No138 インディアナポリス/元ネタ解説

Last-modified: 2020-01-15 (水) 01:52:16
所属United States Navy
艦種・艦型ポートランド級重巡洋艦
正式名称USS Indianapolis (CA-35)
名前の由来City of Indianapolis アメリカ合衆国インディアナ州マリオン郡インディアナポリス市
愛称Indy, Swayback Maru
起工日1930.3.31
進水日1931.11.7
就役日(竣工日)1932.11.15
除籍日(除籍理由)不明(1945.7.30雷撃により沈没)
全長(身長)186.0m
基準排水量(体重)9800英t(9957t)
出力White Forster式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 107000shp(108484.1PS)
最高速度32.7kt(60.55km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/13000海里(24076km)
乗員指揮官95名 乗組員857名(平時) 1269名(戦時)
装備(竣工時)8inch55口径三連装砲3基9門
5inch25口径単装高角砲8門
3ポンド単装砲2門(礼砲)
1.1inch機関砲x16(4x4)
ブローニング12.7mm機銃x8
艦載機x4
装備(1945)8inch55口径三連装砲3基9門
5inch25口径単装高角砲8門
3ポンド単装砲2門(礼砲)
ボフォース40mm機関砲x24(4x6)
エリコン20mm機関砲x19
艦載機x4
装甲舷側:3.25~5inch 甲板:2.5inch 砲塔:1.5~2.5inch バーベット:1.5inch 艦橋:1.25inch
建造所New York Shipbuilding Corporation, Camden, New Jersey
(ニューヨーク造船所 アメリカ合衆国ニュージャージー州カムデン郡カムデン市)
勲章Navy Combat Action Ribbon
American Defense Service Medal(Fleet clasp)
American Campaign Medal
Asiatic-Pacific Campaign Medal(10 stars)
World War II Victory Medal

インディアナポリスについて

  • アメリカ海軍、ポートランド級重巡洋艦2番艦。
    艦名はインディアナ州の都市、インディアナポリス市にちなんでいる。
    前級であるノーザンプトン級重巡洋艦の設計を踏襲し、船体の延長や艦橋の大型化などが施されている。
    また、このポートランド級から本格的な重巡への魚雷搭載が撤回され、最初から搭載はされていなかった。
    米軍が抱える重武装によるトップヘビー化問題により復原性には難点が残っている。
  • インディアナポリスは1930年3月21日にニューヨーク造船で起工。
    翌年1931年11月7日に進水、さらに翌1932年の11月15日に竣工した。
    試運転時、鐘が搭載されていたが、重量制限により最終調整の際に撤去されている。
    その鐘はインディアナ州インディアナポリスのヘスラー海軍兵器庫に収められている。
  • 第二次大戦前の1930年代のインディアナポリスは平時の任務活動に数多く従事している。
    33年7月と36年11月には合衆国大統領の移動に使用されたほか、大西洋やカリブ海での訓練にも従事した。

太平洋戦争でのインディアナポリス

  • 1941年12月7日、インディアナポリスはジョンストン島で砲撃演習に参加していた。だが帝國海軍による真珠湾攻撃が発生し、太平洋戦争が勃発。
    インディアナポリスは第4巡洋戦隊に編入され、実戦へと投入された。初任務として真珠湾を攻撃した日本機動部隊の捜索を実施したが発見できず。
    12月15日、部隊とともにヤルート島攻撃へ向かったが作戦中止。次に日本軍の攻撃を受けるウェーク島救援に向かったが、失陥により退却。
    翌42年2月20日、南太平洋に進出したインディアナポリスは第11任務部隊の一員としてニューギニア沖海戦へと参加。レキシントンを護衛中、日本軍機の襲撃を受ける。
    レキシントン艦載機とともに迎え撃ち、18機を撃墜。しかし16機の味方機が落とされている。続いて日本軍が上陸したラエとサラマウアを攻撃した。
    作戦後、マーレ島海軍造船所に戻り、整備を受ける。出渠後、オーストラリア行きの輸送船団を護送。
  • アリューシャン列島方面に攻勢をかける帝國海軍第二艦隊を迎え撃つため、インディアナポリスはダッチハーバーの防衛戦力に選ばれる。
    6月3日、日本空母から飛び立った艦載機がダッチハーバーを空襲。戦闘が開始されたが、霧が濃い海域だったため艦隊戦は生起せず、互いに航空攻撃だけ行った。
    南太平洋での作戦後、インディアナポリスはアリューシャン列島に展開する日本軍を攻撃するべく北太平洋へ移動。
    8月7日には日本軍の守備隊が存在するキスカ島への砲撃を敢行した。霧に阻まれて観測が出来なかったが、港湾施設に損傷を与える事に成功。
    しかし作戦海域に日本側の潜水艦が出現し、護衛の駆逐隊に多大な負担をかけた。一応、作戦は成功したものとして記録された。
  • 1943年に入り、インディアナポリスは北太平洋の戦いで活躍した。
    1月18日、第8.6任務群の一員としてアッツ島を砲撃。2月18日にもアッツ島を砲撃、シカゴハーバーにも砲撃を仕掛けている。
    20日、単独航行していた日本海運貨物船あかがね丸を協同で撃沈する戦果を挙げたほか、輸送船団護衛や艦砲射撃などの任務に精力的に参加した。
    アッツ島の奪還、キスカ島での日本軍撤退により北太平洋の戦いに勝利した後は本土での改修を経てハワイへと帰還。
    この時、レイモンド・スプルーアンス大将(当時中将)が率いる第5艦隊の旗艦になっている。
    スプルーアンス提督はインディアナポリス出身で、故郷の名を冠する本艦をいたく気に入り、重用したと言われている。
    11月にはガルバニック作戦に従事し、ギルバート諸島の攻略を支援。タラワやマキン島の砲撃を行った。
  • 1944年、戦いの場を中部太平洋に移したインディアナポリスは島々の攻略作戦に参加した。
    まず1月31日、クェゼリン環礁を砲撃。海岸にある2つの陣地を制圧した。翌日にも砲撃を加え、陸上施設を破壊。海兵隊の上陸支援を実施する。
    2月4日、インディアナポリスはクェゼリン近海に滞在。日本軍の抵抗が止むまで待機した。2月8日、奪取したメジュロへ入港。3月から4月にかけて、西カロリン諸島を攻撃。
    3月30日から翌31日にかけて行われた航空攻撃を支援し、パラオ諸島を猛爆。4月1日にはヤップ島、ウルシー環礁、ウォレイを砲撃。日本軍機による反撃が行われたが、無傷で撃退。
    一連の攻撃で日本軍は160機の航空機を失い、ニューギニアへの反攻作戦を頓挫させた。
  • 6月13日、マリアナ諸島の覇権を巡ってサイパン島攻撃が始まる。インディアナポリスは味方を支援するため、飛行場のある硫黄島、父島を砲撃。航空攻撃を未然に防いだ。
    同月19日にはマリアナ沖海戦に参加。対空砲火で雷撃機1機を撃墜。23日、再びサイパン沖に戻り砲撃支援。29日、テニアン島の攻略支援を行うため港湾施設を砲撃。
    攻撃後、奪還されたグアム島のアプラ湾に入港。最初に入港した艦となった。
  • 9月12日から29日にかけて、インディアナポリスはパラオ諸島のペリリュー島を砲撃した。砲撃後、マヌス島を経由してマーレ島海軍造船所に入渠。
    同年11月、マクベイ大佐が艦長となる。
  • 続く1945年には日本本土攻撃にも参加。日本近海に進出し、高速任務部隊とともに9隻の商船と2隻の駆逐艦を撃沈。2月から行われた硫黄島攻略作戦を支援した。
    同月19日、給兵艦シャスタと衝突するも攻略作戦は成功。25日、八丈島に忍び寄り、砲撃。天候は悪かったが158機の航空機と港湾施設を破壊し、5隻の小型船を沈めた。
    3月14日、沖縄を次なる目標に定めウルシー環礁を出撃。18日より攻略を開始した。21日、米艦隊を攻撃するため48機の特攻機が現れたが全機撃墜。
    インディアナポリス自身も対空砲火で6機を撃墜している。
    しかし3月31日、インディアナポリスは特攻機の突入を受ける。零戦が抱えていた250キロ爆弾が兵員食堂、兵員室、燃料庫を貫通。船体下部で炸裂し、左舷スクリュー2本が屈折。
    水線部に二ヶ所の破孔が生じた他、乗員11名が死亡した。この損傷で第5艦隊の旗艦を空母に譲るが、作戦を続行。工作艦の手を借りて洋上でスクリューを補修しようとしたが、
    工作員が誤って海中に落としてしまう。
  • 4月7日、損傷が原因で船体強度に問題が発生。艦隊から分離後、修復のためにアメリカ本土へと戻った。
    これによりインディアナポリスはスプルーアンス大将乗艦の旗艦から外されてしまう。
    5月2日、ヴァレーホ工廠で復旧工事を受けると同時に改装も受け、対空兵装の強化が行われた。7月に工事完了。
    • こうして再び戦列復帰を果たそうとしていたインディアナポリスであったが、皮肉にもこの本国帰還が運命を大きく狂わせる事となる。

原爆輸送とインディアナポリスの最後

  • 1945年7月。インディアナポリスは極秘任務に就く事になった。原子爆弾の部品(ウラニウム235と起爆装置)輸送任務である。
    非常に重要かつ危険な代物であるため通常の貨物船では適さないと判断され、たまたま復帰が重なったインディアナポリスに白羽の矢が立った。7月12日、オーバーホールを終えて出渠。
  • 7月15日、マクベイ艦長はサンフランシスコの海軍本部に呼び出された。そこで、サンフランシスコ近郊のハンターズポイントにインディアナポリスを回航。
    現地にて極秘物資と陸軍将校2名を乗せよ、という命令を受けた。この極秘物資の正体については知らされなかった。だがこの物資を出来る限り早くテニアン島へ運ぶよう命じられた。
    道中ハワイに寄港し、便乗の将校2名を降ろした後、テニアン島へ向かうというスケジュールであった。最後に、万が一、艦が沈むような事があれば極秘物資を救助艇に移す等をして、
    絶対に沈めてはならないと厳命される。極秘物資の存在は瞬く間に乗員の噂となり、内容について様々な憶測が飛び交った。
    ハンターズポイントに回航されると、大きな木箱が積み込まれた。これこそ極秘物資である。正体を知るのはトルーマン大統領、チャーチル首相、そしてマンハッタン計画の関係者と
    陸軍将校に扮した科学者2名だけであった。
    広島・長崎へ投下予定である原爆の部品を搭載したインディアナポリスは、7月16日にサンフランシスコを出港した。
  • 7月26日早朝、テニアン島に到着したインディアナポリスは無事に原爆の部品を輸送、一世一代の大仕事を終えた。投錨すると、多数の小艦艇が集まり
    陸海軍の将校30名が詰め掛けた。異様な出迎えに、乗員らは驚いた。
    翌日にグアムへ寄航し、レイテ島を目指して南下。大仕事を終えたため護衛の姿は無く、単独だった。レイテ島へ向けて無電を放ったが、通信エラーで届かず。
    インディアナポリスはソナーを搭載していなかったため駆逐隊の援護を求めたが、マリアナ海域司令部に却下されてしまう。
    既に日本海軍は瀕死で、護衛無しでも問題無いと判断したのだろう。
    仕方なくジグザグ航法で潜水艦を警戒しながら航行。7月29日夕方、視界が悪くなったのでジグザグ航法をやめて直進し始める。これが命取りとなった。
  • そしてインディアナポリスは最後の時を迎える。
    7月30日0時15分。レイテ島へ単独航行していたインディアナポリスを日本海軍の潜水艦伊58が捕捉。
    伊58は人間魚雷・回天の母艦であったが、艦長の橋本以行中佐(1909年~2000年没)は通常魚雷による攻撃を決定。
    6本の魚雷が発射され、うち3本がインディアナポリスの右舷へと命中。一発目で生じた破孔に二発目が飛び込む形となり、艦内部で炸裂。
    突如として大きな衝撃が走り、就寝中のマクベイ艦長はベッドから床に叩き付けられた。艦内に白い煙が充満し、電気系統にも損害が生じる。
    雷撃された事に気付いた者は誰もいなかった。触雷したのか、潜水艦にやられたのか、神風に突っ込まれたのか。情報が錯綜し、対応を遅らせた。
    更に乗員の殆どが「これほどの大型艦が沈むはずがない」と慢心し、防水扉が閉められなかった。その開いた扉から急速に浸水し、艦を蝕む。
    異変を感じ、ようやくSOS信号が発信されたが被雷の際に通信装置が破壊されており、信号は何処にも届かなかった。
    やがて二番砲塔弾薬庫が誘爆し、インディアナポリスは雷撃から14分間で瞬く間に沈没していった。
  • この伊58によるインディアナポリスの撃沈が、日本海軍最後の艦船撃沈戦果である。また、インディアナポリスは第二次大戦最後に沈没したアメリカ軍艦となった。
    • 伊58艦長の橋本中佐はインディアナポリスを仕留めたものの、撃沈した相手の詳細までは分からなかった。
      当初はニューメキシコ級戦艦1隻撃沈確実と考えていたが、戦後になってようやく「原爆の部品輸送後の重巡インディアナポリス」であると判明している。
      後年、彼は「もし早く哨戒海域に到着していれば、原爆輸送前のインディアナポリスを撃沈できたのではないか」
      「浮上し、乗員を捕虜にして尋問していれば原爆の情報を日本に伝える事が出来たのではないか」と自責の念を感じていたという。

悲劇とその後

  • インディアナポリスの沈没後、乗組員には更なる受難が待ち受けていた。
    極秘任務の帰りであった事や、アメリカ側の指揮系統の問題から捜索・救難までに5日もの時間を要してしまったのだ。
    その間に、900名近い乗組員は満足な救命ボートも筏もないまま波間に漂い続ける事になったのである。25人乗りの救命ボートだけが彼らの拠り所だった。
    撃沈後、すぐに日没を迎え、周りは真っ暗になる。言い知れぬ恐怖が乗員を襲う。しかし彼らを襲うのは恐怖だけではなかった。サメの襲撃である。負傷者の血の匂いでサメが寄ってきたのだ。
    ショッキングな話のため注意

    救命ボートのふちに掴まっている乗員が標的となり、次々と海中に引きずり込まれた。
    10分に1人が犠牲となった。ある者は下半身を食い千切られ、上半身のみが浮いている状態だったという。
    海面は血で染まり、衣服や救命胴衣の残骸だけが浮いた。次は自分の番ではないか、と戦慄し正気を失った乗員もいた。
    夜が明けるとサメはいなくなった。しかし代わりに脅威となったのは灼熱の太陽だった。ボートには僅かな非常食があったが、すぐに尽きてしまう。あとは何も無かった。
    喉の渇きを訴え、海水を飲んで死んだ者もいた。また発狂した乗員がナイフで殺戮を始め、50人が死亡した。ナイフで自分の喉を切って自殺する者もいた。
    夜になると、やはりサメが群がってくる。ボートから落水すればサメに襲われ、まず助からない。
    サメの襲撃に対抗するため、生存者は円陣を組んで巨大な生き物のように見せかけたが通用せず、外側の人間から喰われた。

    こうして体力の消耗、サメの襲撃の恐怖、飢えや渇きに襲われた乗員は次々に命を落としていった。*1
    また、大多数の乗員の死因は長時間の漂流による衰弱死であった。
  • 8月2日、哨戒のためペリリュー島から飛び立ったベンチュラに乗員はようやく発見された。
    直後、PBYカタリナが現場に着水し漂流していた乗員の救助にあたっている。迅速に現場へ駆けつけた航空機は救命ボート代わりの浮遊物や食料を投下し漂流者を援助した。
    駆逐艦を中心とする救援部隊が急行し、最終的に救出された乗員は316名。沈没時の戦死者約300名と合わせ、883名の乗員の命が失われた。
  • インディアナポリスの喪失は、8月15日の終戦を迎えるまで公表されなかった。トルーマン大統領は、日本の降伏と合わせる事で、事件の衝撃を薄めようと謀った。
  • 終戦から間もない頃、アメリカの調査団が日本に訪れた。数ある軍艦から原爆の部品を輸送したインディアナポリスを正確に撃沈されたため情報が漏洩していたのではないかと考え、
    潜水艦の番号と艦長の所在を調べ、撃沈時の状況を尋ねたという。
  • 救助が遅れた事による悲劇の原因は、主に当時の米海軍そのものにあった。
    まずインディアナポリスは機密作戦の帰りでレイテ側へ到着する旨が伝わって無かった事、随伴の護衛艦が無かった事が生存者の迅速な救助を妨げ、さらに出発地であるグアムと、目的地であるレイテの二箇所はそれぞれ違う管轄であり、両者の司令部の連携が取れていなかったのである。
    こうした悪運が重なり、生存者は長期の絶望的な漂流を余儀なくされたのである。
  • インディアナポリスの沈没は、アメリカ海軍史上最悪の犠牲者を出した。これを理由に戦後、アメリカ海軍はインディアナポリス沈没についての責任を艦長のチャールズ・B・マクベイ3世へと押し付けた。
    軍法会議にかけられたマクベイ元艦長は「ジグザグ航行を怠り艦を危機に晒した」と有罪判決を下されてしまう。また、グアムを出発する際に
    航路の範囲内で、護衛駆逐艦アンダーヒルが日本潜水艦に撃沈されていた事を周知しなかった事も槍玉に挙げられている。
    海軍作戦部長であるニミッツ元帥の働きかけもあり、無罪とされたがマクベイ元艦長は非難に晒されてしまった。
    • なお、第二次大戦中に様々なアメリカ海軍艦船が沈没しているが、沈没を原因とする軍法会議はインディアナポリスのこの1件のみであった。
  • その後、海軍を退役したマクベイ元艦長は乗組員遺族からの非難や叱責もあり、精神を病み1968年に自殺している。
    もっとも、これら軍法会議はアメリカ海軍自らのミスを全てマクベイ元艦長に押し付けた理不尽なものであり、
    伊58艦長の橋本元艦長も「ジグザグ航行中でも撃沈できた」と予備審問で証言、マクベイ元艦長を生涯に渡って擁護していた。
    • しかし、橋本元艦長の証言は本番では取り上げられずマクベイ元艦長は有罪となった。
      橋本元艦長の証言が採用されなかった理由は、その証言がアメリカ海軍上層部の非を肯定する事になってしまうからであった。
      結局、橋本元艦長は本番での証言自体を取り消され、日本へと帰国している。
  • その後、沈没から半世紀以上経った2000年に事態は進展を迎える。
    映画「ジョーズ」でこの出来事を知った少年、ハンター・スコットがこの軍法会議に疑問を抱き、マクベイ元艦長は無罪であったと自由研究で提起した。
    話題は瞬く間に全米へ広まり、ついにアメリカ合衆国議会は「マクベイ元艦長はインディアナポリス沈没について無罪である」と決議、可決された。
    半世紀以上の長きに渡り、アメリカ海軍から罪を一方的に擦り付けられたマクベイ元艦長の名誉はようやく回復されたのである。
    • 生涯に渡りマクベイ元艦長を擁護していた橋本元艦長であったが、名誉回復運動の結末を知る事もなく無罪と決議される5日前に91歳でこの世を去った。
      実際、名誉回復運動の兆しが高まりつつあった際は電子メール経由で上院軍事委員会委員長に名誉回復を訴えていた。

小ネタ

  • インディアナポリスの悲劇は映画等の創作物でも引用され、今日でも目にする事が出来る。
    • 直接登場する訳ではないが、スピルバーグの名作「ジョーズ」での言及が一番有名である。
      登場人物の1人、クイント船長がインディアナポリスの元乗員で、漂流時のサメの襲撃やインディアナポリス号沈没に関する一連の話が劇中に出てくる。
      これによりインディアナポリス号沈没におけるサメの襲撃という話が多くの人々に認知されたほか、マクベイ艦長の名誉回復の切欠となった。
    • また、1991年には「Mission of the Shark: The Saga of the U.S.S. Indianapolis」というタイトルで沈没を題材にしたTV映画が作られた。
      日本では「シーフォース/戦艦インディアナポリス出撃」というやや突っ込み所のある邦題でビデオリリースされている。
      後にCSIマイアミでブレイクする俳優デヴィッド・カルーソや、元海兵隊の軍事アドバイザー、デイル・ダイ等が出演。
      DVD化されていない幻の作品である。
    • そして2016年にはインディアナポリス沈没とマクベイ艦長の半生を描いたニコラス・ケイジ主演の映画「パシフィック・ウォー」が公開された。
      こちらはインディアナポリス沈没と戦後のマクベイ艦長を描いており、伊58の橋本艦長も登場する。
  • その知名度からプラモデルのキットとしても出番が多く、現在様々なメーカーのインディアナポリスのプラモデルも入手可能となっている。
    国内メーカーからも発売されており、模型メーカーの重鎮、タミヤでは唯一の連合国巡洋艦としてキット化されている。
    余談だがインディアナポリスと伊58のキットを合わせた限定セットも過去に販売されていた。
  • 最初に漂流者を発見して着水したPBY飛行艇は後続の発進が遅れることを知ると漂流者の体力を考え、機体をその場にとどめて一人でも多くの漂流者が掴まれるようにした。
    しかし300人以上の人間を助けるには浮力が足りないため、機内のあらゆる重量物をぶん投げた。
    機関銃や航法機はおろか、通信終了後は無線機まで投げ捨て、最後は主翼からエンジンまでもぎ取ったという。
  • 海底に眠るインディアナポリスについては、詳細な沈没場所の特定にはいたらず、長らくその姿は捉えられていなかった。
    しかし、2017年8月18日、海底の戦艦武蔵を発見した実業家、ポール・アレン率いる探索チームがインディアナポリスの特定に成功。
    海底に今もなおはっきりと横たわるインディアナポリスの姿が映像に収められ、話題となった。
    • また、同時期に日本では2015年に発見された戦後連合国によって沈没処分された複数の潜水艦から、あの伊58を特定するプロジェクトが進んでいる。
      奇遇にも、ほぼ同時期に沈めた船と沈められた船の両方が発見・調査される事となった。

*1 サメの襲撃に関する話は事実であるが、サメの襲撃による死者数を誇張とする資料もある。後年のドキュメンタリー番組、映画ジョーズでの話で事実が大げさに語られた、とも言われる。