もし溜息でキョンがハルヒを殴っていたら

Last-modified: 2008-03-05 (水) 01:37:32

概要

作品名作者レス番発表日保管日(初代)新規
もし溜息でキョンがハルヒを殴っていたら149氏(2スレ目)149,158,161,164,166,30-260,584,31-79,265,32-20806/05/0606/05/1407/01/20

作品

月曜日の朝、古泉に仲直りするよう強く念押しされたキョンが教室に入ると、いつもの席で空模様を気にしている(キョン談) ハルヒ。
 
(以下キョン語り)
 
女の子であるハルヒを殴ってしまったことに流石に罪悪感を覚えてはいるのだが、クラスメートがわんさかいるこの場所で頭を下げるわけにもいかず、放課後にでも部室で謝ろうなんて理由をつけて重い腰を下ろそうとした。
その時、ハルヒの顔の辺りにキラリと光るモノを見つけた。
 
キラリと光るそれは、ガラス片でも化粧品のラメでも汗でもなかった。
どう見ても、それは涙と呼ばれるモノだった。
 
いつものように肘を付いているハルヒだが、その手が腫れた左頬に添えられているようにも見える。
そうか。俺はあの時右手で左頬を殴ったのか。
ハルヒの頬の予想以上に硬い感触と、古泉に強く掴まれた時の骨が軋むような鈍い痛みが右手に蘇る。
 
ハルヒは、何も言わず窓の外に目線をやったままポロポロと涙をこぼしている。
その涙は絶え間なくハルヒの黒い瞳から溢れては頬を伝い、溢れては頬を伝い、机に落ちた。
潤んだ黒い瞳が焦点を定めきれないかのように数回揺れたと同時に、ハルヒは机に突っ伏した。
ハルヒの泣き顔を目前にして固まっていた俺とは一瞬も目を合わさなかった。
「……ひっく…………ひっく……」
いつぞやの朝比奈さんのように、机に突っ伏して肩を揺らすハルヒ。
 
さっきまでガヤガヤと騒がしかったクラスメート達はいつの間にか全員が沈黙し、こちらを向いている。
「…ひ……ひ~ん……」
とうとう声を漏らして泣き出したハルヒ。
クラスメートがざわつく。先程までとは全く違うざわつき方だ。
谷口と目が合った。
今まで俺には向けたことの無いような目つきでこちらを睨んでいる。その隣で若干顔を青ざめた国木田が、俺と谷口を順に見ながら口をパクパクさせていた。
 
「ひ~ん……ひっく……ひ~ん…」
 
ハルヒの飼い主とはぐれて途方に暮れた子犬のような泣き声が教室の空気を僅かに揺らしている。
 
泣くなって。俺が泣かし……いや、俺が泣かしたのか。だが、この状況だと俺だけが悪者みたいじゃないか。ここに居る全員に先日のハルヒの暴挙を説明してやりたいが、そういう訳にはいくはずがない。
泣くなって。なあ、泣くなってハルヒ。
いつの間にか俺はそれを声に出していた。
泣くなって。泣くなって。
さっきからこれしか言ってないな俺。もっと気の利いたコト言えんのか。俺。
その時
「キョン!!お前なあっ!!」
谷口の叫び声。
「よせっ!谷口!!」
国木田の声。
 
次の瞬間、脳ミソがズレるような衝撃が俺の頭部を襲った。
 
一瞬俺の視界が真っ白になり、コマ送りのように谷口の制服の胸元・天井の蛍光灯・俺の机の足が見えた。
 
一瞬の出来事だった。
背中から倒れ込んだ俺は後頭部を床に強打し、またしても刻の涙を見た。
 
「お前……涼宮に一体何したんだよっ!」
俺に怒号を浴びせる谷口。説明させる気なのかコイツは。
「答えろよ!!」
俺の制服のネクタイを掴み、持ち上げる。
「やめろって谷口!!それじゃあ、キョンがしたことと同じじゃないか!!」
谷口の両脇を羽交い締めにしながら国木田が叫ぶ。
くっ……と、一瞬躊躇うように国木田を睨み付ける谷口。
なんだ。殴らないのか?殴りたけりゃ殴れ。
そんなことを考えていると、睨み付ける相手を俺に戻した谷口は右手を振り上げた。
 
来る―――
 
2発目を覚悟して脚に重心を置き歯を食いしばり、目を瞑った俺の後ろで、椅子が倒れる音がした。
俺の顔めがけて今にも飛び出さんとしていた谷口の手も、それに気付いて止まった。
 
俺が振り向くと同時に、さぁっと風が吹いた。ハルヒの席に、ハルヒの姿は無い。
翻るスカート、靡くストレートヘアーに黄色いリボンが視界に入った。そして、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが鼻腔を撫でる。
 
「ハルヒ!!」
 
頭の中が真っ白になった。実際、ハルヒの名を呼んでいたのかも分からない。
 
気が付くと俺は、ネクタイを掴む谷口の手を払いのけ、ハルヒの後を追って1年5組を飛び出していた。
 
ハルヒは、始業ベルが間近な廊下を走り抜ける。そして、それに俺が続く。
廊下や並びの教室の生徒達が何事かとこちらに注目する。
アホかお前ら。見せもんじゃねえよ。
 
振動が来る度にガンガンと頭が痛む。
谷口の野郎、後で覚えとけよ。次は真冬の学校のプールにでも突き落としてやる。
そんなことを考えながら、ハルヒの後を追う。
しかし、速い。陸上部が部員に加えたがるのも良く分かる。
そうこうしているうちに、俺達は旧館に入っていた。
階段を1段飛ばしで駆け上がる。設計が古いため1段がやたら高く、狭い。
男の俺でもこの階段を1段飛ばしで駆け上がるのは足元が竦む。
 
俺が何回目かの踊り場から4段目に足をかけた瞬間、ハルヒが部室のあるフロアの4段手前で階段を踏み外した。
 
言わんこっちゃない。ハルヒは体勢を崩しかけたが、手すりを掴んでなんとか立て直し部室へと繋がる廊下を走り出した。
 
部室に逃げ込むのはいいが、鍵がかかっているはずだぜ?
万事休す。部室のドアの前でついにハルヒを捕獲することに成功。
 
 
とはいかなかった。
部室の鍵は見事に開いていたのである。
当然のように扉を開け、部室に駆け込むハルヒ。間髪入れずに扉が閉まる。
間に合わない―――
扉は風を起こしながらバタンと閉まると同時に、中から施錠された。
 
俺は乗る予定だった電車に乗り遅れたサラリーマンのように、その場にへたり込んだ。
 
旧館の古ぼけたスピーカーから始業ベルが鳴る。
スピーカーが高音部に耐えきれずビリビリいっている。
俺の頭の中も、そのスピーカーのようにビリビリと震えていた。
後頭部を強打した上に、教室からここまで全力疾走だ。普通に考えて脳ミソが正常であるわけがない。
俺はガンガン脈拍に合わせて痛むこめかみを押さえつつ、息を切らして言った。
 
「本当に悪かった、ハルヒ!」
 
ドアの向こうからはハルヒのゼエゼエ言ってる呼吸音と、時折鼻をすする音が聞こえるだけだ。息を切らしているのは向こうも同じらしい。
始業ベルが鳴り、ホームルームが始まった昇降口にも誰もいないので、旧館の周りは静まり返っていた。そんな静寂を突き破るかのように、俺の声が廊下に響く。
 
「女の顔を殴るなんて、どうかしてた。カッとなっちまったにしても、行き過ぎた行動だった。どうか許してくれ。」
 
「……………………」
 
「…ドア越しでなく、せめて直接謝らせてくれ、…頼む。」
何だ…頭の中ががぼやけてきた……。
 
「許して…くれ…ハルヒ、……俺…が……」
 
そこまで言った所で、目の前が真っ暗になった。
首から上の血液が一気に下半身に移動したかのような感覚になり、ズシリと重くなった頭の重量に上半身が耐えかねたかのように俺は崩れた。
幸いにも膝立ちの状態だったので、また後頭部を強打する事態は避けられたが、俺は部室の扉に両手を付く形で倒れ込んだ。 身体を支えようと反射的に両手が前に出たのだろうが、扉に掌が着陸した衝撃が俺の脳ミソにとどめを刺し、俺は完全に意識を失った。
 
一体どれくらい気を失っていたのだろう。5分?30分?
感覚的にはたっぷり2時間は浮き世を離れたどこか違う世界へ行っていたような気がする。
 
俺は、聞き慣れてはいるもののいつもとは違うアイツの声で現実に引き戻されつつあった。
「…キョン……キョン……」
 
……何だ?この声はハルヒか?
 
「ねえ…起きてよ……キョンっ……」
 
やかましい。俺の脳ミソは安全装置が働いて、自動的に電源が落ちた状態なんだ。
安全な状態になれば勝手に再起動してくれる。だからそっとしといてやってくれ。
 
「…ふぇ……キョン~………ひっく……ひっく……」
 
なんだよ…また泣いてるのか…。
 
「ねえ起きてよぅ…キョン……キョン……」
 
えーい!キョンキョンキョンキョン子犬みたいに!俺の名前はなあっ
 
そこまで脳ミソの回路が脳内言語を紡ぎ出した所で、俺はその脳の活動を緊急停止させざるを得ない状況に直面した。
唇に、いつかと同じ温かくて湿った感触。
おい…まさか……。
 
この異常事態下にも関わらず、俺の優秀な脳ミソは急速な勢いで機能を取り戻した。
今思えば、あの時何も気付かず眠ったままでいた方が、遥かに安定した環境で意識を取り戻していただろう。病院のベッドとかな。
 
目が醒めた。重かった目蓋がゆっくりと開き、長らく真っ暗だった俺の水晶体に外光を招き入れた。
 
いちばんに俺の目に飛び込んできたのはハルヒの顔だった。顔の中でも、眉の辺りだ。
目は閉じているようだ。俺が覚醒したことに気付いていない。
目が醒めてから声が出るまでの僅かな時間、俺はこんなビジョンをゼロ距離で目の当たりにしていた。
流石に起き抜けとあって、俺の脳ミソはすぐに声帯に電気信号を出せなかったようだ。このねぼすけ野郎目め。
 
「んぅ……」
 
発するまでに少し時間を要した俺の第一声は、声帯が僅かに震えるだけの情けない呻き声だった。
何やってんだ俺。もっと「何すんだ!」とか「バカヤロー!」くらい言えんのか。
 
 
俺の渾身の呻き声に気付いたハルヒは目を見開き、バッと俺から離れた。
 
部室内の、文芸部の物と思われる分厚いハードカバーが並ぶ本棚の前に俺は寝かされていた。
顔と目を真っ赤にしたハルヒが俺の横に座り込んでこちらを見ている。
コラ、何を黙りこくっているんだ。今お前は俺に何を―――
「キョン……気が付いたのねキョン…!」
ああ気が付いたさ。目覚めは最悪だったがな。
「良かった……ひっく……ホントに良かったぁ……ひっく…」
フラッシュバックのようにハルヒの目から涙がこぼれ落ちる。その涙は、俺の鼻の頭に次々と落ちた。
 
さて、どうしたものか。取り敢えず、いつの間にか普段の回転度を取り戻した脳ミソをフル回転させて、今の状況を再度把握するところから始めよう。
 
ハルヒを追って部室の前まで全力疾走してきた俺は、その場で気を失った。ここまでは覚えている。
だが、問題はそこからだ。
 
目を醒ますと、俺はハルヒにキスされていたわけだ。
……訳が分からん。分からない以上、気が進まないが張本人に聞くのが手っ取り早そうだ。
 
「なあ、ハルヒ…」
「え…なに?」
ピクッと肩を震わすハルヒ。
「俺は、どれだけの間気を失っていたんだ?」
まずは当たり障りのなさそうな質問から持ち出す。
「え~と…ひっく…10分くらい…。」
まだしゃっくりが止まらないハルヒは、部室の壁掛け時計を見ながらは答えた。予想以上に短いんだな。
「谷口や国木田は追って来なかったか?」
ハルヒは黙って頷く。
「俺が気を失ってから今まで、誰も来なかったんだな?」
こくり。
「そうか……」
こくり。
 
沈黙。ハルヒのしゃっくりと鼻をすする音が3回ほどしたところで、俺は意を決して訪ねた。
 
「ハルヒ、さっきお前……俺に何してた?」
我ながら分かりきったことを聞くなと思いつつ、確認のためハルヒに問いただした。
「…え……え~と……」
ハルヒは黙りこくってしまった。
「キスか」
もうやけっぱちだ。やけっぱちとはいえ、キスという単語を同年齢の異性と2人っきりの状況でサラリと言えてしまう俺にいささか不安を抱いてしまった。
 
ハルヒは黙ったままだ。
再びの沈黙。だが、意外にもその沈黙を破ったのはハルヒだった。
「半年くらい前、ヘンな夢をみたの」
 
ハルヒは、例の忌々しい夢の内容を所々詰まりながら話した。分かってはいたが、自分がみた内容と全く一緒だったので少しばかり驚いた。
「怖かった…とても……」
そりゃそうだろうな。俺も同じ夢をみさせられたからよ~く分かる。
「そしたらあんたにキスされて目が醒めたの。…だから、夢なら醒めてほしいと思って……だから……」
子供みたいな理由だな。
「う…うるさいわねっ……。どうしていいか分からなかったのよ。1人にする訳にもいかないし……」
いや、俺を1人にしてでも助けを呼びに行くべきだと思うぞ。
「うう……」
 
まあ、あんまり責めるのも可哀想だし、問いただすのはこれくらいにして…だ。俺が今しなければならないことは謝罪である。
ハルヒが泣きながら部室に駆け込んだ理由は少なくとも俺にある。
 
「……昨日は悪かった」
「え……うん……」
少し驚いた様子でハルヒが俺を見る。
「本当に悪かったと思ってる。こんなにお前が傷付くとは思わなかった。許してくれ」
俺は起き上がって小さくなり、その場でハルヒに向かって土下座した。
「ちょっと…そこまでしなくていいのよキョン…」
ハルヒが俺の肩を上げさせようとする。
「ごめん…」
またしても気の利いたことが言えない俺が憎い。
「あの時はあたしも悪かったのよ…。調子に乗りすぎていたわ。あたしこそ謝らないといけないわ……キョンにも、みくるちゃんにも…」
「ああ……」
 
ハルヒは俺の方に向き直り、頭を下げた。
「ごめんね……キョン……」
ストレートヘアーのかかる肩が小刻みに震えている。
「もう分かったから泣くなって…」
俺はハルヒの両肩に手を置き、そのままハルヒの身体を抱き寄せた。
俺の脳味噌は、まだ正常な状態じゃなかったようだ。正常な状態なら、絶対にこんなことしてなかっただろうしな。
 
「今回は、俺もお前も行き過ぎたことをしてしまった。それは事実であり、言い逃れなんてしちゃいかんわけだ」
「…ん」
俺の背中にゆっくりと手を回したハルヒが、俺の胸元で小さく頷く。
「そして今、お互いが非を認めて謝罪した。もちろん朝比奈さん達にも謝らないといかんが、この話はこれでもう終わりにして、いつも通りのハルヒに戻ってくれないか…?」
 
ハルヒは黙ったままだ。ヤバい。俺スベった?
少しばかりイヤな汗が背中に滲んできたところでハルヒは俺の腕をやんわりとほどき、スカートのポケットからハンカチを取り出して涙を拭いた。
「あんたも涙拭きなさいよ…もう…」
そう言ってハルヒは俺の頬にハンカチをあてがった。少し温かい。
ハルヒの顔には少しだけ笑顔が戻っていた。絶好調な時の30%程しかない笑顔だが、それを見て俺は少しだけホッとした。久々の笑顔だ。久々と言っても、24時間も経っていないわけだが。
今のハルヒの言葉で気付いたことが1つ。そう。俺はいつの間にか泣いていたようだ。
ハルヒから受け取ったハンカチで涙を軽く拭う。
「ハナかんだりしたら怒るからね」
はいはい。常識人の俺は人から借りたハンカチでハナかんだりしねーっての。少しずつ、ハルヒはいつもの『涼宮ハルヒ』に戻っていた。
黄色いハンカチ。こいつ、黄色が好きなのか?
そんなことを考えながら、ハンカチを返す。
 
「ありがとな」
「感謝しなさい」
 
ハンカチを返す俺の指が、ハルヒの指先に少しだけ触れた。
 
 
ピクンとハルヒの右手が跳ねる。
「なんだ?どうした?」
「べ…別になんでもないわよ!」
そうかい。
「そうよ!」
 
ハルヒの顔を見る。左頬が赤くなって少しだけ腫れている。
「……まだ痛いか?」
「まあ…少しだけ。でも、もう大丈夫。腫れだってすぐに引くわ」
「そうか…。口の中切れたりしなかったか?」
「切れたけど、今は何ともない」
「そうか…」
「そうよ」
 
暫しの沈黙。
 
「ねえキョン」
少し弾んだ声。
「なんだ?」
左手で左頬を指差して、事も無げに言った。
「ココ、さすって」
「はあ?なんだそれ?」
「なんだもへったくれもないわよ!たださするだけじゃイヤ?じゃあ、『痛いの痛いの飛んでけ~』で…」
「わぁーったよ!さすればいいんだなさすれば」
「右手でよ」
「はいはい」
ハルヒは右手でさするよう指示してきた。おそらく、殴られた右手にさすってもらうことに意義があるらしい。
右手を伸ばし、小指の付け根辺りからハルヒの頬に触れた。
柔らかい。
先日のゴリっとした硬い感触は微塵もない。
ハルヒは、座っている部室の床を見つめている。朝比奈さんが毎日のように掃除をしてくれているため、埃はほとんど見当たらない。
 
すり  すり
すり  すり
 
ハルヒの頬をゆっくりとさする。指と手の甲に、ハルヒの髪の毛がサラサラと触れる。
 
すり  すり
 
「お前さ、好きな色って何?」
「好きな色?」
「黄色か?」
「んーと……そうね。赤白黄色で選ぶなら黄色ね。」
少し考えてから、床を見つめたまま答えた。
「普通は赤青黄色って例えるよな。三原色で。お前今、赤白黄色って言わなかったか?」
まるで童謡の「チューリップ」だ。
「別にいいでしょ。何だって…。」
それに気が付いたのか、ハルヒは頬を赤くした。少し温かくなった頬を引き続きさする。
 
すり  すり
すり  すり
 
「もういいわ。ありがと」
そう言って、ハルヒは俺の右腕に手を置いた。そして、
 
「お返し」
 
ハルヒは、谷口に殴られた俺の左頬をさすり始めた。
すり すり
「いや…いいってお返しは…」
すり すり
俺がハルヒの頬をさすった時のペースよりも若干速い。
「我慢しなくていいのよ。結構痛かったでしょ?アレ」
ニコニコ笑いながら、ハルヒは俺の頬をさすり続ける。
ああ……やっぱりコイツは可愛い顔をしている方なんだな……。
って、何を考えてるんだ俺。落ち着け俺。
「ふふふっ。」
 
何がおかしい。朝比奈さんが相手じゃあるまいし、マヌケ面をしているつもりはないぞ。
「痛いの痛いの飛んでけーっ!」
楽しそうにそう言いながら、俺の左頬をぺちんと叩いた。ほんの少しだけ痛かった。
「あはっ あははははっ」
「何考えてるんだお前は……」
あっけにとられた俺は、すっかりハルヒのペースに乗せられている。
ハルヒはいつも通りの笑顔で、俺の額を小突きながら言った。
「マヌケ面っ」
 
ああ……もう好きにしてくれ…………。
 
ぐんにゃりと、体から力が抜けた。
 
 
スピーカー本体をジリジリと震わせてチャイムが鳴る
8時45分。1時間目が始まる合図だ。
ということは、俺が気を失ってから今まで15分しか経っていないことになる。感覚的には、意識が無かった時間を含めて3時間は経っているように思うのは俺だけだろうか。
「おいハルヒ、授業始まっちまうぞ」
そう言うとハルヒは少しだけ考えるような仕草を見せてから、サラリとこう言った。
 
「サボる」
 
……まあ予想はしていたが、俺も健全な一学生として否定意見を出しておく。
「はあ? 何言ってんだお前。」
ハルヒが俺の目をじっと見る。しまった、驚き方がわざとらしかったか。
「気を使ってやってんのよ」
どういう意味だ。
ハルヒは威嚇する猫のように、「はーっ」と大袈裟な長い溜息をつきつつ眉間にしわを寄せた。何だ、いかにも俺を小馬鹿にするようなその態度は。
「少し考えれば分かることよ。言うなれば、世間体の問題よ」
もう少しストレートに言ってくれ。
「アンタも私も目が真っ赤じゃないの!」
ハルヒの言い分はこうだ。仮に、今このままの状態で俺達が教室に戻るとする。2人して目を赤くしてだ。クラスメート達は当然俺達に注目するだろう。そして思うわけだ。
ハルヒはともかく、何故俺までが泣きはらした目をしているんだ――と。そして様々な憶測を繰り広げる。
俺はハルヒに反撃を受け、泣きながら許しを請うたんじゃないかとか、泣きじゃくって謝罪する俺をハルヒが寛大な心をもって許して遣わしたとか……って、あるわけねーだろそんな話。誰がそんな想像するか。
「例えばの話よ、た・と・え・ば」
まあどっちにしろ、俺も教室に帰ることに気乗りはしない。
ここはハルヒの提案通り、ほとぼりを冷ます意味でも1時間目はサボらせてもらうことにしよう。
すまんね、岡部。教科担当の先公に無断欠席だ何だと言われるかもしれんが、あまり気を悪くしないでくれよ。
 
俺は窓を開けた。風に乗って、準備体操の号令が聞こえてくる。月曜の1時間目から体育とは、元気な奴らだ。
残暑も緩み、丁度良い具合にポカポカと暖かい。俗に言う小春日和ってやつか。空には雲1つない。うむ、実に清々しい日本の秋晴れだ。
「ジジくさぁい」
だまらっしゃい。お前には自然を楽しむ心はないのか。自然を変えてしまうような能力はあるくせに。
 
「いい風ねー」
「ああ」
 
俺の左隣で、ハルヒが肩の髪の毛を払いつつ言った。ふわりと漂うシャンプーの香り。
 
風に乗って、ハルヒのストレートヘアーと黄色いリボンが靡いている。その様子は心なしか嬉しそうだ。
俺のネクタイもへろへろと風に靡く。こちらは、酔っ払いのサラリーマンが夜風で酔いを覚ましているかのような辛気くさい靡き方だ。
そういえばブレザーが無い。部室を見渡すと、パイプ椅子の1つに俺のブレザーが引っかかっていた。俺がここに来るまでは確かに着ていたので、ハルヒが脱がせたんだろう。全力疾走して間も無く気を失ったからな。たいそう汗をかいていたことだろう。
コイツ、結構気が利くんだな……。そんなことを思っていると、ハルヒがくるりと俺の方を向いた。
 
「曲がってる」
何がだ。俺の性格とでも言いたいのか。
「ネクタイよ」
ハルヒに指摘されてネクタイを見る。確かに曲がっている。それも豪快にだ。谷口に引っ張られた時にこうなったに違いない。
俺がネクタイを直そうとすると、ハルヒがそれを制止した。
「じっとしてて」
ハルヒはしゅるりと俺の襟からネクタイを抜き取ると、小走りに朝比奈さんの衣装掛けの辺りに移動し、アイロン台とアイロン道具一式を取り出した。
「全く…シワだらけじゃないの」
そう言ってハルヒはアイロン台の脚をバチンバチンと立ててゆく。
 
俺は窓際に立ち尽くしたまま、ハルヒの背中を眺めていた。
アイロンのコードをコンセントに差し、アイロン台に縦にして置いて暖まるのを待つ。
「ハルヒ」
「何よ」
少し口を尖らせたハルヒが振り向く。
「ありがとな」
ハルヒは、物音に気付いた時の猫のような顔をした。
「……感謝しなさいよ」
そして満面の笑み。なんだ? 何故コイツはこんなに嬉しそうなんだ。
ハルヒは『未知との遭遇』のメインテーマを鼻歌で奏でつつ、再びアイロン台に向き直った。
未知との遭遇。ここ半年の俺を最も端的に表した言葉だろうな。
「そろそろいいかな~」
ハルヒがアイロンに指を近付けた。おい、ちょっと待て。お前は何をしている。
 
「あちっ!!」
アイロンに指が接したと同時に、ハルヒの右手と身体が飛び上がった。
「アホかっ! フツーに考えりゃそうなるだろうが!」
ハルヒの元に駆け寄る。全く…子供かコイツは……。
「あー、びっくりしたあ」
びっくりしたのはこっちだ。コンセントからコードを引き抜く。
「ホラ、早く冷やしに行け」
「大丈夫よこれくらい」
「ダメだ」
ハルヒの手首を掴んで、部室から一番近い水道へ引っ張る。思いのほか、ハルヒは素直についてきた。
古ぼけた蛇口を捻り、乾ききった石を水道水が叩く音が廊下に響いた。
「小さい火傷を甘く見ちゃいかんぞ」
ハルヒの右人差し指を水流にかざす。1本だった流れが2本に分かれた。
俺の薬指が丁度ハルヒの動脈に当たっているらしく、脈を感じ取ることができた。
ピクン ピクン ピクン ピクン
少しばかりリズムがせわしない。小学校の頃の理科の授業で、自分の脈拍を数えさせられた時のことを思い出した。
 
1、2、3、4…
 
ハルヒは黙っている。右手首を俺の左手に掴まれたまま、じっと蛇口の辺りを見つめていた。
「いつまで掴んでんのよ」
不意にハルヒが口を開いた。
「うあ? ゴメン…」
情けない声を出しつつ慌てて手を離す。何故慌てる必要があるよ、俺。
右手の掌に若干汗が滲んだ。
ハルヒは再び押し黙っている。
「…か」
ハルヒがぼそりと何かを呟いたが、水の音にかき消されて聞き取れない。
「何か言ったか?」
「何でもないわよ」
そう言って、今し方まで熱い眼差しを浴びせていた蛇口を捻る。
キュッキュッ
なんてありきたりな音だ。
ハルヒはポケットから先程の黄色いハンカチを取り出して手を拭くと、スタスタと部室へ向かって歩き出した。
数メートル歩いた所で立ち止まり、置いてけぼりを食っていた俺に背を向けたまま言った。
 
「……ありがと」
 
ぶったまげた。何故ぶったまげたのかはよく分からないが、今の俺の精神状態は「驚愕」と呼ぶに相応しいものだ。
 
「何ボサっとしてんのよ」
ハルヒが顔だけこちらを向けてぶっきらぼうに言った。
お前、耳が赤いぞ。
「うっ…うるさいわねっ」
捨て台詞のように言い放ち、大股で部室へ向かうハルヒ。
可愛いトコあるじゃねえか。何だかこっちまで照れくさくなって、頭をポリポリと掻きながらハルヒの後を追った。
徐々にではあるが、俺の脳味噌は確実に茹で上がっていっているように思えた。
後頭部を強打した影響に違いない。そうに決まっている。
 
目を閉じて軽く深呼吸しつつ部室のドアノブを掴む。
だが、俺の右手は空を切った。おかしいな。ドアノブは外れたにしても、扉はここにあるはずだ。
俺が目を開くと、意に反して扉は開いていた。
「……何してんの。早く入りなさいよ」
扉を押さえつつハルヒが言った。
「お…おう」
さて、一体どういう風の吹き回しだ。こんなにサービス精神旺盛な奴だったかコイツは。天変地異の前触れでなければいいが。
 
俺が部室に入るのを確認すると、ハルヒは扉を突くようにして閉めた。
何だかいつもとは勝手が違うというか、すっかり調子を狂わされた俺は立ったまま部室のシミだらけの天井を見回した。
ハルヒは再びアイロンのコードをコンセントに差し込み、アイロンがけの用意を始めた。
もう無いとは思うが、念押しを兼ねて訪ねる。
「なんでさっきは直にアイロンに触ったりしたんだ」
ハルヒは一瞬だけこちらを振り向いてこう言った。
「もう暖まったか調べるためよ」
そんなこたあ分かっている。何故直に触れたか聞いてるんだ。
「いちいちうるさいわね…。触っても大丈夫な気がしたのっ」
ほーう、そうかい。
「そうよ!」
ハルヒはネクタイを真っ直ぐ横に置き、霧吹きで水をかけ始めた。
 
水鉄砲を連射するみたいにせわしないやり方で霧を吹き、乱雑に霧吹きを床に置いた。
そんなにイヤならしてくれなくてもいいんだがな。
ハルヒはアイロンの平らな面をネクタイに押さえつけるようにして、ようやくアイロンがけを始めた。
ハルヒがアイロンを動かす度に、水が蒸発する音が聞こえる。アイロンがけの時の独特な匂いが漂ってきた。そういえば、うちの母親もよくやってるっけ…。
ハルヒは無言のままアイロンをかけ続けた。時折ネクタイをずらしたり眺めたりするハルヒを、俺は窓際に置かれた長門専用パイプ椅子に座って眺めた。
少しだけ強い風が吹いた。さっきよりも更に嬉しそうに、ハルヒの髪の毛と黄色いリボンが風に靡く。
 
10分も経たないうちに、アイロンがけは完了した。これが長いのか短いのかは分からない。自分でやった試しがないからな。
 
「できたわよ、キョン」
「おう。サンキュ」
そう言ってネクタイを受け取ろうとするが早いか、ハルヒは俺のカッターシャツの襟を引っ張って自分の方へ引き寄せた。そして素早く立てた襟にネクタイを巻き付けた。
「え? ちょ……ハルヒ?」
「じっとしてて」
……はい。
ハルヒは多少覚束ない手つきでネクタイを交差させてゆく。この締め方はプレーンノットとか言うんだっけか。よく覚えてないけど。
ハルヒは、顔を徐々に近づけながら熱心にネクタイと格闘している。無理しなくていいんだぜ。
「無理なんてしてないわよ」
どうだか。
俺とハルヒの身長差は約10センチってとこだ。丁度俺の目の下辺りにハルヒの頭頂部が来る。またしてもシャンプーの香り。
しかし、女の子のシャンプーってのは何でこんなにいい匂いがするんだろうね。あまりない機会なので、少しだけその芳香を吸い込んでみた。だが、みぞおちの辺りがモロに膨らんだのですぐさま吸入を中止した。何も腹式呼吸で吸い込むことはないだろうよ。
俺の名誉のために一応言っておくが、俺は匂いフェチなどでは断じてない。多分。
 
ハルヒからは、シトラス系というかフローラル系というか、取り敢えず良い香りがした。……フローラルとかどんなのか分かって言ってるのか、俺。
しかし何だ。こうやってハルヒとはいえ、女の子にネクタイを結ばれるのは照れくさいやら恥ずかしいやらで……え~い! いちいち赤くなるな! 落ち着け。素数を数えるんだ…。
 
などと下らない思考を繰り広げている間に、ハルヒとネクタイの決着が付いたようだ。
「はい、できたわよ。」
仕上げにネクタイを上から下までスーッと撫で下ろす。なんの意味があるのか分からんが、非常にこそばゆい。思わず背筋が痙攣しそうになるのを懸命に堪えつつ、ハルヒに礼を言う。
「コホン……あ…ありがとな」
尚、咳払いに特に意味はない。
ハルヒは何も言わず、後頭部まで笑っているんじゃないかと思うほどの特上の笑みを顔全体に浮かべていた。何か企んでいる時とは違う印象だ。
そしてハルヒは、
「へへっ」
っと胸から溢れたかのような声で笑うと、元曲不明の鼻歌交じりにアイロン道具を片付け始めた。
「なんて曲だ? それ」
「わかんない。勝手に浮かんできた」
作曲:涼宮ハルヒの即興曲だろうか。これが元で、SOS団でオーケストラを組もうなんて言い出さなけりゃいいが。
 
ハルヒは手際良くアイロン道具一式を片付けると俺に尋ねた。
「今何分?」
「え~と…、9時10分」
「そう」
自分で見りゃいいだろ……。
「お茶淹れて、キョン」
ちょっと面倒くさかったが、ネクタイの件の礼だと考えて腰を上げた。
「朝比奈さんが淹れてるより美味しさ70%カットだけどいいか?」
「変わんないわよそんなの」
……変わるんだなあこれが。
 
俺が淹れた緑茶を、ハルヒは文句1つ言わず飲み干した。出涸らしだとは気付かれなかったようだ。
「アンタが淹れた出涸らしにしちゃ、まあまあね」
気付いてたのかよっ。
空になった湯呑みを洗うのは、やはり俺の仕事のようだ。自分が使った湯呑みを洗い、ハルヒの団長専用湯呑みへ手を伸ばす。
……この気恥ずかしさはなんだろう。この湯呑みでハルヒは俺の淹れた出涸らしの緑茶を飲み、もしかしたら縁この辺りに唇を……。
って、何を考えてるんだ俺は。いい加減のぼせすぎだ。
よく分からない感情を押し殺しつつ、俺は2つの湯呑みを洗い上げた。
 
部室へ戻ると、ハルヒは窓から外を眺めていた。時刻は9時35分を回ろうかというところだ。
1限目が終了するまで、あと数分だ。
「2限目からは出るぞ」
「うん」
良かった。これ以上2人でここに居たら間が持たないからな。
 
ハルヒは相変わらず髪の毛とリボンをフワフワと風に靡かせている。
 
暫しの沈黙。
 
「なあ、ハルヒ」
「なあに」
「俺、実はポニーテール萌えなんだ」
「え!?」
「でも、そのカチューシャも似合ってるぞ」
 
シャンプーの香りがした。
ハルヒはあからさまに驚いた顔をして固まっている。そりゃもうマンガのような、写真にでも収めておきたいくらい見事な驚き方だ。
「驚愕」というテーマの写真コンテストがあるならば、ハルヒのこのショットは間違いなく最優秀作品になるだろう。学食のカツカレー(大盛)を賭けてもいい。
ハルヒをここまで驚かせた生身の人間は俺が初めてだろうな。いや、あの時はもっと驚いたか。
 
「さて、そろそろ戻るぞ。のんびり歩いていけば休み時間に着くだろ」
窓を閉め、部室の電気を消す。
俺は頭から湯気を上げているハルヒの肩を押して部室を出た。
 
スピーカーを震わせてチャイムが鳴る。
相変わらず耳障りなノイズ混じりだが、何故だかさっきよりは気にならなかった。
 
俺は1年5組の教室まで、ハルヒと肩を並べて歩いた。
 
道すがら、ハルヒが不意に口を開いた。
「ねえキョン」
「なんだ」
天井の点いていない蛍光灯を見ながら答える。
「谷口…だっけ。アイツどうするのよ?連れの優等生っぽい子……はいいか」
ああ、すっかり忘れていた。ハルヒを追って教室を飛び出す直前、隣の優等生っぽい子の制止を振り切った谷口に鉄拳制裁を浴びていたのだった。
相当ご立腹の様子だったが、仲直りした俺達を見れば機嫌を直すだろう。多分。あとは学食で昼飯でも奢ってやれば万事解決だ。こんな時こそ単純バカでいてほしいもんだね。
そんな考察とも言えないような考察を基にハルヒに結論を出す。
「アイツなら大丈夫だろ。単純だし」
だがハルヒの考察は、単純な谷口に関する俺の単純な考察とは結論が違うようだ。
「どうかしら。確かに単純な行動だったとは言えるけど、その行動に至った経緯が複雑かもしれないわよ」
「どういうことだ」顔をハルヒの方に向ける。
「…分からないならいいわ」
そうかい。男の友情はサバサバした点が女の友情より優れている点だと思っている俺は、これ以上は深く考えないことにした。
 
「それとっ」
ハルヒが医療用メスのように鋭い眼光を、俺の両眼球に突き刺しつつ言った。
「なんだっ」
思わずたじろぎそうになったが、負けてたまるかと可能な限り先端を研ぎ澄ました眼光をハルヒの眼底にダイブインさせる。
 
その瞬間、ハルヒのメスが引っ込んだ。少しだけ目を見開いて口を真一文字にキュッと締めた後、素早く右斜め下を向いてしまった。そこには埃の溜まった廊下と壁の境目しかないぞ。
野生動物同士での目を合わせての威嚇の際は先に目線を逸らした方の負けらしいが、この場合は俺の勝ち……なのか?
「その……だから……」
珍しい。このハルヒが何やら口ごもっている。
「だから何なんだ?」
からかうように尋ねると、やっとハルヒは俺の方を向いた。
「さっきのアレは誰にも内緒だからねっ!!」
『内緒にしておかなければならないアレ』で脳内検索をかけると、極々最近の出来事が何件かヒットした。はて、コイツが言っているのはどのアレだろうか。個人的には全て極秘事項にしておきたいんだが…。
「全部よ全部!部室で起こったコトぜーんぶ!!」
そりゃありがたい。まあ、釘を刺されなくたって誰にも言やしねえよ。言えと迫られても言いたくなんかないね。
「もし誰かに言ったりしたら……」
今度は下を向いてもじもじ。まるで朝比奈さんだ。
 
普段からこうしてりゃ、お前も少しは可愛げってもんがあるかもしれんぞ。
「言ったりしたらどうなるんだ? 死刑か?」
だんだん会話の主導権を握ったような気になってきた。いいぞ、俺。
真っ赤な顔が再びこちらを向き直る。
「…そ、そうよ! 死刑よ! 死刑なんだから……」
 
鳥肌が立った。何故だかは分からんが鳥肌が立った。理由を説明できるヤツは、今すぐ俺の携帯に電話してくれ。対処法も教えて頂けるとありがたい。携帯番号は、いつぞやのSOS団勧誘チラシに記載してある。至急連絡頼む。
俺はいつものように「死刑」を宣告されただけではないのか? 激しく認めたくないが、この感覚は俗に言うところのときめきがメモリアルではないのか? …何だか余計な単語まで引っ付いていた気もするが、今の俺の脳ミソはそれ程までに混乱しているのだ。
 
俺達はいつの間にか階段の踊り場の真ん中で立ち止まっていた。
 
ハルヒの頬は紅く染まっている。
ハルヒの目はほんの少しだけ潤んでいる。
ハルヒの唇は上気したように桜色をしている。
何故だろう、リップなんて付けていない筈なんだが…。
 
誰も居ない旧館の片隅。窓がないため何階と何階の間かも分からない踊り場で、並んで立っている俺とハルヒ。
俺はハルヒの目を見続けた。身動きが取れなかったためそうせざるを得なかったのだ。こんな時どうしていいか分からなかったというのもあったがな。
日の当たらない踊り場。そんなに気温は高くないはずなのに、暑い。
 
俺の目を見るハルヒは、いつもより瞬きが多かった。
しばらく俺の目線に耐えたハルヒは上目遣いになり、声帯というよりかは口の中で紡ぎ出したような声で言った。
 
「 ……ばか 」
 
その刹那、俺の身体中に電撃が走り、頭の中のヒューズが飛びそうになった。恐るべし涼宮ハルヒ。死刑にされる前に死んでしまいそうなんですけど……。
「も~っ! も~っ!」
今度は突然何だ。ジタバタと地団太を踏むハルヒ。古い建物なんだから、あんまり暴れると崩れるぞ。
「アンタと居ると調子狂うわ!」
そりゃ俺の台詞だ。
「先に教室戻ってる! アンタも早く戻らないと、授業遅刻付くわよバカキョン!」
そう言い放つと、ハルヒは俺をほっぽって走り出した。
隣からハルヒが居なくなり、俺はホッとしたような少し残念なような気分になった。後者の気分が湧き出た理由は例によって分からない。
 
やれやれ…だ。全くもってな。
 
やれやれ……。
 
 
階段を降り旧館を脱出した俺は、ぶらぶらと1年5組のある棟へ歩いた。休み時間中の各教室から生徒達の喧噪が聞こえてくる。久々に下界に戻ってきた気分だ。
階段を上がり、角を曲がった所で俺は立ち止まった。何故かって?
「遅いっ!」
そこにハルヒが待ち構えていたからさ。先に教室に戻っているのではなかったのか。「遅い」ということは俺を待っていたのか?
「私だけ先に教室に入ったら、まだケンカしてるみたいじゃないの。少しはそこんとこ考えなさいよバカキョン」
あーあーそうかい。バカで結構だ。
「ホラ、今度は何突っ立ってんの。行くわよ。」
そう言ってハルヒは、あろうことか俺の左腕を取って歩き始めた。
ちょ…ちょっと待て待て待て待て。何で俺とお前が腕を組んで歩かにゃならんのだ!
「うるさいわね!アンタは黙って私の言う通りにしてればいいのっ!」
いや、「言う通り」って、何も言われずにこんなことをされてるから俺は慌てふためいているワケで。いててててっ。
ハルヒが黙ったままギュッと俺の腕を抱き締める。もはや間接技の域に達しており、俺の左腕の神経は、柔らかい感触と同時に感じている痛みに重点を置いて脳ミソに信号を送っている。
ひとしきり俺を呻かせたハルヒは、何かに気付いたように力を緩めた。そんなに苦しそうだったか? 俺。
「今、腕に全神経集中させてたでしょ。……ヘンなコト考えんな…バカキョン」
もう何も言うまい。
痛みに混じって僅かに脳ミソに届いていた柔らかい感触を左腕に蘇らせつつ、俺は決心した。俺が不利になりそうだからな。邪心退散邪心退散。
 
結局俺とハルヒは仲良く腕を組んだまま1年5組の教室へダイブインすることとなった。ああ……既に廊下に居る生徒達からの視線が痛い……。
ハルヒは先ほど飛び出してきた教室後ろ側の扉を勢い良く開け、俺を引っ張り込むような形で教室に足を踏み入れた。
1限目と2限目の間の束の間の休息を思い思いのスタイルで過ごしていたクラスメート達が、扉の音を聞いて一斉にこちらを向いた。どうやら直感的に俺達が入って来たと気付いたらしい。
そこのお前、起きなくていいからそのまま寝てろ。お前はその英文の和訳に集中しろ。今日当たるんだろうが。お前らはエロ本の鑑賞会を続行しろ。俺も後で加わる。
ひとしきりツッコミを入れた所で、それまで物音1つたてずに沈黙の様相を呈していた群集もといクラスメート達が若干ざわめきだした。
そりゃそうだ。恋人同士でもない俺とハルヒが腕を組んでいる有り得ないビジョンを目の当たりにして、隣にいる友人に事実の確認をするなという方が難しいだろう。
だが、そのざわめきも、ハルヒの発した言葉によって長く続くことなく消滅した。
「皆さん、ご心配おかけしました!」
ハルヒのいつも通りの元気すぎる声が響き渡り、再びの沈黙が教室中を包み込んだ。
少しばかり間を置いてから、ハルヒは空いている左手で俺の左腕の袖を摘んで下を向いた。おい、その朝比奈さん風ないじらしいポージングはどういう意味だ。
一瞬だけそんな朝比奈さんを想像して頬が緩みかけたが、すぐさま意識を現実に引き戻す。このような状況下で妄想を行うとは、俺の脳ミソはやはり後頭部強打によって異常をきたしているようだ。
頼むからヘンなことを言わないでくれよ涼宮ハルヒ。依然として下を向いて静止しているハルヒにそう願ったが、手遅れだった。
「1限目は、キョンと2人っきりの授業を……してきました……」
1.5秒程の間を置いてクラスメート達に本日最大規模の喧騒が巻き起こった。
コイツは今何て言った? 授業? そうだ。授業をしてきたと言った。どんな授業か…え~と…2人っきりの授業だ。…2人っきりの授業!? そりゃどういう意味だ!?
その時、教室の片隅から一際熱の入った視線を感じた。発信源はエロ本の鑑賞会を行っていた野郎の一団だ。俺とハルヒで何を想像しているんだお前ら!
というか、この教室に居る人間全員がハルヒの発言から似たようなことを想像しているに違いない。
 
俺は発言者に発言の意図を問い詰めるべく、やむを得ずハルヒの方へ顔を向けた。と同時に、ハルヒは密着していた俺の体からやっと離れ、跳ねるようにして一歩下がった場所から俺の顔を指差して一言。
 
「マヌケ面っ!」
 
満面の笑みでそう言い放ったハルヒは自分の席に腰を降ろし、立ち尽くす俺を眺めながら実に愉快そうに笑い出した。
「キョン……気は進まないだろうけど、せめて僕にだけは説明してくれるかい?」
気が付くと目の前に国木田が居た。そういえば谷口はどこだ? 見当たらない。もしや既に俺の背後に回って……。
「…谷口なら保健室だよ。手が痛いんだって。あの時に突き指でもしたんじゃないかな。」
俺は必死の形相で谷口を探していたらしく、国木田は尋ねる前に教えてくれた。
そうか…。俺は取り敢えず一命を取り留めたようだ。たが、この場に立ち会ったクラスメート達にどう弁解したものか。谷口にも何らかのルートで情報は伝わるだろう。今この場で部室で起こった出来事の全てを話すしかないのか? 勘弁してくれ。
いっそのこと、情報が学校中に漏れ出す前にコイツら全員……。
俺がそんな危険な思想を繰り広げかけた所で、2限目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。それを聞いて、何ヶ所かに別れて集団を形作っていたクラスメート達が自分達の机へとバラけていくのを確認した俺は、これまでにない程チャイムに感謝したのは言うまでもない。
 
 
2限目の授業が始まり、取り敢えず俺を取り巻く環境だけは日常へと戻りつつあった。
板書だけはなんとか行ったが、教師の話していた内容は全く覚えていない。
先程までの非日常的空間での非日常的事件が頭から離れるはずもなく、それらは常に脳内でチャプター再生されていたからだ。
ふと気が付いては板書を行い、また気が付いては板書を行う。数分おきにそれを繰り返しているうちに授業は終わった。
ざっとノートを見回すと、そこら中に毛虫のような誤字の隠蔽箇所がある。間違える度に消しゴムで消すのが億劫になったせいだ。
まあ、全ての原因は背後で寝息を立てているコイツなんだけどな。
 
ノートを閉じ、次は数学か…なんてことを考えているとガラリと教室の扉が開き、右手の薬指に湿布を巻いた浮かない表情の男子生徒が入ってきた。
結局2限目中に教室に帰ってくることはなかった谷口である。
俺の視線に気付いたのか、谷口は俺を一瞥してからゆっくりと席についた。
俺はというと、目を逸らすわけでもなくボーッと谷口の方を見ていた。若干後ろめたい気持ちはあったが、こういう場合は目を逸らしたら負けだと思ってるからな。
ほどなく国木田が1冊のノートを持って谷口の机にやってきた。おそらく2限目の板書内容が書かれたものだろう。
谷口は国木田に軽く礼を言うと、すぐさま自分のノートを取り出して写し始めた。普段はこんなに勉強熱心なヤツではない。やはり間が持たないのだろうか。現に俺もそうだしな。
 
一連のトラブルの元凶であるハルヒは、相変わらず俺の背後30センチの所で熟睡中のようだ。全くいいご身分である。
 
「どうすんの? アイツ」
 
背後から声がした。俺だけに聞こえるような小さな声だ。はて、ハルヒの声のような気がしたが……。
「聞こえてないの?」
今度は背中を小突かれた。間違いなく声の主はハルヒである。谷口が書き写し作業に勤しんでいるのを確認してから答える。
「お前、寝てたんじゃないのか」
「チャイムで目が覚めたわ。…で、どうすんの?」
机に突っ伏したまま顔だけを上げてハルヒが答える。
「何とかなるだろ」
少なくとも、さっきの続きをする気はないみたいだしな。
「きちんと仲直りしときなさいよ。次回作でもエキストラとして出演させるかもしれないんだから」
ちょっと待て。もう次回作の予定があるのか。
「当たり前よ。だからとっとと仲直りしちゃいなさい」
そう言ってハルヒは窓の方を向いて自分の腕枕に頭を乗せ、目を閉じた。まだ寝るつもりかお前は。
「仕方ないじゃない。夕べはほとんど眠れなかったんだから…」
 
次にハルヒが目を覚ましたのは、4限目の終了を告げるチャイムが鳴った時だった。
 
 
それからの授業も半ば上の空で聞き流し続け、いつしか4限目も終わりに近づいている。
昼の弁当、今日はどうしようか。国木田はいいが、谷口とは流石に気まずい。ならば学食で……いや、学食ならハルヒが居るだろうな。取り敢えず、1人でゆっくりと食いたい気分なんだよな…。
中庭で適当な木陰でも見つけて食うとするか……。
 
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。一礼の後、教師が提出物のプリントを抱えて教室を出て行く。ちなみに、あのプリントの束の中に俺とハルヒの分は入ってない。
本来プリントを集める役のはずの列の最後尾で熟睡中のハルヒの肩を揺すり、プリントの提出である旨を伝えたものの一向に起きる素振りを見せなかったので、俺は諦めてハルヒはスルーしてやった。
アイツのことだろうから、多分やってきてはいるだろうがな。
俺はただ単にやってきていなかった。手ぶらで前の席の奴らのプリントを集めるのは少しばかり恥ずかしかったぞ。
 
後ろで物音がした。ハルヒのお目覚めのようだ。
「う~ん」と伸びをしている所に振り向いたもんだから、俺の目にハルヒの決して小さくはない胸のアップがいきなり映し出され、些か焦った。
おはようさん。よく眠れたか?
「まあまあってとこね。少し身体が痛いわ」
まあ、そうだろうな。……お前、左頬が赤くなってるぞ。
「これはアンタが……って、左? ああ…ずっと下にして寝てたからね。放っとけば消えるわ」
左右の他を赤くして、なんだか気の毒な外見になってるぞ。
「何よ。元はと言えばアンタの……。…………もうこのハナシは無しにしよっか」
珍しく素直なハルヒに度肝を抜かれた。
いや、今日が初めてってワケじゃないんだぜ? 現に今日だけで何度も度肝を抜かされているからな。
「……そうだな」
こればっかりはハルヒに同意する。
ハルヒの顔に笑顔が灯る。そんなハルヒの様子を眺めていると、横から声がした。
「キョン、ちょっといいか?」
谷口だ。
まだどこか機嫌の悪そうな声で俺を呼び、手招きしている。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」
ハルヒは何も言わずニッコリと笑ったまま俺を見送った。
 
「なんだ」
なんだはないだろう。と思いつつ尋ねる。
「カレーパンと焼きそばパンと小倉あんパン、2つずつ買ってこい」
そう言って500円玉を2枚俺に手渡した。
 
俺と同じ目的をもった生徒でごった返す購買部からなんとか注文の品を勝ち取った俺は、足取りも軽やかに教室へ戻った。
「おっせーぞキョン」
「ちょっと並んだからな。ほれ、お前の分だ」
「俺が食いもん奢るなんてそうそうないぜ。ありがたく食えよな」
「ああ、ありがたく頂戴するぞ」
誰も奢ってくれとは言ってないんだがな……。まあ、いいか。
自分の椅子を引っ張ってこようとした時、さっきまで居たハルヒが居ないことに気が付いた。もういつものテンションに戻って学食にでも行ったのか?
「涼宮か?」
にやけ顔の谷口が視界にカットインした。
「涼宮だろ?」
ああそうだよ。何嬉しそうな顔してんだよ。
「アイツなら弁当箱2つ持ってどっか行っちまったぜ。相変わらずの大食いだよな」
弁当箱2つ? 少し気になるな。谷口の言う通り、単純に量を食べるためなんだろうか。いやまてよ……。
俺が少し考え込んでいると、背後から聞き覚えのある声がした。この声は間違いなくあのお方だ。朝比奈さんと同じクラスの……。
「2年の鶴屋っていうんだけどさっ、キョ…あっ、居た居たっ! キョンくーんっ!」
応対していたクラスメートは、質問に答える間もなくキョトンとしている。
「何か用ですか?」
「ん~とねぇ、ちょいっとお話があるっさ。こっち来てくれるかい?」
何故か扉の所から動こうとしない陽気な先輩は、少しだけトーンダウンした声で手招きをした。
「いやね、友達から聞いたんだけどさぁあ? 今日の朝いろいろあったってホントかい?」
まあ、無かったといえば嘘になります。
「ん~と…まあ正直に言うと、みくるがねっ、泣きながら走るハルにゃんを追いかけるキョン君を見たって泣きついてきたっさ」
朝比奈さんが? あの現場を?
「スゴいスピードだったらしいねえ。そりゃあキョン君達は気付かなくて当たり前っさ!」
鶴屋さんは足早に話を続ける。
「でさでさっ、まあ何があったかまでは聞かないけど、ちゃんとハルにゃんと仲直りできそうかい? …って聞こうと思ったケド、どうやら大丈夫そうにょろ!」
そう言って鶴屋さんはそれまでの少し硬かった表情から一転、コロコロと笑い出した。
「仲直り」と言えるのかどうかは分かり兼ねるが、確かに和解はした。これは間違いないだろう。
「ところでぇー、ハルにゃんはドコ行っちゃったのかなっ?」
鶴屋さんがキョロキョロと教室を見回しながら言った。
「アイツなら、昼飯食いに行ったみたいですよ。なんでも、弁当箱2つもぶら下げてったとか…」
「ほほぅ、そうかい。………2つ?」
「ええ、それが何か?」
何かとは聞いているが、俺だって薄々は感づきかけてはいるさ。
「キョン君っ!」
何でしょうか名誉顧問殿。
「SOS団名誉顧問のこの私が、キョン君に指示を出すにょろ! ん~とねぇ~……」
思わず身構えした俺の前で、鶴屋さんは小首を傾げて何やら思案中の様子。ちゃんと考えてから言って欲しいものではある。
「そうだっ! 部室!! 部室に急行するっさ!!」
俺と鶴屋さんの考えは大方同じのようだった。
「了解しました。要はそこに……」
「ハルにゃんが居るっ!!」
笑顔で俺の肩をバシッと叩きながら、鶴屋さんは断言した。
「ですが鶴屋さん、何故部室だと…?」
「んふふ~。わったしはなんでもおっみとおーしぃ~♪ んじゃねキョン君! ウマくやりなよっ!」
眩しいウインクを残して、鶴屋さんはさも愉快そうに笑いながら去っていった。本当に明るいお方だ…。
「つーわけだから、ちょっくら行ってくるわ。」
「5限目はキョンは保健室ってことで俺達で口裏合わせておくから心配すんな!」
「行ってらっしゃい、キョン。パンは置いといてあげるよ」
理解の早い2人の友人は共にVサインをした。そこにどんな意味があるのかは分からないが、応援してくれていることには間違いない。
「スマン。頼む。……ありがとうな」
「「Good Luck!」」
いつの間にやらクラスメイト達から注がれている生暖かい視線を全身に受けつつ、俺は教室を後にして部室へと急いだ。
 
 
旧館へ向かう俺の歩調は無意識のうちに速まっていた。このお方の可愛らしい声に呼び止められるまで、そのことに気が付かなかったくらいだ。
「きょ…キョンく~ん、待って下ひゃぶっ!!」
声のする方に振り返ると、何かの包みが俺目掛けて飛んできた。とっさにキャッチしたそれは、どうやらナプキンで包まれた弁当箱のようだ。
「あぅぅ…痛いですぅ……キョン君歩くの速いですぅ~…」
小走りで俺を追いかけてきた彼女は、俺の所まで2メートルもないところで豪快にずっこけ、その拍子に持っていた包みを放り投げてしまったようだ。勿論、廊下には空き缶や石ころなどは転がっていない。
「すみません…。だ、大丈夫ですか朝比奈さん」
スカートが捲れて、何やら真っ昼間から危ない画である。ほのかなピンク色の布が視界に入ったので慌てて顔の方を見ると、今度はセーラーの襟から覗くふにゃりと潰れた胸元がカットインした。うむ、実に目のやり場に困るね。
「は…はひ。だいじょうぶれす…」
力無く起き上がり、ぺんぺんと制服を叩く朝比奈さんに弁当箱を渡す。
「朝比奈さんも…いや、朝比奈さんはどこか外でお昼食べるんですか?」
「それが…涼宮さんが『これ持って部室に来なさい』って……」
ハルヒが? ということは、それはハルヒが作った弁当ということか。
「多分そうだと思います。私、自分のお弁当持って来てるんですけど……」
その瞬間、俺の中で何かが吹っ切れた。でなければこんな言動には出なかっただろうからな。
 
「朝比奈さん、そのお弁当俺にくれませんか?」
朝比奈さんはただでさえ大きな目を更に大きくして驚いた。
「えっ? 私は別にいいですけど、涼宮さんが…」
「アイツなら大丈夫です。全責任は俺が持ちます」
「……そこまで言うなら…どうぞ」
脳みそのヒューズが飛んだとしか思えない発言に、驚きの色を少し残した微笑みと共に朝比奈さんは弁当箱を俺に手渡してくれた。胸に抱いていたからだろう。暖かい。
「涼宮さんと、ちゃんと仲直りして下さいね。」
!?
良からぬことを想像していた俺に投げかけられた言葉には、今の俺にはS級のキーワード「仲直り」の文字が入っていた。一瞬固まった俺を見て、朝比奈さんはくすくすと笑った。
「それじゃあねキョン君。また放課後」意表を突かれた俺にひらひらと手を振る朝比奈さんにつられて、俺も半ば力無く手を振り返した。
「……でも放課後キョン君達、ちゃんと学校に居るのかなあ…?」
何やら意味深なコトを言いながら頭の上に?マークを浮かべている朝比奈さんは、最早ツッコム気にはならないほど無邪気だった。
 
谷口と国木田、鶴屋さんと朝比奈さんにまでエールを受けた(?)俺は、ついに旧館の部室前に辿り着いた。
部室からは物音1つしないが、電気は点いているようだ。間違いない。誰か居る。昼休みには大抵長門が本を読みに来るので、それがハルヒであるとは限らない。だが、仮に中に居るのが長門だけだったとしても俺はガッカリしたりはしないさ。多分。
よし。
俺はいつも通りの動作で扉を開けた。
 
「あっ! おっそいわよみくるちゃん! 待ちくたびれたから先にt……」
 
「……………………」
 
部室内には、実にやかましい女子生徒と実に静かな女子生徒の2人が居た。
「…よう。昼飯……もう食っちまったみたいだが、一緒にいいか?」
パソコンの前に座っていたやかましい方の女子生徒は、俺と目が合うなり慌てた様子でまくし立てた。
「なな何でアンタがそのおべんと持ってんのよ!? みくるちゃん! みくるちゃんはどうしたの!?」
「その朝比奈さんから譲り受けた弁当だ。朝比奈さん以外の誰かが作ったものらしいが、何だか無性に食いたくなってな。少し無理を言って貰ってきた」
「……そっ、そう…そういうことだったの。まあいいわ。てっ適当な所に座って食べなさい!」
俺は「団長」の腕章を付けた自称SOS団団長 涼宮ハルヒの命令通り、長机に向かって並んでいるパイプ椅子の1つに腰掛けようとした。
その時、窓際のパイプ椅子に座って読書をしていたショートカットの女子生徒がおもむろに立ち上がり、無言でこちらに歩いてきた。開いたままの本を右手に持ち、歩き読みをしているような風貌だ。
何か用かと思いきや、俺の横で一瞬立ち止まり、ワンテンポ置いてからまた歩きだした。そして空いた左手で音もなく扉を開けて廊下に出ると、同じように音もなく扉を閉めてどこかに行ってしまった。そう、彼女こそ元文芸部部員で現SOS団団員の長門有希である。
意味もなく長門を見送る俺とハルヒ。暫しの沈黙。
「ま、まだ時間あるのにどうしたのかしらね有希ったら」
若干挙動不審なハルヒのそばで、俺はすれ違いざまに長門有希の口から発せられた音を脳内で復唱していた。その音は、俺には確かにこう聞こえた。
「ぐっじょぶ」
と――――。
 
さて、いよいよハルヒと2人っきりになってしまったわけだが……。当の本人は落ち着かない様子で窓の外を眺めている。向かいの校舎を眺めてみたり、地べたを眺めてみたり、空を眺めてみたり。また不思議でも探しているのかねコイツは。
ようやくパイプ椅子に腰を下ろした俺は弁当の包みの赤いナプキンを解く。団長机には同じ柄の青いナプキンに包まれた、空と思われる弁当箱が鎮座している。
仮に、仮にだ。今俺が食わんとしている赤い包みの弁当を、…その……ハルヒが俺のために作ってきたものだとするとだ。一般的には青い包みを男に渡すものではなかろうか。
この赤い包みの弁当は朝比奈さんを経由して手元にあるわけだから、この考えでいくとハルヒは自分で食べるはずの分を朝比奈さんに押し付けたことになる。そして、俺に渡す予定だった分を自分で平らげた…と。
まあ、もしかしたらハルヒは青が好きなのかもしれないし、包みの色に深い意味はないのかもしれない。しれないが、何か引っかかるというか何というか。
俺は意を決して、この弁当を作った張本人に尋ねてみた。
「なあハルヒ、この弁当誰が作ったか知ってるか? 見たところ、お前の弁当の包みはコイツと色違いみたいなんだが」
ハルヒは俺に背を向けて窓の外を見ている。押し黙ったまま微動だにしないが、唯一外見上の変化が見られる箇所があった。耳が、これでもかと言わんばかりに赤くなっている。
分かりやすい奴め。
「……ありがとうな。いただきます」
「ちょっと待った!」
物凄いスピードでハルヒが飛んできた。耳だけでなく、顔面が真っ赤だ。
「まだ食べていいって言ってないでしょ!? お茶だって……その………あーっ、もうっ!!」
地団太を踏みながらハルヒはポットの方へ向かい、やけに素早い手つきでお茶を淹れ始めた。
「まだよ! まだ食べちゃダメよ!」
はいはい。
忙しなく湯呑みを出してきて、お茶を注ぐ。数時間前に洗ったばかりなので、まだ所々に水滴が付いている。
「消化不良でお腹痛められたりしたら私のせいみたいじゃないの! ほらっ」
ハルヒは少し色が薄い緑茶を机に置くと、団長机に座ってそっぽを向いた。あのー、もう食べてもいいんでしょうか。
「どどっ…どうぞ!」
「いただきます」
やっと許可が下りたので、弁当箱の蓋を開ける。
楕円形の箱が2段重ねになったタイプのプラスチック製の弁当箱で、上の段には白身魚のフライとアスパラガスのベーコン巻き、プチトマトにポテトが並んでいる。
隅っこのレモンはデザートではなく、フライに垂らすためのものだろう。
下の段はというと、白米と梅干しというきわめてオーソドックスなものだった。
奇抜でもなく地味でもない。ハルヒらしくないと言えばそれまでだが…。
箱があまり大きくないので、それほど量はないが、女の子には丁度良さそうなボリュームだ。
早速俺はレモンを摘んでフライに汁を垂らし、チラチラとこちらを見るハルヒには気付かぬふりをしながら1口かじった。
「うん、美味い」
何だろう、母親が作った弁当を食べているような安心感。市販の弁当などではなく、俺のために作られた弁当の味。サクサクと箸が進む。
「ただ単に眠れなかったから、暇つぶしに作っただけよ! 両親起こさないように有り物の冷凍食品チンしただけだから、別に美味しくも何ともないでしょ?」そういや、あまり眠れなかったって言ってたな……。一瞬箸が止まる。
「こんなんで美味しいってんなら、私が腕によりをかけて作ったお弁当食べたら、私の料理の中毒になっちゃうわよ。何なら本気で作ってあげてもいいわよ?」
「ああ、頼む」
「ふぇ!?」
「明日辺りにでも、一発で中毒になりそうなの作ってくれよ」
ハルヒは口をパクパクさせながら目を泳がせている。
「やっぱイヤか? ってか、この弁当作ったのお前だったんだな。そうならそうと早く言ってくれりゃ、お前に食べさせてもらってたのに」
真顔でこんなことよく言うぜ俺。だが、あながち嘘でもない…なんてな。
再び顔を真っ赤にしたハルヒは、いよいよ俯いてしまった。ブルブル震えてるのは恥ずかしさのあまりか、それとも怒りによるものか…。
「キョン!!」
何だ。食事中にデカい声を出すな。ただでさえお前は声がデカいんだから…。
「そこまで言うんなら、明日早速作ってきてあげるわ!! 腰抜かすんじゃないわよ!!」
頼み込んだ覚えはないんだが、ここはありがたく享受するとしよう。
「ああ。楽しみにしてるぞ。勿論これより美味しいのが出てくるんだよな」
「あっ…当たり前よ! 冷凍食品なんか1品も使わないわよ! そんなの私のプライドが許さないんだから!」
やれやれ。ハルヒの言葉は刺々しいが、顔は緩み切っている。
この場所で新たな活動計画の発表をしている時よりも数段イキイキとしている。
「まあ、そのお弁当も私が作った以上美味しくて当然よね! 愛情込めて……」
ハッとしたようにハルヒの口が止まった。
またフリーズしそうになっているハルヒに悪戯っぽく尋ねた。
「え? 何で美味しいって? 冷凍食品だから別に美味しくも何ともないんじゃなかったのか?」
「う…うっさいわね…! いいから早く食べなさい! それとも私が食べさせてあげようか!?」
冗談半分だと分かりつつも、俺は反射的にこう答えた。
「いいのか?」
「っ…ぅぇ!?」
唾液が気管に入ったのだろうか。けほけほと咳き込むハルヒ。
「だ…大丈夫か?」
「――――っ!」
口を押さえたままハルヒがこちらを睨んだ。スマン、悪かった。だからそんな怖い顔するな。
「……ぉ…」
歯の隙間から空気が漏れるような声でハルヒが呟いた。スマン、何だって?
「お箸貸してって言ってんの!!」
右手を差し出し、顔は斜め下を向いている。顔が赤いのは咳き込んだせいだけではないだろう。しかし、手元も見ずに箸を受け取れるのか?
まあ、コイツが何をしたいのかは分かっているさ。素直に箸を渡す。指が微かに触れたが、努めて気にしないようにした。
何故かって? 俺までハルヒのようになっちまいそうだったからさ。
 
 


本作品は未完です。