No192 タシュケント/元ネタ解説

Last-modified: 2023-02-17 (金) 20:06:25
所属Военно-морской флот СССР
艦種・艦型20И型計画嚮導駆逐艦
正式名称Ташкент
名前の由来Toshkent ウズベキスタン共和国首都タシュケント市
起工日1937.1.11
進水日1937.12.28
就役日(竣工日)1939.10.22
除籍日(除籍理由)1942(1942.7.2沈没 1944.8.30浮揚 1946解体)
全長(身長)139.7m
基準排水量(体重)2881.5英t(2836t)
出力Yarrow式重油専焼缶4基Parsons式蒸気タービン2基2軸 130000PS(128221.6shp)
最高速度42.7kt(79.07km/h) 43.5kt(80.56km/h)(最大)
航続距離20.0kt(37.04km/h)/5030海里(9315.56km)
乗員250名
装備130mm50口径Б-2ЛМ連装砲3基6門
76.2mm55口径39-K連装砲1基2門
ЗАУ37mm70-K機関砲x6(6x1)
ДШК12.7mm機関銃x6
533mm三連装魚雷発射管3基9門
爆雷投射機2基
機雷x110
装甲なし
建造所Cantiere navale fratelli Orlando, Odero Terni Orlando, Livorno
(オデーロ・テルニ・オルランド社オーランド・ブラザーズ造船所 イタリア共和国トスカーナ州リヴォルノ県リヴォルノ)

タシュケントについて

  • 「空色の嚮導艦」または「空色の巡洋艦」の愛称を持つソ連の大型駆逐艦。
    大型艦だけあって、全長は139メートルと軽巡洋艦夕張とタメを張れる長さを誇る。
    ソ連の大祖国戦争(第二次世界大戦)において、黒海で活躍した武勲艦の一つ。
  • 船名はウズベキスタンの首都であるタシュケント(とその名前を冠した同名ロシア海軍艦)に因む。
     
    開発から建造まで
  • 建造の切欠は1930年代。海軍軍縮条約により各国が強力な駆逐艦の建造を行う中、ソ連も新鋭駆逐艦の建造に着手した。
    海軍戦力の拡充を目指すソ連は、嚮導艦(駆逐艦隊を指揮する大型艦)の建造に着手。
    その後は40ノット以上の高速を実現可能かつ20ノットで5000海里の航続距離を実現する駆逐艦を計画した。
    とはいえ革命の爪痕が残るソ連の技術力では実現が難しく、建造・設計は海外に委託される事になり、イタリアのOTO社が選考で選ばれた。
    1935年9月9日、レニングラードでサインが行われた。
  • こうしてソ連と契約したOTO社は計画に基づいて1935年9月11日、リヴォルノ造船所にてタシュケントの建造に着手。
    1937年4月11日、タシュケントと命名。同年11月28日にタシュケントは進水するが、イタリアとソ連の関係が急激に悪化する。
    スペイン内乱において、それぞれが敵対する勢力に支援を行っていたのだ。
    またイタリア海軍の潜水艦がソ連の輸送船を撃沈するなど、関係は険悪な状態だった。
    進水式の際には、OTO代表によりファシズムの言及と意図的な誤訳が行われて、ぼろくそに非難されている。
    • また日本海軍はタシュケント級の計画的配備を妨害するため、この艦を購入しようと申し出たとか。
  • 一触即発のまま建造が進められ、1938年3月18日に公試を行った。非武装状態では44.2ノットという超快足を叩き出し、武装状態でも39ノットを記録した。
    そして遂に1939年5月6日に竣工。
    その後、タシュケントの同型艦を建造する計画がソ連の内部で行われたが、結局この計画は白紙になってしまい、タシュケントは同型艦なしのままソ連海軍で運用される事になった。
    • イタリアはソ連の要求を全て盛り込んだが、その結果、船体が異常なまでに大型化してしまう。排水量は3400トンと軽巡洋艦に匹敵した。
      あまりの巨体に、ソ連はタシュケントを量産する事が出来なかった。
  • 未武装の状態で引き渡されたタシュケントは、オデッサに到着後、ソ連製武装を付けられている。
    当初は130mm単装砲を装備したものの、すぐに連装化された事で強大な火力を入手。
    さらに射撃管制装置、DShK機銃*1や533mm魚雷発射管、爆雷などを装備した。
    しかし回転式主砲の到着が遅れ、しばらくの間は130mm連装砲が主力だったとか。
    船体はコバルトブルーに塗装され、水兵から「青い巡洋艦」と呼ばれた。入手ボイスで空色の嚮導艦と自称するのは、この事に由来している。
    タシュケントはバルト艦隊に編入される予定だったが、ソ連が支援していたスペインの共和国派が敗北したため、スペイン近海は危険として急遽黒海艦隊に配備される事になった*2
    1941年2月にようやく主砲が届き、ニコラーエフで搭載。十分な戦闘能力を付与された後に、大祖国戦争の激戦へと身を投じる事になる。
     
    大祖国戦争とタシュケント
  • 1941年6月22日、ソ連とドイツが交戦状態に突入、大祖国戦争の幕が開けると同時に、タシュケントはドイツ軍を相手に死闘を繰り広げる事となる。
    もっとも、その多くはドイツ空軍機やドイツ陸軍が相手であった。
  • 独ソ戦開幕時、タシュケントはニコラーエフで入渠していた。一晩が経ったあと、すぐに出港。7月にセヴァストポリへ到着した。
  • 同年8月5日から始まったオデッサの戦いでは陸上のソ連軍部隊を支援するため、タシュケントは奔走した。オデッサは黒海艦隊の拠点だったため制海権はソ連にあり、海路から補給が行われた。
    8月22日、ドイツ軍に包囲された陸上部隊を支援するため砲撃。
    1941年8月30日、船団護衛をしている時に初陣を迎える。ドイツ軍爆撃機3機の攻撃により一発の爆弾を受ける。
    8mの破孔が生じ、乗員3名が死亡。7名が負傷して1名が行方不明となった。
  • 9月1日にセヴァストポリへ入港。応急修理だけ行ったあと、12ノットの速力でオデッサに舞い戻り、現地で修復に入った。その際に艦尾へ機銃を増設している。
    その後も船団護衛に活躍。海路での補給頼みだったソ連軍の守備隊に物資を送り続けていた。
  • 続く同年9月、セヴァストポリの戦いでは、タシュケントは黒海艦隊の一員として大活躍した。セヴァストポリ要塞は黒海艦隊の根拠地で、何としても死守しなければならない要衝だった。
    幸い黒海の制海権はソ連側にあったため、海路からの支援が可能であった。要塞と軍港を助けんと、タシュケントも出撃した。
    ドイツ軍部隊に押されつつあるセヴァストポリの守備隊に対して物資を補給するため、幾度と無く空襲にあいながらも、タシュケントは物資補給任務を継続。
    設計上、大型で船内スペースも多かった事からタシュケントは高速輸送艦としても適任であった。
    武器・弾薬・食料・燃料、時には鉄道車両まで輸送し、船体に負担をかけながらもタシュケントは守備隊に物資を送り続けた。彼女によって届けられた兵員は1万9300人、弾薬は2538トンに及んだ。
    届けられた兵員によってドイツ軍を危機に陥らせ、一時はセヴァストポリ要塞の包囲を解いた程だった。タシュケントらの働きにより要塞は持ちこたえ、攻略戦は長期化の兆しを見せた。
    10月にはオデッサが陥落するも、脱出してきた部隊がセヴァストポリ守備隊と合流。優勢な南方軍集団を相手に根強く抗戦した。
  • 11月19日、包囲された都市部のため必需品を積んで出港。帰り道は負傷した兵士や市民を乗せて連れ帰った。
    悪天候が続き、たくさんの積荷があるタシュケントは激浪に翻弄された。11月25日、嵐に巻き込まれデッキに亀裂が入る。
    また、ドイツ軍の攻撃が強まるに連れて、タシュケントはその火力を生かした艦砲射撃を実施し、迫り来るドイツ軍部隊を足止めし続けた。
    その勢いは凄まじく、12月22日から24日にかけて800発も砲弾を発射。
    飛行場と6つの砲兵陣地を破壊し、13機の敵機を撃ち落とし、1隻の魚雷艇を沈めた。この八面六臂の活躍で守備隊を援護した。
    しかしながら天候に恵まれず、しかも重荷を背負いながらの戦闘だったため非常に厳しい状態での砲撃だった。翌年1942年1月まで砲撃が続けられた。
     
    ノヴォロシースクへの撤退
  • 1月30日、新たな兵士と必需品を積んでセヴァストポリへ入港。
    輸送任務は6月26日まで続けられ、要塞で戦う兵士の生命線となった。
    ところが最後の補給となった6月26日はドイツ空軍の妨害が激しく、輸送船1隻が犠牲となった。
    タシュケントは投げ出された生存者を助けんと救助を行った。それでも彼女だけで944人の兵と700丁のライフル、26トンの食糧が届けられた。
  • しかし、セヴァストポリ攻略のためドイツ南方軍集団は列車砲「グスタフ」を投入。
    分厚いコンクリートを貫通して弾薬庫を破壊する絶大な威力を前に、ソ連軍部隊は窮地に立たされていった。
    ドイツ軍の勢いは弱まらず、6月19日にドイツ軍がセヴァストポリの北部を押さえた事で王手が掛かった。
    ここに至りセヴァストポリの放棄が決定。ソ連軍は撤退を開始する。
  • 1942年6月27日、タシュケントは負傷兵や難民約2300名、さらに貴重な絵画などを満載し、船団を組んでノヴォロシースクへの撤退を開始した。
    この時、80機以上の大量のドイツ空軍機により襲撃を受けたタシュケントは、合計336発の爆弾を投下されながらもそのすべてを回避。
    唯一、1発の至近弾を受けて舵を損傷、200トンの海中が入り込みボイラー室に浸水したものの無事であった。
    3名の死者と10名の負傷者が生じ、艦前部の50人が海水を飲んだが依然として14ノットの速力が出せた。
    ソ連軍機による援護を受けたタシュケントは、6時間にも及んだ空襲を振り切り友軍艦に負傷者や難民を移乗させると、自力でノヴォロシースクへ到達。
    奇跡的な脱出劇を成功させたのだった。
  • 賞賛に値するこの英雄的な働きにより、艦長はレーニン勲章を、船員全てにはソビエト連邦国家賞が授与されている。
  • ノヴォロシースクに到着して点検を受けた時、実はタシュケントは瀕死の状態だった。
    入港して敵の手から逃れられたが、ここでは十分な修理が出来なかった。
     
    タシュケントの最後
  • しかし悲劇は突然訪れた。
    脱出劇の成功からすぐの7月2日。停泊中であったタシュケントは15機の戦闘機に護衛された64機の爆撃機から攻撃を受ける。
    そのうち2機のJu88爆撃機の襲撃を受け、2発の爆弾が直撃。
    1900トンの海水が浸入し、駆逐艦ブディテルヌイに曳航されたが、ここまでだった。あっけなく沈没、10mの海底に着底した。
    この襲撃で76名が戦死。武勲艦タシュケントはその生涯に幕を下ろした。
    ソ連軍の英雄、カフカス方面軍総司令セミョーン・ブジョーンヌイ将軍の訪問を受けてから翌日の出来事であった。
  • 沈没後は浮揚させ修復する計画が検討されたが、ドイツ軍の執拗な空襲で計画は上手く進まず、艤装だけは取り外され駆逐艦オグネヴォイに流用された。
    44年8月にようやくタシュケントは浮揚されたが、損傷状態はあまりにひどく再生は不可能と判断され、戦後になって解体された。

*1 12.7mm、西側のM2重機関銃に相当する東側のベストセラー重機関銃
*2 バルト海へ至るにはスペインの目先を通過しなければならなかった