概要
作品名 | 作者 | 発表日 | 保管日 |
背中 | 79-389氏 | 08/02/07 | 08/02/07 |
作品
午後の授業っていうのは、どうしてこう、憂鬱なのかしら?
数学の吉崎の単調な声の催眠効果のせいなのか、クラス内の何人かは既に意識を失うか、船を漕いだりしてる。あたしの目の前のキョンも例外じゃなく、机に突っ伏した状態で無防備な背中をさらしていた。
はあ、そんなんじゃ、また今度のテストで泣きを見るわよ、あんた。
あたしはつい溜息を漏らすと、窓から外を眺めた。
いつもなら、なにも考えずに頭を空っぽにして、退屈でしかない授業内容をぼーっと聞いているだけなんだけど、そのときはどうしてもそれができなかったの。
頭の、いや、胸の奥深くに刻まれたわけのわかんないなにかを、どうにかしようとして、でも、ずっとあたしはそのモヤモヤを、消失させることができないでいたから。
原因は、今朝の夢だった。
ええ、隠してても仕方ないから正直に白状するけど、あたしが見たのはキョンの夢だったわ。
そういえば五月の終わり頃だったかしら、そのころからちょくちょくあいつが夢の中に出しゃばってくるようになったのって。
でも、今朝の夢はいつかみたいにドキドキするようなものではなかったの。
………
……
…
キョンが、あたしの前を歩いてる。
あたしがいくら呼んでも、向こうを向いたまま、振り返りもしない。
それに、どんどん距離が離れていく。いくらあたしが走っても追いつけないなんて、どういうことなのよ。
ついにあたしは何かに躓いて転んでしまった。
でも、キョンはあたしのことなんか気にもせずにどんどん歩いていってしまう。
いつも見てたはずのキョンの背中が、ものすごく遠くに行ってしまった気がして、あたしは声にならない叫びを上げてしまう。
停止する思考と、暴走する意識が、あたしの目の前を白一色に塗りつぶしていく――――。
…
……
………
はあ、もう!やめやめ。思い出しただけでイライラするわ。
全く、キョンってば、何で夢の中でまであたしの言うこと聞いてくれないのよ。もう、腹立つわね。
あたしは、いつものようにシャーペンの先でキョンの背中を思い切り刺そうとして――――何故かふと思い止まった。
キョンの背中…………。
いつも目の前にある、当たり前の存在。
でも、あたしとの距離の縮まらない、追いかけても、その分だけ遠のいてしまう、逃げ水みたいな、存在。
触れただけで、キョンが壊れてしまいそう――まるで、手を滑らせて落としてしまったガラスの花瓶が、粉々になるみたいに。
シャーペンではなく、人差し指を、怖々とキョンの背中に伸ばす。
…………キョン…………。
指先に触れた確かな感触に、あたしの胸の中の動揺は、安堵へと変貌していた。
油断、だったのかも知れないわね。
あたしの人差し指は、普段あたしが絶対にキョンには言わないような言葉を、キョンの背中に刻んでいたのだった。
授業終了のチャイム。
同時にキョンの身体が動き出すのを感じて、あたしは慌てて指を引っ込めた。
ちょ、ちょっと、あたし、今、なにを書いちゃったのよ……。
全身の血液が一瞬沸騰したみたい。
あたしの顔は、多分真っ赤な茹で蛸状態だったに違いないわ。
窓の外を見る振りをしながら、あたしはキョンの様子を伺う。
何だろう、まだ寝惚けてるみたいじゃない。頭を掻いて首を左右に振った後、思い切り伸びをするキョン。でも、後ろは振り向かなかった。
良かった。やっぱり、寝てたから、気付かなかったみたいね。
あたしは心の中でホッと胸を撫で下ろす。
……甘かった。
放課後、開口一番キョンはあたしに向かって訊いてきた。
「なあ、ハルヒ。さっき授業中、お前俺の背中に何か書いてただろう。アレって――」
なによ、全然バレてるじゃないのよ。
「な、何でもないわよ。――あ、あたし、急いでるから、先、行ってるわね」
鞄を手にすると、逃げるように教室の外へ……
「WAWAWA、わっ!」
突然、目の前を塞ぐように現れた谷口の奴に正面衝突してしまうあたし。
「きゃっ!」
「うぼぁ~!」
三回転半して廊下の向こう側の壁に激突した谷口は、
「がっ……す、涼宮……オメェ……俺に…………な、何の恨みが…………ぐはぁ」
と言い残して事切れたみたいだった。もう、何の陰謀なの、これは。……谷口め、後で覚えてらっしゃいよ。
「お、おい、ハルヒ。大丈夫か、お前?」
尻餅をついてしまったあたしの元に、キョンは心配そうに近付いてきた。
「ん、別に。大したことなんてな――痛っ!」
転んだ拍子に右の足首を捻ったみたいだった。
「ハルヒ!」
もう、そんなに大声出したら恥かしいじゃないのよ。
あたしは何とか立ち上がって見せた。が、二~三歩歩こうとしたところで、
「!」
痛みに顔を顰めてしまう。
キョンはそんなあたしを見かねたのか、やれやれと言いたげな表情で
「なあ、あんまり無理するな。――ホレ」
と、あたしの鞄を手に取ると、反対を向いてしゃがみ込んだ。
「……キョン?」
「保健室、行くだろ?おんぶしてやるから。それとも――雑用係の背中じゃ、不服か?」
「な、なによ。……まあ、せっかくだから、あんたの背中で我慢してあげないこともないわ」
あたしは誤魔化すようにそう言って、キョンの肩から首に手を回す。
――――不思議。
さっきまで、あれほど遠く感じたキョンの背中が、今はこうしてあたしの身体と密着してる。あんなに不安だったのが、まるで嘘みたいじゃないのよ。なによこれ。
やっぱり、あたしの人差し指の言葉が、キョンに伝わってしまったのだろうか。
そんなことをあたしが考えていると、キョンは、
「ところで、ハルヒ。さっきの続きなんだが――『ひとりじょしイコールしー』って、一体何の暗号だ?」
と尋ねてきた。
「へっ?」
「さっき、お前が俺の背中に何やら書いてただろ。『一人女子=しー』って。今までずっと考えてたんだけど、わけが解らん。種明かしをしてもらいたいところなんだが――」
呆れた。
やっぱり、キョンはいつものキョンだった。
あたしは、さっきの言葉がキョンに伝わらなかったのが、ホッとした安心感と、何故か残念な思いで、どうしていいか解らなくなり、結局、いつものように憤慨をぶつけるしかなかった。
「バカ………………絶対に教えてなんてあげないんだから」
そう言いながらも、あたしは自分のセリフと今の表情がアンバランスなことに気付いて、思わず隠すようにキョンの肩に顔をくっ付けてしまうのだった。