Trick or treat!! (101-57)

Last-modified: 2008-11-02 (日) 00:14:54

概要

作品名作者発表日保管日
Trick or treat!!101-57氏08/11/0108/11/02

作品

 つい最近まで夏の残り香のような微妙な暑さが続いていて、とは言え半袖で家を出るには朝は少々肌寒く、衣替えが行われた直後のブレザーは妙に重たく感じて軽い肩凝りが気になったり、そんなどうでもいいような事で悩んでいたりする季節である。率直に言えば、秋の中ごろだ。
 この季節、振り返ってみれば半年があっという間だったような気がして、果たしてこれまで過ごした日々の意義は如何ほどの物であったか自らに問いかけてみたりするものの、大抵は可もなく不可もないような内容であったり、春には彼方の事のように思えた一年の終わりという節目をぼんやりと見据え始めて、急に訳も無く行き先不明の焦りを感じたり、頭の隅で山積みになっていた『今年の目標』を思い返しては、うっすらと後悔の念を抱いたり、しかして特に何をする事も無いままずるずると冬へなだれ込んでいく。おおよその学生諸君にとってはこのような時分であると思う。
 まあ、俺においても大半は当てはまる事なんだが、大幅に違っている箇所が一つある。『何をする事も無いまま』という部分だ。別段俺は当面の目標を持っている訳でもなければ、確固とした意志でやり続けている何かがある訳でもない。では何故かと言われれば、それはもう涼宮ハルヒが涼宮ハルヒであるゆえとしか答えようが無い。
 あの『後悔』とか『退屈』とかの言葉をゴキブリ並みに毛嫌いするハルヒがこのメランコリーシーズンを無為に過ごすはずも無く、どこからともなくイベントを見つけてきてはこなし、見つからなければ自分で無理矢理作ってしまうことは必至である。当然それにはSOS団が付きまとうので、平団員その1である俺もまた有無を言わさず連れ回されるはめになるであろう。おまけに、過去にそれらが予めスケジュールとしてきっちり立てられた事は殆ど無く、外泊企画でさえ突拍子も無い発言が飛び出た瞬間からスタートし、あれよあれよの間に異郷の地に立っているのである。はてさて、今年末の俺は一体どこにいるのだろうか?
 そんなハルヒとSOS団だが、現在由々しき事態が発生している。どんな事態かと言うと、長門は窓際のパイプ椅子で厚モノ本を読みふけり、朝比奈さんはいそいそとお茶くみに精を出し、古泉は俺の対面でひたすたボードゲームに興じ、ハルヒは団長席でマウスをカチカチクリクリ、俺はこのモラトリアムで平和な時間を満喫させてもらっていて、要するに暇なのであった。かなりのエネルギーを注ぎ込んだ文化祭が打ちあがってこっち、流石のハルヒも疲れたのか暫くは無意欲な充電期間が続いていたが、長きに渡る経験から培われた俺のハルヒセンサーがそろそろヤバイと警告音を鳴らし始める頃になっても、何かが始まる気配は依然としてなかった。いや、気配を見せたことの方が珍しいのだが、とにかく、このありふれた風景の何が由々しいのかと言うと、涼宮ハルヒなる人間は暇であればあるほどその能力を以ってとんでもない事件を誘発するタチであり、そのたびに世界はあわや崩壊の危機に晒されるという、もう口にするのもはばかられるようなアホ臭い話なのである。
 そんな訳だからここ数日はいつまた灰色空間に連れ去られるか不安ですらあったのだが、ハルヒが、
「今週末、久しぶりに市内不思議探索するわよ!」
 とのたまい、一応マシな解消方法を選んでくれたことにほっと胸を撫で下ろした次第である。
 とはいえ、この探索は結局何も見つからないのが常というか、そりゃ当たり前の事であり、その結果さらにフラストレーションを溜められてもたまったもんじゃないので、俺はハルヒの居ない隙を見計らってとりあえず前方に居たニヤケスマイルに相談を持ちかけたのだが、
「ああ、そのことでしたら……そうですね、心配いらないでしょう」
 なんて言って終わり。問い詰めてもウフウフ笑うばっかりで何考えてるか全く分からないので、腹いせにオセロの盤上を黒一色に染めてやった。後で長門とコソコソ話してたようだが、俺の悪口でも言ってたんだろうかね。どうでもいいが。
 
 そして、週末の日の午前某時刻。
 
 後ろ手で玄関を閉め、自転車にまたがる。冷ややかな空気が服と肌の隙間に入り込んできたが、寒くない程度には着てきた。特別めかし込んでる訳でもないが、勘弁してくれよ。長門はどうせ制服だろうから置いといて、あの面子の中にダサい格好で入っていけるほどの図太い神経を持ち合わせてはいないが、洒落たファッションなんてよく分からんし、俺はそれより実用性を重視するんでね。決して言い訳じゃないぞ。
 中途半端な時間だけに住宅街は閑静だったが、駅前に近付くにつれて徐々に風景がきらびやかになっていく。駐輪所で自転車を降りて腕時計に目をやると、集合時間は結構間近に迫っていた。とはいえここからなら歩いても十分間に合うぐらい猶予はあるんだが、どうせ既にメンバーは勢揃いしていて遅いだの罰金だの言われるに違いない。それに合わせて日頃から節約してるもんだから、財布は常にふくよかだぜ。対策を根本から間違えてる気がしないでもないがな。
 いつもの広場に着いたとき、見慣れた四人組の姿があったが、その中央で仁王立ちしている黄色いカチューシャから俺は作為的に視線を外した。まず長門の液体ヘリウムアイズに、次に朝比奈さんのスウィートエンジェルスマイルに、そして古泉の憎たらしいファッションセンスに会釈し、最後にハルヒと面をつき合わせる。飛んで来たのは、紛れも無く予見したとおりの怒声だった。
「遅い! 罰金!」
 一応、まだ5分前だぜ?
 
 いつもの喫茶店に入り、半ば指定席と化している隅っこのボックス席に腰掛ける。程無くしてウェイターがやってきた。コーヒーは……ホット、いや、アイス?
「ちょっと、早く決めなさいよ」
「分かった分かった。すいません、アイスコーヒー一つ」
 いや……やっぱりホットの方が良かったか? くそ、急かすから適当に言っちまったじゃねぇか。大体長門だってまだ決めてないのに何で俺だけ、と思わないでもないが、口に出したところで拗れるだけなので黙っておく。俺も分別付くようになったもんだぜ。
 注文した物が運ばれてくるまでの間、何となく手持ち無沙汰になる。向かいに居た二人のうちハルヒはせっせと恒例のくじを作っていたので、長門に目をやってみたが、何がそんなに面白いのかハルヒが爪楊枝を塗るさまを食い入るように見つめていた。しょうがないので隣を向くと、いつの間にか古泉の面が至近距離でニヤついてやがる。この野郎、背筋に冷たいものが流れたぞ。離れろ。
「申し訳ない。ですがあなたの心配がどうやら杞憂に終わりそうだという事を考えると、どうも口元が緩んでしまうのですよ」
「何だって?」
 心配ってのはあの事だろうが、毎度毎度含みを持たせた言い方が好きな奴だなお前は。また何か例の『機関』とやらが仕組んでることでもあるのか?
「いえ、ですが……そうですね、仕組んでいないといえば嘘になりますが、機関は関与していませんよ。これは僕の独断でしてね。まあ、あなたにも涼宮さんにも悪いようにはなりませんよ」
「お前にそう言われたって信用ならないがな」
「そうですか? 長門さんにもご協力いただいていますが」
 再び長門に視線を戻すと、今度は目が合った。半端な間を置いて長門の頭が微かに上下する。頷いてるのか。そりゃあ確かに古泉単体よりはよっぽど信用できるが、それにしたって陰で俺の身についてあれこれ企まれるのは気分のいいもんじゃあないぞ。
 いよいよ腰を据えて古泉を審問しようとした時、五人分の飲み物がテーブルに並べられた。それに合わせたようにハルヒはボールペンを仕舞うと自分の分を取り寄せ、弁舌を振るい始める。
「それでは、我らがSOS団による市内不思議探索会の説明を始めます!」
 冒頭にそう言って、まずアイスティーを一口含んだ。この台詞に何となく歯切れの悪さを感じるのは『第○○回』とついていないためだが、どうやらハルヒは正確な回数を覚えることが面倒臭くなったらしく、「内容のない回なんて回数にカウントするまでもないわ!」とかなんとか言いながら、いつしか数えることを止めた。勿論俺とて覚えていない。
「と言っても、大体いつもと同じね。でも油断しちゃ駄目よ、向こうはあたし達の気が緩んだ時を狙ってひょっこり尻尾を出すかもしれないんだから、常に血眼で捜しなさい!」
 何か矛盾してないか?
「うるさいわね、自然体でいつつ神経を研ぎ澄ませてなさいってことよ。範囲は……そうね、北と南に分かれましょ」
 またティーをちびりと飲み、脇に置いていたくじをテーブルの下で適当に混ぜてから、手の平に握りこんで差し出してきた。
「さ、引いて」
 言われるまま、何も考えずに俺から一番近かったものを引く。印ありだな。
 続いて古泉。印なし。
 朝比奈さん。印なし。ちくしょう。
 長門。印なし。ってことは……。
「え……」
 えっ、てお前、何だその反応は。まぁ確かに珍しいっつーか、初のペアではあるが。そういやこのくじって一つの組み合わせが出る確率はどのくらいなんだ?
「……うん、そうね、仕方ないわよね。じゃあ、今日は古泉君、みくるちゃん、有希の三人と、あたし、キョンの二人で行うわ」
 何故か声がほんのり上擦ってるが、そんなことはこの際どうでもいいぜ。ただでさえ暴れ馬なハルヒにこれからマンツーマンで引っ張りまわされるなんざ、想像するだけで疲れてくるから驚きだ。せめて精神エネルギーをチャージしようと朝比奈さんの眼福にあずかってみると、その麗しい瞳で俺を見つめながら、
「キ……キョン君、頑張ってくださいねっ!」
 とおっしゃられた。ああ朝比奈さん、一体俺に何を頑張れというのでしょうか?
 ハルヒはカップに残っていた液体を一気に飲み干し、さっさと席を立とうとする。俺はまだ殆ど口をつけておらず、氷が溶けてすっかり薄くなったコーヒーを慌てて胃に収めた。ていうか今更確認するまでもないのかもしれんが、やっぱ会計は俺なんだな。
 
 店を出るやいなやハルヒはずんずんと進んでいくので、朝比奈さん達に軽く手を振って追いかける。行き先があるのかどうか分からんが、ひたすら足を動かすだけで一向に喋ろうとしない。暫く歩いてもこの調子なので、このまま仏頂面のこいつとただそこらを回り続けるだけなんてのはかなりの苦行に思えた俺は自分から話を振ってみることにした。
「なぁハルヒ、さっきから一心不乱に歩いてるが、何かお前の言う不思議に目星でもあるのか?」
 すると今までかなりの大股だった歩みがスローペースになり、前を向いたままではあるが返事をよこしてくる。
「そんなものあったら面白くも何ともないわ。全然予想もつかないような不思議が突如として現れるから面白いんじゃない」
 相変わらずの超理論ではあるが、にべもない様子だ。しかもこれ、何か少し……機嫌悪くないか? こいつがつっけんどんな態度をとることは珍しくもなんとも無いが、サ店に居た時はもうちょっと和やかだったような気もするんだが。
 そういや古泉と長門の謀略が何だったのかは結局聞けずじまいだったが……店前で別れる時に古泉がいやにニヤニヤしていたし、長門はずっとくじを見つめていた。古泉が長門に頼んだのがくじのイカサマだとしたら、今この状況から考えて目的は俺とハルヒをペアにすること以外にない。だが悲しいかな、俺にはその目的が全く理解できないぞ。俺はこいつの退屈を吹き飛ばすような特殊技能の持ち主ではないし、逆に何故か機嫌を損ねてりゃ世話無いぜ。もしかしてあいつら、単に管理を放任しただけじゃないだろうな。
 ああ朝比奈さん、もしかして頑張れとはこういう意味だったのでしょうか。だとしたらそのお心遣いに深く感じ入りたいところですが、できればもうちょっと何とかして欲しかったです。
「……何よ? 黙りこくっちゃって」
「ん……ああ、悪い。考え事してたんでな」
「考え事? あんた、ちゃんと集中して探してるの?」
 痛いところをつかれた。集中は全くできてないだろう。もっとも、それはお前のせいでもあるんだが。
 しかしまあ……それはともかくとして、だ。さっきのアイスコーヒーも効いて何だか肌寒くなってきた。どうせ何も見つからないにしろ、歩き回るならもっとにぎやかで暖かいところの方がいいかもしれないなーなんて考えたので、俺はここいらの地理を思い浮かべながら辺りを見渡してそれらしき場所を探し、ついでに適当な言い訳も考えつつハルヒに提案してみた。
「なあハルヒ、もっとあっちの……そうだな、商店街の方にでも行かないか?」
「何? 宇宙人の気配でも感じたの?」
 んなアホな。ていうか宇宙人ならいつも俺達の身近にいるぞ。
「いや、そういう訳じゃないんだが……そろそろ昼だろ。動き回って腹減ったから、何か買わないか?」
 そう言うと、ハルヒは初めて歩みを止め、少し間を置いてから俺の方に向き直り、整った顔立ちに笑みを浮かべて――ああ、どうやら機嫌は直ったらしいな――こう返答した。
「ま、あんたにしちゃなかなかいい提案だわ。行きましょ」
 そして商店街の方角へ大股歩きを再開しようとする直前、さも至極当然の事とでも言うような顔で、
「誘ってきたんだから、勿論あんたのおごりよね?」
 と付け足した。何と言うか、ちゃっかりしてるぜ。
 
 アーチ状の透明天井を持ち、床は装飾の施されたタイル張りで、広い往来を絶えず人が行き交うこの商店街は比較的新しく、飯時ということもあってかそれなりの賑わいを見せていた。やや離れたところに大型のデパートがあった気がするが、それでも客足が遠のかないのはこの小奇麗で清涼感のある雰囲気や、老舗と新出店、チェーン店が入り混じって抜け目の無い品揃え、定期的なキャンペーンやイベントなど、血と汗を惜しまぬ経営者たちの努力の賜物だと思う。
 てな具合に達観したような論考をしてみたが、アーケード街に入った途端いずこからともなく漂ってきて腹の底を刺激する、このたまらなくうまそうな匂いが一番の要因ではないだろうか。いや、単に腹が減ってるだけという説も否定はできない訳だが……。ほら、ハルヒもさっきから挙動不審になってるじゃないか。
「うーん……肉まん、クレープ、ドーナツ、焼き鳥…………どうせおごらせるんだから、高いものじゃなきゃ損よねぇ」
「待て、本人がいる横で不穏な事を言うんじゃない」
「あら、言わなかったら良かったの?」
「なおの事悪いわ。いいか、軽い腹ごしらえのつもりなんだからえらいもの頼むんじゃないぞ」
「何よ、ケチキョンね」
 ケチと言うがな、お前の胃袋の大きさと遠慮の無さは並みじゃないんだから、こうして釘を刺しておかないと破産させられかねないんだよ。せっかくほくほく暖かい俺の財布をガリガリに減量する気か。
 なんて呆れた時、俺の目に『ホクホクあったかい』とまるで考えていた事そのまんまの広告が映った。妙に気になってよく見てみると、どうやらコロッケ店の売り文句みたいだな。その店に近付けば近付くほど、油が跳ね、衣が弾ける音や香ばしくいい香りが胃を切なくさせるわけだが、さて。
「ハルヒ、コロッケはどうだ? アレだ」
 そう言いつつ、若いお姉さんが明るく張った声でレジをやっているのが印象的な店を指差す。特に深く考えずに気になったから聞いてみただけなんだが、案外チョイスは良かったようで、
「そうねぇ……そこそこね。でもせっかくの提案だし、乗ってあげるわ。感謝しなさい」
 なんていちいち癪に障る言い方でもって賛成の意を表された。
 カジュアルなチュニックをフワフワさせながら店に駆け寄り、ディスプレイを吟味し始めるハルヒ。端から端までを2、3度見渡していたが、やがて面を上げるとこう言い放った。
「なーんか微妙ねぇ、お勧めとかないの?」
 お前……今に始まった事じゃないが、もうちょっと歯に衣を着せることを覚えた方がいいぞ。コロッケだけにな。
「全然うまくないわよ。それにお客は神様なんだから、思った通りの意見を伝えるのは当然だわ」
 ……。いや、それはどうでもいい。見ろ、お姉さん目を丸くして引いてるじゃないか。どうもすいません、こいつちょっとばかし常識を知らない変な奴でして、きっと悪気はないと思いますから何卒ご勘弁いただきたい――って、何故笑われるんだ。
「ふふっ……いや、何でもないの。ごめんなさいね。お勧めかあ、そうねぇ……」
 顎に手をあて、明後日の方向を見ることで考える仕草を作ったお姉さんはそのまま数秒を置き、何かを思いついたようにはっとすると、店の壁に貼ってある一つのチラシを指し示した。
「それじゃあ、これなんかどうかしら? 期間限定キャンペーン中のカボチャコロッケよ。今は店頭に並んでないけど、もうすぐ新しいのが揚がるわ」
 カボチャコロッケか……ビラにプリントされている写真を見る限り、かなりホクホクのあったかの美味であろうことが予想される。うう、そろそろ腹の虫が鳴き出しそうだな。
「うーん……まあ、それでいいわ。二つ頂戴」
 さり気無く俺の分も勝手に頼まれてるようだが、異論は無いから別にいいさ。っと、財布財布……。
「はい。二つで200円ね」
「200……安いですね」
「そりゃあキャンペーン中だからね。うんとサービスしてるわよ」
「ねぇ、さっきからやたらと押してくるけど、キャンペーンって何なの?」
 何か面白そうなものの手がかりを見つけた時の顔だ。
「決まってるじゃない、ハロウィンよ」
 ハルヒはそれを聞いて一瞬忘我したのち、光度最大の笑みを浮かべる。それに反比例するように俺の脳裏を嫌な予感が駆け巡るのは一体どういう訳だろうね。
「……アンビリーバボーだわ! あたしともあろうものがこんな大事で怪しいイベントをすっかり忘れてたなんて! あーもう、今思い出さなきゃ何もしないまま乗り過ごしてたところよ。感謝するわ!」
 そう高らかに言いつつお姉さんに人差し指を突き出す。それは世間一般での感謝の表現とは程遠い気がするんだがな。
「キョン、今日は何日!?」
「あ? 何だ唐突に」
「いいから答えなさいよ、早く!」
「……1日だな、11月1日だ」
 怒気をはらんだ声色に蹴飛ばされるようにして俺はポケットから携帯を取り出し、待ち受けに表示されている日付を読み上げた。これが何か問題でもあるのか?
「大アリだわ、ハロウィンをするにはギリギリのラインじゃない。こうしちゃいらんないわ、行くわよ、キョン!」
「行くっておま、ぬおっ」
 言うが早いか、ハルヒはレスラー並みのトルクで俺の襟首を引っつかむと踵を返し、来た道をぐんぐん戻り始めた。お前、コロッケはどうすんだ?俺もう金払っちまったんだけど、どうなるんだよ!?
 100円硬貨2枚を掌に乗せたお姉さんはしばし呆然としていたが、やがてくすりと微笑むと、手を振りながら小さくなっていった。
 もう駄目だ、こうやってスイッチの入っちまったハルヒを止める術なんてない。おい古泉、結果的にお前の企みは成功に終わったようだが、思わぬ副産物を生み出しちまったかも知れねえぞ。
 
 キリストのおっさんの誕生日であるクリスマス然り何たらの聖人に由来するバレンタイン然り、縁もゆかりも無いはずの行事を輸入してきてはいつの間にか文化として定着させてしまった俺達とその祖先だが、日本人は根本からお祭り騒ぎが好きであるとよく言われるのも納得できる話である。その期に乗じて誇大な宣伝や広告を駆使し、少しでも商品を売りさばこうとした商魂逞しい連中のお陰と言えなくもないが、それにしたってハロウィンに合わせて仮装用の衣装を特売セールにしたところで、わざわざ買いに来る輩なんざ俺に言わせればよほどの酔狂者である。そう、今まさに隣で眼を輝かせているハルヒとか、それに付き合わされていい加減辟易している俺とかのことさ。
 あの後飛ぶような勢いで喫茶店に再集合したSOS団は即時緊急会議を開き、何と今日の内にハロウィンパーティーを執り行ってしまうことが決定された。一応いくらなんでもいきなり過ぎであるとの異議を申し立てておいたが、果たして受理されたかどうかは各自ご察しいただきたい。
 その内容であるが、先程もちらと触れたように恒例と言えば恒例の仮装パーティーである。比較的普通であると思われたかも知れないが、そこは何においても平凡であることを嫌うハルヒだ。俺の予想の斜め上を行くような思いつきに振り回されるであろうことは重々覚悟していたが、しかし、幾らなんでも「女装しろ」と言われた時は流石に眩暈がした。これにはさしもの古泉の笑顔もひくついたように見えたが、何しろ俺も似たような顔をしていただろうから、してやったりとはいかなかった訳である。今度賭けポーカーあたりで搾り取る必要がありそうだな。
 物足りない昼飯をかっ込んで一旦解散し、コスプレ衣装、それも女装なんて一体どこで調達すればよいのやらほとほと途方に暮れていた俺だったが、この悩みの種そのものであるハルヒから
「ところであんた、衣装のアテはあるの?」
 なんて実に今更なことを訊かれたもんだから、憤まんやるかたないのを通り越して脱力した俺は
「ない。さっぱりすっぱり全然ない」
 ときっぱり断言した。するとハルヒは何やら目をそらし、突き放すような調子でこんな事を言ったのである。
「……それじゃ、あたしと一緒に来る? いつもそういう服を買ってるお店があるの」
「……何?」
「別に変な意味じゃないわよ? 有希とみくるちゃんの分はあたしが選ばないと気が済まないし、古泉君は自分で探すって言ってたから大丈夫だろうけど、あんたはどうせ放っといたらロクでもないものしか持ってこないじゃない。いいえ、寧ろ何も持ってこないなんてこともありうるわ。いい? 神聖かつ完璧なSOS団の活動においてそんな適当なことは許されないのよ。言っておくけど、今回は部室にある衣装は全部禁止なんだからね」
 そりゃあ俺のバニー姿なんて想像するだけで吐き気を催すような代物だが。朝比奈さんに頼み込んでメイド服ぐらい借用できないかと考えていた矢先にずばり言い当てられると、お前を読心術か何かの使い手ではないかと疑いたくなるぜ。
「そんなことだろうと思ったわ。仕方がないんだから、さっさと行くわよ」
 なんてやり取りがあったのち、現在に至るのである。
 ハルヒは恥ずかしげも無くニコニコしながら男性用コーナーを物色している。何故男性用なのかと言うと、俺と古泉が女装するように女性陣は男装することになっているためだが、女装より遙かにダメージが軽そうに思えるのは気のせいだと信じたい。
 俺は激しい居たたまれなさと軽い頭痛に苛まれながら女性用コーナーの周辺をうろうろしているのだが、どうしてもこの一線を越えて中に入っていく決心がつかないでいた。だってそうだろ? こんなヒラヒラフワフワしたいかにも女物ですってな服を真面目に選ばなきゃならない俺の精神状態は、さしずめ先輩のパシリでエロ本を買わされる哀れな後輩のものに限り無く近いんだ、ただひたすらに苦痛である。ああ忌々しい。大体何で女性用の仮装衣装ってのはこんなに際どい服が多いんだ。そりゃ見てる分には実にけしからなくていい感じだが、実際に着るとなると話は別だぜ。っていうかそもそもこれらは男が着るようには出来てない訳であってだなあ――。
「ちょっとキョン! まだ決まらないの? さっさとしなさいよ!」
 耳鳴りがするような近距離で鋭い声が聞こえた。振り返ると、でかい袋を三つばかり提げたハルヒが立っている。もう会計まで終わったらしい。とにかく一刻も早くこの空間を脱したかった俺は、このイライラ顔に後押しされて半ばヤケクソになり、近くにあった衣装セットをままよとばかりに適当に取ってレジに向かった。
 
 パーティーの会場は、事前の話し合いで長門の部屋と決まっていた。必要な物は一通り揃っているし、ハロウィンをするからには夜通し騒ぐのがほぼ前提になるため、他人に迷惑がかかりにくい一人暮らしの長門が最適だと考えたためだ。本人も特に都合の悪そうな素振りは見せなかったし、ハルヒは知らないとはいえ、あのマンションは言ってしまえば丸ごと長門の家みたいなもんだから、人目を気にせずバカ騒ぎするにはうってつけと言えるだろう。
 両手が荷物でいっぱいの俺とは裏腹に身軽なハルヒが操作盤を弄って、長門の部屋番号をコールする。
「あたしよ、入れて」
「あっ、はぁい、どうぞ」
 てっきり読経のような声が流れてくると思っていただけに、弾むようなハイトーンが意外だった。どうやら朝比奈さんが出たらしい。
 公園で解散した後、時間の空いた長門と朝比奈さんは会場の準備をしていた。料理材料の買出しや部屋の飾り付けを頼んだらしいが、朝比奈さんが能率的に動いている姿を想像するのはどうにも困難であったりする。
 微かな浮遊感を残してエレベーターが停止し、扉が開くや否や早足で出て行く上機嫌なハルヒだが、俺はいい加減腕がだるくなって来た所為でのろのろと移動していたため、見境なしに閉まろうとする自動ドアに袋を引っ掛けてしまった。途端にハルヒの眉がつり上がる。
「バカキョン! 何してんのよ!」
「あーあーすまんすまん、悪かった」
「あんたねー、もし台無しになってたら倍返しだからね!?」
 挟んだというより擦ったぐらいだし、そんなに心配なら自分で持てばいいじゃないかと言いたいのだが、一応こいつも女子。重い荷物を任された男が音を上げるなんて情けないことは俺の些細な自尊心が許さないわけで、こうして甲斐甲斐しく荷物運びに従事している俺を誰が笑えようか。
 インターホンのボタンを押し込んで数秒の間が空いたのち、玄関が開く。ここで出迎えてくれたのが愛らしいメイド姿の朝比奈さんで、
「お帰りなさいご主人様」なんて言われた日には俺の疲労も粉微塵に吹き飛んでいただろうが、こともあろうに出てきた面は古泉のそれだった。
「お帰りなさいませ、涼宮さん」
「あら、古泉君。先に来てたのね」
「ええ、割とスムーズに用意が終わったものですから、彼女達のお手伝いをさせていただこうと思いまして」
「その殊勝な心がけ、多いに結構だわ! 流石は我がSOS団の副団長ね。キョンも少しは見習いなさい?」
 お前なぁ、この馬鹿でかい荷をここまで健気に運んできた俺にはねぎらいの一言もなしか?
「それくらい当然じゃない。あたしは女に荷物を持たせるような甲斐性なしを雑用に雇った覚えはないわ」
 そう突きつけると、古泉の横をすり抜けて部屋の中に入っていった。畜生、なんか納得いかんぞ。男女平等の世の中じゃなかったのか?
 古泉はそんなハルヒを肩をすくめて見送り、俺の方に向き直って
「あなたも。お疲れ様でした」
 なんてわざとらしく付け足した後、耳元に口を寄せて囁いてきた。
「涼宮さんはああ言いますが、あなたは信頼されているのですよ。いつでも傍に居てくれて、何かに困ったときには助けてくれるのが当たり前だと思われているのです。素晴らしく強固な関係ではありませんか」
「えらく難儀な役目を勝手に押し付けられたもんだな。羨ましいなら代わってやるぜ」
「それは遠慮しておきましょう。僕としてもこれ以上仕事が増えるのは好ましくありませんし、方々から非難の目を受けそうですからね」
 何を言ってるんだお前は。その難解な物言いにはほとほとうんざりだぜ。
「さて、難解なのはどちらでしょう? 僕に言わせればあなたの気持ちも十分難解ですよ」
 そこまで言い終えて満足したのか、俺の苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を受け流して古泉は顔を元の位置に戻した。
「さぞお疲れでしょう、中に入って少し休まれてはいかがです? ああご安心ください、荷物は僕が運び入れておきますので」
「……そうかい、悪いね」
 正直言いたいことは色々とあったが、どうせ突っかかったところでのらりくらりと禅問答にかわされそうな気がしたし、休みたいのは事実だったので、ここは素直に従っておくことにする。背後で古泉の野郎がクスクス笑っていた気がするが、まあいいさ。お前には後でたっぷりと礼をする予定になってるからな。
 
 室内はなかなか綺麗に装飾が施されており、元が無機質な長門の部屋だけにその変貌ぶりは見事だった。壁に吊るされた色とりどりのオーナメントや、ジャック・オ・ランタン風のキャンドル、テーブルには赤色のランチョンマットが人数分置かれ、さもハロウィンと言った感じの雰囲気になってきている。
 ふとキッチンの方から元気全快の声が聞こえてきたので覗きこんでみると、三人娘――主にハルヒ――がわいわい言いながら早速料理を作っていた。淡々と包丁を振るう長門と常にあわあわ言ってる朝比奈さんが対照的で、ハルヒは現場入りしたバラエティ番組の監督のようにせわしなく動き回っている。何だかかなり大掛かりだな。
「キョーン! ぼーっとしてないで、暇なら古泉君と内装の続きやってなさい! 一分一秒が惜しいんだから!」
 怒鳴られちまったよ。やれやれ、どうやら今日の俺に安息はないみたいだな。
 大きな窓から差し込む光は、ほんのり茜色に色づき始めていた。
 
 ところで俺はこの夕日を見て、柄にもなくセンチメンタルな気分になっていた。
 それは例えば記憶の奥底に淡く留められた、ガキの時の砂場遊びで見たもののようであり、文化祭の後片付けをしながらふと見上げた空にあったもののようでもあり、物悲しいような、名残惜しいような、何とも言葉にすることが難しい感情であるのだが……。そうだな、ここは長門の言葉を借りて『ノイズ』ということにでもしておいてくれ。
 それに……なんだ。アレだよ。今日はまだまだこれからだからな、そういうことさ。
 
 そう、本当にまだまだこれからだった。俺にはまだ、本日最大の苦行が残っていたのだ。
 
 俺と古泉がうっすら額に汗を滲ませ始めた頃になって、ハルヒはひょっこり台所から出てきた。準備体操でもするように大きく首を回転させて室内を見渡していたが、やがて小さく頷くと、
「うん、こんなもんかしらね。二人とも、今から料理運ぶから手伝ってちょうだい」
 とだけ言い残してすぐ引っ込んだ。今までもやれお使いだ力仕事だと散々雑用で使い倒したくせに、少しくらいは休ませようという気持ちが微塵も見えないのはどういう訳だろう。
「いいではありませんか。僕たちが雑用をこなし、彼女達を料理に集中させてあげれば、自ずと美味しい晩餐にありつけるでしょうから。事実、先程から漂ってくるこの匂いはたまらなく僕の食欲を刺激しています」
「まあ、それは否定しないがな」
 俺はよっこらせとばかりに腰を上げ、腕まくりを解いてキッチンに向かった。
 
 そこに陳列されていたのは色とりどりのサラダやらホカホカと湯気を昇らせているパイやらカリっと揚がったカボチャコロッケやらで、すきっ腹には見ているだけで辛抱たまらなくなるような光景だった。見かけだけで判断するならば店屋物と見紛うばかりであり、ハルヒが持つ理不尽なまでにマルチな才能を改めて認識させられた程である。いや、他の二人の事も忘れてはいないのだが、長門は比較対象にするのがそもそもの間違いである気がするし、朝比奈さんはきっとこのいびつな形のトマトを切ったり、均等な大きさで揃えられた中で一つ明らかにデカいカボチャコロッケをにぎにぎしてたぐらいだと思う。
「つまみ食いしちゃ駄目よ? こういうのはみんなで一斉に食べることに意味があるんだから」
 そう言うハルヒは、俺ばかりをジト目で睨んでいる。失敬な。俺とてそのくらいのわびさびはわきまえているぞ。それよりさっきから獲物を狙う鷹のような眼光で料理を凝視している長門の方に気を配っておくべきだと思うぜ。
 盛り付けを崩さないよう注意しながら運んでやり、それをハルヒ達が配膳していく。寂しかったテーブルの上はあっという間に色彩豊かに彩られた。
「ふわぁ~、やっぱり全部美味しそうです」
「そうでしょうそうでしょう。このあたしが腕によりをかけたんだから当然だわ!」
 どこか他人事のように呟く朝比奈さんに、反り返るほど胸を張って自信満々な返答をよこしている。
「何でもいいから早く食おうぜ、腹減っちまったよ」
 思っている事を包み隠さずストレートに伝えると、ハルヒはムッとしたような表情を見せ、大げさな溜息をついてやれやれとでも言いたげな顔をした。おいこら、その仕草は俺の専売特許だ。
「ほんっとにあんたはだらしないわねぇ、早く食べたいのは分かるけど、ちょっとは我慢しなさいよ。その前にするべきことがあるでしょ?」
 何だ? みんなで手を合わせてせーので『いただきます』か? やってもいいがお前がそんなに微笑ましい習慣を持っているとは初耳だぜ。
「ちっがーう! バカキョン!」
「じゃあ何だよ」
 次にハルヒの口を割って出た言葉は、俺が持っていたそれなりの達成感とか満足感とか、この雰囲気に確かに感じていた楽しさなんかを根こそぎ彼方に吹っ飛ばした挙句、えもいわれぬような絶望を運んでくる――いや、思い出させるものだった。
「仮装よ、か・そ・う! あんた、忘れてたんじゃないでしょうね?」
 ああ、忘れたかったさ。忘れさせてくれよ。
 
 女性陣は空調の効いたリビング、俺と古泉は座敷で着替えることを命じられた。この部屋に立ち入るといろいろ感慨深いものがあるんだが、今はそれどころじゃない。俺はこれから女装という人生初の領域に踏み込もうとしているのであり、それはハルヒの突飛な思いつきに巻き込まれたからであり、さりとて特に抗うこともせず『ああ、またか』で済まそうとしている負け犬思考の俺がいる訳であり……。
「いつまでも肌着だけでいると風邪を召されますよ? のどもと過ぎれば何とやらです。一夜の恥と割り切れば着れないものではありません」
 巫女さんの衣装を着ながらそんな事をほざく古泉は、果てしなく間抜けに見えた。お前はそんな衣装を一体どっから調達してきたんだ?この市内にまだ似たようなコスプレ店があるのか?
「機関の構成員に神職関連の人間がいる、ということにしておきましょう」
 胡散臭さ全開である。お前の手つきがやけにこなれてるのも気になるがな。
 俺は手に持っている衣装――シスターのローブ――を恨めしいとばかりに睨みつける。あの急場で咄嗟に選んだにしては比較的恥の少ない物のように思えるが、それにしたってシスターだぞ? 俺は妹のブラザーだ。こんな衣装は……そうだな、隣の部屋でさっきから悩ましい嬌声を上げている朝比奈さんとかが着るべきなんだよ。露出がほとんどないのがちょっと残念だが、そんなシスターが居たらきっと教会は礼拝者で溢れかえることだろうぜ。
 なんてぐだぐだと取り留めもないことを考えていた俺だったが、寒さにあてられて軽く鳥肌が立ってきた辺りで渋々決意を固めた。ええい、ままよ! 一夜の恥なんだ、一夜だけの過ちなんだ。どうってことはない、俺はこれ以上の無茶をやってきたはずだ。
 必死で自分を諭し、ついに滑らかな生地へ袖を通したのであった。
 
「あっはっはっはっは! バッ、バカキョンだわ!」
「うるさい黙れ、指さすな」
 案の定、俺の姿を見た途端馬鹿笑いしているのはドラキュラ伯爵と思しき仮装をしたハルヒである。黒く長い襟立マントに身を包み、
赤いベストとコウモリ型の蝶ネクタイをつけているから多分そうだろう。高圧的な態度といいわがままで傲慢なところといい、なるほど
ぴったりじゃないか。ていうか、やっぱり女子の男装はそう違和感がないぞ? 不公平だ。
「おやおや、これはまた……みなさんよくお似合いですよ」
 俺の陰から現れた古泉の姿を見て、またハルヒが盛大に笑い出した。何やら朝比奈さんも顔を隠して体を痙攣させている。心なしか
長門さえもバカにしてるような気がして、俺は思わず古泉の背中をポンと叩いた。
「なぁ古泉、俺、お前に対してこんなに仲間意識を抱いたのは人生初かも知れん」
「嬉しいような悲しいような……複雑なお言葉です」
「……ユニーク」
 ようやく長門――ふさふさの獣耳に尻尾、付け犬歯の狼男姿――が発した言葉は、俺達にとってオーバーキルレベルの痛恨の一撃だった。お前までそう言うのか。
 
 しばらく俺と古泉はどんよりした空気を共有していたが、やがて顔を茹ダコのように真っ赤にした朝比奈さんが恐る恐る顔を上げて、
「いっ、いえ! 二人とも、よく似合って、ると、思いますっ」
 なんて途切れ途切れに慰めてくれた。似合ってると言われてもちっとも慰めにならないんですが、しかしその姿――胸元が大きく開いた白いシャツにタイトな黒ズボン、背中に付けられた身の丈ほどもある翼――を見ているだけでもダメージは和らぎそうです。というか、一体何のコスプレなんですか?
「え~っと……インキュバス? っていうらしいんですけど、キョン君、知ってます?」
「残念ながら存じ上げませんが、まあ全然大丈夫です」
「ふぇ? 大丈夫って?」
 大丈夫なんです。特にそのボタンがはじけ飛びそうなほど窮屈に膨らんでいる胸部とか、もう全然けしからなくて大丈夫です。
 そうこうしているうちに腹を抱えて暴れ回っていたハルヒはようやく落ち着き、涙さえ浮かべながら、
「ひーっ、ひーっ……ふぅーっ。あー、笑いに笑ったわ。こんなに爆笑したのっていつ以来かしら」
 なんて言った。おい古泉、その手に持ってる白いヒラヒラがついた棒を貸せ。この性悪ドラキュラをひっぱたいてやる。
「さ、余興も済んだことだし、早く食べましょ。せっかく作ったのに冷めちゃうわ」
「……はぁ、やれやれ」
 ていうかこのまま食うのかよ。俺としては一秒でも早く脱ぎたいんだがな。
 各自適当に席に着いていく中、ハルヒだけはキッチンにある冷蔵庫の方へ小走りしていく。何をしてるのかと思っていたら、何とシャンパンボトルを両手に掲げて戻ってきた。
「じゃーん! これで乾杯するわよ!」
「お前、酒飲むつもりか?」
 俺は断固拒否するぞ。いつぞやの件からアルコールの怖さを思い知ったからな。酔い潰れて恥をかきたくないなら止めとけ。
「心配しなくても大丈夫よ。これはノンアルコールの偽シャンパンだから。気分だけでもと思ってみくるちゃんたちにお願いしといたの!」
「ノンアル?」
 そういやそんなもんもあったな……。クリスマスの時なんかに一度か二度ぐらい見たことある気がする、ジュースとそう変わらんチープな炭酸飲料のアレか。
「そっ。はいみんな、グラス出して」
 コルク栓を引っこ抜くと、辺りにくらくらするほど豊満な香りが充満した。グラスに注ぎ込まれたそれは透き通るような透明感を誇っていて、なんだ、最近のはえらく精巧にできてるんだな。
 ハルヒは最後に自分の分をどばどばと注ぐと、ようやく席についた。
「んーっ、いい匂い! それじゃみんな、カンパーイ!」
 乾杯、っと。液体を一口含むと、心地よい甘さにあわせて、鼻の奥まで強く官能をくすぐるような品のいい匂いが隅々まで行き渡っていく。本物を飲んだことはないが……いや、あるのか? どっちにしろ美味い。味わうのもそこそこにして飲み下すと、次の一口を飲みたい強い衝動にかられた。俺は料理の方を食いたいんだが……まあ、のどかわいてたしな。もういっかい……うん、んまい。つーか、なんかあちいなあ。暖ぼうきかせすぎじゃないのか?
「はれ? なんらか気分が……」
 朝比奈さんの火照った声を最後に、俺の意識はまどろんでいった。
 
 ……。
 
 
「きょーん? ねーえ、きょんってばあ」
「……」
「ちょっとお、なーにねてんのよお、おきなさぁーい?」
「……」
「いーい、きょん。きょうは、はろうぃーんなのよぉ?」
「……」
「だからあ、とりっく・おあ・とりーと!」
「……」
「とりっく・おあ・とりーと!」
「……」
「……むーっ、おきなさーいってばあ!」
「……」
「……じゃーあ、おかしくれないからぁ」
「……」
「いたずらしちゃうもんねー!」
「……んむっ」
 
 
 
「あだだだだ……頭いてえ」
 二日酔いってのはやっぱり最悪な気分だな。体はだるいし吐きそうだし、くそ、もう二度と飲まねえ。断じてだ。
「ふゎ……すいましぇんでしたあ……私、間違えて本物買ってきてたみたいですぅ……」
「いえいえ朝比奈さん、全然大丈夫ですよ……いえ、まあ、それなりに大丈夫です」
「ふえぇ……」
 俺達の身に何が起こったのかはご推察の通り、あのシャンパンは偽物でもなんでもなく、まごうことなき本物だったということである。しかもかなりアルコール度数は高め。一体何がどうして未成年にこんなもん売りやがったのか、店員を小一時間問い詰めねばなるまいが……。
「あなたは今は安静にしているべき。興奮するような事は推奨できない」
 だな。それにしても当然というべきか、お前はけろっとしてるのな、長門。
「やれやれですね……まあ幸い今日は日曜日、明日は祝日ですし、しっかり休養することにしましょう」
 めちゃくちゃに着物をはだけさせた古泉がしれっと言った。お前、それ直せよ。
「はぁ~……長門、ちょっとトイレ借りていいか」
「どうぞ」
「すまんな。おい古泉、そこのボトル握り締めて寝てる飲んだくれドラキュラを起こしといてくれ」
 まあ、いいか。飯は……多分美味かったんだろうし、そうだな。
 
 甘いお菓子も貰ったしな。
 

-fin-