうが――。
 そんな俺の疑問と苦情は、既に相手が走り去った後のつむじ風に流された。
 やれやれ、一体なんなんだかね。噺のお春じゃないが、あいつも雷が怖いんだろうか。
 
 そんなことを考えた数時間後。
『今すぐウチに来なさい!』
 というメールに呼び出された俺が、突然の雷雨の中を自転車で駆けつけたのも、そこで起こった……まぁ事件も、また別の話ってことだ。
 
――語りたいとも思わんし、多分一生、俺の胸の内にしまっておくがね。
 
 
<了>

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