No180 オバノン/元ネタ解説

Last-modified: 2022-08-18 (木) 21:19:53
所属United States Navy
艦種・艦型フレッチャー級駆逐艦→護衛駆逐艦(1949)→駆逐艦(1962)
正式名称USS O'Bannon ((DD/DDE-450)
名前の由来Presley O'Bannon(1776-1850) アメリカ海兵隊大尉 第一次バーバリ戦争で活躍。「ダーネの英雄」と呼ばれる伝説的人物
愛称Lucky 'O', Potato Barge
起工日1941.3.3
進水日1942.2.19
就役日(竣工日)1942.6.26
退役日(除籍後)1970.1.30 同日除籍(1970.6.6売却後解体)
全長(身長)114.8m
基準排水量(体重)2050英t(2182.9t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶4基General Electric式蒸気タービン2基2軸 60000shp(60832.2PS)
最高速度36.5kt(67.59km/h)
航続距離15.0kt(27.77km/h)/6500海里(12038km)
乗員329名
装備(1945)5inch38口径Mk.12単装両用砲5門
21inch五連装魚雷発射管2基10門
ボフォース40mm機関砲x10(5x2)
20mmエリコン機関砲x7
爆雷投射機x6
爆雷投下軌条x2
装甲なし
建造所Bath Iron Works, Bath, Maine
(バス鉄工所 アメリカ合衆国メイン州サガダホク郡バス市)
勲章Presidential Unit Citation
不明(17 stars)
  • フレッチャー級6番艦、DD-450。1934年3月27日、計画が承認され建造決定。1941年3月3日、バス鉄工所にて起工。1942年2月19日に進水し、6月26日に竣工した。
    アメリカ海兵隊の英雄、プレスリー・オバノン中尉(1776~1850)の名を冠する2代目の船として、ウィルキンソン中佐の指揮下に入り、太平洋艦隊に編入された。
    2か月間にわたり東海岸、主にカリブ海で訓練を積んでいたが日米によるガダルカナル島争奪戦が激化。1942年8月29日にボストンを出港し、南西太平洋に進出。激しい戦いの続くガダルカナル諸島へ投入される。
  • 10月9日から始まった最初の任務は護衛空母コパヒーを護衛し、ヘンダーソン飛行場へ航空機を輸送する任務だった。
    無事に任務をこなすと11月7日には今度は輸送部隊の護衛に当たり、対潜哨戒と上空警戒を行う。任務中、浮上している日本潜水艦を目撃。船団が安全に通過するまでの間、睨みを利かせた。
    11月12日午後、ラバウルから発進してきた一式陸攻16機に襲われたが、仲間と共同で対空砲火により11機を撃墜した。オバノン単独の戦果は4機であった。
    その後偵察のB-17より日本軍の戦艦2隻を含む17隻の艦隊発見報告を受け、オバノンは輸送隊と別れこれの迎撃に向かった。
  • 駆逐艦カッシングラフィースティレットと共に前衛を務めたオバノンは、翌13日未明、日本軍挺身隊と遭遇。大混乱の第三次ソロモン海戦が勃発した。
    オバノンは比叡に探照灯を照射して艦上構造物を狙って他の艦と集中砲火を加えたのち、
    被弾して行動不能に陥っていたアトランタを救援すべくアトランタに探照灯を向けるを共同で攻撃して撃沈。
    更に比叡めがけて魚雷を発射したが不発だった。乱戦だったためか味方から誤射を受け、オバノンは損傷した。
    この夜戦で米海軍はノーマンスコット司令が戦死し、戦艦サウスダコタを護衛していた駆逐艦4隻と2隻の巡洋艦を喪失するという大損害を受けたがヘンダーソン飛行場への砲撃は辛くも阻止し、
    逆に戦艦比叡を大破、翌日放棄させた。生き残った飛行場は以降も日本船団を苦しめ、ガダルカナル島争奪戦を優位なものにした。
  • この海戦のあともオバノンはしばらく同海域で哨戒を行う。ヌメア島を拠点に活動し、被弾した機の着陸を手助けした他、ガダルカナル、ムンダ、コロンバンガラを砲撃している。
  • 43年4月5日(い号作戦決行延期の日)、ガダルカナル島北西のラッセル諸島にて、不審な船舶を発見。
    当初小さなシルエットから転覆した艦艇ではないかと接近したが動きがおかしいため、機雷の敷設艇かと思い機雷にぶつからないよう慎重に接近したところ、
    その船は故障修理のため浮上中だった日本海軍の潜水艦呂34であった。デッキでは何人かの乗員が昼寝をしていたという。
    まさかの会敵にパニックになったオバノンだが、不運なことに武器を持ったクルーはその場にはいなかった。呂34も相手が敵艦と分かり、行動を開始。
    デッキの8cm砲で攻撃するため乗員たちが集まり始めた。この危機にクルーの一人が煙突基部のポテトロッカー(芋の芽が出ないよう風通しのいい甲板に野菜を置く場所がある)からジャガイモを投げつけると、
    呂34側もそれを手榴弾と勘違いしてパニックになり、その隙にオバノンは全速力で離脱して砲撃を加え、転覆した呂34が潜行して逃げたと思い込み
    念のため爆雷まで投射してこれを撃沈した。
    後日オバノンは起工した造船所のあるメーン州のじゃがいも農家より表彰状を送られている。
  • しかし喜んでばかりもいられなかった。当時のソロモン諸島の戦力は日米双方が切迫しており、オバノンは短い休暇と補給でそこらじゅうの戦闘に駆り出された。
  • 1943年6月23日、サンクリストバル島近海で呂103に雷撃され、大破した大型貨物船ダイモスを撃沈処分。
  • 7月5日、クラ湾夜戦に参加。エインワース少将指揮の下、輸送を行う日本艦隊に突撃を行った。そして輸送船団に対し5本の魚雷を放ったが、命中しなかった。
  • 7月12日には第18任務群を編成して、コロンバンガラ沖海戦に参加。前回のクラ湾同様に夜戦となった。オバノンは僚艦2隻とともに第二水雷戦隊の追撃を命じられたが、スコールによって逃げられた。
    艦隊から大きく離れた事により、司令部はオバノンの正確な位置が把握できず戦闘から孤立した。結局この夜戦では殆ど何も出来なかった。
  • オバノンが最も苦杯を飲まされたのは、10月6日に生起した第二次ベララベラ海戦であろう。ベララベラ島からの撤退を図る日本軍は駆逐艦9隻を派遣。それを迎撃するべく、オバノンは第3艦隊より分離。
    姉妹艦キャバリエとともに旗艦セルフリッジに率いられて哨戒を行っていた。やがて日米の駆逐艦は会敵し、夜戦が始まった。まず先頭を走っていた夕雲に集中攻撃を浴びせ、大破に追いやった。
    だが間もなく反撃の魚雷が飛んできた。その魚雷でキャバリエが被雷し、航行不能となる。その後ろを走っていたオバノンは回避しきれず、キャバリエと衝突。艦首を大破させてしまう。
    2隻は瞬時に戦闘能力を喪失し、戦えるのは旗艦セルフリッジただ1隻となってしまった。さらに日本側に増援が現れ、セルフリッジも被雷し大破。戦闘不能となったセルフリッジはのろのろと離脱していった。
    衝突したままの格好となっている2隻を、3隻の日本駆逐艦が雷撃したが幸いにして当たらなかった。その後、戦場は視界不良に陥ったため日本艦隊は離脱。オバノンとキャバリエは海上に取り残された。
    何とか船体をキャバリエから引き離すと、投げ出されたキャバリエの生存者を救出した。修理不能と判断されたキャバリエは自沈処分され、妹を目の前で失った。
    衝突事故が発生したにも関わらず乗員に1名の死者も出なかった事から、水兵の間でラッキーOと呼ばれるようになった。
    日本側は撤退作戦を完遂、損害も米軍側が上と、オバノンたちの完敗であった。衝突した直後の写真が今も残されている。傷ついたオバノンはヌメア島に帰投し、修理を受けた。
  • 帝國海軍との戦いは苛烈を極め、オバノンは苦しい戦いを続ける。日本軍の輸送を阻止しつつ味方の輸送を成功させねばならなかった。
    幸いなことにオバノン自身の損害はほとんどなかったが、機関の損耗が限界に来ていたためツラギで小修理を行ったのち、11月19日に本国のヴァレーホ工廠でオーバーホールを受けた。
    ガダルカナル島での武功や、クラ湾での功績が認められ、オバノンは大統領選挙勲章を授与された。ルーズベルト大統領はコロンバンガラ沖海戦での救助活動を例に挙げ、称えた。
 
  • 1944年1月11日、修理完了。武装も強化され、準備は万端だった。3月18日に再び太平洋戦線へ舞い戻ると、南洋諸島の上陸作戦を支援する輸送部隊の護衛を開始。
    同時にニューギニア、フィリピン、ボルネオへ砲撃を加えた。
    4月21日からはホーランジア攻略に参加。第30.4任務部隊に転属し、5月22日より西ニューギニアの制圧を担当した。9月15日にはモロタイの上陸支援を敢行。
    10月18日まで護衛と砲撃に従事した後、10月24日のレイテ沖海戦ではレイテ湾の防衛を担当。補給部隊の護衛に回った。
    レイテの戦いに勝利したあと、オバノンは活動範囲をフィリピン海域に移動。11月19日からはマーレ島に寄港し、44日間のオーバーホールを受ける。
     
  • 1945年に入ると、帝國陸軍に奪取されたフィリピンの要所を攻撃。ミンドロ、リンガエン湾、バターン、コレヒドール、サンボアンガ、セブ等を砲撃した。
    1月31日、リンガエン湾への攻撃中にオバノンは僚艦とともに日本潜水艦を撃沈した。その時は仕留めた獲物の正体が分からなかったが、戦後の研究により呂115の可能性が最も高いと判明した。
    2月8日から3月1日にかけてパラワン諸島の上陸を支援。4月27日よりボルネオ島のタラカンを攻撃。この作戦を最後にオバノンはフィリピン海域を離れ、沖縄方面に進出した。
    5月28日、第3艦隊の護衛として沖縄攻略戦に参加。6月17日、艦隊から離れ、護衛隊と合流。日本本土近海で哨戒任務に従事。
    7月10日からは本州や北海道北部を攻撃する空母機動部隊を護衛。8月15日、本州の近海で終戦を迎えた。終戦後の8月27日からある重大な任務を仰せつかった。
    戦艦ミズーリを東京湾で護衛することであった。
    ハルゼー提督はオバノン、ニコラスらを直々に指名し、「南太平洋から終戦まで勇敢に戦い続けた彼女らこそ相応しい」として、9月1日の調印式に参加した。
     
  • 1949年1月17日、ロングビーチ海軍工廠に入渠し護衛艦に改装され、DDE-450と改名。DDEは対潜護衛艦を意味する。1950年2月10日、工事を完了して出渠した。
    1951年2月19日、再就役し真珠湾に向かう。そして朝鮮戦争に身を投じた。
  • 同年11月19日、韓国近海で国連軍に編入され、航海を行った。そして韓国軍を支援し、北朝鮮軍の道路や鉄道、弾薬庫を攻撃した。また半島と日本間の通商保護も担当している。
     
  • 戦争を戦い抜いたあとの1952年6月20日、帰国。同年11月、エニウェトクで米国原子力委員会の活動に追随した。そして半年間、極東で訓練をする事になり、日本やフィリピン、台湾、オーストラリア等を訪問。
    訓練を終えた後も活動範囲を極東に留め、情勢が不安定な東アジア方面を監視し続けた。1961年10月7日、横須賀に停泊しているところを空撮されている。
  • 1962年の春と秋に、オバノンはジョンストン島の核実験に参加した。ベトナムから飛来する航空機の護衛を任された。
  • 1963年12月、ハワイに停泊していたオバノンにファーリントン高校の生徒が見学のため乗艦。その時の写真が残されている。
     
  • 1964年、オバノンは映画「危険な道」に出演し銀幕デビュー。映画は翌年に公開された。女優になったのも束の間、極東でベトナム戦争が勃発。
    12月26日、香港を出発するとベトナム近海の水路調査を実施。続いて海上封鎖を行った。1966年5月と6月に海岸を砲撃、ベトコンの小型船やベースキャンプを破壊した。
    その後も砲撃や、墜落した機からパイロットを救出する任務に従事。1966年9月、打ち上げられるジェミニ11号宇宙船の緊急事態に備えて復旧隊の一員となった。
    ベトナム戦争での献身的な支援は1967年まで続いた。1968年以降はハワイを活動拠点として太平洋を航海。
  • 1970年1月30日、ついに老朽化のため、姉妹艦DD-449ニコラスと揃って退役し、1972年5月に解体されてその生涯を終えた。
  • 従軍星章は駆逐艦最多の17*1。朝鮮戦争で更に3つの従軍星章を戴いている。
    南平洋の苦しい戦いを最後まで生き抜いた彼女にハルゼー提督は、
    「太平洋戦争の歴史を語るにあたってオバノンの話を抜きにすることは出来ない。彼女と勇敢な姉妹たちは幾度となく敵を退け、決してわたしを失望させなかった」と評した。
  • ちなみにオバノンにはアスベストが使用されており、乗員や造船労働者に諸症状が現れる危険性があった。アメリカ政府は退役軍人に早期の治療を薦めている。

*1 アメリカ軍全体ではニューオーリンズ、重巡サンフランシスコと並ぶ同率3位。ちなみに2位はサンディエゴの18、1位はエンタープライズの20