No178 サリバン/元ネタ解説

Last-modified: 2018-02-24 (土) 16:45:29
所属United States Navy
艦種・艦型フレッチャー級駆逐艦
正式名称USS Putnam→USS The Sullivans (DD-537)(1943)
名前の由来Charles Flint Putnam アメリカ海軍将校 北極で行方不明となった砲艦USS Jeannetteを探し乗組員を救助した
→Sullivan brothers アメリカ海軍 USS Juneau (CL-52)の船員だった5人兄弟。艦が沈められた際兄弟同時に命を落とした。彼らの栄誉を称えるため改名
モットーWe Stick Together
起工日1942.10.10
進水日1943.4.4
就役日(竣工日)1943.9.30
退役日(除籍後)1965.1.7 1974.12.1除籍(バッファロー&エリー群 海軍&ミリタリーパークに記念館として保存)
全長(身長)114.8m
基準排水量(体重)2050英t(2182.9t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶4基General Electric式蒸気タービン2基2軸 60000shp(60832.2PS)
最高速度36.5kt(67.59km/h)
航続距離15.0kt(27.77km/h)/6500海里(12038km)
乗員336名
装備(建造時)5inch38口径Mk.12単装両用砲5門
21inch五連装魚雷発射管2基10門
ボフォース40mm機関砲x10(5x2)
20mmエリコン機関砲x7
爆雷投射機x6
爆雷投下軌条x2
装備(保存時)5inch38口径Mk.12単装両用砲4門
3inch50口径連装高角砲1基2門
324mmMk.32三連装魚雷発射管2基6門
ボフォース40mm機関砲x4(2x2)
20mmエリコン機関砲x4(2x2)
Hedgehog対潜迫撃砲2基48発
爆雷投下軌条x1
装甲なし
建造所Bethlehem Shipbuilding Corporation, Union Iron Works, San Francisco, California
(ベスレヘム造船ユニオン鉄工所 カリフォルニア州サンフランシスコ市)
勲章不明 WWII(9 stars)
不明 Korean War(2 stars)
  • アメリカ海軍が建造したフレッチャー級駆逐艦の一隻。艦番号DD-537。軍縮条約の制限を受けずに建造されたため、排水量2000トンを超す巨体。
    本作の艦名では「サリバン」が使われているが、「ザ・サリヴァンズ」などの記述が一般的。
  • 現在も姿を残すフレッチャー級の1隻。ニューヨーク州バッファローにて記念艦として保存されている。
  • 艦名は戦死したサリヴァン5兄弟から取られている。本来ならパットナムと命名されるはずだったが途中で改名している。
    元々フレッチャー級駆逐艦の艦名は海軍功労者からつけられているが、本艦は米軍史上初めて複数人にちなんだ命名となった。
  • サリヴァン5兄弟は揃ってアトランタ級防空巡洋艦ジュノーに乗務していた。
    しかし第三次ソロモン海戦で日本海軍の伊26潜に雷撃され、ジュノーは沈没。全員が戦死するという、遺族に残酷極まりない結果をもたらした。この出来事は全米で反響を呼んだ。
    二か月後、ルーズベルト大統領は「次の駆逐艦をザ・サリヴァンズと命名する」と表明した。
  • この痛ましい悲劇を忘れないようアメリカ海軍はソウル・サバイバー・ポリシーを制定。兄弟が全滅しないよう配慮すると同時に、フレッチャー級駆逐艦の一隻にサリバンの名を与えた。
  • この兄弟のエピソードは、後世の映画「プライベート・ライアン」のモチーフにもなった。
     
  • 1942年10月10日、サンフランシスコ造船所で起工。建造途中でザ・サリヴァンズに改名し、1943年4月4日に進水。同年9月30日に竣工を果たした。就役後、彼女は対日戦に参加。
  • 1944年1月16日、真珠湾を出港し、マーシャル諸島攻撃に向かう第58.2任務部隊の護衛として随伴。帝國海軍の潜水艦基地クェゼリン攻略を支援した。
    3月1日、日本軍機が攻撃に現れる。ザ・サリヴァンズは空母を守って対空戦闘を行い、撃退に成功した。メジュロで補給を受けた後、ニューギニア攻略を支援。ホーランジアを空襲する任務部隊の護衛に徹した。
    6月6日からはサイパン島攻略作戦に参加。レーダーピケット艦の一隻として対空警戒を行う。6月19日、マリアナ諸島の覇権を巡るマリアナ沖海戦に参加。モンゴメリー少将率いる第2群に所属し、対空戦闘。
    7月4日、アメリカの独立記念日にザ・サリヴァンズは南飛行場の航空機を狙って、硫黄島を砲撃。5機の一式陸攻を炎上させ、8機の飛行機に何らかの被害を与えた。また輸送船にも砲撃し、艦尾を炎上させる。
    9月上旬、フィリピンの日本軍機を無力化するため各基地を空襲する機動部隊に随伴。作戦後、奪取したサイパンで補給を受ける。
    10月上旬、駆逐母艦ディキシーより修理を受けるが、その間に台風が襲来。暴風波浪から身を守るため移動を始めるが、駆逐艦ウルマンと衝突。
    10月6日、台湾に接近したザ・サリヴァンズは台湾沖航空戦に参加。宵闇に紛れて襲いかかってきた日本軍機を自慢の対空砲火で追い返し、また自身は25ノットの速力で敵弾を回避した。
    翌日、航空攻撃で損傷した巡洋艦を僚艦ヒューストンとともに護衛。2機の一式陸攻が攻撃しに来たが果敢に戦い、損傷艦を守り切った。
    だが相方のヒューストンは大破させられる。満身創痍のヒューストンから乗員を移乗させた。この戦闘で日本軍機の数を大きく削り、後に生起するレイテ沖海戦を優勢なものにした。
  • 1944年10月24日、日米の天王山ことレイテ沖海戦が生起する。この大海戦にザ・サリヴァンズも参加、第34.5任務部隊の一員として帝國海軍と戦った。
    25日、敵の落伍艦を求めてサマールの海岸線を哨戒。その後、第38.2任務部隊と合流した。
    レイテ沖海戦に勝利したあとの11月19日夕方、一式陸攻による空襲を受ける。対空砲で反撃し、被弾した一機の陸攻が黒煙を噴きながら地平線へと消えていった。その姿はまるで煙草のようだと喩えられたとか。
    空母群がマニラを空襲している間、ザ・サリヴァンズは現場にて訓練。燃料が少なくなってきたので12月17日に補給を受けようとしたが台風の接近で中止。
    その台風は、あのコブラ台風であった。米機動部隊はコブラ台風の直撃を受け、駆逐艦3隻が沈み、死者790名を出す大参事となった。この惨劇を生き延びたザ・サリヴァンズは20日、生存者の捜索に当たった。
    更に悪い事に、コブラ台風がもたらした悪天候は空襲を不可能にしてしまった。クリスマスイブにウルシーへ帰投。
    12月30日、第38.2任務部隊とともに南シナ海へ進出。ルソン島のアメリカ陸軍を支援するため空襲を行い、また通商破壊も行った。
     
  • 1945年1月、日本本土への空襲が活発化し、ザ・サリヴァンズはその護衛に忙殺された。2月28日午後、沖縄沖で浮遊機雷を発見し破壊する手柄を立てた。
  • 沖縄攻略戦が開始された3月20日午前11時52分、エンタープライズより燃料補給を受ける。そしてカミカゼ接近の報を知り、5分後に対空戦闘。空母へ突入しようとした特攻機を撃墜した。
    14時39分、再びカミカゼが現れる。対空砲火を突破した特攻機がザ・サリヴァンズをかすめ、後方にいた駆逐艦ハンコックに突入。紙一重で命拾いした。
    炎上したハンコックを救援するため、軍医を乗せたボートを向かわせた。だがザ・サリヴァンズにも特攻機が迫る。向かってくる特攻機を回避するため全速力で前進し、何とか回避。
    翌日には双発の特攻機「フランセス」が現れて突っ込んで来たが、狙いが外れ、ザ・サリヴァンズの2700メートル横を突っ込み水没した。
    3月15日、レーダーピケット艦隊の旗艦となり指揮を執った。その後も特攻機との戦いは続き、5月11日朝には特攻機の突入で大破炎上した空母バンカーヒルから乗員166名を救助。
    5月14日、日本近海で4機の戦闘機と交戦。全機撃墜に成功した。これが彼女の最後の戦闘になった。
  • 6月1日、レイテ湾へ帰投。そしてカリフォルニアまで回航され、オーバーホールを受けているところで終戦を迎える。
     
  • 終戦後、余生をのんびり過せるかと思いきや、そうはいかなかった。
    朝鮮戦争勃発に伴って1951年5月に再び出動。若干の訓練を終えたあと、韓国軍を支援するため朝鮮半島東部に進出し、現地で第77任務部隊と合流。
    敵の補給路を断つ事と空母の護衛が彼女の役目であった。また上陸した国連軍の応援にも向かっている。アメリカの前線基地と化した日本で度々修理を受けながら戦い続けた。
    1952年のクリスマス、ザ・サリヴァンズは敵陣の鉄道橋と攻撃拠点1つを砲撃で破壊した。
    そして前線から退く事になった彼女は1953年1月26日に横須賀へ帰投。スエズ運河を通って東海岸のニューポートへ帰国。
  • 朝鮮戦争から戻ってきたザ・サリヴァンズは第6艦隊所属となり、大西洋と地中海に展開した。
    1958年夏、レバノンに共産主義の魔手が迫る。現地のアメリカ人を保護するためアイゼンハワー大統領は軍艦を派遣。ザ・サリヴァンズは海兵隊員を乗せて現地へ急行、上陸を支援する。
    その甲斐あって脅威は去り、彼女はオーバーホールのため帰国した。
    1959年3月、墜落した空軍機から生存者を救出するため地中海を捜索。1960年春まで捜索に専念した。
  • 1961年9月から翌年2月まで、ボストン海軍工廠でオーバーホール。その後、訓練学校の練習艦となり学生に実習の場を提供した。
  • 1962年10月、キューバ危機が発生。米ソが交渉している間、ザ・サリヴァンズはキューバの海上封鎖に従事。危機が終息に向かうとニューポートへ帰投した。
    1963年1月からカリブ海で再び練習艦としての日々を送る。また、原子力潜水艦スレッシャーの捜索に参加。結局発見する事が出来ず、喪失と判定される。
  • オーストラリア海軍の空母メルボルンが駆逐艦ボイジャーと衝突、ボイジャーは沈没した。このため1964年2月10日、ザ・サリヴァンズとその姉妹艦が代役を務めた。
 
  • 太平洋戦争でザ・サリヴァンズは従軍星章を2つ、朝鮮戦争で9つを受勲。対潜護衛艦、予備役を経て1974年12月1日に除籍となる。船体は先述の通り記念艦として保存。