No142 ヒューストン/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-10 (木) 01:24:52
所属United States Navy
艦種・艦型ノーザンプトン級巡洋艦→重巡洋艦(1931)
正式名称USS Houston (CL/CA-30)
名前の由来City of Houston アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン市
愛称The Galloping Ghost of the Java Coast
起工日1928.5.1
進水日1929.9.7
就役日(竣工日)1930.6.17
除籍日(除籍理由)不明(バタビア沖海戦/Battle of the Sunda Strait 1942.3.1沈没)
全長(身長)183.0m
基準排水量(体重)9050英t(9195t)
出力White Forster式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 107000shp(108484.1PS)
最高速度32.5kt(60.18km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/10000海里(18520km)
乗員指揮官109名 乗組員676名
装備(1942)8inch55口径三連装砲3基9門
5inch25口径単装高角砲8門
3ポンド単装砲2門(礼砲)
ボフォース40mm機関砲x24(6x4)
エリコン20mm機関砲x20
艦載機x4
装甲舷側:3~3.75inch 甲板:1~2inch 砲塔:0.75~2.5inch バーベット:1.5inch 艦橋:1.25inch
建造所Newport News Shipbuilding, Newport News, Virginia
(ニューポート・ニューズ造船所 ヴァージニア州ニューポート・ニューズ)
勲章Navy Combat Action Ribbon
Navy Presidential Unit Citation
Yangtze Service Medal
Navy China Service Medal
American Defense Service Medal(Fleet clasp)
Asiatic-Pacific Campaign Medal(2 stars)
World War II Victory Medal
Philippine Presidential Unit Citation
Philippine Defense Medal

アメリカ海軍が建造したノーザンプトン級重巡洋艦五番艦。
1928年5月1日、ニューポート・ニューズ造船所にて起工。1929年9月7日に進水を果たし、1930年6月17日に竣工した。同年10月20日、最初の仕事として名前を戴いたヒューストンの街を訪問。
翌1931年の7月1日に締結されたロンドン海軍軍縮条約により重巡洋艦に艦種変更。そしてアジア艦隊旗艦という名誉ある役職に就いた。
1932年1月28日、第一次上海事変が勃発し、上海に滞在するアメリカ人の生命及び財産が危機に晒された。アジア艦隊旗艦としての最初の任務は、彼らと財産を保護する事だった。
2月1日午後1時、ヒューストンは直ちにマニラを出撃。駆逐艦3隻を従え、海兵隊400名を輸送。2月4日に上海へ到着し、部隊を揚陸させた。
同年11月9日、後詰めとして駆けつけた姉妹艦オーガスタにアジア艦隊旗艦の座を一時的に譲り、上海を後にする。
1933年4月1日、上海にてフランス海軍の砲艦と衝突し損傷。同年6月2日、練習艦隊の訪米に対する返礼としてヒューストンが横浜に入港。
アジア艦隊司令長官モンゴメリー・テーラー大将が座乗しており、料亭で歓迎会が行われた。また6月7日には来日の答礼として、ヒューストンに横須賀鎮守府長官の野村大将と海軍大臣が訪問。
艦上で幕僚と祝杯を交わした。日米の関係が悪化する中、今回の親善訪問は一定の効果を挙げた。ヒューストンの訪問は続き、同年11月20日にも横浜の港を訪れている。
1934年6月5日に執り行われた東郷平八郎の国葬にも参列し、東京湾で弔砲を発射した。同月7月26日、ルーズベルト大統領をハワイ・ホノルル島へ送り届けた。
1939年12月7日から翌1940年2月17日までハワイ艦隊の旗艦を務めた。

1940年10月9日、本国に回航される姉妹艦オーガスタとの交代でアジア艦隊司令部のマニラへ進出。11月23日、ヒューストンは旗艦に復帰する。
1941年5月8日、マニラに増援部隊を乗せたワシントン号が入港した。対日関係が悪化し、マニラの要塞化が刻々と進んでいく。近づく戦争の足音はヒューストンを飲み込もうとしていた。
また、キャビデ基地の海軍砲兵隊に5つの大砲が納入されたが、そのうち4つはヒューストンに搭載され防空能力が向上した。

 

そして彼女に最大の試練が訪れる。大日本帝國との開戦である。

 

ヒューストンは対日開戦に備え、事前にマニラのキャビテ基地を脱出。1941年12月8日の開戦時、軽巡ボイスや水母ラングレー等とともにフィリピン南部のイロイロへ退避していた。
そして開戦日の夕刻にはジャワ島に向けて速やかに退却。二日後、帝國陸海軍はヒューストンらアジア艦隊を撃滅するべくキャビテ基地を空襲したが、既にもぬけの殻だった。
しかし帝國陸海軍はイギリス軍が送り込んだ戦艦2隻を瞬殺すると、電撃的に東南アジアやインドネシアの各拠点を攻略。アジア艦隊司令部のマニラは1942年元日までに無力化され、日本の軍政下に置かれてしまった。
この危急にヒューストンはオーストラリアを出撃。スラバヤにてABDA艦隊と合流し、ドールマン少将の指揮の下、米英蘭豪が一致団結して帝國海軍の脅威と戦う事を決意する。
米軍の上層部は、マニラからアジア艦隊司令官ハート大将を呼び寄せ、西南太平洋連合艦艦隊司令部に据えてヒューストンに座乗させた。
しかしABDA艦隊は深刻な戦力不足に悩まされていた。重巡以上の大型艦が存在しなかったのだ。マニラのキャビテ基地を失陥したため、潜水艦の活動も制限された。
一方、対峙する帝國海軍は小型空母や戦艦、重巡を複数投入しており劣勢は免れなかった。
その間にも帝國海軍はインドネシア南部にまで浸透し、バリ島付近にも偵察機が飛んでくるようになった。日本船団攻撃のため出撃したヒューストンの艦隊も偵察機に発見されてしまった。
2月4日、ジャワ沖海戦が生起。ケンダリより飛来した日本の中攻機によってヒューストンは250キロ爆弾を喰らい、後部砲塔が使用不能になる損傷を負う。
すかさずヒューストンも反撃し、対空砲火で4機の日本軍機を撃墜した。先制攻撃を受けたドールマン少将は船団攻撃を諦め、反転。
苦い思いをしながら戦域より離脱した。撤退中、日本軍の偵察機に発見されるが通信不良で本隊に伝わらず、無事にチラチャップまで退却した。
この戦闘後、ハート大将は病気と称して退艦。後釜にヘルフリッヒ中将が乗艦し、司令官となった。これを機に旗艦の任をデ・ロイテルに譲った。

一度オーストラリアまで後退したヒューストンは、苦戦するチモール島守備隊を支援するための船団が準備完了するまで待機。ポートダーウィンに停泊していたが、帝國海軍の攻撃はここにも届き幾度となく空襲を受けた。
ヒューストンは果敢に反撃し、船団に被害が及ぶのを阻止した。
2月15日、船団の準備が完了。駆逐艦ピアリー等とともにダーウィンを出港するが、翌日に日本軍機による攻撃を受ける。航空攻撃は2回に渡って行われ、ヒューストンは7機を撃墜したが、船団に被害が及ぶ。
このためダーウィンに退却させられた。その後、戦闘部隊と合流するためチラチャップに入港。ピアリーとともに活動するはずだったが、ピアリーは日本潜水艦を追撃したため燃料を消費。
渋々ダーウィンへ帰投する事になった。間もなくチモール島は日本軍の手に落ち、ダーウィンの目の前に日本軍が進出した。
2月22日、スラバヤに停泊していると日本軍機が襲来。警報が鳴り響き、大型倉庫に火の手が上がった。対空砲火で抵抗したが、2日間に6回もの空襲が行われた。
オランダ軍の病院船が撃沈され、現地のオランダ兵が消火活動に務めた。警報が鳴り止んだ後、ヒューストンに乗艦していたバンドが慰労の演奏を行い、観客が艦上に詰め寄せた。

戦局は悪化の一途を辿り、ついにオランダ軍の中枢であるジャワ島を攻略するための日本船団が出現した。上陸を阻止するべくドールマン少将は出撃を命じ、2月26日にABDA艦隊出撃。
翌27日、日本側の護衛部隊と交戦し、スラバヤ沖海戦が生起。制空権を奪取された挙句、多国籍軍共通の弱点である連携の難しさが浮き彫りになる。ヒューストンは2発砲弾を喰らうが、幸運にも不発弾だった。
戦闘の結果、日本側に予想以上の消耗を強いたが常に劣勢を強いられ、重巡洋艦一隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦五隻が沈没するという手痛い敗北を喫してしまった。
夜の海に投げ出された生存者のため、ヒューストンは照明弾を発射。英駆逐艦エンカウンターの救助活動を支援した。結果、113名が救助されスラバヤへ向かった。
敗北が必至となり、ドールマン少将はヒューストンとパースに後退を命じた。これにより二隻は後退する。
この戦闘で護衛の駆逐艦を喪失した上、デ・ロイテルも沈没しドールマン少将が戦死してしまった。ヒューストンは何とか生き残り、スラバヤの外港タンション・プリオクへ逃げ込んだ。
しかしここでは十分な補給が受けられなかった。先の戦闘で、机という机は全て引き出しの中身を吐き出し、甲板に転がった。
写真、ラジオ、本などは軒並み床へ散乱し、衣類はハンガーによって引き裂かれてしまっていた。時計は壊れ、鏡は割れ、家具は転倒。差し詰めヒューストンは幽霊船だった。

 

この時、ヒューストンを取り巻く環境は非常に厳しかった。威容を誇ったABDA艦隊は壊滅し、帰るべき母港であるスラバヤにも日本の包囲網が迫り、最早安全な場所ではなかった。
インドネシア方面では帝國海軍による落ち武者狩りが始められ、各所で商船及び駆逐艦が撃沈・拿捕の憂き目にあった。
戦闘を指揮する高級将校は既に東南アジアから脱出し、指揮系統も混乱。絶望の一語に尽きる戦況であった。
ヒューストン自身も、これまでの戦闘で第三砲塔が使用不能となり、高角砲弾も欠乏。船体の継ぎ目が緩み、修理にも事欠く始末であった。
乗員もまた4日間の戦闘で睡眠が取れず、疲労が限界に達していた。しかし士気と誇りは衰えていなかった。
残されたヒューストンとパースは鹵獲を防ぐため、空襲下にあったとはいえ比較的安全とされたチラチャップへの撤退を命じられる。
最終的にはイギリス海軍が維持しているインド洋へ一旦脱出、ジャカルタの連合軍部隊と合流して逆襲する手はずだった。
2月28日夕方、橙色に染まるヒューストンは静かに出港。パースを先頭にして逃避行を始めた。連合軍はズンダ海峡には日本軍がいないと考えており、そこを通るようヒューストンらに命じた。
間もなく日没を迎え、満天の星空と満月が顔を見せた。20ノットの速力で西へと向かう2隻の連合軍艦。艦上では二交代制で乗員が見張りを行った。残り半分の乗員は少しでも休もうと睡眠をとった。
だが、運命とは何と残酷な事であろうか。情報とは正反対の状況がズンダ海峡に広がっていた。ヒューストンの退路をふさぐように、日本の上陸船団が展開していたのだ。

2月28日深夜に日本の輸送船団と遭遇。護衛艦隊の姿が見当たらない事から、ヒューストンらは突撃を敢行。一矢報いるため、船団に襲い掛かった。バタビア沖海戦の生起である。
ところが、ヒューストンらは既に駆逐艦吹雪によって発見され、位置を駆逐隊に通報されてしまっていた。行く末には帝國海軍が手ぐすねを引いて待ち構えていたのである。
サーチライトを照射しつつバンタム湾に侵入し、一隻の輸送船を撃沈。突然の襲撃に泊地は大混乱に陥り、重巡最上の放った魚雷が龍城丸に命中する等、日本側の被害が増大した。
しかし湾の入り口であるズンダ海峡を敵駆逐隊に封鎖され、湾内に閉じ込められる。多勢に無勢、ヒューストンは四方八方から火線を浴びせられる。
あまりの敵の多さに艦内は混乱。目標が多すぎるので管制射撃が出来ず、各砲塔の判断によって応戦。日付が変わって3月1日0時5分、唯一の僚艦パースが魚雷4本と20cm砲弾を受けて沈没。
最後の一隻となったヒューストンは敵陣で孤立。周囲に浮かぶ艦は全て日本艦となった。雷跡が伸びてくるのを確認すると、右へ左へ身をよじって回避。
絶える事の無い集中砲火を受け続けているせいで、乗員は敵に与えた正確な損害を全く把握できなかった。敵艦との距離が縮まった時には速射砲や機銃まで使った。
砲弾の雨の中でもヒューストンはしぶとく耐え続けていたが、いよいよ最期の時が迫る。船団の護衛を務めていた重巡最上、三隈から攻撃を受ける。
砲雷撃の末、ヒューストンは後部機関部に一斉射を喰らう。あらゆる蒸気管が破裂し、機関員に火傷を負わせた他、浸水してきた海水の奔流が要員を溺死させた。
依然15ノットを発揮できたが、艦は傾斜を始める。それでもヒューストンの火砲は止まらず抵抗を続けていたが、0時20分に命中弾が相次いだ。弾薬も底を尽きかけ、20cm砲は弾切れ寸前だった。
そこへ雷撃を喰らって航行不能となる。10分後、ヒューストンはありったけの弾丸と魚雷を喰らって廃墟同然となっていた。荒れ狂う炎が上部構造物を嘗め、艦底からは浸水が迫り、周囲は日本艦が包囲する。
ここで遂にルックス艦長は退艦命令を下す。が、その瞬間、敵駆逐艦から放たれた砲弾の破片が艦長の胸に刺さり、絶命。遺体は艦上に安置された。後に彼には名誉勲章が授与された。
瀕死の状態になったヒューストンの前に現れたのは駆逐艦敷波であった。
敷波から止めの魚雷が放たれ、命中。ヒューストンはその船体を横転させ、沈没していった。戦前、友好のため訪問した国に殺されるという戦争の悲哀を感じさせる最期だった。
この海戦を以って、オーストラリアに脱出した駆逐艦四隻を残してABDA艦隊は全滅。東南アジア一帯から連合国軍の艦艇が一掃され、2年半ほど日本の支配下に置かれる事となる。
戦死したヒューストンにはジャワ海のギャロッピングゴーストという渾名が付けられたとか。

 

乗員1061名のうち、291名が生存。日本軍の捕虜となった。乗員の全てが戦死したか捕虜になったため、ヒューストンの最期は9ヶ月ほど知られていなかった。
一応喪失と判断され、1942年5月30日にヒューストンの街で行われた献身式では「失われた」と明言した。ヒューストンの死は同名の市民にとってもショックだったようで、
すぐにヒューストンの艦名が復活するよう建艦債権を購入する市民が殺到。同時に海軍に志願する若者も驚異的に増加した。
ヒューストンの敢闘を称え、1942年10月12日、建造中の軽巡ヴィッツバーグ(CL-81)をヒューストンに改名させた。

終戦後、ジャワ島やマレー、ビルマ、タイ、日本本土などに収容されていた元乗員が解放され、ヒューストンの最期が明確に判明した。
時が流れること現代、アメリカ海軍とインドネシア海軍は共同でヒューストンの残骸を調査。すると、何者かによって銃器や金属板が剥がされている事が判明し、対策に取り組んでいる。