サム空情事 (103-358)

Last-modified: 2008-12-24 (水) 11:00:03

概要

作品名作者発表日保管日
サム空情事103-358氏08/12/2208/12/23

作品

「……寒いわ」
 室内だというのにすっぽりコートに包まり、団長席でシャミセンの如く丸くなっているハルヒは、半開きの目でさも恨めしそうに俺を睨んでいる。
「キョン、これちょっと薄くない?」
「文句あるなら返せ。俺だって寒い」
 HRが終わるやいなや椅子に掛けてた俺のコートを強奪していきやがって。そりゃこの時期にスカートは寒かろうと渋々見逃してやってんのに、あまつさえケチつけるなんざおこがましい事この上ないぞ。
 そんな俺の健気な善意に多少の自覚はあるのか、ハルヒは言葉に詰まった様子で「むー……」と唸りながら顔をパソコンモニターの陰に隠していき、机上に畳んだ腕の上に頬を乗っけた状態でマウスをいじくりはじめた。よくそんな体勢でやれるもんだ。
「はいキョン君、お茶です」
 背後から聞こえてきたハイトーンの主は、どこから持ってきたやらふわふわのケープを羽織ったメイド・オブ・メイド、朝比奈さんである。
「ああ、どうも」
「寒そうだったからちょっと熱めに淹れたの。気をつけて飲んでね」
 そう言いつつ湯気の立ち上る湯呑みを差し出すと、蕩けそうに甘い微笑みというお茶請けまで付けてくださった。いえいえ、俺は貴女のそのお心遣いと可憐な笑顔だけでもう十分ハートウォーミングです。
「はい、古泉君も」
「ありがとうございます」
 いただきます、ともう一言挟んでから古泉は早速湯呑みを口元に運び、気休め程度に冷ましてすぐさまズズッと啜った。
「あちっ」
 あほかお前は。朝比奈さんのありがたいご忠告も鼓膜に届かんとは、即刻耳の穴をほじくり返す必要がある。
「いえ、どうにも寒かったもので、つい早まってしまいました」
 気障なしかめっ面のそんな言い訳を聞き流しながら、俺の右手もつい湯呑みを掴んでいた。しょうがないだろ、だって寒いんだ。
 程よく濁った緑茶からはほのかに甘い香りが漂い、早く早くと俺の唇を誘惑するので、とりあえず多めに五、六回ほど息を吹き掛けてから飲んでみた。
「……あちっ」
「……」
 おい古泉、にやけてんじゃねえ。不愉快だ。
「お前はさっさと次の手を打て。いつまで長考する気なんだ」
 チェス盤を指で叩きつつそう言ってやると、古泉は再び駒たちとお見合いを始めた。どう足掻いたってチェックメイトはすぐそこなんだがな。
 
 さて、これは十二月も半ばに差し掛かったとある日の、何の変哲も無い平穏な一コマを抜粋したものなのだが、各員が言葉の節々で漏らした『寒い』という言葉は単に気温のみを指すことによるものではなく、心的作用とでも言おうか。ぬくぬく温室育ちの現代っ子体質がもたらした虚弱性が影響していると言えないこともないかもしれないが、そんな大仰な話でもなく、簡潔に表すならばメンタルの問題も含んでいた。
 それはめっきり冬入りした気候がもたらす猛烈な寒気のせいでもあり、築数十年を数える古びた旧舘の壁が薄いせいでもあり、そもそも学校が高所にあるせいでもあり、しかし何より、今や一年前の事になってしまったあの『ある雨の日』、俺がはるばる商店街までお使いして貰ってきた安物電気ストーブがぶっ壊れてしまったせいであるだろう。そもそもこの部屋の広さに対してあの旧世代小型ストーブが出来ることなど目の前の人間をジリジリと照り焼きにするぐらいが精々で、空調パワーは微々たるものだったように思うのだが、それにしたってあるのとないのでは気分的に雲泥の差があった。
 では、何故壊れたのか? 残念ながら天寿を全うした訳ではない。短く済むことだし、とりあえずそこを説明する事からこの話を始めるとしよう。
 あれは昨日のことだ――。
 
   *
 
 ハルヒは、忙しかった。
 間近にクリスマスと大晦日と正月というイベントラッシュを控え、しなくてもいい企画立案に余念が無く、一体どこでどんな珍計画を企てているやらたまに部室に居ないことすらあった。
 まぁ俺としても、部室で鍋をしたりパーティーを開いたりといったささやかで小ぢんまりとした温かみのある催しは好きだし、そういうことなら協力しようという気にもなるのだが、また冬季合宿をしようなんざ突飛なことを言い出すかもしれないと思うと、何がそうさせるのか遠出する度に椿事に巻き込まれてきた苦い経験が蘇るし、そうでなくとも冬には思い出したくない過去が数点あるだけに、ワクワクウキウキしてるハルヒの顔を見てると何となく不安にも似た感情が心を掠めたりもする。
 しかしいかにも楽しそうにしているハルヒの姿はそんな俺の陰気も打ち消すように陽光めいていて――何だ、人間てのはやっぱり鬱々としてるよりかはバカバカしいぐらい明るい方がいいに決まってるだろ? だから、そうすることでアイツが楽しくいられるなら、そこに俺が言うことは何も無い訳だ。神様云々は抜きにしてな。
 とにかく、そんな感じでハルヒはやや舞い上がり気味だった。
 そして昨日、最早言うまでもなくいつものように部室に集ったSOS団面々――チェス古泉、給仕朝比奈さん、読書隣人長門――はさておき、これまたいつものように団長席でネットサーフィンをしていたハルヒは、何を思ったか唐突に立ち上がったのである。
「ねえみくるちゃん! ちょっと――」
 猟銃を手に猪狩りに行くベテラン猟師のような顔で麗しの上級生に歩み寄ろうとした、その時だ。
「――はわっ!?」
「!?」
 素っ頓狂な奇声と共に部室の空気が凍りつく。いつもより広い歩幅が災いしたのかどうかは分からんが、ハルヒはパソコンから伸びる電源コードに足を取られて思い切りつんのめったのだ。
「わ、わわっ!」
 勢い余ってすっ転びそうになり、腕をぶん回して何とかバランスを取ろうとするも、努力むなしく体位は見る見る前傾していく。ついに事切れて木張りの床に突っ伏そうとした刹那、あろうことか、数テンポ遅れて「ふぇ?」と振り返った朝比奈さんも諸共に押し倒したのだ。
「わぎゃっ!」
「きゃあっ!?」
「どぅわっ!?」
 三つの悲鳴。一つ目はハルヒが床に向かって吐き出したもので、二つ目は道連れに巻き込まれた朝比奈さんの涙声で、三つ目はこれから朝比奈さんの手により配られるはずだったマイ湯呑みが熱湯を撒き散らしながらすっ飛んできたため、奇跡の反射速度で回避した俺のものである。実はその湯呑みを見事キャッチした長門の三点リーダもあるのだが、そこは割愛した。
 一方、同時に射出されたもう一つの砲弾は緑色の軌跡を描きながら水平に近い放物線に乗って宙を舞い――、
「ふもっ」
 ゴォン、と除夜の鐘のような鈍い音を響かせて、四つ目の悲鳴と共に古泉のこめかみへ緊急着陸。
 一瞬の間が空いて湯呑みがテーブルに落ちると、古泉は今にも次の一手を打とうとしていたのだろう、右手にビショップの駒を握ったまま白目を剥いてのけぞっていき、ついでに長机を足で蹴り倒しながら俺の視界から消えた。
 そうすると机の上に載っていたチェス盤もろもろや湯呑みはもちろん、未だホカホカと湯気を上げる大量の覆水も俺めがけて洪水の如く押し寄せる訳である。
 そして――ああ、おぞましくて思い出したくも無いんだが――その流木withマグマは、あっけに取られて反応の遅れた俺の『股間』へと流れ込んだ訳だ。
「――ぅぬ゙あ゙あ゙ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 零コンマ何秒か視界がホワイトアウトして、世界がぐわっと回転した。やけに低い視点から天井が見えた次の瞬間には、椅子の背もたれに硬い何かがぶち当たった感触を覚え、ひっくり返った机が床を叩きつける轟音を聞いたのを最後に俺は意識を手放した。
 さらば、まだ見ぬ俺のチルドレン……。
 
「いっ、一体何事だ!?」
 と、騒音を聞きつけてやって来たコンピ研部長が、語勢の割には恐る恐るドアを開けたぐらいがうっすらと記憶にある。
 のちに聞いた話だが、超局部的にハリケーンが襲来した後のような、ここだけ震度5強クラスの震災に見舞われた後のような有り様の、しかしいやにシンと静まり返った部室の中で、長門が本のページを捲る「ペラリ」という音だけが響いていたそうだ。
 
   *
 
 以上、回想終わり。
 
「全く、元はと言えば、快適であるはずの部室がこんなに寒いのはキョンのせいなのよ」
 また酷い言いがかりを付けられたもんである。
「何言ってんだ、確実に俺のせいじゃねえ。多分誰のせいでもないが、敢えて一人挙げるとすればお前だハルヒ」
「はぁ!? 何であたしのせいになるのよ! あたしは寧ろ被害者なの。昨日打ったおなかまだ痛いんだから!」
 それを言うなら朝比奈さんはぎっくり腰気味のようだし、古泉はふっくらとコブになってるし、俺は大事な息子がまだヒリヒリしてるんだが。
「なっ!? む、むすっ……変なモン想像させんじゃないわよこのアホンダラゲ!」
 いきなり真っ赤になって罵声を吐き捨てると、フードまで被ってさらに丸まってしまった。一体何だというんだ。
 何とは無しに、部室の隅に追いやられた無残にひしゃげている電気ストーブに目をやる。そういえば肝心の壊れた理由を言っていなかったが、大方お察しの通りで、息子を焼かれた俺が椅子ごと勢い良くもんどりうった拍子に後ろで稼動していたあれを潰してしまったのである。責任が俺にあるとは思えないが、本来なら今日とて煌煌と輝いているはずの炭素棒が黒く静まり返っている様子を見ると、幾月の時を経てようやく迎えた輝けるシーズンですぐさま思わぬ天災に見舞われ、そのまま永遠に閉ざされてしまったあいつの未来に遺憾の意を表して合掌の一つも添えてやりたくなる。
「いやしかし、昨日は大変でした」
 何やら香ばしい匂いが付着してしまった気がする駒を手で弄びながら、古泉がどこか追懐するような口調で呟いた。
「ストーブ以外に破損物が無かったのは不幸中の幸いでしょうか。無償で譲り受けたパソコンを壊したとあってはコンピ研の部長さんに合わせる顔がありませんし」
 今まさにハルヒが扱っているそれは、激しく引っ張った所為で端子がややひん曲がってはいたが一応動作に支障はないらしい。だが、例えモニターも巻き添えにしての大カタストロフィを起こしたとしてもあいつはコンピ研に対して悪びれもしないだろうし、寧ろこれは好機とばかりに何やかんやの言いがかりを付けてまんまと最新機種をせしめそうな気もする。
「俺は廊下でパンツ一丁を晒す羽目になるぐらいなら、湯呑みの一つぐらい割れてもらっても構わなかったんだがな」
 ズボンへ流れ落ちたお茶は股間を中心に円形の濡れ跡を作り、おまけにじんわりと嫌な感じに温かく、傍目にはどう見ても高二にもなって至らないことをやってしまったようにしか見えなかった。
 幸いにも昨日は授業で体育があったためジャージが手元にあり、着替えることで事なきを得たのだが、さあ脱ごうとベルトに手を掛けた途端に「ちょちょっ、ちょっと! 何ここで脱ごうとしてんのよこのエ露出キョン! 廊下で着替えなさい!」と自分の事は棚に上げて頑なにパンツ公開を拒否するハルヒから部室を追い出され、いつまでもその醜態を晒す訳にもいかず、とはいえ無論アブノーマルな嗜好なんぞ持っていない俺は人目を思いっきりはばかりつつ、今にそこの階段から女子生徒が上がってくるのではないかと戦々恐々しながらズボンを脱ぐことを余儀なくされたのである。
「えっと……キョン君。昨日は、その、本当にごめんなさい」
 俺がお茶の件を掘り返した事をどう思ったのか、急に朝比奈さんはしおしおと小さくなり、消え入りそうな声で謝罪を始めた。
「お節介じゃなければ、あの、クリーニング代とか……」
「いえいえいえいえ! 何で朝比奈さんがそんなことしなきゃならんのですか。あれにはあなたの責任は全然まったくこれっぽっちも有りませんから元気出してください」
 ハルヒとは違ったベクトルで予想外の発言だ。この人から溢れ出る慈しみはこと女神の如しであろう。
 だが、俺のそんな密かな恍惚はすぐさまかき消された。
「……そうよみくるちゃん。あのぐらいも避けれないニブチン野郎のキョンが悪いんだから」
「やかましい、お前は言葉尻に乗ってくるんじゃない」
「うるさい! 何よみくるちゃんにばっかり甘くして! ズボンが濡れたのも部室が寒いのもコートが薄いのも、おなかも腰もコブも息子も全部全部あんたのせいなの! あんたの責任なんだから!」
 よどみなく一気にまくし立てると、ドカッと乱雑に頬杖をついてそっぽを向いてしまった。どうやらご機嫌を損ねてしまったようである。
 古泉が呆れたように肩をすくめて俺を見ながら、小さく「やれやれ」と呟いた。何だそりゃ。まるでこいつが御冠なことまで俺のせいだとでも言いたげだが、そうなるいきさつに皆目検討がつかないのも俺のせい、ってか? 全く、世間は責任だらけだな。大人社会の息苦しさをこんな所で味わうとは思わなかったぜ。
 部室内の寒気にわずかな険悪さが混ざっている。未来人はおどおどしているし、超能力者は助け舟を出す気はないらしい。どうやら自分でまいた種は自分で処理しろってことらしいが、さてどうしたもんかと思っていると――。
「……」
 死角から、キィ、とパイプ椅子が軋む音がして、俺の視界の隅にハードカバーが置かれた。
 この事態に文字通り立ち上がったは、厚モノフリークにしてSOS団が誇る隠れ最強少女こと対有機生命体コンタクト用以下略、長門有希その人である。
「有希?」
 不意に起立した長門に、ハルヒは先程までのふくれっ面が嘘のように毒気の抜かれた顔をしている。不思議なことに長門に対して悪意を向けることは非常に難しいというか、何度も危機的状況を救ってもらった恩があることは勿論なのだが、それ以前にこいつの持つ独特のマイナスイオン的な雰囲気が周囲にクールダウン効果をもたらしているのかもしれない。故に、そのリラックス効果はハルヒとて例外ではないようだ。
「……」
 メンバー全員の注目を一身に受けつつ、しかし長門はぼーっと突っ立ったままである。
「長門?」
 もしや単に読み終えた本を棚に戻そうとしただけかもしれないとさえ思えてきた頃、おもむろに宇宙人は動いた。
 
 そしてそれは、その場にいた誰もが――ひょっとすると長門の親玉の情報統合何たらでさえ――思いも寄らない行動だった。
 
 マシュマロのように白くふんわりとした頬が俺の顔にすり寄り、華奢な腕がカーディガンの滑らかな肌触りでもって首に絡み付き、驚くほど軽い全体重で押し付けられたその全身からは人肌の温もりが直に伝わってきて、ふわりと香るは爽やかな石鹸の匂い――。アンビリーバボー。悪いが長門、これはリラックスどころじゃない。むしろ肩の辺りから感じられるお前の胸部の控えめな膨らみとかのせいで俺がストーブになっちまいそうだ。
 つまり、長門は俺に抱きついた。
「……」
「……ふわぁ」
「……おやおや」
「……な、長門? これは一体どう――」
「ゆゆゆゆゆ有希!? な、何、なな何ししてんのよ!?」
 椅子を吹っ飛ばしながら立ち上がったハルヒは甚だしく盛大にどもりながら狼狽しているが、俺とて全く意味が分からない。今までの会話の中に長門が俺をハグして然るべき脈絡があったか? ある訳ねぇだろ! おいおい勘弁してくれ、よもやまたエラーの蓄積がどうたらと言い出すつもりか? だとしたら嬉しいバグ――いやいやそうじゃなくて――。
「あなたの責任」
 少ない脳細胞を死に物狂いで活性化させて思案に暮れることで長門の感触を意識の外へ追いやることに専心していた俺の耳元で、あくまで平静な張本人はそんな言葉を発した。
「現在、室内温度が低く、概して寒いと判断される状態であることの責任はあなたにあると、涼宮ハルヒは言った。責任は果たす義務がある」
 …………。
 えーと、何だ。
「それが、つまり、いきなり抱きついてきた理由か?」
「そう」
 ほっぺたをこすらせながら、こくりと頷く。
 よーし分かった。分かったが言いたい事は山ほどあるぞ。俺は眼球だけを稼動域限界まで長門の方に向け、出来る限り抑えた小声で矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「まず聞こう、お前はそんな非論理的なことを真に受けたのか? 義務って何だ? ストーブ直した方が早くないか? お前も寒いのか?ていうかいつまでこうしてるつもりなんだ?」
「……」
 ウンともスンとも言いやがらねぇ。代わりに右側の耳から、今にも噴火しそうな火山の鳴動の如き重厚かつ強烈な怒気を孕んだ唸り声が聞こえてきて、俺は右半身だけ総毛立った。
「うぬぅ~~……っ、ちょっとキョン! いつまで有希と抱き合ってる気なの!? さっさと離れなさいよこの変態っ!」
「ちょっと待て! 俺達はいつから抱き『合ってる』ことになったんだ? しかも変態って、こっちは被害者――」
「……」
 気のせいか、首をより強く絞められたような。何故だ、今日の長門からはハルヒイズムに近しい強引さを感じる。
「……いや、まぁ、害なんて無いが」
 一応は当然の反論を返した筈だったが、最後の一言が余計だったかハルヒは荒い鼻息を一つ、憤然と腕組みをして、
「ほら見なさい、化けの皮が剥がれたわ! これだからあんたは油断ならないのよ。薄のっぺらした顔して何考えてるか分かったもんじゃないんだから!」
 何と流暢な侮辱の言葉だろう。理不尽に憤ったこいつを口頭で静められる奴がいるなら是非ともSOS団の新メンバーとして迎え入れたい所存である。
「さあ有希、一体何を血迷ってキョンなんかに抱きついたのかはこの際不問に付してあげるから、今すぐ離れた方が身のためよ!」
 妙なハイテンションでそこまで言い切ると、人差し指をビシッと長門につきつけた。名残惜しいかな、人肌ゆたんぽともお別れの時か。
 ところがそうは卸さない馬鹿な問屋がいたもので、ようやく顔を離した長門は、しかしまだ腕を絡めさせたまま少し俺を見つめたのち、ハルヒの方へ向き直り、
「なぜ?」
 せっかく沈静化しかけた炎へガソリンをぶっ掛けるようなことを言ったのである。
「な、なぜって……もうっ! 有希、あたしをからかってるの!?」
 果たしてハルヒは再び炎上、憤まんやるかたないという風に地団駄を踏み、ハエぐらいなら殺せそうな眼光を放つ。誰か助けてくれ。
「からかってなどいない。寒いのは彼の責任だとあなたは言った。だから私は彼に責任を取ってもらっていた。何も問題は無いはず」
「問題あるの!」
 聞かん坊を貫く長門に業を煮やしたのか、ついにハルヒは競歩のような速さで――コードを丁寧に跨ぎ――ここまでやってくると、強引に俺達を引き離す。
 続いてその身に纏っていた俺のコートを突然こちらへ投げ捨てたかと思うと、その下のカーディガンまで脱いで長門に差し出すという訳の分からない行動に出た。
「そんなに寒いなら、コレでも着てなさい!」
 ということらしい。半ば強引に押し付けられたそれを長門は一応受け取るが、表情はまだ納得していないといった感じである。
「しかし、それではあなたの防寒性が著しく低下する」
「あたしはいいの。キョンのコートがあるから」
 まるでお前の所有物のような言い草だが、そのジャイアニズムは今に始まったことじゃないな。
「あなたはこれを着た上で彼の外套を纏っていたにも関わらず、寒いと繰り返し言っていた。それだけでは不十分と考える」
 至極もっともな長門の突っ込みに、急にハルヒはそれまでの勢いを失ってもじもじし始めた。
「だ、だから……それはその……」
 だが、継ぐ言葉が見つからないというよりは何かを口にしあぐねているように見える。何だ、何を言おうとしているんだ? そしてこの
そこはかとない不安は気のせいか?
 しかして予感というものは、とかく嫌なものに限ってよく当たるようになっているらしい。
 
「せっ、責任! 取ってもらうのよ!」
 
 数秒使ってその意味をおおよそ理解した俺は、
「……はっ?」
 あんぐりと大口を開けて、そんな気の抜けた音を出すことしかできなかった。
 ふと完全に気配を消していた古泉と朝比奈さんに気付いたが、二人揃って気持ち離れたところからニヤニヤしていて、どうやら
傍観者を決め込んだようである。
 
 
 
「……」
「……」
「……なぁハルヒ」
「……何よ」
「……いや、何と言うか……これは流石に無理があるんじゃあ」
「あっ、あんたは黙ってチェスでも打ってればいいのよ!」
「いだだっ、おい、後ろで暴れんじゃねぇ!」
「いやはや、そんなに微笑ましい光景を見せ付けられてしまいますと、ゲームに集中できなくなってしまいますね」
 嫌味としか思えない古泉のスマイルが気に障って仕方ないが、俺には最早何かをやり返せるほどの余裕は残っていなかった。
 頭のねじの刺しどころを間違えているのかもしれないハルヒが俺に責任を取らせる方法として考案したのは、ハルヒが俺の背におぶさる体勢になり、その上から羽織ったコートに俺が袖を通して、無理矢理二人で着ちゃいましょうという――要するに二人羽織である。そこ、呆れるぐらいならいっその事笑ってくれ。
 使い古して薄くダボダボになったこのコートだからこそ可能な荒業ではあるものの、元来二人分が入るつくりになんかなっている筈が無いため、背中は気を使う余地もなく完全密着。暑くなってきたのか血が上ってきたのか知らんが、そんなになるぐらいなら止めりゃいいのに微かに見えるハルヒの横顔は茹で上がったように真っ赤だし、こいつの細腕は肩越しに前へ回されているため、それなりに豊満な胸が服越しに押し潰されている感触すら確かに感じ取れる。椅子に座っているとはいえ人一人背負っているにしては苦ではない重さだし、この体勢は背中全体からハルヒの体温と柔らかさが伝わってきて、時折漂ってくるいかんとも表現しがたい芳香は恐らくこいつの使うリンスの物だろうがこれがアロマセラピー効果がある気さえするほどいい匂いで、正直かなり気持ちいい。
 が、そんな情欲は差し置いてとにかく恥ずかしい。散々顔つきあわせてお互い慣れ親しんだ団員勢の前でこれなのだから、もしこのままの状態で校舎本館を練り歩こうものなら俺は卒倒するおそれがある。
 そんな俺の羞恥心を知ってか知らずか、間が持たないと思ったらしいハルヒは変に神妙な声で強引に話題を切り出してきた。
「ね、ねぇキョン? その……寒くない?」
「んぁ? あ、ああ。……あったかい、な」
「……そっか」
「……」
「……」
 いかん! 何なんだこの雰囲気は! 顔が熱いっつーか変な汗がっつーか、乱れ打ってる心臓が鎮まんねぇ!
 いや、ちょっと待て、一旦落ち着け、おかしいぞ。いつもの俺はもっとクールでニヒルなガイの筈だ。これしきの色情で心乱したりは――
「んっ……ふぅ」
「ほぅっ!?」
 予想外の攻撃に、全身に鳥肌が立った。姿勢を正そうと身じろぎしたハルヒの肺から押し出された空気が、丁度俺の耳に吹きかかったのである。
「え、何?」
 突然の素っ頓狂な声に、少々驚いた様子で俺の顔を覗き込んでくる。
「い、いや、耳に息が……ぞっとしたぜ」
「なぁんだ、そんなこと…………ふふっ、『ほぅっ!?』だって。変な声」
 ハルヒはそのまま、くっくっく、とまるでどこぞの佐々木みたいな声で、しばらく笑っていた。
 何だか知らんが、まぁ、機嫌は直ったようだな。
 ふと、窓の外に目をやる。嘘のように雲一つない空は既に橙色に澄み渡っており、いつの間にか夕暮れを迎えていた。
 外界の喧騒は薄く、優しい斜光が差し込む部室内はいつの間にかそれほど寒さも感じなくなっており、まるで時間の流れがゆっくりになってしまったかのような、ふかふかのゆりかごで揺られているような、そんな穏やかな心地良さにさえ包み込まれていた。
 不規則に鳴る駒と盤の接触音や、衣擦れの音。着膨れした長門の方から規則的に聞こえてくる、ペラリの音。朝比奈さんがお茶を淹れる音や、食器を片す音。そして、ハルヒの呼吸の音。雑音であるはずのそれらは俺の耳に届くと同時に協和し、ありふれた、しかし安らかな子守り唄へと形を変える。
 もう少しだけ、こうしていてもいいと思った。
 
「…………すーー……すーー……すーー……」
「……おい、ハルヒ?」
「……んむ……んー? 何ー?」
「お前、今寝てなかったか?」
「……ううん」
「嘘つけ」
「……寝てないったら」
「……まぁ、どっちでもいいが、いつまで乗っかってる気なんだ?」
「そんなの、あたしが満足するまでに決まってるじゃない」
「……そりゃ気の長い話だな……」
 はぁ、ったく、よだれ垂らしてるんじゃないだろうな。
 やれやれだ。
 
「…………あったかい、大きい背中……」
 
 
 
「あーあ、結局最後まで後ろで爆睡しやがって」
「よほど寝心地が良かったのでしょう。対局中から気付いてはいましたが、あまりに安らかな寝顔で起こすのが憚られてしまいました」
 外は既に黄昏も終わりごろ、人の気配は全くない。
 油断して二度目の寝入りを許してしまって以後、どれだけ揺すってもむにゃむにゃ言うだけで全く起きる気配がないので、団長が爆睡してしまったSOS団は自主解散し、長門と朝比奈さんを一足先に帰らせたのがついさっきである。
「御託はいいから、このおんぶおばけをどうにかするのを手伝ってくれ」
「了解しました」
 古泉にコートごとハルヒを押さえてもらい、立ち上がりざまに体を引き抜く。背中が急に寂しくなり、外気との温度差で一気に肌寒くなった。
 それでもしぶとく寝続けるおばけをそのまま椅子に座らせ、長門が置いていったカーディガンを上から掛けてやる。
「しかしまぁ、暖房器具はどうしたもんかね」
 すっかり凝ってしまった肩を揉み解しながら、誰にともなしにごちてみた。まぁ、拾ってくる相手は一人しかいないんだが。
「そうですね、流石にこれからの季節を暖房がないままに過ごすのは辛い。まあ、あなたと涼宮さんは今日の方法で雪の日でも越せるでしょうが」
「あほ抜かすな。あんな事はもう金輪際やらん」
「おや、それは残念」
 何が残念だ何が。
 こっちの身が持たないぜ。
 
 
 さて、ここからは後日談になる。
 電気ストーブ破損から数日が過ぎた頃、ふと何の気なしに思い立ち、こっそりとそのスイッチを入れてみたのだが、何と壊れている筈のこれが何事も無かったかのようにいつも通りジワジワと熱気を発し始めてしまい、俺は小首をかしげた。
 常識的に考えれば何かの勘違いで済ますところなのだろうが、ちょっとばかし常軌を逸した交友関係と経験値を得てしまった俺は、あの時ぽつりと言った俺の言葉に従った長門がいつの間にか直してくれていたと考えるのが妥当な判断だと踏んだのだが、まぁ――
 
 ハルヒにこの事を知らせるか、それともやっぱり壊れたことにしておくか、密かに悩んだというのはまた別の話だ。
 
 

  • fin -