No118 グラーフ・ツェッペリン/元ネタ解説

Last-modified: 2019-12-07 (土) 20:27:07
所属Kriegsmarine→Военно-морской флот СССР(1946)
艦種・艦型グラーフ・ツェッペリン級航空母艦→浮き砲台(1947)
正式名称Graf Zeppelin→ПБ-101
名前の由来Ferdinand Adolf Heinrich August Graf von Zeppelin(1838-1917) ドイツ陸軍中将、発明家 硬式飛行船の開発を行い、史上初の硬式飛行船「ツェッペリンZL1」を完成させた。改良型が軍や民間航空会社に使われ、たった数年で航空運輸の時代を作り出すこととなった。
起工日1936.12.28
進水日1938.12.8
就役日(竣工日)未完成
その後1943年建造中止 1945.4.25自沈 1947.8.14浮揚 1947.8.17標的艦として沈没
全長(身長)262.5m
基準排水量(体重)23200英t(t)
出力La Mont式重油専焼缶16基Brown Boveri式蒸気タービン4基4軸 200000PS(197264.0shp)
最高速度35.0kt(64.81km/h)
航続距離19.0kt(35.18km/h)/8000海里(14816km)
乗員1760名
装備(建造時)15cm60口径SK C/25連装砲8基16門
10.5cm65口径SK C/33連装高角砲6基12門
3.7cmSK C/30機関砲x22(11x2)
2cmC/30機関砲x28(14x2)
艦載機x43
装甲舷側:60~100mm 甲板:20~45+20~60mm 艦橋:17mm 隔壁:20mm
建造所Deutsche Werke, Kiel
(ドイチェヴェルケ社 ドイツ連邦共和国シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州キール市)
  • ドイツ初の航空母艦、グラーフ・ツェッペリン級航空母艦の1番艦....の未成艦
    4隻の建造される予定だったが2隻しか起工しなかった。
  • 艦名の由来は硬式飛行船を実用化したフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵から。『ツェッペリン飛行船』と言えば聞いたことのある人も多いだろう。
  • ドイツ初の航空母艦という事で、建造にあたっては同盟国であった日本に協力を仰いでいる。ドイツから造船技術者が日本に派遣され、空母『赤城』の建造技術や、航空母艦運用のノウハウを持ち帰った。
    • イギリスの空母『グローリアス』も参考にしようと試みたが、こちらは情報を入手できなかった模様
  • ドイツ独自の試みとして、圧縮空気で作動するカタパルトが2基採用されている。このカタパルトにより、風向きを考慮することなく艦載機を発艦させられる……筈だった。
  • また、敵の水上艦にも対抗できるよう、15cm SK C/28連装砲が8基16門搭載されていた。後に没収されるが
  • 搭載機は戦闘機Bf109Tが10機、爆撃機Ju87Cが13機、偵察機・雷撃機としてFi167が20機の計43機。後にFi167は撤廃され、戦闘機Bf109Tを30機搭載する計画となった。
  • 1936年12月28日、キールのドイッチェ・ヴェルケ造船所にて起工。グラーフ・ツェッペリンの竜骨が置かれた造船台では、20日ほど前まで巡洋戦艦グナイゼナウが建造されていた。
  • 1938年12月8日進水。進水式では空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングが演説を行った。また、ツェッペリン伯爵の娘であるヘレン・フォン・ツェッペリン夫人が艦に洗礼を施し、航海の安全を祈った。
  • 1939年の暮れには船体の85%が完成しており、「40年の中頃までには建造も終わるだろう」と見積もられていた。……が、ここから受難の日々が始まる
  • 1940年5月、ドイツはノルウェーを制圧、6月にはフランスを降伏させる。欧州を席巻したは良いが、ノルウェーからフランスに至る長大な海岸線を防衛しなければならなくなった。その為、9割方完成していたグラーフ・ツェッペリンの建造は後回しにされ、沿岸要塞の建造にリソースが回される事となった。更に、グラーフ・ツェッペリンに搭載されていた15cm砲や高角砲も没収され、沿岸砲に転用されてしまう。
  • 1940年7月、キールからゴーテンハーフェンに曳航され、1年ほど同地に係留される。その間、あろうことか材木置き場として利用される始末。
  • 1941年6月、ソ連侵攻の直前に空襲を避けるため、独ソ国境から離れたシュテッティンに移送される。が、ドイツが戦線をソ連側に押し込むと、ゴーテンハーフェンに戻され、そして再び材木置き場として利用された……
  • 1942年になると若干風向きが変わってくる。イギリスがタラント空襲でイタリアに、日本が真珠湾攻撃でアメリカに大打撃を与えたため、ドイツ国内でも空母の有用性が取り沙汰されるようになった。総統閣下も空母の必要性を認め、5月13日に建造や各種試験の実施が再開される。……のだが
  • 1942年12月31日のバレンツ沖海戦にて、ドイツ海軍はイギリス海軍に対し戦略的に完敗を喫する。徹夜した挙句、新年早々に敗北の報を聞かされた総統閣下は大激怒、海軍総司令官レーダー提督を即刻解任し、更には完成未成問わず、全ての大型艦の建造中止・解体命令を出す。やりすぎである
  • 新任のデーニッツ総司令が必死に総統閣下を説得した結果、命令の大部分は実行されずに済んだが、グラーフ・ツェッペリンの建造は中止、残った砲やカタパルト、管制装置も大部分が撤去されてしまう。その後、シュテッティン近郊の河川に2年ほど留め置かれ、放置される事となる。
  • 1945年4月、独ソ戦も末期、ドイツ軍は敗走を続け、赤軍は遂にシュテッティン付近にまで進出した。事ここに至り、グラーフ・ツェッペリンはソ連の手に落ちる事を避けるため、自沈を選択する……のだが、浅瀬だったため、完全に沈没するには至らなかった。
  • 戦後、グラーフ・ツェッペリンの船体は引き揚げられ、ドイツにより修理された後、ソ連へ賠償艦として引き渡される。ここからグラーフ・ツェッペリン最後の受難の日々が始まる。
  • 1947年、ソ連は旧ドイツの艦船を標的艦とし、破壊する事を決定した。同年8月、グラーフ・ツェッペリンはスビーネミュンデに曳航され、標的艦として甲板に大量の砲弾、爆弾を撃ち込まれ、最終的にソ連駆逐艦の魚雷で撃沈された。
  • グラーフ・ツェッペリンの沈没位置は長らく不明のままであったが、2006年、ポーランドの石油探査企業であるLotos Petrobaltic社によって、ポーランドの都市ブワディスワボボの北方55kmにグラーフ・ツェッペリンらしき艦船が沈没していると発表された。