いらん

Last-modified: 2024-03-14 (木) 04:26:35

オリックス・バファローズを自由契約となった中村紀洋の獲得についての巨人・渡邉恒雄オーナー(当時)の発言。

概要

2005年オフ、メジャーリーグで置物と化した中村紀洋は古巣・大阪近鉄バファローズの流れを汲むオリックスに復帰し、2006年シーズンは「帰ってきたで」というキャッチフレーズを打ち出したポスターや、この年20年ぶりに関西に帰ってきた清原和博との共演が注目されたが、度重なる怪我で打率.232、本塁打12本と期待外れの成績に終わった。

すると2006年オフの契約更改で怪我を公傷と主張する中村とこれを認めない球団側が対立し、前年の2億円(プラス出来高)から60%減となる8000万円の年俸が提示される。当時バリバリの銭闘民族だった中村がこの大幅減を受け入れるはずもなく、最終的に翌2007年1月にオリックスは中村との契約更新を断念、自由契約となった。

自由契約となった後も獲得に乗り出す球団は無く、先述のナベツネこと渡邉氏をはじめとする各球団フロントからは冷ややかな視線が注がれた。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングに入る。最終的には中日ドラゴンズに育成選手*1として拾われることになった。このとき提示された額は400万円(その後支配下に復帰しても600万円)とオリックスの提示をさらに下回るものだった。

その後の中村は中日在籍時(2007年・2008年)こそ2007年の日本一に貢献し日本シリーズMVPを獲得するなど活躍を遂げ、当時のファンからの印象も良好だったが、その後移籍した楽天・DeNAで悉くトラブルを起こすことになる。

各球団の反応で打線組んだ

1 (二) 「うちは(獲得に)参入しない。ベンチに置いておくのは失礼」(横浜 村上運営統括)
2 (中) 「ウチは全くないよ」(ソフトバンク 角田球団代表)
3 (右) 「あんな選手いらない」(ヤクルト 多菊球団社長)
4 (一) 「いらん」(巨人 渡辺元オーナー)
5 (三) 「3割5分、50本打つなら素行面に目をつぶることもある」(阪神 岡田監督
6 (指) 「うちはまったく興味がありません」(広島 松田オーナー
7 (遊) 「獲りません。(小笠原の穴も)若手を育てていく球団の方針にそぐわない」(日ハム 藤井球団社長)
8 (捕) 「打診はされた。三塁手が多いので消極的。自由契約後検討する」(西武 黒岩球団代表
9 (左) 「保有権があることなので今の段階では何も言えない」(ロッテ 瀬戸山球団代表
先 「何を言ってるのか不明」(オリックス 機谷球団代表)
中 「現場とは(獲得しない)コンセンサスはとれている」(中日 西川球団社長)
抑 「球団の育成方針、ポジション的なこと、 去年の故障のことを考えると可能性はない」(楽天 山下編成部長

後に中継ぎ抑えがことごとく炎上し1番打者も造反する事態にはなった*2が、8番・9番を除けば投手陣を含めことごとく否定的なコメントが並ぶ強力打線といえる。4番に据えられた件のナベツネの発言はもちろん、その前後を打つ3番・5番も同等かある意味それ以上のぐう畜っぷりを遺憾なく発揮し、超強力クリーンアップを形成している。また、先発投手もクリーンアップに負けず劣らずの高い評価を得ている模様。

余談

巨人と阪神の特に冷徹な対応は、この騒動から遡ること4年前の2002年オフに中村(当時近鉄)がFA宣言した際、両球団を天秤にかけそれぞれの交渉の場で好条件を引き出させ、挙句にはメジャー移籍を表明(その後破談となり結局近鉄に残留)し、渡邉や当時の阪神監督の星野仙一を激怒させた一件が尾を引いていると分析されている。

関連項目


*1 当時中日の監督だった落合博満曰く、中村の獲得の予定は全く無かったが、元近鉄の監督であり友人の梨田昌孝に頼まれ、苦肉の策で育成契約という形で入団させた。
*2 代打での出場が多かった2011年頃はともかく、2012年~2013年はベンチに置いておかず主力として起用し2桁本塁打を打つなど活躍させたのでセーフという考えもある。
*3 なお移籍後の中村から多くの割りを食ったのは要らんとまでも言った巨人だった模様