No144 キーロフ/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-04 (金) 00:07:57
所属Военно-морской флот СССР
艦種・艦型26型計画軽巡洋艦→練習巡洋艦(1961)
正式名称Киров
名前の由来Сергей Миронович Киров(1886-1934) ソ連の革命家、政治家 アゼルバイジャンで革命政権を樹立し、赤化統一に関与した。1923年中央委員会に選出されスターリンの懐刀とみされるようになる。その後レニングラードに第一書記として着任し、要職も兼務した。
起工日1935.10.22
進水日1936.11.30
就役日(竣工日)1938.9.26(1938.9.23)
除籍日(除籍後)1974.12(1974.2.22売却後解体)
全長(身長)191.3m
基準排水量(体重)7755.5英t(7880t)
出力Yarrow式重油専焼缶6基Ansaldo式蒸気タービン2基2軸 113500PS(111947.3shp)*1
最高速度35.94kt(66.56km/h)*2
航続距離18.0kt(33.33km/h)/3750海里(6945km)
乗員671名
装備(1943)180mm57口径Б-1三連装砲3基9門
100mm56口径Б-34単装高角砲8門
ЗАУ37mm61-K機関砲x10(10x1)
ДШК12.7mm機関銃x4(4x1)
533mm三連装魚雷発射管2基6門
爆雷投下軌条x2
機雷x90
艦載機x2
装甲舷側:102~305mm 甲板:50mm 砲塔:100~150mm バーベット:50~75mm 艦橋:100~150mm
設計案Gio. Ansaldo & C,Genova
(アンサルド社 イタリア共和国リグーリア州ジェノヴァ県ジェノヴァ)→Невское ПКБ(ネフスキー設計社 ソ連)で完成
建造所Балтийский завод,Ленинград\Санкт Петербург
(バルト工場社(ソ連 第189号工場) 旧ソビエト連邦レニングラード 現ロシア連邦北西連邦管区サンクトペテルブルク連邦市サンクトペテルブルク)
  • ロンドン軍縮条約基準では重巡になるため日本の資料では重巡とされる。
  • ソビエト連邦が建造したキーロフ級巡洋艦一番艦。排水量は7700トン。
  • ロシア革命の混乱が一段落したソ連は、海軍力を増強するべく4隻の巡洋艦建造を計画した。
    しかし大戦や革命で疲弊していたソ連に単独で建造する力は無く、他国の協力を仰いだ。その結果、名乗り出たのはイタリアであった。
  • イタリアから技術者を招き、ライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦の設計図を提供してもらったソ連は、抜け目なく技術を吸収する。そして1935年10月22日、26型軽巡洋艦269号艦としてオルジョニキーゼ工廠で建造を開始。
    イタリア艦艇は地中海向けに建造されていたため、極寒のバルト海で活動できるよう独自に改良を施した。
  • 1936年11月30日に進水を果たし、公試を開始。1938年9月26日に竣工した。竣工後、ニューヨーク国際産業見本市に出展するはずだったが、機関の故障が相次いだため取り止めとなっている。
    • 故障が連続したのは無理なペースでの建造に起因しているが、何故か監督官の反逆と見なされて担当官が粛清されている。
  • 1939年9月23日、就役。この時には既にドイツ軍によるポーランド侵攻が行われていた。
  • 同年11月、バルチック艦隊に編入されたキーロフは冬戦争に参加。初陣を飾った。12月1日、フィンランド南部のルッサロ島に砲撃を仕掛けたが、234mm砲弾を受け損傷。クロンシュタットで修理を強いられた。
  • 1940年8月、バルチック艦隊の大演習に参加。
  • 1941年6月、バルバロッサ作戦によりドイツ軍がソ連領内に侵攻。この危急にキーロフはリガ湾に機雷敷設を行い、友軍の撤退支援を実施した。
    7月、キーロフはバルチック艦隊の旗艦となり、タリンへと派遣された。しかしドイツ空軍の爆撃に遭い、至近弾により乗員9名が死亡、30名が負傷した。
  • 8月27日、スターリンの命令でタリンから退避する事が決定。艦艇127隻と輸送船74隻を率いてタリンを出港したが、既に周辺はドイツ軍によって機雷封鎖されていた挙句、ドイツ空軍の猛攻を受け、
    駆逐艦5隻、潜水艦2隻、警備艦2隻、掃海艇3隻、砲艦1隻、哨戒艇1隻、魚雷艇1隻、輸送船54隻、合計69隻が沈められるという大打撃を受けた。これにより軍人2万人以上、疎開する市民5千人が死亡したとされる。
    その後、無事にレニングラードまで辿り着くが、街はドイツ軍に包囲されてしまった。このため、なし崩し的に防衛戦に参加する。
  • 1942年4月4日、防衛戦に身を置くキーロフはドイツ空軍から攻撃を受け、7発の爆弾と至近弾を喰らって大破。乗員に死者89名、負傷者58名が出てしまった。傷を癒すため第189レニングラード工廠で修理と改造工事を受ける。
    カタパルトを取り外し、代わりに機銃の増設と装甲の追加を行った。1943年に修理完了。2月には敢闘が認められ、赤旗勲章が贈られた。なお、大戦中に25万個配られた模様
  • 1943年6月、フィンランド軍要塞を攻撃。
  • 1943年末から大型艦の行動が制限されたため大きな戦闘に参加する事が無くなった。そして1945年5月にドイツは降伏。6年に及んだ第二次世界大戦は終わりを迎え、キーロフは無事に生き残った。
  • しかしキーロフの受難は続く。終戦後の1945年10月17日、砲撃演習のため出港したがクロンシュタット近海でドイツ軍が敷設したS型機雷に触れ、大破。1946年まで修理する羽目になる。
  • 修理を終えて復帰したキーロフは南バルチック艦隊に編入される。また1949年11月から1953年4月まで第194造船所に入渠し、近代化改装を受けた。
  • 1958年4月29日に予備役となる。たびたび行われた演習に参加し、練習巡洋艦に変更されたキーロフは1974年2月22日に除籍され、スクラップとなった。
    • 解体後、前部主砲がペテルブルグのバルチック艦隊広場に展示された。

*1 2番艦は126600PS
*2 2番艦は36.7kt