No13 アンドレア・ドーリア/元ネタ解説

Last-modified: 2021-02-11 (木) 10:54:07
所属Regia Marina→Marina Militare(1946)
艦種・艦型カイオ・ドゥイリオ級戦艦
正式名称Andrea Doria
名前の由来Andrea Doria(1466-1560) ジェノバ共和国(イタリア)海軍提督 欧州へのオスマントルコの影響力を強めるために奮闘した。オスマントルコを完全に掌握することは叶わなかったが当時としては異例の80歳を越えても現役でバルバリア海賊の討伐など戦場の指揮を取った。
起工日1912.3.24
進水日1913.3.30
就役日1916.3.13
退役日(除籍後)1956.9.16 1956.11.1除籍(1956解体)
全長(身長)176.1m→186.9m(1937)
基準排水量(体重)25200英t(25604.38t)→28700英t(29160.6t)(1937)
出力Yarrow式重油専焼缶8基Yarrow式石炭重油混焼艦12基Parsons式蒸気タービン3基4軸 32000PS(31562.2shp)→Yarrow式重油専焼缶8基Belluzzo式蒸気タービン2基2軸 85000PS(83837.2shp)(1937)
最高速度21.5kt(37.34km/h)→27.0kt(37.34km/h)(1937)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/5500海里(10186km)
→18.0kt(33.33km/h)/4000海里(7408km)(1937)
乗員1230名(改装前)1495名(改装後)
装備(建造時)305mm44口径M1909三連装砲3基連装砲2基13門
152mm45口径M1911単装砲16門
76mm45口径M1911単装砲19門
76mm40口径M1916単装高角砲6門
40mm39口径単装砲2門
450mm魚雷発射管3門
装備(1937)320mm44口径M1934三連装砲2基連装砲2基10門
135mm45口径M1937三連装両用砲4基12門
90mm50口径M1939単装高角砲10門
ブレダ37mm機関砲x30(15x2)
ブレダ20mm機関砲x16(8x2)
装甲(1937)舷側:254mm 甲板:135mm 砲塔:85~280mm バーベット:280mm 艦橋:260mm
建造所Arsenale militare marittimo della Spezia, La Spezia
(ラ・スペツィア海軍工廠 イタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県ラ・スペツィア)
  • ゲーム内ではアンドレア・ドーリア級となっているが本国イタリアではカイオ・ドゥイリオ級とされている。
    カイオ・ドゥイリオのほうがアンドレア・ドーリアより1ヶ月起工が早いためカイオ・ドゥイリオ級で間違いないのだが進水日はアンドレア・ドーリアが1ヶ月早いという逆転現象が起きている。
    そのためなのか英語版wikipediaなどアンドレア・ドーリア級となっていることもある。そのあたりの食い違いから起きた間違いだろう。
    • アプデでカイオ・ドゥイリオ級2番艦に表記が変わったが、Ver.5.10現在ではアンドレア・ドーリア級1番艦として実装されている。
    • ただし艦級や番号については竣工や進水が先になった艦がネームシップになる場合があるなど、国や時代などによって基準が異なるケースが多いため、資料によっても違いが多かったりする。
      竣工優先の例としてアメリカの重巡洋艦ニューオーリンズ級があり、この級は本来最初に起工されたアストリアに因んでアストリア級となるはずだったのだが、アストリアの工事が遅れて2番艦(だったはず)のニューオーリンズが先に竣工した結果ニューオーリンズ級に艦級自体が変更され、アストリアはニューオーリンズ級の2番艦になっている。
  • カイオ・ドゥイリオ級戦艦2番艦。船体をラ・スペティア工廠に、機関をジェノヴァ造船所に発注し、1912年3月24日起工。1913年3月23日に進水し、1916年3月13日に竣工したイタリアの弩級戦艦である。
    超弩級戦艦がデフォルトとなった第2次世界大戦時代の艦船を扱う戦艦少女においては前時代の旧式兵器であり、ステータスの低さも納得である。
    • 軍事に疎い人のためにもう少し説明すると、戦艦は大きく分けて「前弩級、弩級、超弩級」に分類される。
      戦艦という艦種そのものはそれこそ日露戦争などの頃から存在するのだが、1906年にイギリスで戦艦ドレッドノートが就役したことで情勢が一変。
      このドレッドノートは非常に斬新かつ革新的な設計の艦であり、登場と同時にそれまで就役・建造中だった戦艦を全て旧式化させてしまったほどの、まさに革命的存在だった。
      なお最大の被害者は当時最大の戦艦保有国だったイギリス自身である。
    • ドレッドノートの登場により、世界中の戦艦は「ドレッドノートと同等か、それ以下か」という新基準で全て振り出しに戻された。
      そのため各国はこぞってドレッドノートと同等の弩級戦艦を建造し(アンドレア・ドーリアもこの時期の産物)、数年後にはドレッドノートを上回る超弩級戦艦も誕生した。
      これらの建艦競争は各国の財政すら傾かせるほどにエスカレートし、やがてワシントン・ロンドンの両軍縮条約の締結(所謂「海軍休日」の時代)へと繋がっていくのである。
      なお、一連の建艦競争によって革命の発端となった当のドレッドノート自身はあっという間に陳腐化し、ロクな戦果もなく御役御免になったというオチも付け加えておく。
    • 弩級戦艦から超弩級戦艦への移行が割と早かったため、弩級戦艦の建造は1910年代前半に集中している。
      ほとんどの弩級戦艦は1920年のワシントン軍縮条約で廃艦となり、残存したものも第2次世界大戦の頃には老朽化と性能不足で一線を退いており、アンドレア・ドーリア級のように第一線で使われていたケースの方がむしろ少数派であった。*1
    • 余談だが、一連の騒動は今日でも使われる「弩級」という単語の語源でもある。「弩」はドレッドノートを意味する当て字。
  • アンドレア・ドーリア級は前級となるコンテ・ディ・カブール級戦艦の設計を踏襲しつつ、不具合を改善する形で設計された。アンドレア・ドーリアと同型艦のカイオ・ドゥイリオの2隻が建造されている。
  • カイオ・ドゥイリオともども、第1次世界大戦の際は対峙するオーストリア=ハンガリー帝国海軍があまり活動的でなかったので、船団護衛や海峡封鎖の任務に参加する程度で、大きな作戦には参加しなかった。
  • 第1次大戦の終結後の1923年8月27日、コルフ島事件が発生。ギリシャの領土であるコルフ島でイタリアのテッリーニ陸軍大将が何者かに殺害されてしまったのだ。イタリアが抗議の意味合いを込めて最後通牒を突きつけたが、ギリシャは取り合わなかった。
    これに激怒したムッソリーニ首相は直ぐに艦隊を出動させ、ケルキラ島を占領しようとした。この艦隊戦力にアンドレア・ドーリアも参加したが、予定の遅延により到着が8月31日の夕刻になってしまう。
    焦った艦隊は速やかに占領を行おうとケルキラ島を砲撃。ギリシャ人難民に犠牲者が生じ、占領には成功したもののイタリアに同情的だった各国の反応を冷ややかにしてしまった。
  • 1926年には国王の御座艦を務めたこともある。1928年には姉妹艦とともに固定式射出機を搭載する工事を受けた。
    その後の1932年、予備艦となったが、新たな仮想敵フランスによる超弩級戦艦ダンケルク級の起工、これに対抗するべきヴィットリオ・ヴェネト級の計画・建造の遅れなどにより、前級のカブール級ともども一線に復帰。
  • その後もフランスのリシュリュー級建造などもあって一線に留まり続け、1937年4月8日からトリエステ造船所にてカイオ・ドゥイリオと共に武装から装甲、機関に至るまでの徹底的な近代化改修が行われた。
    この魔改造により新鋭艦に劣らない性能を獲得したが、工事に手間取った事でヴィットリオ級戦艦の3番艦が開戦に間に合わず、4番艦に至っては建造すら出来なかった。
    もしこの魔改造が無ければ、ヴィットリオ級4隻が開戦までに就役したとされる。故に魔改造は失敗だったと見る人も居る。
    • 改造後に高速艦になるのは、この時の改装で最大速力が27ノットまでアップしたことを反映したものと思われる。
       
  • 近代化改装が終わる前に第2次世界大戦が勃発。1940年10月20日に改装完了。26日にタラントの第5戦隊に編入される。そして同大戦に参加し、地中海のイギリス軍補給路を攻撃するべく活動を開始する。
    11月12日夜、タラントで停泊中にイギリス軍機の襲撃を受ける。この攻撃で損傷し、翌日ナポリへ回航された。
    12月10日、イタリア海軍は艦隊の大規模な再編成を行う。アンドレア・ドーリアは第5戦隊に残留した。
  • 1941年1月初旬、新型戦艦ヴィットリオ・ヴェネトとともに北アフリカ方面に進出。イギリス軍のマルタ島補給作戦ことオペレーションエクセス妨害のため索敵を行ったが、イギリス艦隊を発見できなかった。
    2月6日、戦艦リットリオ等とともにラ・スペツィアを出港。イギリスのH部隊を探したが、失敗。2月8日、ジェノヴァを砲撃したイギリス艦隊を追撃するも濃霧によって逃げられた。
    元々イタリア軍は準備不足のまま参戦した上、独ソ戦開幕で石油の入手も困難になり始めたため、思うように戦えなくなってしまう。今後はルーマニアの油田が唯一の頼りとなり、ドイツから主力艦の出撃を控えるよう言われる。
    同月12月16日、リビアへ向かう輸送船団をして出港。翌日、イギリス海軍と会敵し、第一次シルテ海戦が生起する。この戦闘は本格的ではなかった。
    アンドレアは1942年1月3日までに3回船団護衛に務め、リビアへと送り届けた。2月からはイギリスの牙城マルタ島近海で活動。
  • 1942年5月末、マルタ島からの爆撃を避けるためメッシナからタラントへ移動。また燃料不足が深刻化し、夏からは解役されて練習艦に転用。乗員は護衛艦艇に抽出された。
    しばらくそのまま係留される日々が続いたが、1943年5月末に北アフリカ戦線が終結。目の前にイギリス軍が展開するようになったため本土決戦に備え、2ヶ月かけて移動砲台に改装。タラントへ配備された。
  • 9月9日のイタリアの降伏時、アンドレアは宿泊艦として運用されていた。降伏を知るやタラントから脱出、13日にシチリア島沖で戦艦ウォースパイトと合流し、マルタ島へ回航された。
    イタリアの降伏後、紆余曲折を経て、1944年6月8日に返還。再びイタリア軍に復帰。主に練習艦として扱われた。1945年3月14日、タラントへ帰還。
  • 戦後はイタリア軍の主力艦として、一時期は艦隊旗艦も務め、NATO演習にも参加している。1947年にはレーダーが装備されたが、1953年6月に予備役に編入。
    老朽化には耐えられず、1956年11月1日にカイオ・ドゥイリオと共に除籍・解体。40年以上に及ぶ長い生涯に幕を下ろした。

*1 イタリア海軍もドーリア級に続き超弩級戦艦フランチェスコ・カラッチョロ級を建造していたが、WW1勃発とワシントン軍縮条約のダブルパンチで流産してしまったため、結果的にドーリア級が最新鋭のイタリア戦艦になってしまったのである。