No10 プリンス・オブ・ウェールズ/元ネタ解説

Last-modified: 2018-11-17 (土) 20:02:34
所属Royal Navy
艦種・艦型キング・ジョージV世級戦艦
正式名称HMS King Edward VIII→HMS Prince of Wales (53)
名前の由来Edward VIII, Edward Albert Christian George Andrew Patrick David(1894-1972) イギリス国王、インド皇帝、ウィンザー公爵 離婚歴のある一般のアメリカ女性と結婚するためにグレートブリテン王国成立以降の国王としては歴代最短の在任期間325日で退位した「王冠を賭けた恋」で知られる。1922年に来日しており、甲冑姿や着物姿の写真が残っている。
→Prince of Wales イギリスの王子に与えられる称号の一つ ウェールズの君主を意味し、次期国王となるイングランド国王の第一王位継承者に与えられる。
この艦が就役していた時代のプリンス・オブ・ウェールズは存在していない。2017年現在は、エリザベスⅡ世の第一王子チャールズ皇太子がプリンス・オブ・ウェールズである
愛称POW
モットーIch Dien(I serve)
起工日1937.1.1
進水日1939.5.3
就役日(竣工日)1941.1.19(1941.3.31)
除籍日(除籍理由)(マレー沖海戦/Sinking of Prince of Wales and Repulse 1941.12.10沈没)
全長(身長)227.1 m
基準排水量(体重)39150英t(39778t)
出力Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 110000shp(111525.7PS)
最高速度28.3kt(52.41km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/15600海里(28891.2km)
乗員1521名(1941)
装備(1941)14inch45口径Mk.VII四連装砲2基8門 連装砲1基2門
5.25inch50口径Mk.I連装両用砲8基16門
ヴィッカース2ポンド機関砲x41(4x2+4x8+1)
エリコン20mm機関砲x7
UP 7inch20連装対空ロケットランチャー4基80発
艦載機x4
装甲舷側:5.4~14.7inch 甲板:5~6inch 砲塔:12.75inch(主) 1~1.5inch(副) バーベット:12.75inch 艦橋:3~4inch 隔壁:10~12inch
建造所Cammell Laird,Birkenhead, Merseyside
(キャメル・レアード社 イングランド国北西イングランド地域マージーサイド州バーケンヘッド市)

イギリス海軍が建造したキング・ジョージ5世級戦艦2番艦。1937年1月1日、バーケンヘッド造船所にて起工。1939年5月3日に進水し、1941年3月31日に最新鋭艦として竣工した。
チャーチル首相のお気に入りで、世界最強の戦艦と評した程と伝わる。
竣工後、本国艦隊へと編入された。5月24日、僚艦のフッドとともにドイツ戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲンと交戦。ビスマルクが放った380mm砲弾7発を喰らい大破させられる。
手傷を負ったが、討たれたフッドの仇を取るためビスマルク追撃戦に参加。最終的にビスマルクは撃沈された。
8月、チャーチル首相を乗せてニューファンドランド島ブラセンチア湾へ移動。現地でアメリカ大統領ルーズベルトを乗せた重巡オーガスタと会合し、艦上で大西洋憲章を調印。

 

その後、対日関係が悪化したため日本を牽制するべく、東南アジアのシンガポールへ派遣される運びとなる。
11月、僚艦のレパルスとともに東洋艦隊に編入。大日本帝國の脅威から東南アジア方面を守るべく、出陣した。
まず中継点のセイロン島へ赴き、コロンボに到着。1941年12月2日、コロンボを出港。東洋艦隊本拠地のシンガポールに入港した。
この二隻の派遣は、大日本帝國にとって大きな脅威となった。プリンス・オブ・ウェールズに正面から艦隊決戦を挑んだ場合、帝國海軍が保有する戦艦では太刀打ち出来なかった。当時はまだ大和型が竣工しておらず、唯一長門型のみが火力で拮抗出来たが、それでも速力に劣り苦戦は免れないと判断された。
とはいえイギリス海軍制服組トップのパウンド提督は戦力過小だとして強く反対し、艦隊のフィリップス司令官もそれを認識していた。
実のところ、欧州で総力戦を繰り広げていたイギリスは陸海空全ての面で、東南アジアでの日本軍への対処に必要とされた戦力を配備できずにいた。

 

そして12月8日の開戦を迎える。

 

プリンス・オブ・ウェールズを旗艦にZ部隊が編成され、夕刻シンガポールを出撃。司令官のフィリップス中将は奇襲を図り、シンゴラに上陸中の日本軍船団の攻撃に向かった。
これに際し航空機による上空支援を要請したが、空軍は既に日本軍への対処で手いっぱいであり、受けられなかった。日本軍の機雷原を避け、艦隊はアナンバス諸島方面に大きく迂回した。
翌9日午後、艦隊は大日本帝國海軍の伊65に発見される。続いて偵察機の触接も受けたため、その晩フィッリプス司令官は奇襲を断念し、シンガポールへ向けて引き返した。
しかし別地点へ日本軍が上陸中という誤報を受けてそちらに向かった結果、翌朝再び伊58に捕捉され、航空隊を呼び寄せられてしまったのだった。

 

10日午前、Z部隊はサイゴンより飛来した帝國海軍航空隊の空襲を受ける。最初の高高度爆撃でまずはレパルスが爆弾を1発受けるが、損傷は軽微だった。
続く雷撃は、地中海で激しい対空戦闘を経験したプリンス・オブ・ウェールズの乗員たちにとっても驚きのものだった。当時の日本の航空魚雷は列国の中でも頭一つ飛び抜けており、当時の常識では考えられないほどの高速・遠距離・高高度から安定して投下できるというものだったのだ。
プリンス・オブ・ウェールズに向けて投下された9本の魚雷のうち命中は1本だったが、その1本がまさに致命的だった。左舷外側推進軸が大きく曲がり、その状態で回転を続けたため船体を酷く打ち付け、大浸水が発生したのだ。
ただちに左舷外軸は停止されたが、既に手遅れだった。大きく損傷した軸受部を通じて浸水は缶室や機械室、発電機室や補助発電機室に及び、排水ポンプや艦内通信、換気や操舵が不可能となり、加えて大半の対空火器が人力操作を強いられることとなった。
こうしてプリンス・オブ・ウェールズは左舷に11度傾斜し、速力は15ノットにまで低下した。
続く二度の攻撃で同艦はさらに3本の魚雷と1発の爆弾を受ける。左舷への傾斜は次第に大きくなり、ついに総員退艦が発令された。最初の被雷からおよそ1時間後、プリンス・オブ・ウェールズは左舷側へ転覆し、沈んでいった。
フィリップス司令官は退艦要請を断って艦と運命を共にすることを選んだと言われることもあるが、実際は退艦を試みて行方不明となったようである。また、就役以来艦長を務め続けてきたリーチ大佐も戦死しており、艦の沈没後短時間、遺体が浮かんでいたのが目撃されている。

プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの撃沈は大艦巨砲主義の終焉を意味し、航空機時代の幕開けにもなった。
戦闘行動中の戦艦を航空攻撃のみで沈めた初めての例となり、この結果は世界中に大きな衝撃を与えた。白人が決して無敵ではない事を世に示し、この事が戦後、マレーシアやインドネシアといった東南アジア諸国の独立に繋がる遠因となった。
余談だがプリンス・オブ・ウェールズは比較的浅い場所に沈んでおり、帝國海軍が引き揚げて再利用しようとした。しかし実行はされていない。

 

イギリス首相のチャーチルは、この艦とレパルスの沈没を知った時、今次大戦最大の衝撃を受けたという。
二隻に載せた多大な準備や苦労、希望などが一緒に沈んでしまったとベッドの上で身悶えたと伝わる。
また反英感情が根強いアイルランドでは、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈を大いに祝ったとされている。記念日にまでされたとか。

 

小ネタ

  • キング・ジョージ5世級は2代ありいずれもウィンザー朝初代国王ジョージ5世にあやかった名前で、初代はワシントン軍縮条約に従い廃艦、2番艦センチュリオンのみ標的艦として存続された。
  • プリンス・オブ・ウェールズ、つまりウェールズ大公はイギリス王室の持つ称号の一つで、皇太子(イングランド国王の第一王位継承者)に与えられる。
    • 本来はジョージ5世の長男で計画時の国王の名を取って「キング・エドワード8世」という名になるはずだった。
      • しかしエドワード8世はアメリカ人の人妻との結婚を試み、国内から身分の上下を問わず激しい批判を浴びた挙句、王位とそれに伴う責任を弟に押し付ける形で退位してしまう。「王冠を賭けた恋」と呼ばれるスキャンダルであり、新王ジョージ6世は国民からの信頼回復に苦慮する羽目になる。
      • こうして新戦艦は起工を待たずして「プリンス・オブ・ウェールズ」に改名され、表向きは特定個人との関係を断つことになった。しかしジョージ5世にとってのウェールズ大公、さらに三番艦が「デューク・オブ・ヨーク」ということで、実際にはエドワード8世のイメージが残ることとなった。
      • この顛末からプリンス・オブ・ウェールズが撃沈された際、一部のオカルト愛好家から「名前のせい」などと言われたことがある。
  • 左目に関する設定は、俳優のエズモンド・ナイト氏に由来するものと思われる。
    氏はビスマルク追撃戦にプリンス・オブ・ウェールズの砲術将校として参加し、被弾した際に飛び散った艦橋の破片で左目を失明した。
    その後も俳優を続け、1960年の映画「ビスマルク号を撃沈せよ!」では同じ艦橋にいたジョン・リーチ艦長を演じている。