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No136 ケント/元ネタ解説

Last-modified: 2018-01-26 (金) 16:23:45
所属Royal Navy
艦種・艦型カウンティ級ケント型重巡洋艦
正式名称HMS Kent (54)
名前の由来County of Kent イギリス・ケント州
起工日1924.11.15
進水日1926.3.16
就役日(竣工日)1928.6.25
退役日(除籍後)1945年 1948.1.22除籍(売却後解体)
全長(身長)192.0m
基準排水量(体重)9750英t(9906t)
出力Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 80000shp(81109.6PS)
最高速度31.5kt(58.33km/h)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/13300海里(24631.6km)
装備(1945)8inch連装砲4基8門
4inch45口径Mk.XVI連装両用砲4基8門
ヴィッカース2ポンド機関砲x16(2x8)
エリコン20mm機関砲x12(6x1+3x2)
21inch四連装魚雷発射管2基8門
装甲舷側:1inch→4.5inch(1936) 甲板:1.25~1.5inch 砲塔:1inch バーベット:1inch 隔壁:1inch 艦橋:1inch 弾薬庫:2.5~4inch
その他ゲームとの違いゲーム内では1番艦となっているが起工順は4番目、進水順は2番目、就役順5番目となっている。
建造所Chatham Dockyard, Chatham, Kent
(チャタム海軍工廠 ケント州チャタム)

カウンティ級の中でケント級に分類される。ネームシップだが上記の様にケント級の中で起工・進水・就役が一番では無く、建造計画の1番目が由来となったと思われる。
イギリス海軍が建造したケント級重巡洋艦。ワシントン条約の制約下で建造された、イギリス初の条約型巡洋艦である。艦名は、ロンドン南東に位置するケント州から取られている。
ケント級は乾舷の高い平甲板型船体を採用し、予備浮力や復原性能、そして世界中の植民地を巡航するのに重要な、居住性に直結する艦内スペースを確保している。
排水量制限のため、船体は荒天に耐える強度を維持しながらできる限りの軽量化が図られている。防御面ではバルジの装着と水雷防御縦壁、比較的強固な弾薬庫防御が施されていたが、機関部舷側装甲や垂直防御は非常に薄く、全体的な防御力には大きな不安があった。
とはいえ、主敵である諸外国の重巡洋艦も、自分の主砲を防ぐことのできる装甲は基本的に持っていないので、あまり気にしすぎる必要はないのかもしれない。
主砲の20.3cm砲は対空射撃を考慮して、最大仰角を70度とした。発射速度もスペック上は毎分六発と高速で、ケントは対空性能に重きを置いた艦だった。この点はゲーム中の性能にも反映されている。
…ただし実際には問題が多く、当初の予定から大きく性能を落としたのにも関わらず過大重量に見舞われることとなった。
更に初期故障が相次いだり、実際の平均発射速度は3〜4発程度になるなど対空射撃性能は良いとは言えなかった。
苦慮を重ねた結果、排水量は9860トンとなり制限の1万トンを下回り、31.5ノットの快足と長大な航続距離を手にした。
この数字は当初の想定より軽く、この余りを使って機関部に列国重巡並の舷側装甲が追加されている。サフォークなどもう一回り軽かった艦は加えて大型の格納庫を増設するなど、改装後の艦影が微妙に異なっている。

 

ケント級は全部で7隻が建造され、うち2隻はイギリスの自治領であるオーストラリアが発注したもの。イギリスが供与した、と書かれることも多いがこれは正しくなく、実態としてはむしろ逆に近い。姉妹は欧州戦線と太平洋戦線を駆け巡ったが、コーンウォールとキャンベラが帝國海軍の手に掛かって沈没している。
ロンドン級とノーフォーク級もまとめてカウンティ級重巡洋艦と呼称されることも多い。ケントは1660年代から代々受け継がれてきた由緒ある艦名で、本艦は11代目に当たる。

 

イギリス中国艦隊の顔
1924年11月15日、チャタム工廠で起工。1926年3月16日、海軍本部のロード伯爵の夫人スタナップによって進水し、1928年6月22日に竣工した。
竣工後、中国艦隊に編入され、東アジア方面に向かう。ジブラルタル、マルタ島、コロンボ、シンガポールを経由し、8月17日に香港へ到着。栄えある旗艦任務に就いた。10月、公式訪問のため横浜に入港。
12月4日には横浜港外で行われた大礼特別観艦式に姉妹艦とともに参列した。この参列は、1911年に大日本帝國がイギリスの観艦式に最新鋭艦「利根」「鞍馬」を送った事への礼だと言われている。
また日本寄港の際に、進水したばかりの重巡那智とケント級の一隻が交換見学会を行っている。見学したイギリス側は日本軍艦の居住性の悪さに驚いた。
「我々は初めて軍艦を見た。それに比べてケントは客船に過ぎない」と褒めつつも皮肉を混ぜた感想を述べたとか。

 

風雲急を告げる東アジア方面、遂に事件が起きる。1932年1月28日、第一次上海事変が発生し、日華が軍事衝突した。
上海にはイギリス人も滞在しており、彼らを保護するためケントも中国艦隊司令官ケリー中将を乗せてシンガポールを出撃。途中の香港で補給を受け、2月7日に上海へ到着。輸送してきた陸戦隊を揚陸した。
ケリー中将は休戦を望んでおり、第三艦隊の野村司令長官をケントに招いて休戦条件を提示した。同月27日にも野村司令長官がケントを訪問している。
翌日の2月28日、ケント艦上で日華両軍の司令官が停戦交渉。相互の撤退で概ね合意し、ひとまず事変は終結。ケントは両軍の仲裁に成功した。
3月4日、日華の停戦会議が引き続きケント艦上で行われた。翌日、ようやく調印に至り停戦協定が成立。

1933年9月28日朝、ケントは18隻の艦艇を従えて横浜へ入港。司令長官F・K・ドレイヤー大将就任の挨拶で来日したのだが、その前日、潜水母艦メドウェイと潜水艦6隻が
関門海峡を通過した際に要塞地帯を撮影、水深まで測るという行為に及んだ。これに激怒した日本は抗議。イギリス側は撮影禁止を徹底しているとして本件を否定した。
1934年1月23日、シンガポールに停泊しているケント艦上で極秘裏に極東海軍会議が行われた。

 

その後、本国イギリスには戻らず旗艦任務を続行。1934年6月5日、帝國海軍の偉人、東郷平八郎の国葬が執り行われた。ケントはイギリス東洋艦隊の代表として東京湾に駆けつけ、弔砲を定刻に発射した。
同年11月3日には神戸港を訪れ、ドレイヤー大将が市長と会合している。この時に大阪大学のサッカー部が英領事館と交渉。ケントのサッカーチームと親善試合をする機会を得た。
勝敗はケントチームの圧勝だったという。他にも空母イーグルや潜水艦のチームとも親善試合を行っている。

1936年10月1日、日本は観艦式を目前に控えていた。それに先立って大阪毎日新聞は世界軍艦展望という見出しで各国の軍艦を解説。ケントは写真付きで解説された。煙突もマストも皆歪んでいると酷評されたが。
1937月、ケントは一旦イギリス本国へ帰還。チャタムで射出機の装備や装甲の追加等の近代化改修を受ける事になった。ワシントン海軍軍縮条約の排水量制限の影響で航空機用の格納庫を増設する事が出来なかった。
代わりに大型機を扱えるよう既存の格納庫が強化された。改装費用はおおよそ16万1000ポンド。改修を受ける前、ティギーというベンガルトラの子供がケントに預けられた。
元々ティギーは中国で集落を襲っていた親虎の子で、親が軍に射殺された後、税関職員をしていたイギリス人の家庭に引き取られた。人の手で育てられたティギーだったが成長に伴って手に負えなくなり、
泣く泣く手放す事になった。当初は上海動物園に寄贈されるはずが、育てていた夫人がその動物園を信用していなかったため、いずれ本国に戻るケントの艦長に預けて信頼できる動物園まで送り届けて貰うようにしたという。
こうしてケントにティギーが乗り込んできた。ちなみにティギーはアモイ虎という種別で、現在は絶滅してしまったとの事。
ドックで改装工事を受けている間、軽巡バーミンガムが臨時で旗艦となり鼓浪嶼租界問題の対処を行った。
工事を終えたケントは、イギリス軍支那司令長官ノーブル大将と幕僚を乗せて出港。1939年6月20日朝にシンガポールへ入港した。7月、支那事変の拡大に伴い、戦闘を見越して演習を実施。
ヨーロッパではナチスドイツが暴走を始め、世界情勢が危うくなりつつあった同年8月1日、ケントの下に妹のコーンウォールと重巡ドーセットシャーが配備された。

 

第二次世界大戦に身を投じる
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。中国で開戦を迎えたケントは、日本参戦の情報が流れたため上海に停泊中の客船エンプレス・オブ・ジャパンを護衛。オアフ島へと脱出させたあと、11日に香港へ帰投。
明後日、パトロールのため香港を出撃。ドイツ軍や日本に不穏な動きが無いか、目を光らせた。28日、香港に戻った。
補給を受け、10月1日に再度パトロールのため出撃。巡回したのち24日に香港へ入港し、船体の整備を受けた。11月8日、第四巡洋艦隊に編入され、根拠地がコロンボに変更される。これを受けて12日に香港を出港し、シンガポールへ向かう。
三日後、シンガポールに到着する。16日、フランスの巡洋艦やオーストラリアの駆逐艦と艦隊を編成して出撃。スマトラ島から欧州に戻ろうとするドイツの商船を撃沈した。
12月2日、コロンボへ入港。第四巡洋艦隊と合流を果たした。さっそくインド洋を巡回し、通商破壊を始めた。

 

1940年1月8日、フリーマントルへ向かうオーストラリア陸軍の船団が無事インド洋を通過するまで護衛。船団は17日に目的地へと到着し、船団を護衛していたオーストラリア海軍の艦艇がケントの下に駆けつけた。
2月1日に兵員輸送船団の護衛に務める。インド洋では既にドイツ海軍のポケット戦艦や仮装巡洋艦が出現し始めていたのだ。補給のためアデンに寄港した後、I部隊の一員となってインド洋の哨戒任務を行った。
3月に入ると、改装のためコロンボへ入港。同月22日に復帰し、任務を再開。4月27日、作戦に参加するエジプト軍を警護。
任務を終えると、第三巡洋艦隊へと編入される。僚艦と合流するため、5月5日にコロンボを出港。スエズ運河を通って、24日に地中海に入った。6月、地中海で僚艦とともにイタリアの参戦を想定した演習を実施。
そして同月中にイタリアが敵として参戦し、地中海にも戦線が形成された。ケントはアレクサンドリアを拠点として活動。7月に再びインド洋へ派遣する事になった。
7月21日、セイロン島へ向かうWS1船団を護衛、同月29日、目的地へ送り届け、ケントはアレクサンドリアへ帰投した。8月17日、英空母イーグルの上空援護を受け、バルディアを砲撃した。
8月30日、地中海艦隊に増援を送るハッツ作戦に参加。多数の友軍艦とともにアレクサンドリアを出撃し、9月2日にマルタ島南西で地中海艦隊と合流。作戦は成功した。
帰路、第三巡洋艦戦隊は分派し、ケントは駆逐艦ヌビアン、モホークと協同してナフプリオ湾から来た船団を護衛。9月6日にアレクサンドリアに帰投した。
9月9日、空母イラストリアスと戦艦バリアントの護衛を実施し、バルディア攻撃を支援した。17日にはケントも駆逐艦2隻を率いてバルディアを砲撃している。陸地から砲撃が来たが、命中せず。
しかしその帰路でイタリア軍の航空隊に発見され、サヴォイア・マルケッティSM79雷撃機の魚雷を艦尾に受けて航行不能。被弾の際に乗員32名が死亡した。
駆逐艦ヌビアンに曳航して貰い、二日後に何とかアレクサンドリアに到達した。現地で応急修理をしたのち出港。12月27日にどうにかプリマスへ辿り着き、本格的な修理を受けた。

この損傷により1941年9月まで修理を強いられた。同時に改装工事も行われ、対空レーダーや消火装置を搭載。
修理完了後、ケントは本国艦隊に転属。第一巡洋艦戦隊の旗艦に就いた。翌10月、スカパフローに回航され精密検査を受ける。
11月3日、主力艦艇とともにスカパフローを出港。ノルウェーで鎮座するティルピッツのドイツ本国帰還を防ぐため、睨みを利かせた。
1941年12月1日、イーデル外相を乗せてスカパフローを出港。道中にはドイツ海軍の駆逐艦が待ち伏せていたが、ソ連側から2隻の駆逐艦が派遣され、撃退された。
無事にムルマンスク到着し、スターリンとの会談を成功させる。25日、会談を終えたイーデル外相を乗せてコラ湾を出発。本国まで連れ帰った。

 

大東亜戦争の生起
1941年12月8日、大日本帝國による英領マレーへの侵攻が発生、両国はそのまま全面戦争に突入する。戦前、ケントが親善のため尽くしてきた努力が一瞬にして水泡に帰してしまった。
帝國陸海軍は香港やシンガポールを電撃的に占領。ケントの古巣は消滅した。
1942年1月、ケントはアイスランドに配備される。そして大西洋にて通商破壊を行った。1月18日、ロシア行きのPQ13船団をコラ湾まで護送。2月18日、コラ湾から出発するQP9船団を護衛した。
3月上旬、アイスランドで燃料を補給。重巡ロンドンとともに、北部ロシアへの補給路を脅かすドイツ戦艦ティルピッツを警戒してデンマーク海峡を哨戒した。
4月9日、アイスランドを出発してスカパフローへ向かう。その際、PQ14船団の護衛を行っている。5月13日、ベア島西方で損傷した軽巡洋艦トリニダードの救助に向かったが、ドイツ軍の空襲でトリニダードは沈んだ。
このためアイスランドに向かったが、道中の15日に空襲を受ける。幸い被害は無かった。
7月、修理と改良のためリヴァプールで入渠。防御力の低さを改善し、機銃を増設した。10月21日、工事完了。11月8日からスカパフローで精密検査とレーダーの試験が行われた。同時に本国艦隊の航空隊が配備され、運用。
12月、哨戒任務をこなした後、コラ湾から輸送されるRA51を護衛してスカパフロー入港。

1943年1月、コラ湾を通過するソ連船団JW52を護衛。しかし24日、ドイツ軍の空襲とUボートの雷撃で船団は壊滅し護衛失敗。とぼとぼとスカパフローへ帰投した。またU-625から雷撃されており、泣きっ面に蜂。
3月から5月にかけて、本国艦隊の任務のためイギリス本土にて待機する。6月、哨戒任務に従事するべくアイスランドに進出。
7月7日からはシチリア島上陸作戦の陽動として重巡ロンドンとノルウェー沿岸で掃討作戦に従事している。9日に任務を終えてスカパフローへ帰投した。
8月14日、ルーズベルトとの会談のため、チャーチル首相を乗せてハリファックスへ向かう。同月25日、チャタム造船所に入渠し、整備。火器制御装置を搭載し、レーダーを増設した。10月8日、スカパフローへ回航。
11月19日、バミューダ諸島とジャマイカから出港してきたソ連船団JW5Aの護衛に従事。コラ湾まで守り抜き、今度は完遂。ソ連から54トンの金品が支払われた。27日、RA54B船団を護衛してイギリス本土へ帰着。

1944年4月、ノルマンディー上陸作戦への参加が決定。そして6月6日、史上最大の作戦に参加。ネプチューン作戦に従事し、上陸部隊の支援を行っている。
7月14日にはマスコット作戦に参加し、空母や戦艦とともにスカパフローを出撃。ドイツ戦艦ティルピッツへの攻撃を企図してカーフィヨルドを航空攻撃するも、命中弾は出ず失敗。
続いて18日にグッドウッド作戦に参加。要塞地帯カーンを突破するため400門の火砲や爆撃機100機とともに三日間猛攻撃を加えるも、ドイツ軍が配備した88mm対戦車砲が猛威を振るい、
さらに天候までドイツ軍の味方をしたため作戦失敗。しかしパ・ド・カレーを守備する第15軍の誘引には成功した。22日、支援を終えてスカパフローへ帰投。
8月10日、ドイツの飛行場を攻撃する空母3隻の護衛を担当。9月12日にも2隻の空母を護衛し、スタッド半島のドイツ艦艇の攻撃を支援した。
11月12日23時、ノルウェー南部沖で軽巡ベローナ及び駆逐艦4隻を率いてドイツ船団KS357を攻撃。船団を守る4隻のUボートと掃海艇M416及びM427と交戦状態に入った。
戦闘中、Uボートから雷撃を受けるが辛くも回避。雷跡を逸早く発見したのは、訓練のため乗艦していた中国軍の将校だった。10隻中9隻を撃沈し、海戦に完勝した。
12月、イギリス本土へ帰還すると乗員に休暇が与えられた。

 

戦勝が揺るぎ無いものとなった1945年1月、艦齢と乗員の欠如が原因で予備役となる。続いて2月に開催されるヤルタ会談に出席するチャーチル首相の護衛を務めた。
そして戦争の終結を見届け、ケントは戦いから解放された。しかし、かつて在籍していた中国艦隊は東インド艦隊と統合して消滅。旗艦に返り咲く事は出来なかった。
戦後、イギリスで余生を過ごしたが、一度だけ香港に舞い戻った事があった。現地で乗員全員がチャーチル元首相に謁見、その後チャーチルは中国海軍の将校二人と握手した。
1943年から翌年にかけて、25名の中国軍将校が訓練のためケントに乗艦していたのだ。うち1名は第二砲塔の司令を担当した。

1948年1月22日に除籍。売却後トルーンで解体され、この世を静かに去った。

 

小ネタ Edit

艦内にはティギーの他にトナカイが飼われていたという。解体後、ティギーはロンドン動物園に、トナカイはエディンバラ動物園に引き取られた。1943年にはソ連から貰ったアザラシが一時的に乗っていた。
艦に載せられていた鐘はロチェスター大聖堂に寄贈され、元乗員が毎週土曜日の11時に鳴らしている。またケントの乗員は状況が許せば、毎日午後に甲板でホッケーを行っていた。参加費は無料。