概要
作品名 | 作者 | 発表日 | 保管日 |
Occurrence of Obscene Octopus | 90-736氏 | 08/05/31 | 08/05/31 |
Part-A
『好事魔多し』なんて言葉がある。
詳しいことはよく解らんが、要するに『順調なときに限って邪魔が入るものである』ということらしい。
それはともかく、珍しくも俺が自発的に勉強しようってな時に限って邪魔してくるとはどういうつもりだ谷口?
「おいおい、キョン。つれないこと言うなよな。そんなの後にしてこれでも見てみろよ」
そう言って俺のノートの上に広げられた本は、何故か浮世絵――といっても谷口が持ってきたことからも解るように全然高尚なものではなく――春画、要するに江戸時代のエロ絵を多数載せたものであった。学校にこんなモン持って来るなよ。
「なんだ、お堅いこったな。それよりこれ、何かスゴくね? 触手プレイだぜ、触手!」
「ああ『蛸と海女』だね。北斎の作ってことだし、結構有名なんじゃないかな」
傍にいた国木田も何故か冷静に解説を入れてくる。へえ、葛飾北斎がねえ。
って、いつの間にか俺の机の周りに男子どもの人だかりが出来上がっている始末だ。
おいこら、お前らいい加減にしてくれ。こんなのハルヒにでも見付かったら――、
「なにやってんのよ? あんたたち」
ジャーン! ジャーン! ジャーン!
ほれ言わんこっちゃない。ハルヒが目を三角にして登場だ。
「げえっ、涼宮!」
驚きのあまり真っ白石稔、もとい、真っ白な灰になってしまった谷口である。要領のいいことに国木田は既に危険区域から離脱したようだ。
と、突き刺すような視線を感じてそちらに目を遣ると、ハルヒはじっと俺のことを睨みつけていた。
「なんだよ?」
「……不潔!」
言葉にすればたったの一言。だが確実に俺の胸のど真ん中に突き刺さったそのセリフのみ残して、ハルヒは鞄を手につかつかと教室から出て行ってしまった。
沈黙するクラス内。
開いている窓から吹き抜ける風が名状しがたい空気を増幅させる。サラサラと崩れ落ちていく谷口だった物体。
やれやれ、本日放課後の部室では魔王が待ち構えているに違いない。気のせいか頭の中でピアノの十二連符が鳴り響いてるようだ。おと~さん、おと~さん、怖~い~よ~♪
恐る恐る部室のドアを開けた俺を待っていたのは、予想に反していつも通りの光景であった。
ニコニコしながらお茶の準備をしているメイド姿の可愛らしい先輩。
ページを捲る動作にすら無駄な動きの見られない無口な読書大好き少女。
さわやかな笑顔が却って気に障るニヤケ野郎。
そして――先程の怒り顔も何処へやら、といった団長様。
「こら、遅いわよ、キョン! あんたが来ないから中々ミーティング始められなかったじゃないの」
ミーティング? ハルヒの奴、また何かおっ始めようてことなのか。今度は一体どんな騒ぎを起こすつもりなんだろうかね。
「別にあたしたちが騒いだりするわけじゃないわ。ねえキョン、あんた最近この近くに現れるって噂の『謎の屋台』のこと知らない?」
はて? 謎の屋台ね……。って、どうやらいつの間にかもう第何回だか数えるのも忘れちまったSOS団のミーティングはスタートしているらしい。
で、その噂話とやらだが――古泉曰く、
「僕が聞いた話では、何やらその屋台で食事すると、身の毛もよだつような恐ろしい目に遭う、とのことでした。もっともそれがどんな体験なのかまでは残念ながら知っている方はいないようでしたけど」
ということらしい。だが、朝比奈さんは、
「えっ、あ、あのぅ、あたしが鶴屋さんから聞いた話、ちょっと古泉くんのとは違うんですけど」
と前置きした上で、
「その屋台でしたっけ――のお話を誰か他の人に教えちゃうと、後で誰かがどこかに連れて行っちゃう、ってことみたいでした」
と、おっかなびっくり説明してくださった。あれ、でも朝比奈さん?
「は、はい。何でしょう?」
もしそうなら鶴屋さんも今話してくれた朝比奈さん自身も危ないってことになりませんか、それ?
「ふえっ、そ、そうなんですかぁ? ひえぇ! ど、ど、どうしよう、キョンくん」
自分のした話にブルブルと怯える朝比奈さん。自分自身の肩を抱いて今にも泣き出しそうな表情だ。
「ちょっとキョン! 何であんたがみくるちゃんを怖がらせてんのよ。――ああ、ほらみくるちゃん。あなたもしっかりしなさい」
ハルヒは朝比奈さんを抱き寄せると小さい子供をあやすかのように頭を撫でていた。って、今のは俺が悪いのか?
「うえぇぇぇ。えぐっ」
結局朝比奈さんはハルヒの胸に顔を埋めて泣き出してしまった。
そういえば改めて冷静に考えてみると、なんだかんだで俺は朝比奈さんのことを泣かせてばかりいるような気がする。ちょっと反省した方がいいかもな。
「でも二人の話って、あたしが聞いたのとは全然違うのよね。どういうことかしら?」
ちなみにハルヒが聞いた噂とやらは、夜中に屋台のリヤカーを引いたおっさんが大声で笑いながら時速五十キロで追いかけてくる、というものらしかった。ある意味一番怖い気がするぞ、それ。
「そういえば、ねえ有希。あなたはなにか聞いていない?」
「なにも」
長門はたった一言返事をしたのみで、再び貝のように沈黙してしまった。実に省エネルギーだ。俺も見習いたいね。
「で、その怪しげな屋台に何の用があるってんだ?」
「そんなの決まってるじゃないの。いい、キョン? あたしたちSOS団で、その怪しげな屋台のおっさんを捕まえるの! モチロン生け捕りよ、生け捕り」
両の瞳の中で超新星を数十個ほど炸裂させたような笑顔でハルヒはそう宣言した。
「いい、みんな? 今晩八時に有希のマンション前に集合。各自、懐中電灯持参でねっ! じゃあ、ミーティングは終了。本日は一旦これで解散!」
そう叫ぶとハルヒは真っ先に部室から飛び出していこうとした。が、ドアを開けたところで振り向きざまに、
「キョン、解ってると思うけど、遅刻は厳禁だからね!」
と言ってバタバタと駆けて行ってしまった。
やれやれ、と俺が嘆息したところ、目の前の古泉がおもむろにこう切り出してきた。
「やはり――あなたもお気付きのようですね」
何を勿体つけてやがる。俺にはお前の言いたいことなんてサッパリ解らんぞ。
「おや、別に隠さなくてもいいじゃないですか。僕にだって解りますよ。涼宮さんが無理をしてまで明るく振舞っている、ということがね」
ふん。だからそれがどうかしたのか?
「もし、差し支えなければ、本日あなたと涼宮さんの間に起こったことをお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
いつの間にか朝比奈さんも長門も俺に注目していた。
「ダメですよぅ、キョンくん。涼宮さんとは仲良くしなくちゃ」
「………………」
多勢に無勢。仕方なく俺はつい先程の教室での顛末を三人に白状させられることになってしまった。って、そもそも悪いのは谷口の野郎で、俺は無実だ!
「なるほど、僕自身、個人的な嗜好に関してとやかく言うつもりは全くありませんが、件の芸術作品はおそらく涼宮さんにとっては刺激が強すぎたのでしょうか」
それにしてもただの絵だぞ。何でそこまで過敏にならんといかんのだ。
「あるいはこうも考えられませんか? 涼宮さんはあなたには春画の女性よりも自分の方に興味を持って欲しい、というある種の嫉妬のようなものを感じてしまった、とね」
バカバカしい。大体あいつのセリフはたった一言『不潔!』だったんだぞ。軽蔑以外の感情なんて含まれているとも思えん。
「あの、キョンくん? わたしも古泉くんの言う通りで涼宮さんは嫉妬を感じていたとは思うんです。でも、それは絵の女の人じゃなくって……その、谷口くんたち男子みんなに対して、じゃないかなって考えたの」
へっ? 朝比奈さん、それはどういう意味でしょうか?
「えっと、女の子って男の子たちが際どいお話をしているところには近寄りがたいと思うの。なんていうかやっぱり抵抗があるでしょう」
はあ、そういうモノなんですかね?
「もしわたしが涼宮さんの立場だったら、そんな話の輪の中にいるキョンくんを見るのって、ちょっと複雑な気持ちになっちゃうんじゃないかな、って。そもそもキョンくんって、今日涼宮さんとどのくらい会話してましたか?」
さて、今日は休み時間もほとんどノートとにらめっこ状態だったんで、ハルヒとはあんまり話してないぞ。普段の俺からすればありえないと我ながら思ってしまうが、そういえばハルヒも珍しく遠慮でもしたのかちょっかい出してこなかったしな。
「でも、谷口氏を筆頭に男子の皆さんは何の気兼ねもなくあなたに話し掛けることができた。ふむ、そういう意味でも涼宮さんはちょっとしたジェラシーを感じてしまっておられたのかもしれませんね」
いや待て、そもそも何故ハルヒが俺に関して、谷口の奴なんかに嫉妬するんだ?
「――本気でそう、仰っているのでしょうか?」
「もう、キョンくんったら! 涼宮さんが可哀想ですよぅ」
理由は解らんが古泉も朝比奈さんも本気で呆れている様子だった。
どう考えても可哀想なのはむしろ俺なんじゃないか? とは心の奥で思ったものの、あえて口に出さない方が身のためのような気がして、俺は再度溜息を深く吐いたのだった。
それにしても、今日の長門は全くといっていいほど言葉を発しなかったな。まあ、そういう日もあるってことかね。
古泉は今晩の屋台お化け探索に備えて用意が必要だとかで一足先に帰ってしまった。
朝比奈さんが部室内で着替えるため廊下で立ち尽くしていた俺の制服の袖が不意に引っ張られる。
「話がある」
長門だった。ってお前いつの間に部室から出てきたんだ? ま、そりゃともかく、さっきからずっと黙りっぱなしだった長門の方から俺に話なんて、一体何のことなんだ?
「涼宮ハルヒの述べていた『屋台』に関する都市伝説について」
長門は可視光を全く反射させることのなさそうな漆黒の瞳を俺に向けたまま、とんでもないことを喋りだした。
「本日十五時五十三分、つまり彼女がこの部室に現れる時刻までそのような噂話は存在しなかった。しかし、該当時刻以降、数週間程度の過去……正確には二十六日前の時点で件の『屋台』の目撃情報が発現したことになっている」
――ちょっと待ってくれ。それじゃあ、例の怪談染みた噂はハルヒの捏造ってことなのか?
「捏造という言葉は今回の事例には不適切。今回の事象は涼宮ハルヒ自身がつい先程創造したもの。彼女の能力は過去に遡り、『屋台』そのものを生み出した可能性がある」
おいおい、そりゃ本当か?
「あくまでも可能性のレベルでの推測。そうでなければ情報改変の結果、涼宮ハルヒはこの時空間に未知の……我々も把握していない情報生命体の一種を召喚したとも考えられる」
あー、細かい話はサッパリ理解できてないんだが、要するに長門――またあの『カマドウマ』とか『五線譜怪獣』みたいなのとやり合うことになる、って話なのか?
「そう。……更に懸念すべき点は、創造あるいは召喚された情報生命体は、わたしたちのいるこの三次元空間で実体化した形跡がある、ということ」
ΩΩ Ω<な、何だってぇ~!
「それじゃ、前みたいに異相空間で対決ってのじゃなくって、例えば帰り道とかに突然そいつが現れて襲い掛かってくるかも知れないってことなのか」
「その可能性はゼロではない。だが、最大の問題は、その情報生命体と涼宮ハルヒが遭遇する確率が極めて高いこと。彼女から隠し通すことは非常に困難」
俺は戦慄した。長門の口ぶりでは今回の敵はかなりヤバそうな相手らしい。しかもハルヒを巻き込んでしまう虞まである。もしそうなったらあいつは好奇心旺盛だから単純に喜ぶんだろうが……考えただけで頭痛がしてきた。
「わたし自身も涼宮ハルヒの眼前での情報操作には限界がある。可能な限りあなたと涼宮ハルヒの保全に尽力するが、リスクは今までと比べて桁違いに高い」
長門でもハルヒの目を誤魔化している余裕がないというわけか。つまり、最悪俺自身でなんとかしろ、ってことなんだよな――って、俺はただの普通の人間だぞ。出来ることなんて、ハルヒを連れて逃げ出すぐらいが関の山だと思うんだがな。
「………………」
物騒なことを話し終えた長門と頭を抱えた俺が沈黙しているところに、ドアが開いて朝比奈さんがキョトンとした表情で立っていた。
「お待たせしました――えっ、あ、あの、キョンくん? 何だか難しい顔してますけど、長門さんとなに話してたんですか?」
俺は少々悩んだものの、
「――ああ、いいえ。別に大したことじゃないですよ」
と、はぐらかした。先程の長門の話をしたところで、朝比奈さんを変に困惑させてしまうのもどうかと思ったんでな。
丁度そのとき不意に思いついたことがあって、俺は朝比奈さんに質問する。
「そういえば朝比奈さん、鶴屋さんから例の『屋台』のことを聞いたのって、いつ頃だったんですか?」
「あれ? そういえばいつだったんだろう――う~ん、ごめんなさい。わたし、忘れちゃったみたい……あっ、そういえばわたし、鶴屋さんと待ち合わせしてたんだっけ! キョンくん、長門さん。わたしもう行きますね」
朝比奈さんは慌てて先を急ごうとしたが、何もないところで蹴躓いて、
「ひょえっ! はわわぁ~」
と妙に可愛らしい悲鳴を上げながらパタパタと走り去ってしまった。
「なあ長門、これって――」
「あなたの想像の通り朝比奈みくるも古泉一樹も、先程話した内容は涼宮ハルヒの能力によって施された情報操作による擬似記憶をベースとしたもの。彼らだけではない。半径十数キロメートル内の人間は全て記憶改竄の対象となっていた。……あなたを除いて」
えっ、俺? まあ確かに俺には、その『屋台』に関する噂話なんて今日が初耳だったからな。
「でも何でハルヒは俺の記憶を変えなかったんだ?」
「……その答えを、あなたはもう自覚しているはず」
長門はそう言ったきり、俺に背を向けて歩き始めた。どうやら自分で考えろ、ってことのようだが、気のせいか俺には長門が呆れているようにも思えてしかたがなかったのだった。
一旦自宅に戻った俺は、悠長に晩飯を食っていたのでは間に合わないことに気付いて意気消沈しながら、それでも逆算で集合時間ギリギリな時刻に自転車で再出発することになったのだ。
ちなみに、妹に『屋台』の噂を知っているかどうか訊いたところ、
「うん、知ってるよ~。今日もミヨキチと一緒にお話してたんだよ。『怖いよね~』って」
と、ほぼ予想通りの返答が得られた。
「こらキョン、遅いじゃないの。今度また、あんたの奢りねっ!」
「どうも、お疲れ様です」
「こ、こんばんわ、キョンくん」
「……」
またしても俺がラストかよ。いや、今更どうこう言うのはもう無駄な気もする。
「じゃあ、まず四人でくじを引いてちょうだい。二手に分かれて探索よ。それから、キョン。あんたの自転車、あたしに貸しなさい」
自転車? お前が乗るのか?
「そうよ。なんてったって、相手は時速五十キロで移動するのよ。こっちもそれなりに装備を整えておかないとね」
いや、自転車でも時速五十キロは無理だろ。なんせロードレーサーならいざ知らず、俺のはオンボロのママチャリなんだし。――長門なら生身でも何とかなりそうな気もするが、勿論それを口に出す俺ではない。
「ほら、早く引いた引いた! ……へえ、古泉くんと有希に、みくるちゃんとキョンか。いい、キョン。ドサクサに紛れてみくるちゃんにいやらしいことしたら許さないんだからねっ!」
しねーよ。
「ふんだ。――古泉くん、じゃあもう一度とりあえずの分担を確認しましょう」
「了解しました」
古泉はなにやら懐から取り出した。っていつぞやの一万分の一市内地図か。見ると妙な印が既に点々と書き込まれている。
「僕なりに調べた屋台の目撃情報をプロットしてみたんですが、大まかにいうと線路を挟んで東側と西側の、この二つの地域に集中しているようです。ええ、それがただの普通の屋台という可能性もありますけどね」
先にさっさと帰ってしまったと思ったら、こんな準備をしていたなんて、ご苦労様なこった。
しかし、長門の話からすると、古泉の示したこの目撃ポイントとやらも結局のところはハルヒに作り出されたものらしい。何か非常にいやな予感がする。
「じゃあ有希たちは東側、みくるちゃんたちは西側をお願いね。あたしはこの辺りをしばらくグルグル周ってるから、何かあったらケータイに電話してね。すぐに駆けつけるから」
ハルヒはそう言って俺の自転車に乗って行ってしまった。やれやれ。
「さて、では僕たちも配置につくとしましょうか」
古泉の言葉に従って俺も朝比奈さんと自分たちの担当の箇所へと向かおうとしたのだが、
「待って」
「あ、あのぅ――長門さん。どうかしたんですか?」
みれば長門は古泉に同行せずに俺の背後に立っていた。なんだ、用があるのは俺に、ってことか?
「……これを」
そう言って手渡されたのは中に液体らしきものが入った小さな透明のガラス製の超小型アンプル、とでも形容したらいいのだろうか。まさか今すぐこれを飲め、ってことじゃないよな。
「護身用のカプセル」
護身用ね。ってことは、割ると催涙ガスか何かが発生して目くらましになる、とかそんな類のものなのか?
「概ね、その解釈で間違いではない」
解ったよ。何とも頼もしいお守りだな。ありがとう、長門。
「いい。……気をつけて」
そう言って長門は怪訝そうな顔をして待っている古泉の方にゆっくりと歩いていった。
「キョンくん――そ、その、わたしたちも行きましょうか」
朝比奈さんに促され、俺も先程の地図でマークされていた地域の線路西側の方を目指して進み始めたのだった。
果たして、目標地点にはラーメン屋らしき屋台が構えており、仕事帰りらしきサラリーマンの客が数人集まっていた。行列こそないものの、客の回転率も悪くなさそう。結構繁盛しているのだろうか。
朝比奈さんと俺は、少し離れたところにあるバス停のベンチからその様子を観察することにした。
しかし、遠目にではあるが、人が何か食事しているのを見ていると、こっちまでお腹が減ってくるというものだ。しかも俺は晩飯抜きだ。ちゃんと食ってくればよかったな。
とか俺がどうでもよさそうな後悔を脳内に回らせていると、朝比奈さんが真面目そうな表情で俺に訊いてきた。
「ねえキョンくん。あの、長門さんとなにかあったんですか? 下校のときだって、なんだか悩んでるような感じだったし。長門さんはいつもとそんなに変わった感じはありませんでしたけど――涼宮さんのことでなにかお話してたんじゃ……」
う~ん、さっきは上手くごまかしたつもりだったんだが、今度はそういうわけにもいかないみたいだ。どうしたもんだろう?
しょうがない、俺は嘘にならないように核心部分だけぼかしつつも答えた。
「ええ、まあそんなとこですよ。長門一人ではフォローし切れないかも知れないんで、俺にもなんとかしてもらいたい、ってことらしいです」
「あっ、やっぱり長門さんもそう思ってらしたんですね、うふふっ。キョンくん、いいですか? いくら照れくさいからってあんまり邪険にしてると涼宮さんが可哀想ですよ」
「いや、ははは」
どうやらごまかす方向を選択し損なったか。ここぞとばかりに朝比奈さんは女性というものが如何に繊細で傷つきやすいか、ということを珍しくも滔々と俺に語り続けたのだ。
実に耳の痛い話ではあったが、俺は必死に身振り手振りを交えての忠告をしてくださる目の前の可憐な先輩の様子を見ながら、ハルヒって実は朝比奈さんからもこんなに慕われているんだな、と羨ましく思ってしまったりしたのだった。
なんだかんだ言ってもハルヒ自身には強烈なカリスマというものがあることは間違いない。だからこそ朝比奈さんだけでなく長門も古泉も自分たちの属する勢力のこと抜きでハルヒの傍にいることを選んだのだろう。
「もう、キョンくんったら。お話……ちゃんと聞いてますか?」
ああ、すみません。なんでしたっけ?
………
……
…
「それに、いくら健康的な若い男の子だからって、あんまりエッチなのはいけないと思いますよ。さすがの涼宮さんでも引いちゃいますからね。メッ、ですよ」
と、散々朝比奈さんから可愛らしくも突っ込みの厳しいお説教を頂戴している間も、目標の屋台の様子に特に変わったところはみられなかった。
そうこうしているうちに携帯電話に着信。ハルヒからだ。
『そろそろ一時間経ったし、メンバー交代しましょう。とりあえずあたしがそっちに行くまで待機してなさい』
何だ、もう自転車には飽きたのか?
『違うわよ、バカキョン。ずっと監視してないといけないでしょ。まずあたしがあんたの代わりにみくるちゃんと一時的に組むから、あんたは有希たちの方に行って。で、古泉くんにここまで来てもらうまであたし待ってるから』
要するに男子だけ配置を交代ってことか。
「そうよ」
と、自転車のブレーキ音と共に目の前からハルヒの肉声が届く。おいこら、自転車に乗りながらの携帯電話の使用は道交法違反で――、
「うるさいわね! ほらキョン。ちゃっちゃと行ってきなさいよ!」
解ったって。だから自転車使わせろ。
「何でよ? 徒歩で行けばいいじゃないの」
時間が勿体無い。復路は古泉に乗って来させればいいだろ?
「――もう、しょうがないわね」
渋々といった感じで同意するハルヒ。つーか、そもそもこの自転車は俺の物なんだがな。
「あんたのモノはあたしのモノ、あたしのモノはあたしだけのモノなの。そんなの決まってるでしょ?」
ハイハイ、何処かのガキ大将理論でも好きなだけ唱えてろ。
俺は膨れっ面したハルヒとオロオロしている朝比奈さんを残して、長門と古泉の待つ東側へと向かうことにしたのだ。
しばらくして東側の監視地点に到着。小学校の脇に出店しているのはおでんの屋台らしき赤提灯、もっともこちらには客らしき人の姿はなかった。長門と古泉の組はそれをすぐ傍の公園から観察していたらしい。
「なるほど、交代ですね。では、後はよろしくお願いいたします」
そういって古泉は俺の自転車に跨って颯爽と夜の闇に消えていった。何をやっても一々気障な古泉。いや、むしろここは笑うところかも知れん。
二人きりになったところで、俺は尋ねる。
「なあ長門。あの屋台のおっちゃんが例の『情報生命体』とやらの化けている姿なのか?」
「まだ正確には断定できないが現時点のデータによれば九十七パーセントの確率でただの人間」
ちなみに朝比奈さんがいる方のラーメン屋台も長門曰く普通の人間しか存在していないとのことだ。何だ、結局のところどっちもハズレってことじゃないか。待てよ、ということは……。
「敵はまだ私たちの前にその姿を現していない。全く別の地点に存在すると考えた方が自然。もっとも監視中の二者の内一方が偽装している可能性も残っている」
しばらくは監視を続けろ、ってことなんだな。
「そう」
だが、それから更に四十分近くが過ぎたが、やはり状況は何も進展しなかった。自転車で二地点を幾度となく往復していたハルヒの機嫌も、それに比例するかのように急降下中だ。
と、そこにまた着信音。
正直、そのハルヒとの通話で俺は強硬に撤退を主張すべきだったのだ。だが事態は思いも因らぬところから転がり始めることとなったのだ。
勘弁してくれよ。もう。
Part-B
「もう、どうしてあたしたちが見張ってるのに、中々尻尾を出さないのよ?」
ついあたしは電話の向こうのキョンに悪態をついてしまう。
キョンに何の責任があるわけでもないのは十分承知しているけど、学校の教室での一件のこともあって、結果的にあたしはキョンに八つ当たりしてしまうのよね。
『そんなこと言っても、見張ってるからこそ相手も正体を現さないんじゃないのか?』
一々正論で返してくるキョンにあたしはさらにイライラを募らせてしまう。
「そんなこと言ってても埒があかないじゃないの。あっ、そうだわ。この際あたしたちが客となって直に乗り込みましょう! 古泉くんもみくるちゃんもいいわよね?」
「成程、その手がありましたか」
「ええっ? でも、その、涼宮さん。それだとわたしたちが、その屋台で怖い目に遭っちゃうんじゃ……」
「大丈夫よ。みくるちゃんは古泉くんと一緒なんだし、なにかあってもそれはそれで面白いじゃないの」
「ふえぇっ!」
「了解しました。仮に何か恐ろしいものが現れても、この僕がなんとか朝比奈さんの身をお守りいたしましょう」
「さすがは副団長ね。偉いわ古泉くん!」
「ところで、涼宮さんは如何なさいますか?」
「そうねえ、あたしは有希たちの方に行ってみてから考えることにするわ。こっちは二人に任せたわよ」
「ははあ。仰せの通りに」
古泉くんは大袈裟にかしこまったポーズを取ると、意味ありげなウインクをあたしに寄越した。
なによ、あたしは有希が心配だからあっちに行くだけで、別にキョンのことが気になるとかそんなことないんだから。
『あー、ハルヒ。ちょっと言いにくいことなんだが――』
って、何なのよもう、キョンったら。
『……実は、財布を家に忘れてきた』
と、同時にキョンのお腹の虫らしい音がぐ~っと鳴ったのがケータイ越しに聞こえた。
はあ、もう。
全く何処までもマヌケなんだからキョンのアホンダラゲは!
やっぱりあたしが一緒にいてあげないとダメダメなのよね、ほんと。
「ちょっと電話、有希に代わんなさいよ! ――ああ、有希? そっちはあなたが一人でお客として行ってきてちょうだい。いい? キョンが可哀想だからって立て替えたりなんかしちゃダメよ」
『なぜ?』
「甘やかすのが本人のためになるとは限らないの! ここは心を鬼にして、有希一人で見事任務を遂行してごらんなさい」
『……わかった』
それにしてもしょうがないわねえ、キョンったら。
「じゃあ、あたしもうあっちに行くから、後は頼んだわよ、みくるちゃん、古泉くん」
「は、はいぃ!」
「かしこまりました、閣下」
自転車を漕ぎながら、あたしはやっぱりキョンのことを考えてしまっていた。
昼間の学校で珍しく真面目そうに勉強していたキョン。
昨日あたしが言ったことが相当堪えたのかしら?
ともかく邪魔になっちゃ悪いような気がして、あたしもずっとちょっかい出すの控えてたら、いつの間にか男子どもで集まってわいわい騒いでたのよね。
我慢してたあたしがバカみたいじゃないのよ。
って、勘違いしないでよね。別にあたしは今日一日キョンと話ができなくて寂しかったなんてこと……。
ううん、正直、あたしは寂しかったのよ。
アホの谷口や国木田たちは男同士なんだから、同性だけでしかできないような下ネタなんかでも気軽にキョンと盛り上がれる。
そんなキョンがあたしの手の届かないところにいるような気がして、ついあたしは酷い言葉をキョンにぶつけてしまった。
高々ただの絵じゃないの。
なのにあたしはキョンに向かって『不潔』だなんて……。
って、アレ?
そもそもあいつらが見て騒いでた絵って、一体どんなのだったかしら?
何故かその部分だけあたしの記憶からポッカリ消え去ってしまっている。
まあいっか。
そんなことより、キョンはお財布忘れたって言ってたじゃないの。
それに電話越しに聞こえるぐらいお腹が鳴ってたし、ひょっとしてあいつ晩御飯食べてなかったのかしら?
みんなの手前ついあんなこと言っちゃったんだけどラーメンの一杯ぐらいならなんとかしてあげたかったな。
ともかく、何でもいいからお腹の足しになるようなものをキョンに差入れしてあげた方がいいのかもね。
でもここからだとコンビニは遠回りだし、どうしたものかしら?
と、丁度あたしの目の前に白いバンが停まっているのが見えた。
聞こえてくる発電機だかの音と香ばしい匂い。
うん、そうね、これでもいいかな、と、あたしはその車両に近付くと、華麗な手付きで仕込みをしているニコニコしたおっちゃんに声を掛けたのだった。
ハルヒの発案により俺以外のメンバーは直接屋台に乗り込む作戦が決行されることとなった。何故俺以外かというと、なんてことはない、ただ俺が財布を持ってくるのを忘れただけだったりする。
長門にちょっと立て替えてもらうというのもあったかも知れんが、そこはハルヒが強硬にダメ出ししたせいで無しになってしまった。
長門は何処からか取り出した双眼鏡を俺に手渡すと、
「行ってくる」
と言い残して、音もなく目標の屋台の方に接近して行ったのだった。
俺は長門から借りた双眼鏡でその様子を観察する。って、何だこれ、光増式と熱感知式が切り替え可能な超望遠暗視スコープじゃないか!
なあ長門よ。何もここまで高スペックなシロモノを用意する必要なんてないだろ? とか思いながらも俺はその双眼鏡に仕込まれたギミックをいろいろ試しながら長門のいる屋台を監視していたそのとき、
「キョン!」
おわぁ、ビックリした! って、何だハルヒか。あんまり驚かすなよ、口から魂が半分以上飛び出してしまうとこだったじゃないか。
「『何だ』じゃないでしょ、このバカキョン! って、あら、あんたもその双眼鏡、有希に借りてたのね」
見ればハルヒも俺が持っているのと同じ型のブツを首からぶら下げていた。さすがは長門だ。実に用意のいいことで。
適当な位置に俺の自転車を停めたハルヒは、ベンチの俺の横に腰を下ろすと、持っていた白いビニール袋からガサガサと何か取り出した――たこ焼きか。ああ、いいなあ、旨そうだなあ。でもこいつ、自分で食べるために買ってきたんだろうな。
と羨ましそうにしていた俺に、ハルヒは爪楊枝で青海苔とソースまみれの球体を突き刺すと、俺の前に差し出してきた。って、えっ?
「なによ、あんたお腹空いてるんでしょ? 全然食べずに監視だけってのも惨めかなって思ったから、その――差入れよ、ただの差入れ」
って、俺にか? 本当にいいのか?
「もう、なに変に勘繰ってんのよ。ほら、ちゃっちゃと食べなさい」
と半ば無理矢理俺の口に突っ込んできた。熱っ! でもこのたこ焼きは口の中を火傷してでも食べる価値があるな。ふわとろで実に美味だ。
「ふ~ん、そんなに美味しいんだ。じゃあ、あたしももらうわよ」
ハルヒもその一つを自分の口に放り込んだ。ちゃっかりしてやがるな、本当に。いや、どちらかといえば俺の方こそハルヒのおこぼれに与っている身分なんだっけ。
「ほら、次いくわよ。はい『あ~ん』」
「ん」
「それじゃあたしも……もう一個」
なんだかんだで結局俺とハルヒで一舟を半分こしたことになるな。
しかし、何かを旨そうに食ってるこいつは本当に嬉しそうな表情をするんだよな、とかついつい見惚れてしまった俺に、
「なによキョン、どうかしたの?」
と、最後の一個を平らげたハルヒは口をモゴモゴさせながら怪訝そうな顔をした。
動揺した俺はつい余計なことを口走ってしまい、墓穴を掘ってしまった。
「いや、その、さっきから何で同じ爪楊枝を使ってんのかなって思って」
ハルヒは夜目にも解るくらいに頬を朱に染めると、
「し、しかたないでしょ。どうしてか知らないんだけど、普通二本入ってるはずの爪楊枝が一本だけしか入ってなかったんだもん。別に、間接キスになっちゃうとか、そんなことあたしは気にしたりなんて――」
か、間接キス?
「うぁっ、ば、バカキョン!」
更に地雷を踏みつけたらしい俺をハルヒはポカポカと殴りつけてきた。まあ痛くも何ともないんだが別の意味でダメージは甚大だ。
ふと見るとハルヒの口元に僅かにソースが付いていた。
「おいハルヒ。ソース付いてるぞ」
「えっ、嘘?」
そんなことで一々嘘ついてどうするよ?
全く見当外れの箇所を拭おうとするハルヒを見て俺はつい、
「ああ違う違う。どれ、じっとしてろ」
と、片手でハルヒの顎に手を当てて、くいっと上を向かせると、もう片手の指で口の脇についたソースを拭き取り――、
「!」
って、今何をしようとしたんだ、俺? まさかハルヒの口元のソースを拭った指を、俺は舐めようと……。
「どしたの、キョン?」
不思議そうな顔をしているハルヒ。そのハルヒの顎に手を掛けた姿勢のまま俺は暫し硬直してしまっていた。
沈黙。
脳内に渦巻いていたわけの解らない感情が沈静化されるまでどの程度を要したのだろうか。
とにかく我に返った俺は、
「すまん、ハルヒ。ちょ、ちょっと俺、手を洗ってくるからな。長門がいる屋台の方、頼む」
と、その場から半ば逃げ出すかのように公園の隅のトイレに向かって走り出したのだった。
慌てた様子で走り去ってしまうキョンの背中を、あたしはしばらくぼーっと見ていた。
気のせいか、さっきまでキョンの触れていた顎の部分がやけに火照ってなんだかくすぐったい。
あたしとキョンの二人以外、誰もいない夜の公園。
せっかくいいムードだったのに、露骨に逃げ出しちゃうなんて、キョンったら小心者なんだから、もう!
でも待って、そういえばあたしたちはさっきたこ焼き食べたばっかりじゃないの。
ひょっとして歯に青海苔とか付いちゃってるのかしら?
ヤダヤダ、大失敗じゃないの、あたしとしたことが迂闊すぎるってもんだわ!
と、そこであたしは思わず我に返る。
なに考えてるんだろう、あたしって…………。
そういえば有希が一人でおでん屋台の潜入捜査をしてたんだっけ。
ちゃんと見張ってないとダメじゃないの。
双眼鏡を手にあたしは屋台の監視を開始する。
ここからでは店のおっちゃんの顔とかは見えないけど、有希の様子はバッチリ確認できるから、なにかが現れてもすぐに駆けつけられるってことよね。
それにしても、さっきから見てたけど、有希ってよく食べるわねえ。
何だろう、痩せの大食いってことなのかしら、今度フードファイトの大会に出場を勧めてみようかしらね。
って、ちょっと、有希が飲んでるのって、あれ、お水なんかじゃないわよね。
一升瓶っぽいのから注がれてたし、まさか日本酒なのかしら?
でも大丈夫かな、相変わらず有希は制服姿のままだし、未成年者、それも現役の女子高校生が屋台で堂々と飲酒だなんて、見付かったら大事になっちゃいそう。
でも、有希の飲みっぷり、あたしから見ても惚れ惚れするぐらい気持ちいいのよね。
いつか差し向かいで有希と飲んでみたいところよね。
ってダメよダメ、あたしはもう二度と酔っ払ったりしないって決めたんだから。
丁度そのとき、隣に誰かが座ったような気配を感じた。
多分キョンが戻ってきたんだろう。
「もう、手を洗ってくるだけでどんだけ掛かってんのよ、ほんとに。なにしてたのよ?」
「……」
ちょっとちょっと、なによ、その反応、あたしの質問を無視するつもり?
「ふんだ、あんたがそんな態度なら、あたしにだって考えがあるわよ」
「…………」
「いい根性ね、もう、ちょっとやそっとじゃ許してあげないんだから!」
あたしはキョンがちゃんと謝ってくるまでひたすらシカトすることにしたの。
顔も見てやらないんだからね。
ぺたり。
「やだもう、なに気安く肩に手なんて廻してくるのよ」
あたしはぷいっと身体を揺すってキョンの腕を振りほどく。
ぴとっ。
「ちょっとキョン、あんたしつこいわよ」
ぷいっ。
ぴとん。
ぷいっ。
ぺたっ。
んもう、何なのよ?
「しつこいったら!」
ぷいっ。
「キョン。あんた、いいかげんにしなさいよ!」
さわっ。
「やだキョン。あんたどこ触って」
さわさわっ。
なるほど、あんたがその気ならあたしにだって意地ってもんがあるわ! なにをされようが、徹底的に無視しちゃうんだからね。
さわさわさわっ。
「くっ!」
中々やるじゃないのキョン、でもあたしはそんなことで参ったりなんか、
もぞもぞっ、さわさわさわっ。
「んぐぅ! ちょっとキョン、あんた調子に乗り過ぎなのよ――ええっ?」
突然首周りをグイっと掴まれたのと同時にあたしの両手両足が変な感触のモノに捕らえられ、次の瞬間にはあたしの身体は宙に浮いていた。
「なによこれ、キョン?」
違う――キョンじゃない!
あたしの眼下にはクネクネした不気味な姿の――まるでタコのお化け――がいて、そいつから何本も生えている触手らしきものがあたしを拘束していたのだった。
「いやぁぁ! キョン、助けて!」
悲鳴にも動じる様子も見せずに、タコお化けがもう一本の触手をスカートの中に侵入させようとしたところで、恐怖と絶望のあまり、あたしは意識を失った。
「う~~水道水道」
そんなわけで俺は、目の前にある公園のトイレにやってきたのだ。って何だよこの変なノリは?
蛇口を捻るとさっさと指に付いたソースを洗い落とす。ついでに持ってきてしまったたこ焼きの入っていたパッケージをゴミ箱に捨てようとして、ふと思い直す。
そういえば、ハルヒは自分用に買ったたこ焼きを半分分けてくれたのかも知れんな。だとすると、代金は割り勘――いや、やっぱり俺が全額持つべきだろうかね。なんせたこ焼き一舟分だからな。
ビニール袋に入っていたレシートを取り出す。何だ、コンビニで買ったんじゃなかったのか。とすると、その辺にきてたらしいたこ焼き屋台で買ったってことだな。
ん、待てよ? 何かが俺の頭の中に引っ掛かる。
『ああ「蛸と海女」だね。北斎の作ってことだし、結構有名なんじゃないかな』
『僕が聞いた話では、何やらその屋台で食事すると、身の毛もよだつような恐ろしい目に遭う、とのことでした』
『その屋台でしたっけ――のお話を誰か他の人に教えちゃうと、後で誰かがどこかに連れて行っちゃう、ってことみたいでした』
『涼宮ハルヒはこの時空間に未知の……我々も把握していない情報生命体の一種を召喚したとも考えられる』
「しまった!」
ハルヒが危ない! 屋台なんていうからてっきりラーメンとかおでんの方にばかり頭が行ってしまったが、今日ハルヒが怒りを爆発させた原因と、それが元で生み出された怪談の関連を考えれば……、
「いやぁぁ! キョン、助けて!」
その瞬間、ハルヒの悲鳴が俺の後方で上がった。
慌てて振り返る俺、だがしかし!
「な、何だコリャ?」
目の前には真っ黒な霧のようなものが立ち込めている。これはまさか――タコの墨? でも待てよ、タコの墨が空気中で広範囲に撒き散らされるとは……いや、そもそも情報生命体とかの仕業なんだし何があってもおかしくはないか。
しかし、目の前が何も見えない。チクショウ、こんな時どうすれば――、
「そうか!」
俺は長門に借りた双眼鏡を熱感知モードに切り替えて使用した。これなら可視光が遮られていても熱を発するもの――人間の体温――に反応があるはず。そこにハルヒがいるはずだ。
スコープ越しに見ると、前方の空間にハルヒらしき白っぽい影が浮かび上がった。そっちか!
ハルヒを恐ろしい目にあわせた挙句に何処かに連れ去ろうだなんて、そんな奴、俺が許してたまるかよ!
果たしてそこには、巨大なタコの姿をした怪物がハルヒの手足を拘束して、余った触手をスカートの中に潜り込ませようとしているところだった。何て羨ましい、じゃなくて何て破廉恥な情報生命体なんだ、こいつは!
うっかりハルヒに気を取られた俺の隙を付いて、タコ野郎の別の触手が俺の手足に絡みついた。
「うぉっ! 抜かった」
俺も宙吊りにされてハルヒ同様に身動きが取れない。絶体絶命!
ぷしゅっ。
そのとき、何処からか、まるでサイレンサー付きの銃から弾丸が発射されたみたいな音が聞こえた。一瞬怯むタコ野郎、俺の手を掴んでいた触手が力を失う。
「今だ!」
俺は触手を振りほどくと、長門製護身カプセルを地面に思い切り叩き付けたのだった。
その頃、屋台にて。
「お嬢ちゃん、いい飲みっぷりと食いっぷりだね。おいちゃん、すっかり気に入ったよ」
もぐもぐ。
「そう」
ぐびぐび。
「後はおいちゃんの奢りだ! 好きなだけ飲み食いしてくんな」
「!」
「ん、どしたい? 何か気に入らねえことでもあったかい?」
「ごちそうさま」
「なんでえ、もういいのか。って一万円のお預かりね、お釣りお釣りっと、ってあれ――お嬢ちゃん…………何処行っちまったんだ?」
パキっ、とガラスカプセルの割れる音。しゅーっと白いガスが噴出し、タコ野郎の墨を中和してしまう。と、そこには八人の長門が立っていた。なんだ一体? 分身の術か?
八人長門が同時にジャンプした次の瞬間に、何かを切り裂くような鋭い音がして、俺とハルヒの身体は触手から解放されたのだった。タコ野郎の身体は微塵切りにされて黒い泡状態になり、全て消滅してしまった。
俺は分身術を解いた長門に声を掛ける。
「ありがとう、長門。またお前に助けられたよ」
「お礼ならいい。あなたが最良のタイミングで護身用カプセルを使用したからこそ、あなたも涼宮ハルヒも助け出すことが可能だった」
アレ? ってことはさっき銃弾を打ち込んだのは長門じゃなかったのか?
「わたしではない」
そういえばさっきまで脇に転がっていたダンボール箱がいつの間にか無くなってるな。まあ、そんなことはどうでもいいか。
俺は目の前に倒れていたハルヒを助け起こす。
「おいハルヒ、大丈夫か?」
「う~ん、あれ、キョン? 何であんたがここに」
何だ、こいつ寝惚けてやがるのか。まあ丁度いいか。さっきのも全部夢だったってことにしちまおう。
「なあ長門、どうやら一段落したみたいだし、朝比奈さんと古泉にも連絡してくれないか」
「了解した」
何故か長門は携帯電話で連絡を入れるのではなく、そのまま歩いて公園から出て行ってしまった。まさか徒歩で知らせに行こうってのか?
と、長門が出て行ったのを確認してからだったのか、ハルヒが俺にしがみ付いてきた。
「お、おいハルヒ?」
「うぅっ……怖かったよぉ」
「えっ?」
俺は今まで聞いたこともないようなハルヒのか細い声に意表を突かれた。そのハルヒの身体は先程からずっと小刻みに震えている。
「なんだかすっごい怖くて恥ずかしい目に遭った気がするわ、あたし。でも全然思い出せないの。どうしてなのかしら?」
「無理に思い出すことなんてないだろ、そんなの」
俺はハルヒの頭を軽くくしゃくしゃっと撫でてやると、そっと背中に腕を廻してしっかりと抱きしめてやった。
「キョン?」
頼むからそんな怯えた顔をしないでくれよ。俺はハルヒにはいつも笑っていて欲しいんだ。
「なによそれ、なんであんた、こんなときに限ってそんなに優しくしてくれるのよ?」
さあな、そこんとこは俺自身よく理由が解らん。
「もう、キョンったら……バカ」
そう言って膨れっ面をしたハルヒは目を閉じると体重を全て俺の方に預け掛けてきた。
その頬の赤さと突き出した唇がまるで茹でダコのように見えて、俺は不覚にも可愛いな、とか思ってしまい、つい両腕の力加減を忘れてしまいそうになったのだ。
いや、そのままいただきます、なんてことはしなかったぞ。断じて違う!
そもそもタコなんて今日はもうお腹一杯って気分だったからな。当分の間は青海苔もソースも見たくないぜ。
「おや、機関の同志から緊急連絡があったために大急ぎで馳せ参じたのですが、もう全て終わってしまいましたか。今回は僕の出番もなかったということですね。少々寂しい気もします」
「いいなあ、涼宮さん。あんなにキョンくんに抱きついて、ぎゅーってされるなんて、羨ましいです。あ、やっぱりチュウしちゃうんでしょうか? タコだけに。なんちゃって。うふっ」
「…………糖分がアルコールの分解に支障をきたす。早急に撤収を」
翌日の放課後の文芸部室。
「やっぽ~ハルにゃんっ! ねえねえ、めがっさすっごい噂、聞いちゃったにょろ~」
既に全員集合していたSOS団のアジトに現れたのは名誉顧問の鶴屋さんだった。
「なんでも今度は屋台に現れる謎の大食い美少女なんだってさ~っ! あんまり喋ったりせずに、ひたすら黙々と飲んだり食べたりした挙句、代金よりも大目の支払いをして、おつりも受け取らずにいつの間にか消えちゃうってことなのさっ」
謎の大食い美少女ねえ。
俺はふと長門の方に目を遣った。長門は一瞬こちらを見た後、目を逸らしてしまったように思えた。やっぱりこれはお前のことみたいだな。
「あの、鶴屋さん。せっかくの情報はありがたいんだけど、もうあたし、屋台は懲り懲りなの」
鶴屋さんは、
「へえ、そうなのかいっ。まあいいっさ。今度何か別の面白い情報があったら教えてあげるにょろよっ。じゃあ、まったね~っ」
と、疾風のように去っていってしまった。
「どうしたんだ、ハルヒ? 鶴屋さんがせっかく不思議情報を持ってきてくれたっていうのに」
全てを解った上で俺は敢えて、ウンザリといった表情のハルヒに訊いてみた。
「なによキョン、ニヤニヤしちゃって。とにかくもういいったらいいの」
膨れっ面でむくれるハルヒ。つい俺はその頬に親指と人差し指で輪っかを作るともう片手の人差し指でその円の中に出来た柔らかな膨らみをプニプニと突いてしまう。
「こら、なにすんのよアホキョン!」
ハルヒも負けじと俺の頬に『たこ焼き』を作って突いてきた。やれやれ。全く、この程度のイタズラでハルヒの気を紛らわせてやれるなら、俺はいくら相手をしてやっても構わんけどな。
報酬は――そうだな、ハルヒの元気いっぱいの笑顔、ってとこで手を打とうじゃないか。
「おやおや、実に平和的な光景ではありませんか」
「おかしいんです! キョンくん、昨日の晩は当分たこ焼きはいらないって言ってたのに、涼宮さん相手にたこ焼きごっこなんて――いいなあ」
「……イチャコラバカップル乙。ちなみに、そろそろ『三人オチ』にも食傷気味」