No113 リシュリュー/元ネタ解説

Last-modified: 2021-10-16 (土) 23:38:37
所属Marine nationale→Vichy Marine(1940)→Forces navales françaises libres(1943)→Marine nationale(1944)
艦種・艦型リシュリュー級戦艦
正式名称Richelieu
名前の由来Armand Jean du Plessis de Richelieu(1585-1642) フランス王国の政治家、聖職者、枢機卿 中央集権体制の確率と王権の強化に尽力し、行政組織の整備など後年の絶対王政の基礎を築いた。また文化政策にも力を注ぎ国立学術団体「アカデミー・フランセーズ」を設立している。
起工日1935.10.22
進水日1939.1.17
フランス海軍就役日1940.4.1
ヴィシー政権海軍編入日1943.7.15
自由フランス海軍就役日(竣工日)1942.11(1943.10.10)
退役日(除籍後)1959 1967除籍(1968年解体)
全長(身長)247.85m
基準排水量(体重)35000英t(35561.6t)
出力Indret式重油専焼缶6基Parsons式蒸気タービン4基4軸 155000PS(152879.6shp)
最高速度32.0kt(59.26km/h)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/10000海里(18520km)
乗員指揮官70名 乗組員1550名
装備(竣工時)380mm45口径M1935四連装砲2基8門
152mm55口径M1936三連装砲3基9門
100mmM1931連装高角砲6基12門
37mm機関砲x20(10x2)
13.2mm機銃x32(16x2)
艦載機x3
装備(1943)380mm45口径M1935四連装砲2基8門
152mm55口径M1936三連装砲3基9門
100mmM1931連装高角砲6基12門
ボフォース40mm機関砲x56(14x4)
エリコン20mm機関砲x48
艦載機x3
装備(1955)380mm45口径M1935四連装砲2基8門
152mm55口径M1936三連装砲3基9門
100mmM1946連装高角砲12基24門
ボフォース57mm機関砲x28(14x2)
艦載機x3
装甲舷側:152~330mm 甲板:150~170mm+40~50mm 砲塔:140~430mm バーベット:405mm 艦橋:260~350mm
建造所Arsenal de Brest,Brest
(ブレスト海軍工廠 フランス共和国ブルターニュ地域圏フェニステール県ブレスト郡ブレスト市)
建造から連合軍に降伏するまで

フランス海軍が建造したリシュリュー級戦艦一番艦。全部で4隻建造される予定だったが、二番艦のジャン・バールまでしか建造されなかった。
ドイツのビスマルク級、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級に対抗するため、前級のダンケルクを拡大発展させたリシュリュー級の建造に着手した。
船体をブレスト工廠に、機関をロワール社に発注し、1935年10月22日に起工した。1939年1月17日に進水を果たし、着々と工事が進められた。1940年1月には公試を始めている。

 

しかし生まれて間もないリシュリューに災難が降りかかる。ナチスドイツがフランスに侵攻する椿事が発生。ドイツ軍はフランス軍を蹴散らし、領土奥深くにまで浸透していく。
この緊急事態に、リシュリューは工期を大幅に切り上げて進捗率95%で就役する。そして1940年6月19日、ブレストがドイツ軍の手に落ちる寸前に、兵学校卒業生全員を乗せて脱出に成功。
間もなくフランスは降伏し、親独政権のヴィシーと連合軍側についた自由フランスに分裂。本国の敗戦という残酷な現実を突きつけられる結果となった。
またリシュリューは未完成であり、本国の陥落に伴って完工が困難になってしまった。未完のまま、戦争という荒波の中を漕ぎ始めるのだった。
この時、主砲弾は250発あったが、152mm砲弾は一発も持っていなかった。補給が乏しくなるのは明々白々で、前途多難な船出となってしまった。
リシュリューはヴィシー政権側に付き、6月23日にヴィシーフランスの勢力圏であるダカールに入港した。フランス艦隊が枢軸国に編入される事を恐れたイギリス軍は直ちにダカール沖へ艦隊を派遣。
ヴィシーフランス海軍に対し、全艦艇を差し出すよう最後通牒を叩きつけた。しかしヴィシー側は悩みに悩み、曖昧な回答をしてしまったため、イギリスに攻撃の口実を与えた。メルセルケビール海戦の幕開けである。
7月3日、アルジェリアに停泊するダンケルクらフランス艦隊に対し攻撃が行われた。港外に接近すれば戦艦部隊の砲撃に曝される危険があったため、英空母ハーミーズによる攻撃が行われた。
ハーミーズから発艦したソードフィッシュの第一波が攻撃したが失敗。迎撃しようとリシュリューが港外へ出撃してきた。こうなるとハーミーズの手には負えず、作戦変更。
次にイギリス軍は高速艇を投入し、爆雷を投下してリシュリューの舵と推進器を破壊。身動きが取れなくなった所を再度空襲し、雷撃で魚雷1発を喰らわせた。この損傷で浸水し、着底。
数日後、応急修理により復旧した。ヴィシー側の艦艇はイギリス海軍の攻撃で次々に損傷・座礁し、戦闘はイギリスの勝利で終わった。
ところがこの一件でフランスに不信感を抱かせ、枢軸国寄りにしてしまった。
メルセルケビール海戦から約二か月が経過した頃、ヴィシーの勢力圏であるダカールを得ようと考えた自由フランスはイギリスに攻撃を要請。
9月23日、ダカール沖に再びイギリス艦隊が展開した。戦闘前に投降を呼びかけるビラが撒かれたが、ヴィシー側が拒否したため戦端が開く。
メルセルケビールの一件とリシュリューの存在がヴィシー側の士気を盛り上げていたのである。
翌日、リシュリューは英空母アーク・ロイヤルから航空攻撃を受けるも、対空砲火で反撃し3機を撃墜した。続いて英戦艦2隻と交戦。バーラムに命中弾を与え、中破させる活躍を見せたが自身も被弾して二番砲塔七番主砲が爆発事故で折れてしまった。
ヴィシー側の頑強な抵抗で上陸が進まず、戦闘の長期化を危惧したイギリス海軍は撤退。戦闘はヴィシー側が勝利した。
戦闘終了後、応急修理が行われ、1941年4月24日に完了。フランス本国陥落の際に大型駆逐艦によって持ち出された最新鋭のレーダーが搭載された。
戦局は常に動き続け、地球の裏側では大日本帝國が枢軸国に加わったが、ダカールは何事もなく平和だった。

 
降伏~その後

1942年11月8日、トーチ作戦により連合軍が北アフリカに上陸。駐留艦隊や空軍は交戦の末、壊滅。弾薬や資材の不足と士気の低下でアフリカのヴィシーフランス陸海軍は自由フランスに降伏。
同月24日にヴィシー保有の艦艇は連合国へ引き渡される事になった。このためリシュリューも連合軍の一員となる。
余談だが、作戦に参加したアメリカはヴィシーフランスを正統な中立国として認めていたが、今回のトーチ作戦では宣戦布告をせずに侵攻するという戦時国際法違反をやらかしている・・・。
さっそくアメリカに回航され、1943年2月24日にブルックリン海軍工廠で破損箇所の修理が行われた。また多種多様な改装が加えられ、対空機銃も大幅に増設された。
主砲、副砲、高角砲はそのまま継承され、アメリカでそれぞれの砲弾の製産ラインを設けてアメリカ製の砲弾を使用した。(イギリス製の38.1cm砲弾が使用できるよう砲身内部が削られたという説が長らく定説だったが、近年は砲身は削られていなかった説が主流である)
アメリカ製とイギリス製の水上レーダーを搭載し、対空兵装も強化された。代わりに艦尾の航空兵装が取り除かれている。
10月10日、出渠。11月20日にスカパフローへ入港し、イギリス本国艦隊所属となる。イギリス軍に編入されたリシュリュー初の任務は、ノルウェー北部のドイツ船団を攻撃するポストホーン作戦であった。
その後、ノルウェーに残っているドイツの大型艦を監視。しかしレーダーの不備で掃討戦には参加出来なかった。
来るべき決戦、ノルマンディー上陸作戦に投入される予定だったがリシュリュー用の榴弾がなく、対地攻撃力が乏しいとして史上最大の作戦から外される。
1944年3月、代わりに東洋艦隊に転属。対日戦に参加するべくスエズ運河を通過。4月10日、セイロン島のトリンコマリへ入港した。以降は極東で活動。
同月19日、コクピット作戦でサバンを砲撃。6月27日にはトランサム作戦でスラバヤを砲撃した。翌月22日にもクリムゾン作戦でスマトラを砲撃している。
10月1日、ツーロンに入港し整備を受ける。同時にドイツ軍の新兵器フリッツXに対抗するためレーダーを増設している。

 

1945年4月、リシュリューはサバンを砲撃し、軍施設と油田に甚大な被害を与えた。5月にはスラバヤ及びポートブレアへの空襲支援を実施した。
この頃には既に帝國海軍は瀕死の状態だったが、インド洋を臨むペナン基地には僅かに残った大型艦、羽黒が停泊していた。これを撃沈するべくイギリス海軍はデュークダム作戦を開始。
リシュリューも作戦に参加したが、羽黒はソーマレズをはじめとする駆逐隊によって撃沈されたため直接関与する事が出来なかった。
そして8月15日に日本が降伏し、未曾有の戦争に幕が下りた。この時、リシュリューはダーバンでドック入りしていた。9月2日、東京湾で行われた降伏調印式に参加。
同月11日にはシンガポールへ入港し、リシュリューの要員が戦勝パーティーを開いている横で板垣司令の降伏が行われた。
続いて第一次インドシナ戦争に参加し、兵員輸送と沿岸砲撃を実施した。
1946年2月、ようやくフランス本国へ戻る事が出来た。ドイツの侵攻でブレストを脱出してから実に6年近く経過していた。
1956年に繋留訓練施設艦に変更され、1958年に予備役へと編入。1967年12月には除籍となり、翌年1月16日に艦名が「船体Q432」となった。同年9月、サンタマリア造船所に売却され解体。
ブレスト軍港にはリシュリューの主砲一門が展示されているという。

 

余談だが、フランス海軍(連合国)の戦艦でありながら枢軸国の艦艇とは戦っておらず、干戈を交えたのは連合軍の艦艇のみという奇怪な戦歴を持っている。これもうわかんねぇな。

小ネタ

  • 胸甲騎兵(cuirassier)というのは中世に実在した、甲冑とピストル(火縄銃レベルのものだが)で武装した騎馬兵の一種である。
    銃器の登場時はまだ銃自体の性能が低かったため甲冑による防御も有効であり、ナポレオン戦争の時代には花形ともなったが、銃器の発達と共に姿を消した。
    スキル説明にもあるように、フランス語の戦艦(cuirasse)の語源という形でこの名前がつけられたようだ。
    胸部装甲=欧派のことだと思ったアミラルはそこに正座
  • 煙幕を張って守ってくれた駆逐艦とはダカール沖海戦におけるル・アルディ級一番艦ル・アルディのこと。
    フランス海軍内では大型水雷艇から小型駆逐艦へと種別変更されたが、基準排水量1700t超えと他国なら立派な大型駆逐艦である。
    本艦はフランス降伏時まだ未完成だったものの強制的に就役し、9月のダカール沖海戦に参加した。