No112 ヴィットリオ・ヴェネト/元ネタ解説

Last-modified: 2021-09-02 (木) 22:00:27
所属Regia Marina→Marina Militare(1946)
艦種・艦型リットリオ級戦艦
正式名称Vittorio Veneto
名前の由来Battaglia di Vittorio Veneto 第一次世界大戦中イタリアのヴィットリオ・ヴェネト近郊で起きた伊英仏米連合軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の大規模な戦闘
起工日1934.10.28
進水日1937.7.25
就役日1940.4.28
退役日(除籍後)1948.2.1 同日除籍(1951年解体)
全長(身長)237.8m
基準排水量(体重)43624英t(43027.2t)
出力Yarrow式重油専焼缶8基Belluzzo式蒸気タービン4基4軸 140000PS(138084.8shp)
最高速度30.0kt(55.56km/h)
航続距離16.0kt(29.63km/h)/4580海里(8482.16km)
乗員1830~1910名
装備(建造時)381mm50口径M1934三連装砲3基9門
152mm55口径M1936三連装砲4基12門
120mm50口径砲4門
90mm50口径M1939単装高角砲12門
ブレダ37mm機関砲x20(10x2)
ブレダ20mm機関砲x32(16x2)
艦載機x3
装甲舷側:350mm 甲板:162mm 砲塔:350mm バーベット:350mm 艦橋:260mm
建造所Cantieri Riuniti dell'Adriatico, Trieste
(リウニーティ・デッラドリアーティコ社トリエステ造船所 イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州トリエステ県トリエステ)
リットリオ級について
  • イタリア海軍リットリオ級戦艦の2番艦*1。前級はカイオ・ドゥイリオ級戦艦。イタリア海軍が建造した最後の戦艦級である。
    改良を施された後発の姉妹艦にはリットリオローマインペロ(未完成艦)が存在する。
  • ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦は、周辺国の新鋭高性能戦艦であるフランスのダンケルク級・リシュリュー級に対抗するために開発・建造された。
    フランスとは地中海の覇権を巡って争っており、前々からイタリアの仮想敵だったのである。
    旧式のアンドレア・ドーリア級を魔改造する等をして対抗していたが、より強固に対抗するため新型のヴィットリオ級の開発に着手した。
    その結果、排水量4万5752トン、全長237.79メートルの巨大な化け物が完成した。ワシントン条約違反の排水量オーバーである。
  • スペックは比較的高性能であった。
    試時の速力は最大31ノット。通常の重量でも29ノットという高速を実現。
    装甲はプリエーゼ方式*2を採用。
    甲板の最大装甲厚は207mm、垂直防御では最大350mmと重装甲であったが、これらは装甲版の間に木材をクッションとして入れた複合装甲でもあった。
    武装はOTO社製1934年型38.1cm50口径砲を主砲として採用。毎分1.3発で発射が可能であった。
  • その反面、イタリア海軍はこの艦の運用を地中海のみに絞ったため、航続距離は短かく燃費は悪かった。*3
    これはイタリアが地中海の中央に有する立地条件から、活動範囲を広域にカバーする必要がないという意味を含んでいる。艦首乾舷も低くされており、凌波性も低い。
    つまり庭先である地中海での運用のみに的を絞った艦なのである。たとえイタリア軍がジブラルタルを叩き潰して、大西洋や北海に進出しても荒波に殺されるだけだった。
  • 艦名の由来は、第一次世界大戦末期の1918年10月24日から11月3日にかけて行われたイタリア北東部ヴィットリオでの戦闘。
    この頃からイタリア軍は弱く、ディアス陸軍参謀総長率いるイタリア軍がオーストリア・ハンガリー軍を撃破し、数少ない勝利を得た。
    この戦勝を祝して艦名にした訳だが、当初の艦名はヴィットリオであった。この名は男の子の名前としてありふれているので、ジャーナリストが州名のヴェネトを付け足したと言われる。
 
起工~1941
  • ネームシップのヴィットリオ・ヴェネトは1934年10月28日にトリエステ造船所にて起工、1937年7月25日に進水を果たした。1939年10月、大規模な工事を完了。
    10月4日に、イタリア唯一の乾ドッグを持つヴェネツィアに回航された。この時に艦内の清掃が行われ、17日に完了。続いて乾ドッグに水を入れ、安定性のテストを行った。
    そして10月24日より公試を開始。これには武装の試験運用も含まれていた。1940年3月、テスト完了。1940年4月28日に就役し、海軍に引き渡されたが未完成の状態だったとか。
    5月1日、駆逐艦2隻の護衛を受けながらラ・スペティアへ回航。5月20日まで武装の積み込みや機関の防御壁の追加等が行われた。戦備を整えたヴィットリオはタラントに籍を置き、
    イタリア艦隊第9師団に編入された。そして翌月から生起する英仏との戦争―――第二次世界大戦に身を投じていくのだった。
  • イタリア海軍の主な敵は、H部隊を初めとするイギリスの地中海戦力であった。地中海の玄関たるジブラルタルはイギリス軍に押さえられており、友邦ドイツの海軍とは協同で作戦を行えなかった。
    やがて何隻かのUボートがジブラルタルを突破し、地中海に進出してくるが、ほぼ単独でイギリス軍と戦わなければならなかった。
    更にイタリア総統のムッソリーニは、ドイツの勝ち馬に乗りたいがために軍部や閣僚の反対を押し切って強引に参戦。準備不足のまま戦争に引きずり込まれた格好となった。
     
  • 1940年8月、マルタ島への補給を妨害するため警戒行動を実施。この島はイタリア本土の目の前にあるイギリス軍の拠点で、目の上のコブだったのだ。
    31日、5隻の戦艦と10隻の巡洋艦、34隻の駆逐艦とともにイギリスのMB3船団を攻撃すべく遊弋。9月3日まで索敵が行われたが、発見する事は出来なかった。
    イギリス軍の偵察機がイタリア艦隊を一早く発見し、船団を退避させていたのである。9月6日、ジブラルタルから艦隊が出撃したとの情報を受け出撃したが、艦隊の行き先は地中海ではなく南大西洋だった。
    9月29日から10月1日にかけて再度マルタ島への補給妨害を試みたが、全く船団を捕捉できなかった。イタリア空軍機が敵偵察機の位置を特定したが、戦況に寄与する事は無かった。
  • 11月10日、英空母イラストリアスヴィクトリアスから艦載機が飛び立ち、タラントを空襲した。空襲は2回に渡って行われた。イタリア軍は21基の対空機銃と小型砲数十基で迎撃。
    停泊中の戦艦2隻が大破する大損害が出たが、ヴィットリオは小破で済んだ。空襲の翌日、艦隊を率いてナポリに避難。そこで艦隊旗艦の座に就く事になる。
    稼動状態にある戦艦はヴィットリオ・ヴェネトただ一隻となっていた。
  • 11月17日、マルタ島へ補給物資を送るイギリス軍の作戦、オペレーションホワイトコンボイを妨害するため遊弋したが、接触できなかった。
    11月25日、先のタラント空襲(ジャッジメント作戦)でイタリア艦隊に打撃を与えたイギリス軍は、マルタ島とアレクサンドリアに増援を送る事にした。
    商船3隻にH部隊の護衛をつけてジブラルタルを出港。翌26日にはアレクサンドリアからも戦艦ラミリーズ等の地中海艦隊が出港。
    同じく26日、両艦隊はイタリアの偵察機に発見され、タラントからヴィットリオ・ヴェネト及びジュリオ・チェーザレを中核とした艦隊が迎撃に現れた。
    そして27日、両軍の艦隊は接近しスパルティヴェント岬沖海戦が生起した。この戦いでは短期間ながらイギリス艦隊に対して主砲斉射を行い、火力の高さを見せ付けた。
    戦果は軽巡洋艦マンチェスターに僅かな損傷を与えるに留まったが、敵を後退させる事に成功。偵察を行ったイタリア軍の航空隊が敵の規模を過大評価していたため、早々に戦闘を打ち切り離脱。
    イギリス側も輸送を優先するため追撃を行わなかった。もっともこの海戦自体は双方ともに戦没艦はなく、イギリス巡洋艦1隻・イタリア駆逐艦1隻損傷という痛み分けに終わった。
  • ナポリに艦隊主力を退避させたものの、イギリス軍の執拗な爆撃はナポリにまで及び、巡洋艦ポーラが損傷した。これを受け12月14日、ヴィットリオ・ヴェネトと残りの艦艇をサルデーニャに移すという命令が下った。しかし「艦隊をサルデーニャに移せば、敵は比較的容易にマルタ島へ到着出来る」という結論が出て、6日後にナポリへ戻った。
  • イタリア参戦直後はさすがのイギリス軍も焦燥し、マルタ島からの撤退も視野に入れていた。ところがイタリア海軍が弱すぎて、船団の往来を許してしまった事から反撃に転じ始める。
    先のタラント空襲は、イギリス軍に自信を付けさせた。より強固に跋扈するようになり、イタリア軍はやられっぱなしだった。
    庭先であるはずの地中海で常に劣勢を強いられているイタリア海軍を見て、ドイツ軍は1940年12月より地中海方面に介入。シチリア島に空軍を、北アフリカにドイツアフリカ軍団を派遣した。
    ドイツの助力を受け、イタリアは巻き返しを狙った。
     
  • 1941年1月8日夜、イギリス軍はヴィッカース・ウェリントン爆撃機をナポリへ送り込み爆撃を行った。敵はヴィットリオ・ヴェネトを狙ったが、被害は無かった。
    翌日、先の爆撃で損傷したジュリオ・チェーザレを護衛しながらラ・スペティアに避難。
  • 1941年2月8日、ジェノヴァを砲撃したH部隊を捕捉するためアンドレア・ドーリアとともに迎撃へ向かったが、失敗。両軍とも接触しなかった。作戦後、ラ・スペティアに帰投。
  • 同年3月26日~29日、マタパン岬沖海戦が発生。
    イタリア艦隊を率いるヴィットリオ・ヴェネトは、この戦いでウォースパイトを含むイギリス海軍地中海艦隊と交戦した。
    しかし、相手はアンドリュー・カニンガム提督率いる精鋭であり、情報戦でイギリスが優位にたった事もあり大敗を喫してしまう。
    巡洋艦ザラ、ポーラ、フィウメ、駆逐艦2隻が沈没し、イタリア海軍は大打撃を受けている。さらにクレタ島とギリシャからブレニム爆撃機が飛来し、ヴィットリオ・ヴェネトを攻撃した。
    残存のイタリア艦艇はヴィットリオ・ヴェネトを守るため、五列の特異な陣形を組んだ。
    15時10分、1機のソードフィッシュがヴィットリオ・ヴェネトに魚雷を喰らわせた。直後に対空砲がその機を捉え、撃墜している。
    被雷によりシャフトが傷つき、プロペラが切断。後部の排水ポンプは使用不能となった。艦内には大量の海水が流れ込み、ダメージコントロール要員は非常用の排水ポンプで対処した。
    その後、機関要員が損傷したシャフトを修理し、かろうじて航行可能となった。彼女にトドメを刺すべく9機のソードフィッシュが現れたが、巡洋艦ポーラの犠牲により危機を免れた。
    そして3月29日、タラントへ命からがら帰還した。被害は甚大であり、5ヶ月に及ぶ修理を受ける事になった。彼女が戦線に復帰するには8月まで待たなければならなかった。
    この海戦に敗れた事により、地中海の優位はイギリス軍に傾き、ドイツアフリカ軍団の補給に苦慮するようになっていく。
  • 1941年6月に独ソ戦が開幕した事により、バクー油田からの燃料供給を受けられなくなる。このため枢軸国はルーマニアの油田に頼る羽目になるのだが、産油量が予想を遥かに下回った。
    独伊の艦艇は深刻な燃料不足に悩まされ、ドイツから主力艦の出撃を控えるよう通達が来た。元々準備不足で参戦したイタリアに更なる制約が加えられ、新鋭艦の力を存分に振るえなかった。
  • スペインのイタリア軍スパイがイギリス艦隊の出撃を伝えてきた。このイギリス艦隊はイタリア北部のサルデーニャを空襲していった。
    8月22日、敵を迎撃するためヴィットリオ・ヴェネトは艦隊を率いて出撃したが、イタリア艦隊は南に展開しており追撃が間に合わなかった。
    距離が離れていたせいで偵察機も敵を発見できず、ものの見事に迎撃は失敗した。25日、攻撃を諦め反転。
  • 9月27日、ハルバード作戦に参加。戦艦ロドニーネルソンプリンス・オブ・ウェールズを含む強力な敵艦隊に攻撃を仕掛けるため遊弋を開始した。
    だが、この作戦も空振り。両軍ともに接触する事無く終わってしまう。一応、イタリア軍爆撃機がネルソンを襲っている。14時、作戦を終了し帰投。
  • 12月8日、地球の裏側で大日本帝國が独伊の側に立って宣戦布告して参戦。太平洋にも戦線が構築される事になった。
    同月13日、北アフリカに送る船団を護衛する任務に就く。ところがイギリスのラジオは巧みに偽情報を流し、軍上層部が北アフリカ沿岸に敵艦隊がいると信じ込んだため急遽取りやめとなった。
    翌日、帰投中にメッシーナ海峡にてイギリス潜水艦アージから雷撃を受ける。放たれた3発のうち1発が命中、13メートルの破孔が生じ浸水が始まる。
    プリエーゼ魚雷防御システムが上手く働き、自力航行が可能だったヴィットリオ・ヴェネトは何とかタラントへ帰り着いた。さっそく修理が始められた。
    修理がてらレーダーの取り付け工事が行われている。1942年3月、修理完了。
 
1942~戦後
  • 1942年6月14日、マルタ島とアレクサンドリアとの活発な無線のやり取りを傍受。近日中に輸送船団の出現が予想されるとして、リットリオ及びヴィットリオ・ヴェネトと4隻の巡洋艦、12隻の駆逐艦が出撃。
    これに対してイギリス軍は翌日にウェリントン爆撃機とビューフォート雷撃機を発進させ、輸送船団を守ろうとした。艦隊は空襲に曝され、巡洋艦トレントが撃沈した。
    16日にはアメリカ軍のB-24による空襲を受けた。ヴィットリオ・ヴェネトに至近弾1発が飛んできたが、大した損傷にはならなかった。
    更にビューフォートが襲ってきたが、独伊の戦闘機が救援に駆けつけ、5機のビューフォートを叩き落とした。
    午後までに輸送船団を攻撃できなくなったので撤収。またもや船団への攻撃に失敗した。
  • 11月12日、連合軍による北アフリカ侵攻が始まったため、ヴィットリオ・ヴェネトはタラントからナポリへ退避する事になった。その道中、英潜水艦アンブラに雷撃されたが命中せず。
    12月4日、避難先のナポリがアメリカ軍の空襲を受ける。艦隊主力はラ・スペティアに引き上げ、今後は積極的に出撃する事は無くなった。
     
  • 1943年6月5日、ラ・スペティアで停泊中にB-17の爆撃に遭う。2発の爆弾が向かってきて、1発は不発弾だった。残りの1発は外れて海中に没したが、運が悪い事にヴィットリオ・ヴェネトの真下で起爆。
    構造的に重大な損傷を負い、大破させられてしまった。空襲でラ・スペティアの施設も破壊されていたため、修理はジェノヴァに依頼する羽目となった。
  • 戦況は日に日に悪化していた。イタリア本土への爆撃は連日続き、1943年5月には北アフリカ戦線が終結。ドイツアフリカ軍団は消滅し、本土の目の前にイギリス軍が展開するようになった。
    厭戦気分が広がる世論に苦労しながら本土決戦の準備を整えるイタリア軍。そんな中、7月25日にクーデターが発生。ムッソリーニが失脚し、連合国との講和が始まった。
  • 1943年9月8日、イタリアは休戦し後に降伏。多くのイタリア艦艇が抑留または投降する中、ヴィットリオ・ヴェネトは連合軍に投降するため仇敵マルタ島へ向かっていた。
    だがイタリア艦の降伏を許さないドイツ空軍のドルニエが新型爆弾フリッツXを携えて出現。ヴィットリオ・ヴェネトらの艦隊に攻撃を仕掛けてきた。
    ヴィットリオ・ヴェネトは無傷で空襲を乗り切ったが、伴走者の姉ローマは死亡した。ドイツ軍を振り切り、戦艦ウォースパイトと合流すると武装解除され、マルタ島へ入港する。
    14日まで留まったが、他のイタリア艦も集結して狭くなったため10月17日にアレクサンドリア、エジプトを経由してスエズ運河にあるグレートビター湖に抑留される事となった。
    ソ連軍は降伏したイタリア艦を全て接収しようとしており、ソ連から逃れさせるためにわざわざ遠方に回航したのだった。
    この際、姉妹艦であるリットリオも同じ場所に抑留されている。戦争中、ヴィットリオ・ヴェネトを連合国側の艦船として使用する計画も立てられたが、実現する事は無かったという。
    波が高い大西洋や太平洋では転覆するし、多少はね?
  • 性能としても申し分ないにもかかわらず、姉妹艦のリットリオ、ローマを含めヴィットリオ・ヴェネト級は目立った活躍もなく生涯を終えた。
    こうした不遇の経歴の背景には、イタリア海軍内での消極的な運用や、本級の燃費の悪さ、燃料の不足などの問題があったのである。
     
  • 第二次世界大戦終結後の1946年10月6日、帰国を果たす。ヴィットリオ・ヴェネトはシチリア島に立ち寄ったあと、ラ・スペティアに帰った。
    1947年2月10日に署名されたイタリアとの平和条約により、賠償艦としてイギリスに引き渡された。1948年1月3日、イタリアへ返還されたものの、和平条約に基づいて除籍の処分を受ける事となった。
    2月1日、除籍。燃料不足という鎖に繋がれていたにも関わらず最も活発に動き、11回の作戦に参加した彼女は静かに余生を送った。
    元々燃費が悪いという欠点を抱えていたために、皮肉にも旧式艦のカイオ・ドゥイリオ級戦艦よりも先にお役御免となってしまったのである。
    その後は軍への復帰も適わないまま、1960年に解体処分となった。スクラップ代金はイギリスに手渡された。
    一方、ヴィットリオ・ヴェネトから取り外された90mm対空砲12基はユーゴスラビア人民軍に再利用されている。

*1 日本の文献では進水と就役が早かったヴィットリオ・ヴェネトをネームシップとすることが多いがイタリア海軍の予算計画ではリットリオが1番艦とされていた
*2 衝撃吸収用の円筒を備え、被弾時の衝撃分散を目的としたシステム。実際の運用では却って振動が増幅する欠点があった
*3 航続距離は当時の一般的なイタリア駆逐艦と同等で、尚且つ燃料は高コストとなった