No121 エンタープライズ/元ネタ解説

Last-modified: 2020-01-13 (月) 13:11:03
所属United States Navy
艦種・艦型ヨークタウン級航空母艦
正式名称USS Enterprise (CV-6)
名前の由来Enterprise 英語で冒険心、困難への挑戦
愛称The Big E, Lucky E, The Grey Ghost ,The Fighting Gray Lady, The Galloping Ghost of The Oahu Coast
起工日1934.7.16
進水日1936.10.3
就役日(竣工日)1938.5.12
退役日(除籍後)1947.2.17(1958.7.1売却後解体)
全長(身長)251.4m→252.2 m(1942)
基準排水量(体重)19800英t(20118t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶9基Westinghouse式9基蒸気タービン4基4軸 120000shp(121664.4PS)
最高速度32.5kt(60.18km/h)
航続距離15kt(27.78km/h)/12500海里(23150km)
乗員2217名(1942)
装備(竣工時)5inch38口径Mk.12単装両用砲8門
1.1inch機関砲x16(4x4)
ブローニング12.7mm機銃x24(24x1)
艦載機90
装備(1943)5inch38口径Mk.12単装両用砲8門
ボフォース40mm機関砲x36(5x4+8x2)
エリコン20mm機関砲x50(50x1)
艦載機90
装備(1945)5inch38口径Mk.12単装両用砲8門
ボフォース40mm機関砲x54(5x2+11x4)
エリコン20mm機関砲x32(16x2)
艦載機90
装甲舷側:2.5~4inch 甲板:1.5inch 艦橋:3~4inch
建造所Newport News Shipbuilding, Newport News, Virginia
(ニューポート・ニューズ造船所 アメリカ合衆国ヴァージニア州ニューポート・ニューズ市)
勲章Presidential Unit Citation
Navy Unit Commendation
American Defense Service Medal(Fleet clasp)
American Campaign Medal
Asiatic-Pacific Campaign Medal(20 stars)
World War II Victory Medal
Philippine Presidential Unit Citation
Philippine Liberation Medal(1 star)
  • 1934年起工され、38年就役したヨークタウン級航空母艦2番艦。
    就役後は東海岸で訓練などを行っていたが、やがて不穏な世界情勢に合わせ、太平洋艦隊に配置され、真珠湾のフォード島、F-11埠頭を母港とする。
  • 1941年11月28日、ウェーク島防衛強化のため海兵隊のF4F-3戦闘機12機を搭載し、基地へ送り届ける。
    輸送中海兵隊員たちはマクラスキー大佐の講義を熱心に聞き、やがてこの12機は重大な働きをすることになる。
    • 間もなくウェーク島は日本軍による侵攻を受けるが、この12機は最後の1機が撃墜されるまで果敢に奮戦し、日本軍を大いに悩ませた。
  • 12機を無事送り届けたエンタープライズは、護衛のソルトレイクシティーらと共に12月6日に真珠湾へ戻る予定だった。
    しかし時化に遭遇し、護衛の駆逐艦が落伍しないよう船速を落としたため、真珠湾への帰還は1日遅れ、7日の昼を過ぎることになった。
    7日朝6時頃、訓練を兼ねて偵察隊のSBD2機がハワイに向け発進した。
    すぐ後に全18機の偵察隊の残り16機が発艦。一路フォード島を目指して飛行したが、2時間後日本軍機からの襲撃を受け5機が撃墜される。
    真珠湾への攻撃を知った指揮官ハルゼー中将はエンタープライズ単独であろうと日本軍を探し出して攻撃を決意したが見つからず、
    真珠湾に戻るとF-11埠頭には、留守の間場所を借りていた標的艦ユタが横たわっていた。
  • 10日、真珠湾攻撃作戦に参加していた伊70潜水艦を発見、SBDドーントレス爆撃機を発艦させ、これを撃沈している。
    伊70潜水艦は太平洋戦争における日本軍初の戦没艦となり、アメリカにとっては初の敵艦撃沈となった。
  • エンタープライズはその後ウェーク島への救援に向かう予定であったがウェーク島が陥落したため、
    第一次大戦でドイツ領から日本領となっていたマーシャル諸島に空母機動部隊によるゲリラ戦を仕掛けることになった。
    一連の機動空襲の成功はかなり過大な戦果として喧伝されたが、ヨークタウンとエンタープライズは米国民を勇気づけ、英雄的な旗印となっていく。
    1942年4月には同型艦の新鋭空母ホーネットを護衛し、日本本土への初空襲を成功させる。
  • 一連の機動空襲に加え本土への空襲を許した日本軍は、南洋諸島への進出を強めるとともに米海軍機動部隊の撃滅を目論んだ。
    珊瑚海海戦において空母レキシントンを喪失した米海軍には動揺が広がったが、ヨークタウン級空母3隻による開戦以来の大艦隊をもって日本空母機動部隊撃滅のため出撃。
    両軍はミッドウェーで激突し、ヨークタウンを失いながらも日本の主力空母4隻を撃沈する。エンタープライズは真珠湾に戻ると、全滅したTBDの代わりに新鋭TBF雷撃機を受領した。
  • 戦力的に漸く拮抗した米海軍はこの機を逃さずソロモン諸島で戦闘を繰り広げたが、第一次ソロモン海戦では大敗、第二次ソロモン海戦でついにエンタープライズも被弾し大損害を受けてしまう。
    甲板やエレベーターを損傷したエンタープライズは真珠湾に戻って修復を受けたが、その間にも米軍の損害は増え、サラトガの損傷、ワスプ沈没により、
    稼働空母はホーネット一隻となってしまう。
    エンタープライズは真珠湾での応急修理もそこそこに、半壊した部隊を新人だらけの部隊に入れ替えてソロモン諸島へ舞い戻った。
    10月、サンタクルーズ諸島沖で日本軍との大規模な交戦によりついにホーネットも沈没し、エンタープライズも再び大損害を受ける。
    この時点で米海軍の太平洋における稼働空母は一隻もいなくなってしまった。
  • だがエンタープライズは少なくとも沈没してはいなかった。
    工作艦ヴェスタルによる2週間の応急修理中、ガダルカナル島周辺での日本軍の動きを察知した米軍は、エンタープライズにヴェスタル乗員を載せたまま(修理継続のまま)出撃した。
    第一エレベーター使用不可、甲板後部が歪み着艦困難という状況ではあったが、幸い艦載機は90機が稼働できる状態にあった。
    エンタープライズ艦載機は発進したら全機ヘンダーソン基地に着陸することとして出撃、戦艦比叡を攻撃し、大損害を与えた。
    ワシントンサウスダコタの活躍により残る戦艦霧島も撃破した米海軍は漸く窮地を脱し、
    エンタープライズは修理完了したサラトガとともに数ヶ月間哨戒や直掩を行うと、いよいよ損傷の蓄積が激しくなったため、大規模な修復のため本国に帰還することとなった。
    エンタープライズが今日まで名声を残す所以は、この最も苦しい時期を戦い抜いたからこそである。
  • 5月に真珠湾に戻って船体の修復と訓練を行ったが損傷が激しく、2ヶ月後には本国に戻って大改装を受けることが決定した。
    バルジの増設や対空兵装の近代化改修の他、これまでのダメコンを教訓に消火設備が更新され艦上戦闘機も新型F6Fを受領した。
    しかし乗組員のもっぱらの関心事は新しくなったアイスクリーム製造機だった。
  • 3ヶ月を書けた大改装を終え真珠湾に向けて出港したとき、ベテラン乗組員の多くは新鋭空母などにその経験を活かす為振り分けられ、
    エンタープライズ乗員は4割が新入りに入れ替わっている。
    真珠湾に到着するとそこには新鋭エセックス級空母が就役し、戦艦も新型や修理完了艦でごった返す大所帯へと変貌していた。
    43年末から44年前半にかけて、エンタープライズはかつて反撃の口火を切ったマーシャル諸島周辺の本格的な攻略作戦支援に当たった。
    この戦いの中でレーダーを用いた夜間攻撃を実施し成功を収めている。
  • 戦線を拡大するアメリカ軍がマリアナ諸島攻略に乗り出すとエンタープライズもこれの支援に当たる。
    この戦いの後真珠湾に戻ると、歴戦の愛機SBDからSB2Cへと機種転換が行われた。
    44年後半からはアメリカ軍の本格的な攻勢を支援し、各地で上空支援や空襲を行う。
    レイテ沖の決戦では連合艦隊を迎え撃ち、西村・小沢・栗田の3艦隊を攻撃した唯一の空母でもあった。
    その後エンタープライズは夜間攻撃を行う専門の空母となり、昼は艦隊直掩を、夜は攻撃機を発進させる忙しい日々が続いた。
  • 1945年5月、日本軍の特攻機迎撃を続けていたエンタープライズは、巧みな操縦により突入してきた特攻機により、
    1番エレベーター使用不能の大損害を受けて本国に回送され修理中に終戦を迎えた。
  • 終戦後は復員兵の輸送などをこなしたものの、度重なる損傷と増設により船体各部にガタが来ており、
    新鋭大型空母と比べて旧式の中型空母であるエンタープライズはジェット機の運用にも支障があるため、退役と解体が決まった。
    ハルゼー提督を始め多くの人が艦の保存を嘆願したり、署名や資金を募ったが、記念館としての維持管理も難しく、
    戦艦や駆逐艦のように再活性化で活用できる見込みもないため、1960年、多くの人に惜しまれながら解体された。
  • 緒戦から苦しいアメリカ軍を支え続け、反撃の糸口を掴み、壮絶な殴り合いを生き延びたエンタープライズの従軍星章は、
    第二次世界大戦の参加艦艇中最大の20個。大統領感状のほか、イギリスからも表彰を受けた。
    太平洋戦争の22の主要作戦のうち18に参加、15回損傷し、日本軍によって9回撃沈を発表されたエンタープライズは、
    その頭文字を取りビッグEの愛称で、今日までその名声を語り継がれている。