No2 扶桑/元ネタ解説

Last-modified: 2020-05-11 (月) 00:49:58
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型扶桑型戦艦
正式名称扶桑(ふそう)
名前の由来扶桑 日本国の別称の一つ、中国の伝説に登場する東方の果てにある巨木のこと
古代の東洋人はユートピア(仙境=蓬来山)にあこがれ、それと同時に、太陽が毎朝若々しく再生する生命の樹(扶桑樹)にあやかろうとしたという古代の神仙思想によって育まれた幻想である。
古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願っていたとされている。
起工日1912.3.11
進水日1914.3.28
就役日(竣工日)(1915.11.8)
除籍日(除籍理由)1945.8.31(スリガオ海峡海戦/英Battle of Surigao Strait 1944.10.25沈没)
全長(身長)205.13m→212.75m(1935)
基準排水量(体重)29330英t(29800.7t)→34700英t(35256.8t)(1935)
出力宮原式石炭重油混焼缶24基Brown Curtis式蒸気タービン2基4軸 40000shp(40554.8PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶4基ハ号艦本式重油専焼缶2基艦本式蒸気タービン4基4軸 75000shp(76040.2PS)(1944)
最高速度22.5kt(41.67km/h)→24.5kt(45.37km/h)(1935)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/8000海里(14816km)
→16.0kt(29.63km/h)/11800海里(21853.6km)(1935)
乗員1193~1637名
装備(建造時)45口径四一式35.6cm連装砲6基12門
50口径四一式15.2cm単装砲16門
53cm魚雷発射管6門
装備(1941)45口径四一式35.6cm連装砲6基12門
50口径15.2cm四一式単装砲14門
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x10(5x2)
艦載機x3
装備(1944)45口径四一式35.6cm連装砲6基12門
50口径15.2cm四一式単装砲14門
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x95(8x3+16x2+39x1)
九三式13.2cm機銃x10(10x1)
艦載機x3
装甲(1935)舷側:101~305mm 甲板:34+31mm 砲塔:115~280mm バーベット:280mm 艦橋:305mm
建造所呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市)
船体・艤装等の解説
  • 帝國海軍が建造した扶桑型戦艦1番艦。イギリス海軍が1910年度計画で超弩級戦艦オライオン級の建造に着手した。これに対抗するべく、帝國海軍も超弩級戦艦の建造を計画。
    第三次海軍拡張計画に基づき、1911年度予算で建艦を実施する事にした。最新鋭超弩級戦艦は第三号甲鉄戦艦として呉工廠に発注され、1912年3月11日に起工。
    3万トン級の巨体をドックで建造するのは世界初の試みであった。
    1914年3月28日の進水式で扶桑と命名(官房第三〇一号)され、伏見宮博恭が立ち会った。扶桑の進水を記念して、当日に限り呉郵便局及び呉工廠で記念スタンプが用意された。
    また金属顕微社が建造中の扶桑を見学したいと申し出ており、5月12日にその許可が下る。アメリカが建造する新型戦艦の動向と金剛型との連携を念頭に置きつつ、建艦を進めていく。
    8月24日の全力公試で23ノットを記録。そして同年11月8日に竣工し、呉鎮守府へ編入された。
    扶桑は日本国の美称*1で、当時の人々がどれだけ期待を寄せていたかが分かる。
    艦内神社には、山城と同じく石清水八幡宮が奉祀されている。1934年に皇大神宮を合祀。2014年頃まで艦内神社が不明瞭だったらしい。
  • 準弩級の薩摩型、弩級の河内型に続き国内で設計、建造された超弩級戦艦。イギリスに発注した巡洋戦艦金剛の要素を取り込み建造された国産戦艦であった。
    主砲の35.6cm砲はイギリス製であり、完全な国産ではなかったりする。
    当時は試行錯誤の時代で日本初の超弩級戦艦なだけに、かなりいびつで欠陥もある設計になってしまっている。完成した当初は世界最大の戦艦で、唯一3万トンを超えた大型艦だった。
    日本艦初の45口径四一式35.6cm連装砲を6基装備。これは金剛と比叡に装備されている英ヴィッカース社製の45口径毘式36cm連装砲を改良したもので、金剛型を遥かに上回る火力を獲得。
    アメリカが建艦中のニューヨーク級やネヴァダ級の火砲に対抗すべく、議論の末に35.6cm砲の装備と相成った。大口径砲の駆動には水圧が用いられたが、
    砲塔内の換装室では水圧管のパッキングが悪いとすぐ漏水。雨合羽を着て作業しなければならなかった。
    艦首にはクリッパー型を採用し、両舷にフレアを持つ。船型は長船首楼型で、前甲板が最上甲板、副砲のある甲板が上甲板にあたる。前甲板両舷側面は副砲の射界を確保するため細くなっていた。
    主錨は左右に1基ずつあり、右に副錨1基を持つ。最上甲板は厚さ76mm・幅229mmのチーク材張りだった。水平防御は上甲板が34mm、下甲板が30mmで、ニッケル鋼を使用。
    舷側防御は水線部が305mm、その上部が203mm、上甲板から最上甲板にかけてが152mm、水線部の下は102mmとなっている。魚雷防御用に舷側に二層の隔壁による水中防御区画一層を持っていたが、
    区画が大きめで、防御力不足の欠点を抱えている。主機はブラウン・カーチス式高中低圧直結蒸気タービン2組、主缶は宮原式混焼水管缶24缶を用いる。
  • 帝國の期待を背負い、竣工した扶桑。ところが、いざ運用してみると数々の欠陥が露呈。竣工後間もない1916年5月31日から翌日にかけて生起したジュットランド沖海戦でイギリス戦艦は上部からの攻撃に弱い事が露呈。
    そのイギリス戦艦を手本にして建造された扶桑はいきなり弱点が判明してしまったのである。
    同時期の列強の戦艦に劣る点も多く、失敗作の烙印が押された。金剛型に盛り込まれたイギリス設計のノウハウを経験不足から活かせなかったのだ。
  • 防御力は特に問題が多く、主砲を分散して配置したため、艦の全長の約半分が被弾危険箇所とされた程。
    金剛型より古い河内型に似た装甲配置を取ったため、舷側装甲の一番厚い部分(305㎜)は上下幅が狭く、また大改装時に喫水が深くなってしまったため、最大厚の大部分が水面下に位置する事になってしまった。
    一次大戦で問題になった水平装甲も、金剛型や伊勢型のような増強はされなかった。ただ、速度を我慢する代わり水平装甲を増した改装試算は存在していたので、不可能ではなかったようだ。
    また副砲は15cm砲を採用しているが、人力装填のため体力に劣る日本人には耐え難いものだった。
  • 目に付くのが大改装後の異様に高い艦橋。違法建築と揶揄されるほど異質な存在感を放っているが何故か外国人には受けが良い。大和型の次に人気があるとか・・・。
  • また主砲を発射すれば爆炎が照準を妨げたとか爆炎で上部構造物が焼かれ、機器が損傷するという欠陥まであったとされるが、爆炎が照準に影響を与えたことは他の戦艦でも見られ、
    就役からそれほど経っていない演習などで好成績を収めたこともあることから爆風の影響はそれほどでもなかったとする意見もある。
    独自設計の主砲揚弾機は故障や性能不足が指摘され、続く伊勢型では金剛型の模倣となった。(薩摩型や河内型でも発生していた問題であり、後に長門型の初期砲塔でも同様の問題が発生する。国を問わず故障しやすい部位ではある)
  • 建造当初は戦艦として高速な部類であったものの、時代とともにより高い速力が求められるようになると、ボイラー室を挟む形で砲塔を配備してしまったため、改装で機関を増やす事が出来ず低速に甘んじる結果となってしまった。
    改装後の最大速力24.7ktのみを見れば決して遅いとは言えないが、運動性には問題があり、大きさの割に旋回圏が広く、転舵による失速も大きく、艦隊運用では問題になったと言われる。
    扶桑型が示した欠陥は教訓として後の造船に活かされた。
  • 扶桑型に対抗するため、アメリカ海軍はペンシルバニア級戦艦を建造したと言われている。
  • 大正期に造られた艦であるため、厠は英国式を採用。当時一般的ではなかった洋式トイレが準備された。当時は和式が主流で、使い方が分からない人が続出したとか。
    しかし兵員用トイレには仕切りや扉が一切無く、便器だけが並んでいるというプライバシー皆無の物だった。霧島からようやく扉と仕切りが追加された。
大正初期〜中期・連合艦隊旗艦へ
  • 竣工した時には既に第一次世界大戦が勃発していたため、国際情勢は緊迫したものになっていた。1915年9月1日から、栄えある連合艦隊旗艦を務めたが10月14日に一旦退く。
  • 1915年12月4日、横浜沖で大正天皇の即位を奉祝する御大礼特別観艦式が挙行された。竣工したばかりの最新鋭艦扶桑には指揮官が座乗。
    主力艦20隻で構成された第一列を率い、勇壮な姿を見せ付けた。午後12時50分、御召艦となった扶桑に天皇陛下が乗艦し、午餐された。
    天皇陛下は夕方に東京駅へと戻られたが、艦隊は留まった。夜間にはイルミネーションの光が灯され、押し寄せた観衆の目を楽しませている。当日のみ観艦式を描いた絵葉書が配られた。
    この日は風が強く、将校2名と東京帝国大学医科の片山教授が落水したり、フ式イ11号機が強風にあおられ墜落するなど事故が続発した。
  • 12月13日、戦艦摂津、河内、安芸とともに第一艦隊第一戦隊を編成。艦長に向井弥一大佐が着任した。
    竣工して間もない頃は他に35.6cm砲を持った艦がおらず、同型艦が就役するまで30.5cm砲の戦艦を組まざるを得なかった。
  • 1916年4月9日、佐世保を出港して中国沿岸部を警備。当時、敵国であったドイツの植民地が中国にあったのだ。29日、呉に帰投。8月17日、相模湾で昼間射撃訓練に従事。
    9月初頭、陸奥湾に回航され、連合艦隊ともども青森港に停泊。最新鋭の軍艦と、江戸時代から使われてきた和船が同居する光景が写真として残されている。
    同月6日、夜間射撃訓練を行う扶桑に対し訓示が行われた。同年10月1日から22日まで再び連合艦隊旗艦になった。その間の10月13日、夜間射撃訓練に従事している。
  • 1917年1月25日、海軍大臣より扶桑の前部第一船倉甲板の酒保倉庫を増設する許可が下りた。扶桑最初の強化となったのは方位盤照準装置の装備だった。
    戦艦榛名が試験的に運用し、扶桑にも装備される事になったのだ。これを前マスト観測所に装備。
  • 1918年2月27日、台湾の馬公を出撃して再び中国沿岸を警備。ドイツ軍に睨みを利かせる。3月3日に佐世保へ戻った。
    7月22日、暴風が吹き荒れる徳山湾にて、軍艦河内の遭難者を救助するべく兵備品取扱主任主計長代理飯田源三郎が毛布を準備して救難活動を行っていた。
    しかし強風で毛布9枚が吹き飛ばされ、亡失。飯田主計長代理はこの事を報告し、経理部の秋山衣糧科長が報告書をしたためた。
    同年11月11日にドイツが連合国に降伏したため世界大戦は終結。扶桑は予備艦となった。
  • 1919年、前マストの下部探照灯台の上にフラットを追加し、発射指揮所と探照灯追尾式管制装置を装備した。
    同年8月1日、第一戦隊に復帰。第一次世界大戦中に起こったロシア革命を脅威に感じた日本政府は海軍に「ウラジオストクやソビエト沿岸の警備にあたれ」と命令。
    任務に従事するため扶桑は8月29日、館山を出撃。ウラジオストク沿岸の警備を実施した。9月27日、小樽へ帰投。10月22日、皇太子殿下が扶桑に来艦。
    扶桑座乗のまま、翌23日から27日まで行われた特別大演習に参加された。10月28日には観艦式に参加している。
  • 1920年8月12日、弾薬や火薬を積み込むため、職工を増員。演習中に長門がプロペラを損傷したため8月23日より臨時旗艦となっている。9月18日まで旗艦を務め、その座を退いた。
    その間の8月29日、シベリア出兵を支援。ソ連沿岸の警備に従事した。
  • 1921年、扶桑の主砲を35.6cmから40.6cmに換装する計画があった。もし実現していればネルソン級と同等の火力が得られたが、実行はされなかった。
    3月3日、欧州を外遊される裕仁皇太子を乗せた御召艦香取と伴走艦鹿島が横浜港から出発した。長門、扶桑、そして仏軍艦デストレーが見送りとして追随。
    「万歳」の声が響き、奉送する国民の列は浦賀方面まで途切れる事無く続いた。
    5月18日、出渠の際に20番浮標(ブイ)と接触し艦体を破損。すぐに入渠させられるという不幸に見舞われている。
大正後期〜昭和初期 軍縮条約と改装
  • 1922年2月、ワシントン海軍軍縮条約が締結。これにより新しい戦艦が造れなくなった帝國海軍は、既存の戦艦を強化する方針を固める。
    同年、扶桑を始めとする主力艦艇に潜水艦と飛行機に対する防護設備を施そうとする海軍省と、難色を示す大蔵省が議論した。
    改装費用は6000万円(当時)。大蔵省は「当分戦争は起こらない」とし、改装費用の捻出を渋った。一方の海軍省は「戦争はいつ起こるか分からない」として一度に18隻を改装するのは不可能でも
    少しずつ主力艦を改装していくべきだと主張した。後に改装が施されている所を見るに、大蔵省が折れたようである。
    漢那大佐が扶桑艦長に着任。沖縄の中城湾に寄航し投錨、上陸している。
     
  • 1923年9月6日から22日にかけて、関東大震災の救援活動を開始。震災時、扶桑は大阪に停泊していて被害を免れた。未曾有の被害を受けた帝都と臣民を救うべく、扶桑は立ち上がった。
    大阪の第四師団司令部が得た情報によると、東京では明かりが悉く消滅している事からロウソク10万本とマッチ1万箱が要求されていた。そのうちロウソクは、大阪を出発する扶桑によって運ばれる事が決定。
    同時に東京・横浜方面の被災地から救護班及び医療品の要請を受けており、大阪医大から医員や薬剤師が急派された。23名を1班とし、3班が被災地に向かった。そのうちの1班と20日分の医療品が扶桑に乗艦。
    そして被災者のための食料品(乾麺麭二十五万貫、玄米五千石、白米三千石)を積載。最後に東京出身の海軍兵学校の生徒を乗せた。9月4日午後11時、大阪を出発。品川港へ向かい、被災地に送り届けられた。
    9月14日午後、横須賀軍港に停泊中のフランス艦アルコルより、フランス大使館向けの食料品を受領。品川湾に寄港し、陸揚げされた。その後、食料品は輸送されたが、包装を破いて抜き取られた形跡があった。
    • 同年に観測用のカック一式係留気球を搭載。
  • 1924年、呉工廠で近代化改修を受ける。この工事ではマストの改修と主砲指揮所、主砲測的所、高所測的所の新設及び増設を実施。無線通信能力を強化するため後部マストも延長された。
    7月22日、皇太子殿下が横須賀軍港に来訪。逸見埠頭から扶桑に乗り込み、午前11時に出港。2日かけて江田島に向かい、24日午前9時に入港した。その後、皇太子は海軍兵学校を訪問している。
    同年9月6日午前6時、廃艦となる戦艦安芸を標的とした射撃訓練を開始。扶桑は無人の安芸を曳航して館山を出港。野島崎沖南20マイルの地点に向かった。
    間もなく死を迎える安芸に対し、扶桑や射撃艦、観測艦は登舷礼を以って見送った。この日は天候が悪く、視界不良であった。扶桑は晴れ間を探して移動し続けた。
    そうこうしているうちに予定の時刻を過ぎてしまった。午後4時50分、ようやく射撃訓練が始まった。射撃を行うのは戦艦長門と陸奥。砲火による世代交代が行われようとしていた。
    4分後に初弾が命中。その30秒後には2発目が命中した。安芸は傾斜を始める。開始から14分30秒が経った頃、危険防止のため扶桑は曳索を切断して退避。17分で安芸は沈没した。
    こうして廃艦を用いた貴重な射撃訓練は終わった。記録を撮るため、観測艦には記録映画班5組、写真班2組、撮影用飛行機2機が用意されていたという。
    ここから得られた情報が、後に九一式徹甲弾の開発へと繋がって行くのである。
    9月下旬から10月中旬にかけて、海軍大演習に参加。扶桑は摂政宮殿下が乗艦される御召艦となり、演習の最後を飾る大接戦を御親閲遊ばされた。
  • 1926年1月15日、海軍省より特務艦摂津の艦載水雷艇1隻を、5月まで扶桑に貸与するよう命令が下る。理由は扶桑の艦載艇が破損、沈没したからだったそうな。
    同年、8サンチ単装高角砲4門を艦橋構造物両舷に追加。
  • 1927年5月13日、扶桑艦載のオエルツ式高速内火艇を長門に譲渡する事になる。燃料を満載にした上で、引き渡された。同月20日、艦上簡閲点呼のため扶桑に呉海兵団所属の軍楽隊が乗り込んだ。
    巡航中、派手に演奏していた。ちなみに31日までの臨時配備だった模様。7月15日、予想外に消費したエ式五十独電球などの補充許可が下った。8月6日には受話器が補充されている。
    10月30日、横浜沖で大演習観艦式が挙行された。扶桑は主力艦が連なる第一列に参加し、その威容を誇示した。
  • 1928年の改修では、副砲指揮所のフラットを拡大し上部見張り所や高所測的所を新設。マスト中段に戦闘艦橋と下部見張り所を増設し、前トップマストを廃止。
    また探照灯4基を二番煙突前面に移動させている。そして舷側の魚雷防御網展張用ブームは撤去された。
    3月29日、現用数では訓練の際に不足するため十二糎双眼望遠鏡と八糎双眼望遠鏡の貸与を呉海軍軍需部に申し出る。認許が下り、間もなく補充された。
    12月4日、横浜沖で御大礼特別観艦式が挙行。去年同様、第一列に連なり、勇壮な姿を見せた。12月7日、戦技演習や教練通信等で必要として一号無線電話機を求めていたが、これは却下された。
  • 1930年4月12日、横須賀で二回目の改修を受ける。この改装は第一次改装と呼ばれ、大規模なものだった。バルジの増設と機関部の改修、使用弾を八八式から九一式に変更した事による揚弾・装填装置の改良、
    砲塔動力を水圧式から空気圧式に変更、砲塔上面装甲厚を150mmに強化する等をした。主砲方位盤は九四式を装備、司令塔上に近接防御用の13mm4連装機銃1基を増設している。
    また煙突は1本にまとめられ、防雨対策が施された。両舷にあった探照灯は全て撤去され、代わりに12.7cm高角砲を装備。
    後部艦橋にはスプリンター防御を施し、主砲及び副砲予備指揮所に九四式方位盤照準装置と12cm観測鏡を搭載した。扶桑に積載されていた気球装備はこの改装の際に撤去されている。
    扶桑には水偵が搭載されていたが露天係留だったため、後部主砲を撃つ時は水偵を水上か空中に退避させておかないと爆風でバラバラになってしまう欠点があった。
    水上機用の油圧式エレベーターが装備されたが、昇降速度が遅い欠陥を持っていた。
    主缶は全て後部缶室に収容されたため、余った前部缶室は燃料タンクに流用された。缶の増設が出来ないため7万馬力に留まった。
    扶桑のみ後部マストの基部を撤去しており、これが山城との相違点となった。
    当時は満州事変の勃発により情勢が不安定になっており、有事の際はすぐ出撃できるよう工事を区切っていた。このため工事の期間が延び延びになっていたとか。
  • その後も改装は続き、1932年9月26日には呉工廠で連装高角砲と機銃を装備。改修の甲斐があって速力は24.5ノットに微増。1933年5月に完工。
    諸元は基準排水量3万4500トン、戦備排水量4万トン以上、出力7万馬力、速力24.5ノット、重油搭載量5465トン、航続距離は16ノットで11800海里、発電容量1350kW。
     
  • 1933年1月10日、陸上にあった扶桑用の貯蔵予備品を山城に流用。3月31日、扶桑に17m級の新型艦載水雷艇が配備された。同年11月15日、高松宮宣仁親王が海軍大尉として扶桑分隊長に着任。
    性格に難があったようで、他の乗員に難癖を付けていたりしていた。彼の日記によると、軍艦扶桑應援歌という歌があったらしい。
    6月1日、増減速装置の搭載が決定。館山に寄港した際に扶桑にも取り付けられた。
    8月25日、横浜沖で大演習観艦式が挙行された。扶桑は第五列に連なった。10月4日、戦艦榛名に搭載されていた電気冷蔵庫の1つが扶桑に配備される事になった。
    11月末日、海軍工廠が製作した新造工作機械が到着。元々扶桑にあった工作機械と交換する形で搭載。古い工作機械は呉工廠が引き取っていった。
    12月末、主機械衛滞蒸気管装置及び巡航「タルビン」嵌合用蒸気管装置の改造が行われた。
  • 1934年1月15日頃、缶外部掃除用蒸気噴射器装備が支給された。1月24日、日本光学工業株式会社の社員が見学に訪れる。月末には機械室清水取入管装置の一部を改造。
    同時期に海軍工廠が購入したアルカリ度・塩分測定器を貸与されている。5月10日、扶桑の重心査定公試を呉工廠で行う事になった。予算は1000円(当時)。結果は5月25日までに提出するよう求められた。
    6月29日に行われた演習では、扶桑の目の前で駆逐艦深雪に衝突されて沈没する事故が発生した。
    8月25日、株式会社北辰電機製作所の人員が扶桑に便乗。理由は九一式探信儀の機能低下の原因を探るためであった。調査中、扶桑は横須賀を出港。室蘭へ向けて航行した。
  • 同年9月より扶桑のみ大改装を実施。いわゆる第二次改装である。防御面の改良、主機の改装、主砲仰角の引き上げ、航空兵装の追加、射程距離増大、艦尾7.3m延長等の工事が行われ、より強く生まれ変わった。
    同時に前部缶室を改造して、水上機を3機搭載できるようにしている。
    • これらの改装によって艦橋がジェンガの如く積み重ねられていき、あのいびつな姿となった。ジェンガと化した艦橋は前鐘楼と呼ばれている。
      外国からも奇異の目で見られ、仏塔のように見える事からパゴダマストと言われたとか。艦橋の天辺は海面より50メートル以上もあり、日本戦艦最大の高さとなった。
      また全長11メートル級の精巧な模型が作られ、海軍兵学校の扶桑講堂に展示された。
  • 低速と罵られる扶桑だが、24ノットの速力で艦隊機動を行える戦艦部隊は大日本帝國とイタリアにしか無かった。当時としてはこれでも高速だったのである。
  • 1935年2月20日、扶桑副長菊池邦二郎が戦艦扶桑の由来について上層部に問い合わせた。その回答は「東海中に在りと云ふ大なる神木、転じて東方日出処にある神仙国即ち我が日本国の異称とす」。
    4月15日、扶桑艦内で赤痢患者が発生。169名が同日中に呉海軍病院に搬送された。7月29日、機関科倉庫新設を呉海軍工廠長に認可され改築工事を受ける。
    10月11日、雑用石炭庫を機関科主倉庫に改造。続いて16日、前部無線電信室及び第一無線電話室の通風装置を改正。19日、後部注排水管制所隔壁及び防音装置を新設。
    25日、飛行科倉庫の通風装置を改正した。11月8日、予算200円で速力通信器を改装。
昭和初期〜大東亜戦争開戦前 軍縮条約脱退へ
  • 1936年1月15日、大日本帝國はロンドン海軍軍縮条約を脱退。戦力の増強を図るべく、旧式戦艦に更なる魔改造を施すようになっていく。
    2月12日、従羅針儀と海面台間伝声管を新設。戦艦榛名も同様の工事を受けている。同月22日、予算550円で兵員烹炊室の装置を増設。
    そして2月26日、二・二六事件が勃発。陸軍の青年将校とその配下の部隊がクーデターを起こし、要人らが襲撃を受ける。斉藤予備役海軍大将や高橋大蔵大臣、渡辺陸軍大将が死亡した。
    これ対し昭和天皇は断固として武力鎮圧を命令。17時、宿毛湾に停泊していた扶桑ら第一艦隊は反乱の渦中にある帝都へ向かう。
    翌27日、帝國海軍は大海令第一号を発し、主力艦艇は東京湾へ緊急配備。お台場沖に到着し長門、山城、榛名とともに反乱戦力に睨みを利かせた。
    反乱軍が鎮圧されない場合、遺憾ながら国会議事堂に向けて砲撃を放つ予定だったという。手元には陸戦隊も準備されていた。
    陸軍は2万人の兵力を以って反乱軍を包囲。28日午後5時8分に出された「奉勅命令」を盾に降伏を迫り、29日に反乱軍が投降した事で事態は収束した。
    4月13日、寺島水道を出発。中国の青島方面で警戒任務に就いたあと、台湾の基隆やアモイで行動。8月7日に馬公に帰投した。9月14日、秋季大演習に向けて訓練を行う。
    10月29日、神戸沖で特別大演習観艦式が挙行された。扶桑も参列し、記念として扶桑の絵葉書が販売された。11月12日、測深儀室と転輪羅針儀室、中部発電機室等通風装置を改良。
    12月1日、呉警備戦隊に編入されて練習艦となる。
  • 1937年2月25日、呉工廠で大改修を受ける。25mm機銃の増設や艦尾の補強等が行われた。荒天時に波をかぶり、使用不能になる第一・第二副砲を撤去している。翌年3月21日に出渠。
  • 1938年に小改装を受け、前檣楼測距儀を九四式10メートル測距儀に換装した。
  • 1939年3月22日、鹿児島を出港。支那事変が続く北支方面で活動し、4月2日に寺島水道に帰投した。
  • 同年12月15日、予備艦となりまたまた大規模改修を受けた。応急注排水装置の新設、前マスト上部に防空指揮所の配置、航空兵装の後部への移設等が行われた。
    1940年の改装ではマスト頭頂部付近に防空指揮所を新設し、高角双眼望遠鏡6基と機銃射撃装置2基を搭載。三番砲塔周辺の航空兵装を撤去し、艦尾右舷に呉式二号五型射出機を、
    左舷に電動式クレーンを装備。新鋭機の零式水上観測機を載せた。戦艦で飛行機格納庫と昇降機を備えていたのは、扶桑型と伊勢型、そして大和型のみであった。
    開戦直前に磁気機雷への対策として舷外電路*2が追加され、1941年4月、工事完了。
    速力は24ノットと鈍足であったが、扶桑と同期の旧式米戦艦群は21ノット程度しか出なかったため大して問題にされなかったらしい。
    そもそも大和型戦艦や翔鶴型空母の建造で、扶桑に回せる予算が最早残っておらず、欠陥を残したまま出師せざるを得なかった。
    • 1940年12月から翌1941年1月にかけて、新兵が艦務実習のため乗り込んでいた。厳冬の中、新兵たちは係留されている扶桑の甲板を清掃する。
      陸の水や井戸水を使ってモップをこするのだが、あまりの寒さに水はすぐ凍ってしまう。ゆっくり動かしているとモップまで凍ってしまう始末である。
      更にその上を裸足で歩かなければならず、新兵の辛い思い出となっている。
      一方、海水は湯のように温かかったという。
      実習中に1週間の休暇が出され、帰郷する事が出来たのが唯一の慰めであった。休暇を終えて艦に戻ると、一列に並んで医務室へ直行。下半身裸となり、ゴム手袋をしている軍医の触診を受けた。
  • 1941年8月18日、海兵団より新兵約100名が乗艦。翌日から1ヶ月間の新三等兵教育が始まった。艦橋を始め、主砲、副砲、高角砲、倉庫などを見学し、艦内早回り競争を以って教育は完了。
    新兵たちは艦内の要所に配備されていった。訓練は日増しに厳しくなっていき、10月中旬からは別府湾で航空機の雷撃の標的艦となった。これはあの真珠湾攻撃に向けての訓練だった。
    発射訓練が終わると、扶桑のボート部員が魚雷回収に出発。日没頃まで探すのが通例だったとか。
  • 開戦が秒読み段階になっていく11月3日、艦隊の殆どが呉軍港に集合。その夜から、一個艦隊もしくは一個戦隊ずつ出港していった。
    危険物や私物、内火艇までもが陸揚げされ、毎日弾薬に信管や傅火薬を付けて常時発砲できるように準備をした。
  • 戦艦は国を代表する顔だけあって、訓練や規律は非常に厳しかったとされる。しかし妹は「鬼の山城」と呼ばれていたが、何故か扶桑に関しては何も無かった。
    • 一方で、鬼の扶桑と呼ばれていたとする資料もある。
昭和16年、昭和17年 大東亜戦争開戦
  • 1941年12月8日、運命の太平洋戦争を迎える。開戦時、第一艦隊第二戦隊に所属していた。扶桑は南方作戦には参加せず、真珠湾攻撃支援の名目で柱島を出撃。空母が損傷していた時は曳航する役目を負っていた。
    開戦日の昼食頃、真珠湾攻撃成功の報が扶桑にも伝わり支援の必要性が無くなった。同月11日、本土へ向けて反転。13日、柱島へ戻った。
    乗組員の功績評価は「功労甲」であった。支援という名目で出撃したが、実際は勲章が目当てだったらしい。
    12月下旬、真珠湾攻撃から戻った機動部隊を出迎えるため出港。柱島に帰投すると、訓練に明け暮れる日々が続いた。
    実戦に出る事は無かったが、それでも警戒態勢につき半年間ほどは上陸許可が下りず、乗員や便乗の少尉候補生らは窮屈な思いをしていた。
     
  • 1942年2月11日、扶桑から6名の乗員が退艦。彼らは砲術学校へ入学した。21日、呉工廠で主砲身の換装を行った。25日に出渠。
    4月18日、日本本土初空襲を行った米機動部隊を追撃するため出撃したが、鈍足が祟って結局敵を捕捉出来なかった。そもそもこの出撃は海軍の面子を保つためだったと言われている。
    4月22日に横須賀へ帰投。その後、ミッドウェー作戦に参加するため、艦隊の集結地点である柱島へ回航。投錨する。
    蒼龍加賀、霧島、比叡、榛名、日向などの大型艦が戦艦大和を囲むように停泊し、扶桑もその輪に加わった。眼下には多くの内火艇が行き来していた。
    5月29日、ミッドウェー作戦参加のため柱島を出撃。その陣容は「太平洋の真ん中で観艦式をやる」と称された。
  • そして初陣として6月5日のミッドウェー海戦を迎える。主力部隊の一員として戦艦大和と肩を並べて出撃、アリューシャン列島南方で敗走する敵艦隊を殲滅するはずだったが、戦闘が生起せず、何も出来ないまま味方空母の壊滅を知る。
    翌6日、第24駆逐隊と合流するも台風に巻き込まれる。扶桑は、駆逐艦に「荒天のため速力を12ノットに減速する」という信号を送った。
    一方、駆逐艦の方は僅か2ノットしか出せず、嵐の中でも平然と航行する戦艦を羨ましがったとか。風速40mの強風に、10m以上の波が艦を襲う。
    6月7日、嵐は収まった。しかし第24駆逐隊とは離れ離れになってしまった。無線連絡を取りつつ、踵を返す。6月17日、何とか横須賀に帰投した。
  • 9月4日から5日間、呉工廠に入渠しているが、どう改良されたかは不明。11月15日より標的艦兼少尉候補生の乗艦実務練習艦となる。激戦が続く前線に出る事無く、内地で過ごす。
    • 内地で待機する扶桑に優秀な士官は充てられず、肺病上がりだったり能力的に問題がある者ばかり乗り込んでいたという。
  • 南太平洋海戦終結後、第二航空戦隊の司令で猛将の角田覚治中将は「隼鷹をガダルカナルに投入して制空を行うので、戦艦群(扶桑を含む)を飛行場沖に居座らせて徹底的に砲撃しろ!」と
    連合艦隊司令部に迫ったという。しかし動かす油が無いと一蹴されてしまい、さすがの角田中将も意気消沈した。実際、トラックには大型の備蓄施設が無かったのだ。
昭和18年 演習艦として
  • 1943年1月15日、訓練艦の任を解かれる。4月1日、連合艦隊は昭和十八年度戦時編成となった。第二戦隊(長門、扶桑、山城)は訓練用に使われる事となる。
    理由は低速戦艦は第一線での使用に耐えないが、対空兵装を画期的に強化すれば将来使えない事も無いので、その機会が来るまで予備兵力として瀬戸内海方面に配備するのが最適と判断されたからだった。
  • 同年6月1日、鶴岡大佐が艦長として就任。前任の古村大佐は戦艦武蔵の艦長に異動となった。7日、鶴岡大佐が扶桑に到着。
  • 6月8日、霧が包む柱島で停泊していた扶桑は戦艦陸奥の爆沈事件を目の当たりにする。陸奥と扶桑は約1000メートルしか離れていなかったが、幸運にも被害は無かった。
    扶桑は長門に対し、「陸奥爆沈ス。一二一五」と無電を打った。この電文を受け取った長門座乗の第一艦隊司令部の参謀たちは一気に青ざめた。
    そしてすぐさま柱島在泊の全艦艇に「陸奥に関する発信やめ」と緊急電を放った。陸奥の沈没は極秘とされ、以降は陸奥に関する一切の発信が禁止された。
    • 戦艦陸奥は、戦前から臣民に親しまれてきた帝國海軍の顔であった。その艦が突然死したと知れ渡れば、国内外に計り知れない悪影響を及ぼす。
      たった三日前の6月5日には山本五十六司令の葬儀が執り行われており、士気の低下を避けるためにも陸奥の死は隠さなければならなかった。
      大本営は陸奥爆沈の事実を隠蔽するため、徹底的な工作を行った。事故から一日経った6月9日、ありもしない空戦をでっちあげ中國新聞の朝刊に戦果を公表。敵機撃墜80機、62機を撃破炎上と綴った。
      17日には防諜意識を高める名目で、流言飛語に迷わされないよう新聞で呼びかけている。沈没の「ち」でも言えば、すぐ憲兵に連れて行かれる有様であった。
      8ヵ月後、遺族に戦死公報が届いたが、死因は曖昧にされていた。徹底した隠蔽工作により、国民や遺族が陸奥の爆沈を知ったのは戦後の事だった。
      1946年11月22日に放送されたGHQ製作のラジオ番組「眞相はかうだ(真相はこうだ)」で、横須賀市在住の女性が陸奥の最期を尋ねた。その時に返ってきた答えで初めて国民は陸奥の最期を知ったのだった。
  • 爆発を目撃した扶桑は救助艇を派遣。未だ浮いていた陸奥の後部から生存者を救出している。戦艦長門や呉鎮守府はこの爆発を敵潜水艦によるものと判断、警戒態勢を取った。
    扶桑乗員の献身的な救助活動により約150名が救出された。しかしどの救助者も爆風で臓器がやられていたのか、100名ほどが翌朝までに息を引き取った。
    扶桑の鶴岡艦長は陸奥艦内の状況を「窃盗が頻発している」と証言し乗員の自殺説が浮上したが、結局のところ原因は分からずじまい。
    この日は艦務実習を行うため、土浦航空隊が呉軍港より到着。長門、陸奥、扶桑に分乗した。陸奥には約100名が乗艦していたが全員死亡した。
    • 爆沈した日の朝、陸奥の艦長三好大佐は友人の鶴岡艦長を訪ね、扶桑にやって来ていた。昼食を勧める鶴岡艦長の誘いを、「艦を動かす予定があるから」と断り、陸奥へと戻った。
      悲しいことにそれが彼の命運を分けてしまった。爆沈後、三好大佐は遺体となって発見された。艦長室で昼食を取っているところで死亡したようだ。
      6月17日午後4時45分、三好大佐の遺体が引き揚げられ、扶桑に搬送。同艦の軍医長が検視を行った。死因は異常な高圧とガスであった。
      爆発時に出来たであろう後頭部の打撲以外に外傷は無く、遺体は綺麗だと浜田潜水士は述懐している。
      彼の葬儀は柱島に近い無人島、続(つづき)島で行われ、荼毘にふされた。軍の要請で祭壇作りに駆り出された親子がいたが、「ここに来た事を話してはいけない」と口止めされたという。
      陸奥乗員184名の遺体が続島に運び込まれ、生存者たちが火葬し続けた。鶴岡艦長も立ち会い、かつての友人の遺骨を拾っている。
  • 同年7月、長門とともに航空隊の演習艦となる。18日、呉工廠で二一号対空電探の装備と近接対空装備の強化を実施。また戦訓から、上甲板以下の舷窓は全て閉められた。
    1942年秋、第三次ソロモン沖海戦にて、舵取機室が浸水して身動きが取れなくなった戦艦比叡は放棄された。この対策として防御力が不十分な扶桑に対し、舵機室と舵柄室に対20cm砲弾防御を施す事になった。
    工期の延長や排水量の増加を避けつつ、コンクリート壁を追加。舵機室と舵柄室を別室にして独立した通路を新たに設置した。7月24日、工事完了。
    開戦時より舵取機の応急用にディーゼル駆動の油圧ポンプ増設が求められていたが、これは実現に至らなかった。
  • 連合艦隊よりトラック諸島へ進出するよう命じられた扶桑は、8月17日に瀬戸内海を出発。23日、トラック諸島に到着した。
    アメリカ軍は最前線に5隻の戦艦を投入してきており、少しでも火力で優位に立つべく扶桑も前線基地へ送られたのである。とはいえトラック島でもやる事は同じで、航空隊の爆撃目標といった訓練艦的役割だった。
  • ミッドウェー海戦で空母4隻を失った後の航空戦力補強策の1つとして既存戦艦の航空戦艦化が計画された際、扶桑型もその候補に挙がった。
    扶桑の改装は呉工廠で行われる予定だったが、1943年6月に中止。結局は伊勢型戦艦のみ改装が行われ、航空戦艦として改装されることもなかった。
    理由としてはコスト及び、新兵の訓練艦として既に使用されていた事が挙げられる。もっとも、その伊勢型も搭載する航空機がなかったせいで航空戦艦として活躍することはなかったのだが……。
    • 一応、扶桑にも航空機が搭載されていた。しかし山城と違って実験に使われる事は無く、大正13年に設置された砲塔上の滑走台もすぐに撤去されたため写真すら残っていない。
      本格的な航空兵装を装備したのは大改装のあとで、飛行長以下要員が配備されたのも1934年以降だった。
  • 1943年9月17日、連合艦隊は艦隊決戦を仕掛けるべく強大な戦力を準備。米艦隊を求めてトラック諸島を出撃した。一連の行動はZ作戦と呼称されたが、扶桑は泊地にて待機を命じられた。
    原因は鈍足だったからと思われる。また燃料の消費が激しいとして大和も待機させられている。Z作戦は空振りに終わり、連合艦隊は貴重な重油を消費してしまった。
    10月17日、トラックを狙った空襲から逃れるため、マーシャル諸島へ退避。19日にブラウン島に到達した。危険が去ったあとの23日、ブラウン島を離れてトラックに戻った。
〜昭和19年9月 米軍の侵攻の激化
  • 1944年に入ると、戦況はより悪化した。帝國海軍の潜水艦基地クェゼリンが米軍の攻撃と上陸を受けた。ここが陥落すれば、トラック諸島が敵の爆撃圏内に収まる。
    古賀連合艦隊司令長官はトラックに進出中の戦艦部隊の後退を決意。サイパン、西カロリン、父島列島に新たな防衛線を張る事にした。
  • 1944年2月1日、古賀司令長官よりパラオへの移動を命じられる。扶桑は長門等の主力艦とともにトラックを脱出。間もなく米軍の本格的な侵攻が始まり、ルオット、ナウル、ブラウン、クェゼリンが相次いで陥落。
    トラック諸島も大空襲を受けて再起不能となった。危ないところで何とか虎口を脱する事が出来た。逃避行の末、4日にパラオへ入港したが、パラオもまた安全な場所ではなかった。
    2月16日、連合軍の支配域から離れたシンガポールへ避難し、タウイタウイ泊地で訓練を始めた。だがその東南アジア方面ですら米軍の魔手が迫っており、ダバオで活動中の扶桑を米潜レイとガーナードに発見されている。
  • 2月25日、第二戦隊は解隊される。長門が第一機動艦隊に編入され、低速の扶桑型2隻では存在意義が無くなってしまうからだった。
    2月23日に軍令部総長が上奏した文によると、扶桑と山城の現装備では機動艦隊編入は不適当とされ、転属が認められなかったという。
    明治36年から41年続いてきた伝統ある第1艦隊は、こうして終焉を迎えた。宙に浮いてしまった扶桑は単艦で連合艦隊所属となる。3月、人事異動で扶桑乗員1名が新造艦大鳳に転属した。
    続いて3月8日付の作戦指導腹案で、扶桑はリンガ方面に残留する事が決定された。連合艦隊の迎撃作戦ことZ作戦には不参加となり、事実上の戦力外通告を受けた形となった。
    4月8日、シンガポールに寄港。13日より第一船渠に入り、艦底清掃を受けた。前線での勤務が約7ヶ月続いた扶桑は、本来内地に帰還して整備を受けるのが普通だが、今の帝國海軍にそんな余裕は無かった。
    外地最大のドックを持つセレター軍港で、疲れを癒すしか無かった。
  • シンガポールは連合軍の勢力圏から離れてはいたが、決して安住の地ではなかった。4月19日、スマトラ島北部のサバンがイギリス東洋艦隊の空襲を受け、扶桑ら在泊艦艇に警戒配置が命じられた。
    西方約1000km先では、イギリス海軍が大いに暴れていたのである。幸い、敵は扶桑の存在に気付く事無く引き上げていった。
  • 1944年5月30日午前11時、渾作戦参加のため第五戦隊や第十駆逐隊等とともにタウイタウイを出港。小沢艦隊総員の見送りを受け、ダバオに向かった。扶桑は差し詰め米軍の目を引き付ける囮役だった。
    だが、米潜カブリラとブルーフィッシュが扶桑のタウイタウイ出港を目撃。翌31日、妙高羽黒とともにダバオへ向かっていたが米潜ガーナードに追跡される。
    雷撃を試みようとしたが、どうしても絶好の位置につけず、見逃した。しかし米潜に詳細を報告され、扶桑の動きは完全に筒抜けとなってしまった。
    6月1日、ダバオに集結したあと青葉の艦上で陸海軍合同作戦会議が開かれた。ビアク島守備隊からの報告によると、敵艦隊は戦艦3隻を擁しているらしい。
    渾部隊の戦艦は扶桑ただ1隻のみ。劣勢は免れないとされた(実際は戦艦なんていなかった)。この時、羽黒乗り組みの士官は、扶桑を見てこう述べている。
    「大正6年(正しくは4年)竣工のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった」。
    同日中、特設運送船北上丸より生鮮食品の補給を受ける。
    扶桑らの動きを察知したアメリカ軍は、米豪混合の第7艦隊に迎撃を命じる。しかしサイパン島攻撃の投入戦力は変わらず、扶桑の身を張った囮は大して役に立たなかった。
  • 6月3日に出撃。大型艦が作戦に参加すると聞き、駆逐艦春雨では安堵の声が上がっていた。ところが第一次渾作戦は誤報により中止。
    20時25分に発令された中止命令に従い、夜中の間に扶桑は護衛を残して引き返してしまった。結局、残った駆逐艦だけで作戦を続行した。
    しかし駆逐艦も突入に失敗し、増援はビアク島に届かなかった。これには増援を渇望していた第二方面軍も不満を露わにした。
    司令官の阿南大将は「出発時は扶桑を盾にするとか言っておきながら、何たるザマだ。煮え湯を飲まされた」と日誌に綴っている。
    帰投中の6月4日、ハルマヘラ東方でB24爆撃機4機の空襲を受けて対空戦闘。ここで初めて実弾を発射した。翌日、何とかダバオへ帰還。
    以降、司令部は駆逐艦を使った隠密輸送に切り替え、たった1回の出撃で扶桑の出番は無くなってしまった。
    6月8日、重巡羽黒や妙高等とともに活動していると、護衛の駆逐艦風雲が敵潜水艦を探知。本隊から分離して対潜掃討を実施した。
    爆雷を3個投下した後、扶桑らと合流するべく高速で航行し始めたが、そこへ米潜ヘイクの魚雷2発を喰らって沈没。この一件は最早東南アジアが安全でない事を示していた。
  • 6月13日午後12時45分、あ号作戦に参加する補給船団がダバオに到着。30分間の待機を命じられた。扶桑はその船団に対し、燃料補給を行った。
    本来、扶桑が補給を受ける立場なのだが、何故かその逆を指示されたのだ。機動部隊の行動、特に燃料補給に遅延があってはならないと第一機動艦隊の戦闘詳報に記されていたため、
    この補給は船団の活動を円滑にするものだったと思われる。だが、これによって扶桑の作戦参加は殆ど不可能になった。
    6月17日、あ号作戦のためタウイタウイ泊地に停泊。戦艦大和や武蔵、空母瑞鶴や大鳳といった大型艦が集い、決戦の時が迫っている事を如実に示した。
    ところが泊地の外では米潜水艦が遊弋・監視し、外洋での訓練が全く行えない有様であった。対潜掃討に向かった駆逐艦も5隻が沈められ、窮屈な思いをする。
  • 6月19日、マリアナ沖海戦に参加するが、鈍足が足を引っ張って前線ではなくマララグ湾での待機を命じられた。勝敗が決した20日、マララグを出港し、同日中にダバオへ帰投。
    • 多くの戦艦が、マリアナ沖海戦(あ号作戦)に向けて対空兵装の強化が行われたが、後方での待機を命じられていた扶桑型には行われなかった。
      代わりに得られた戦訓から徹底的な不燃対策が施された。居住区等からカーテンや木材といった可燃物を陸揚げし、リノリウムも廃止。塗料を剥離して不燃性塗料アートメタルベトンを使用。
      これに伴って居住区の簡略化が行われた。日常の不便や整備手入れのしにくさを忍んで、下方区画の水密性を強化した。更に赤外線味方識別装置2基、新たに搭載した。
  • 7月1日、護衛の駆逐艦3隻を伴ってダバオからタラカン島へ回航。その途中で米潜セロに発見され、追跡を受けるが振り切った。
    7月7日、サイパン島守備隊が玉砕。サイパン島は米軍の手に落ちた。だが連合艦隊や昭和天皇はサイパン島の奪還に熱心だった。
    連合艦隊の参謀、神重徳は「扶桑型2隻と特別陸戦隊2000名を貸してほしい。2隻を突っ込ませて島に座礁させて固定砲台にし、島を奪還する」という運用法を本気で考え、各方面を説いて回った。
    ところが成功の打算無しとして一蹴された。神参謀は一度引っ込んだが、今度は大和を突っ込ませると言い出したとか。
  • 東南アジアに取り残された扶桑であったが、内地に帰還するため第四駆逐隊の護衛を受けて出港。航行中の7月14日夜、豊後水道南方で米潜ポンフレットに発見される。
    ポンフレットは浮上していたため、いち早く扶桑側が気づき探照灯と砲撃を浴びせた。戦艦に砲撃されて驚いたポンフレットは急速潜航し、慌てて6本の魚雷を放ったが、全て外れてしまった。
    雷撃に失敗した事で、扶桑は紙一重で助かった。翌15日、呉に到着。約11ヶ月ぶりに内地へと帰還した。この活動期間の長さは日本戦艦随一である。
  • 8月2日、呉工廠に入渠。マリアナ沖海戦で得られた戦訓によって一三号対空電探を装備。前マストには25mm三連装機銃2基、連装機銃2基、単装機銃6基が増設され、
    煙突周辺に配置されていた25mm連装機銃を三連装に更新した。8月14日に出渠。この姿が扶桑の最終型となるのだが、写真が殆ど残っておらず詳細は闇の中。
  • 呉での整備を受けた後、9月10日に山城とともに第二戦隊を編成。独立混成第二五旅団の兵員を乗せ、9月23日に呉を出撃。伴走者として山城、雪風、磯風、浦風が追随した。
    しかし翌24日、米潜プライスに発見され追跡を受ける。宝島沖南南東の地点で魚雷6本を撃たれ、敵はスクリューに損傷を与えたと判断した。が、扶桑の損傷は無く、航行に支障は出なかった。
    26日、ルソン海峡で再び米潜の追跡を受ける。敵はかつて扶桑に追い払われたポンフレットであった。潜航しつつ扶桑に接近し、あと15kmまで迫ったが、どうしても追いつけなかった。
    このため昼間にも関わらず浮上し、全速力で追いすがる。近海に進出していた米潜スヌークとコビアに情報を送信し、包囲網の形成を試みるポンフレット。
    だが追跡劇は突如として終わりを告げた。敵味方不明の潜望鏡が確認され、ポンフレットは慌てて潜航した。安全を確認し、再浮上するも既に逃げられてしまった。
    ポンフレットはまたしても扶桑を取り逃がしたのだった。10月2日にシンガポールへ入港、雄鳳丸から給油を受ける。2日後、リンガ泊地に回航。訓練を始めた。
昭和19年10月〜戦没 レイテ沖海戦

この泊地は潜水艦の侵入が困難で、かつパレンバンの油田から重油を供給できたため燃料不足に泣かされる事は無かった。

  • 10月17日、米軍の奇襲部隊がレイテ湾に橋頭堡を築いた。湾内の島嶼に上陸してから数分後、大本営は捷一号作戦を発令、生き残っていた艦艇をかき集めて迎撃を命じた。ある物は何でも使う精神である。
    扶桑も例外ではなく、西村中将率いる艦隊に編入。フィリピンは本土と資源地帯を結ぶ要衝で、是が非でも死守しなければならない場所であった。
    • 元々速力が重視される作戦なだけに、扶桑は不参加になるはずだった。だが、扶桑を最前線に引っ張り出したのは西村中将であった。
      海軍総力を挙げての決戦に、扶桑が参加しないのはおかしいと考えていたのだ。西村中将は司令部に、扶桑型の火力を説いた。もし突入に成功すれば、35.6cm砲の威力は絶大であると。
      低速で足手まといになると言うのなら、単独でも突入させるという西村中将の強い意思に司令部も折れ、作戦参加の許可が下った。
      西村艦隊の艦載機は全て陸上基地に供出され、扶桑も例外ではなかった。唯一最上のみが艦載機を保持、その目的は扶桑型の護衛だった。栗田司令の計らいだったと言われる。
  • 翌18日午前3時、迎撃のためリンガを出撃。リオー水道通過までは単縦陣を組む事になっていた。
    第二水雷戦隊、第四戦隊、第五戦隊、第一戦隊、第十戦隊、第七戦隊、第三戦隊、そして扶桑が属する第二戦隊の順で闇夜の海を航行する。
    整然と陣形を保ち、12ノットの速力でブルネイ泊地へと向かう。全ての艦が無灯で、信号も出さない隠密航行である。
    午前6時にリオー水道を通過し、南シナ海へと出る。ここは本土と比べて2時間の時差があり、午前4時と同じ暗さが広がっていた。旗艦愛宕より「対潜警戒を厳とせよ。第1警戒航行序列となせ」との命令が下る。
    単縦陣から対潜用の警戒航行序列に陣形を変え、無風の海域を行く。黎明時は最も敵潜水艦の脅威が増す。どの艦も緊張と不安が支配していた。扶桑が所属する西村艦隊は、ちょうど殿の位置にあった。
    旗艦愛宕より「速力21節となせ」との命令が下り、艦隊は一気に速度を上げた。続いて「一斉回頭之字運動始め、X法!」の命令で、ジグザグ航法を取る。
    情報電報によるとここ数日、敵潜水艦の動きが活発化しており、その数も増やしている。油断ならない時間が続く。午前8時30分、太陽が昇る。最も危険な時間帯は過ぎた。艦隊は警戒を解く。
    この間にも、レイテ島で行われている陸戦の様子が緊急通信の形で続々と入ってくる。戦況は逼迫しているようだった。
    19日、何事も無い航海が続く。艦隊に追随するトビウオが左右で飛翔しては逃げていく。南の強烈な太陽光は甲板を容赦なく熱した。
  • 10月20日、マッカーサー率いる米軍の大部隊がフィリピンに上陸。同時にキンケード艦隊も出現した。
    同日、扶桑ら迎撃艦隊は目的地であるブルネイ泊地へ迫っていた。先頭を走る軽巡矢矧を嚮導艦とし、針路を割り出していた。港の入り口には対潜水艦用の防御機雷があり、通過の際は正確な情報が求められた。
    無事、ブルネイ泊地に到着。後続の艦も次々に入港し、各々指定の錨地へ向かっていった。投錨後、扶桑は油槽船より燃料補給を受けた。港内には40隻以上の艦が停泊していた。
    「これが最後になるかもしれない」という思いが胸にのしかかる中、扶桑艦内で晩餐を開いた。この晩餐では、日吉の司令部に立てこもって指揮する連合艦隊司令部に対する苛立ちが吐露された。
    神重徳参謀の「敵を撃破するのに、この一戦で連合艦隊全ての戦力をすり潰しても悔いは無い」という発言に対し、「俺たちはバナナの叩き売りだ」と自嘲する者も現れた。
    艦内には、死の恐怖から来る重苦しい空気が渦巻いていた。申し訳程度の戦力で何処までやれるか、という後ろ向きな雰囲気も同居した。
    そんな中、西村中将は乾杯の席で明るく笑顔に振る舞い、心もとない戦力に不平不満を言わず、階級関係無く兵士たちに話しかけていた。
    これを見ていた小沢中将と栗田中将は、「西村は死ぬ覚悟だ」と感じたという。
  • 10月21日午前8時頃、旗艦愛宕から「指揮官参集せよ」の命令が下り、各艦の艦長及び参謀が短艇に乗って愛宕へ向かった。扶桑からは阪艦長が出向いた。
    そしてレイテ突入作戦に関する最後の調整、打ち合わせが行われた。扶桑にはスリガオ海峡からレイテ湾に突入し、橋頭堡を強襲する任務が与えられた。
    10月22日15時30分、第二戦隊はブルネイを出撃。誰にも見送られず、出港ラッパだけが鳴り響いていた。マニラから出発してくる第五艦隊と合流して西村艦隊となった。
    そしてミンダナオ海とスリガオ海峡を突破し、南からレイテ湾に突入する手はずだった。10月24日午前8時、ミンダナオ海に入る。敵の勢力圏を避けるため、北方に迂回して航行していたのだが・・・。
    間もなく哨戒のB-24に発見される事になる。
     
  • 24日午前9時頃、旗艦山城のマストに「敵機見ゆ」の信号旗が揚げられた。1機のB-24が艦隊上空を旋回していたのだ。それから十数分後の25分、スルー海で米機動部隊の空襲を受ける。
    エンタープライズに残っていた艦爆約20機と、機動第三群のデビソン隊が右後方より襲い掛かってきた。扶桑の35.6cm主砲が吼え、他の艦も対空砲火を浴びせた。
    敵は最後尾にいた扶桑に攻撃を集中させる。扶桑の左舷後方で時雨が必死に弾幕を張っていたが、苦も無くグラマン24機が急降下爆撃を仕掛け、後甲板に被弾する。
    その影響で搭載機が炎上し、すぐさま射出投棄された。ガソリン貯蔵庫に引火したものの大事には至らず鎮火に成功。資料によっては致命傷を負ったとするものもあるが、扶桑は未だ健在であった。
    やがて敵機は、戦果を得る事無く引き上げていった。西村艦隊は空襲前と変わらず進撃を続ける。
    旗艦山城より手旗信号で「今後も敵の空襲が予想されるに付き、各対空警戒を一層厳にせよ」と指示を送ってきた。しかし、これ以降空襲が行われる事は無かった。主力である栗田艦隊を叩くため、デビソン隊が引き抜かれたからだ。
    日没後の午後7時、シキホール島南方で最上と駆逐艦3隻を分離し、斥候に向かわせた。時同じくして連合艦隊司令豊田大将から激励の電文が届いた。「天佑を確信し、全軍突撃せよ」。
  • その後、リマサワ島に巣食う魚雷艇と交戦し、最上隊が戻ってきた。ところが扶桑はこの最上を敵艦と誤認し、砲撃を開始する。闇夜だった事が災いした。
    最上の後部に命中弾を出したところで最上が識別灯を付け、「ワレフソウ」と返信し同士討ちは終わった。誤射された最上の乗員からは、「あれは扶桑じゃなくてクソー」と罵られたとか。
    日付が変わって25日午前1時30分、スリガオ海峡に向かって北上。30分後、敵の魚雷艇30隻が出現し、雷撃を仕掛けてきた。放たれた魚雷は、Mk13航空魚雷。
    炸薬量は272kgと、当たれば致命傷は免れない。ただちに魚雷へ照射砲撃が行われ、回避運動を実施。一糸乱れぬ回避により命中弾はゼロだった。
    扶桑と山城は副砲を以って反撃し、戦闘は16分間続いた。敵の魚雷艇3隻が撃沈され、残りの魚雷艇は慌てて撤退。第一波を撃退した。
    午前3時7分、今度は敵の駆逐艦2隻が出現し、交戦を開始。照明弾に照らされた西村艦隊は、後続の志摩艦隊からも視認された。交戦中であると知り、「扶桑部隊頑張れ」と応援するのだった。
    吊光弾が上げられ、その光を頼りに駆逐艦メルヴィンが雷撃を行った。他の敵駆逐艦も一斉に魚雷を放ち、実に27本もの魚雷が伸びて来た。
    1本目の魚雷は扶桑の右舷中央に吸い込まれ、被雷。速力が低下し艦隊から落伍し始めた。傾斜が始まったが、反対舷に注水が行われ復元。が、すぐに2本目が右舷に命中し艦内の電源が失われる。
    火薬庫への浸水が始まった事で第二砲塔が使用不能となった。この時点で艦首は沈下しかかっていた。一気に満身創痍と化した扶桑だったが、執念の如く前進をやめなかった。
    駆逐艦時雨が護衛に回り、しばらく守ってくれていたが、やがて無事な艦とともにスリガオ海峡の奥へと消えていった。
  • 1944年10月25日午前3時45分、弾薬庫に引火し船体が真っ二つに折れた。防御力の低さが最悪の形となって現れてしまったのだ。この爆発により乗員の大半が死亡したと言われる。
    その後もしばらくは浮いており、続いて突撃してきた志摩艦隊に燃え盛る残骸を視認されている。*3
    志摩艦隊には、先に突撃した西村艦隊が米軍を撃破したと何故か伝わっていた。燃え盛る残骸は米艦艇のものだと思われていたが、扶桑だと気付くと総員青ざめたという。
  • 当初は海面に多くの生存者が漂っていたが、サメに襲われたり上陸した先にいた原住民に殺害される等して殆ど全滅。
    そして扶桑は艦首が先に沈没、残った艦尾も午前5時20分頃に米重巡ルイスビルの砲撃で沈んでいった。沈没する時ですら未だにスクリューが回っていたと伝わる。
    このスリガオ海峡海戦が、人類史上最後の戦艦同士の砲撃戦となった。西村艦隊は壊滅したが、迎え撃ったアメリカ艦隊は弾薬を撃ち尽くしてしまった。
    非常に脆弱な状態をさらけ出していた訳だが、突入するはずの栗田艦隊が謎の反転をしてしまい扶桑の犠牲は水泡に帰した。
    • 一部では「アメリカ艦隊(第七艦隊)は弾薬が尽きて無力化していたので突入すれば勝てた」という俗説が根強く囁かれているが、近年の研究ではこの説は完全に否定されており、
      半藤一利や谷光太郎といった提唱者たちの考証不足から来た全くのデタラメとされている。
      • そもそも第七艦隊が弾薬を撃ち尽くしたというのが大間違いである。アメリカ側の資料で第七艦隊の弾薬量は各戦艦・弾種ごと下一桁に至るまで確認できるが、
        スリガオ海峡海戦後には戦艦6隻合計で徹甲弾1,352発、榴弾1,513発が残っていることが確認できる。さらに徹甲弾48発+榴弾1,000発の補給を受けているので、
        海戦前(6艦合計で徹甲弾1,637発+榴弾1,602発)と比べても徹甲弾は8割以上残っており、榴弾に至っては1.5倍に増えている。
        巡洋艦の砲弾や駆逐艦の魚雷も1戦こなす程度には十分な量が残っていることが確認されており、弾薬切れで無力化されていたという事実は存在しない
        なお半藤らがこれらの資料を確認・検証した痕跡はない。
      • 一方の栗田艦隊はサマール沖海戦後の時点で戦艦4、重巡2、軽巡2、駆逐8(他3隻が救助作業で別行動中)まで減少していた。
        さらに多くの艦が大小の損害を受け、重巡は残弾が怪しく、駆逐艦は燃料不足が目立ち始めていた(史実の反転後も燃料切れ寸前のギリギリな状態で帰還している)。
        加えて将兵は連日不眠不休の戦闘で疲労困憊しており、サマール沖海戦でも敵艦種や命中弾などを誤認しまくっていた。一言で言って艦も兵もズダボロである。
      • さらに待ち受けるアメリカ軍は第七艦隊だけではなく、サマール沖海戦や特攻で損害を受けたタフィ3以外にも2群の護衛空母部隊が存在しており、200機を超える艦載機が攻撃準備を整えている。
        他の部隊も急行中であり、仮に栗田艦隊が突入を継続したとしても、レイテ湾入口に到達するまでの2時間以上の間にこれらの部隊から反復攻撃を受けるのは確実である。
        戦艦「武蔵」を撃沈されたシブヤン海海戦と同等以上の規模の空襲を、上述のようにより悪化した状態で受けることになるため、大損害は確実。この時点で全滅すら普通にあり得る。
        少なくとも駆逐艦はこれらの対空戦闘+回避運動で帰りの燃料を確実に使い切るため全滅(燃料切れによる座礁or漂流)が確定する。
      • 百万歩譲って空襲を切り抜けたとしても、レイテ湾入口で上述のように万全な状態の第七艦隊に捕捉されることは確実視されている。
        戦艦6、重巡4、軽巡4、駆逐29という2倍以上の規模の大部隊を相手に、ただでさえズダボロの上に空襲でさらに消耗した栗田艦隊が勝てる道理は全くない。
        かろうじて生き残った艦がフラフラの状態でたどり着き、万全の状態で待ち構える第七艦隊に虱潰しにされ殲滅されたことは想像に難くない。
        加えてアメリカ軍にのみ昼は航空支援、夜は魚雷艇の援護+レーダーがあるため、日本側はまともな射撃すら覚束ない。まぐれ当たりが出れば御の字だろう。
        すーぱーうるとらちょーへーき戦艦大和が無双ゲームの如く活躍して大勝利できると思ってる人は火葬戦記の読みすぎである
      • 無量大数歩譲って第七艦隊を突破出来たとしても、既に上陸から5日も経過しており、主要な人員・物資の揚陸はとっくの昔に完了している。
        上陸部隊は既に艦砲の届かない奥地まで侵攻済み、物資も海岸付近まで伸びるジャングルに隠蔽済みなので、空になった輸送船を多少潰せるのが限界である。
        それらを潰したところで戦果にすらならず、後は湾内に閉じ込められたまま後方から殺到するアメリカ艦隊に1隻残らずなぶり殺しにされる末路が待っている。
      • 以上のように、栗田艦隊が反転せず突入したところで待っている未来はまともな戦果もない犬死に同然の全滅しかない。
        むしろ史実時点で反転したからこそその後の輸送作戦などに護衛戦力を残せたわけであり、突入していたら却ってフィリピン陥落を速めたことになっただろう。
        扶桑の犠牲が水泡に帰したことは事実だが、現実問題としてその犠牲を無駄にせずに済む状況を作ることは最早誰にも出来なかったのである。
  • 米軍に救助された10名を除き、阪艦長以下1620名全員が死亡。1945年8月31日、除籍。書類上は終戦後まで生きていた。扶桑の遺骸は未だ発見されていない。
    • 2017年12月7日、ポール・アレン率いる調査隊がスリガオ海峡で、扶桑や山城などとみられる、5隻の船体を海底で発見したと発表した。
 
余談
  • 戦艦扶桑には、後に有名となる軍人が下積みとして乗り込む事が多かった。扶桑は様々な人間模様を見て、著名人を輩出してきたのである。
    扶桑の乗組員であった著名な兵員たち
    • レイテ沖海戦で初の特攻隊を率いた関行男大尉が、海軍兵学校卒業後に乗り込んだのが扶桑であった。乗艦していたのは僅か5ヶ月とそれほど長くは無かった。
    • 紫電改を駆った343空の戦闘301飛行隊長、菅野直大尉もまた、1941年11月15日に海軍兵学校を卒業。同期20名とともに佐伯湾に停泊する扶桑に乗り込んで約半年間乗務した。
      扶桑時代は右舷機銃群指揮官に据えられた。「候補生は艦内禁酒」の規則を破っていたが、従兵に口止めしていたため上官にはばれなかったとか。
    • 竣工して間もない1915年には、後の海軍大将である井上成美大尉が最年少の分隊長として乗り込んでいた。
    • 同年6月、河瀬四郎が乗務。後に少将へ出世し、第五艦隊や第二南遣艦隊の司令となる。
    • 1917年8月17日、少尉候補生の佐藤康夫が乗艦。その後、順調にキャリアを重ねていき、敷波の艦長も務めた。大佐に昇進し、第九駆逐隊の司令として開戦を迎える。
      1943年3月2日、ラエへの輸送作戦に参加。ダンピール海峡で空襲に遭い、ビスマルク海海戦が生起。この戦闘で乗艦していた朝潮が撃沈され戦死。戦死後、中将へ特進した。
    • 1920年5月31日、少尉候補生だった羽田次郎が約3ヶ月間、乗務していた。大東亜戦争末期、大佐に昇格していた彼は沖縄戦の指揮を執っていたが、1945年6月13日に自決する。
      • 同時期、城英一郎少尉候補生が扶桑に乗艦。経験を積み重ねていき、開戦時は大佐にまで昇格していた。マリアナ沖海戦の敗北を受けて、「航空機による体当たり攻撃しかない」という結論に至り、
        小沢中将や豊田大将に特攻隊の構想を上申。この構想は航空本部の大西総務部長にも伝わり、神風特攻隊の創設を後押ししたと言われている。
    • 同年6月1日、山本親雄少尉候補生が乗艦。彼は航空畑を歩み、参謀や総務部の課長を務めた。開戦後も事務方に徹し、最前線に出る事はなかった。
      戦局が悪化し、陸海軍内で特攻の動きが見え始めると反対の立場を取った。先述の城大佐とは逆の意見である。しかし特攻での戦果が挙がると、不本意ながら同調するようになり
      前線部隊の熱意に押し切られる形で回天や桜花などの特攻兵器を研究する。そして少将の階級で終戦を迎えた。終戦後は蒋介石に招聘され、中国の軍事顧問となった。1980年11月に死去。
    • 同年12月1日、戦艦扶桑分隊長心得として横井忠雄が乗艦。日独伊三国軍事同盟賛成派の先鋒で、戦時中は在独海軍武官を務めたが反ナチスに転じたため伊8潜で帰国させられた。
      最終的に海軍少将にまで上り詰め、戦争を生き抜いた。
    • 1923年に海軍兵学校を卒業した扇一登少尉が初めて乗務したのが扶桑だった。各艦を渡り歩き、海軍大学校を卒業。海南島を巡って汪兆銘政権との交渉も行った。
      そして中佐で開戦を迎える。1943年、伊29で訪独。駐独大使館付海軍武官補佐官となる。1944年9月からはスウェーデンに出張し和平工作を進めた。
      1945年5月、ドイツが降伏したためベルリンを脱出。スウェーデン国内で敗戦を知る。戦後、第二復員省総務局員となり敗戦処理。その後は資材屋を設立して余生を過ごした。
    • 1924年7月18日から11月9日まで、あの米内光政が艦長を務めていた。1940年1月16日に内閣総理大臣となるも半年後に辞職。海軍大臣を務め上げ、海軍大将の地位で1945年12月1日に退官。
    • 1926年頃、舞鶴海兵団から浅谷太市という力士が扶桑に転属。力士として海軍内で名を上げ、扶桑乗組員から化粧回しが贈られたという。「軍艦扶桑乗組員一同」の文字が刻まれていた。
      昭和2年に故郷へ帰り、大関に上り詰めたが終戦直前の1945年7月15日に44歳の若さで死去した。
    • 1927年12月1日には、後に参謀のやべーやつとして名を馳せる神重徳が分隊長に着任。無謀な輸送作戦を強行してダンピールの悲劇を引き起こしたり、
      かつての乗艦だった扶桑を奪取されたサイパン島に突っ込ませるというやべー采配をした。
    • 1935年11月、戦艦武蔵最後の艦長となる猪口敏平が砲術長として乗り込んだ。彼は砲術の神様と呼ばれるほど有能であった。翌年の1936年の砲術戦技でその才能を遺憾なく発揮。
      扶桑は格段に優れた成績を収めた。ちなみに彼が乗り込んでいる時に2.26事件が発生している。
    • 1942年11月、海軍兵学校を卒業した臼淵磐少尉候補生が最初に乗り込んだ艦が扶桑である。最期は戦艦大和に乗り組み、天一号作戦で米軍機の機銃掃射を受けて戦死した。
      文庫本「戦艦大和ノ最期」でその名が広く知られ、映画「男たちの大和」では登場人物に抜擢されている。死後、少佐に昇進。
    • 1943年11月15日、矢田次夫少尉候補生が扶桑に乗務。翌1944年3月15日に少尉へ昇進し、潜水艦畑を歩む。1945年1月8日、竣工したばかりの伊401に乗り組み、砲術長に命じられる。
      6月1日、大尉に昇進。そして嵐作戦中に終戦を迎える。戦後は復員業務に関わり、退官。続いて海上警備隊(後の海上自衛隊)へと入隊し、幕僚長まで務めた。
  • 軍艦扶桑の乗員は給料日になると、こぞって花札を打って賭博していた。とある二等機関兵が仕送りのため金を貯め込んでいると知るや否や、賭けに負けた乗員が金を借りに来た。
    二等機関兵は、トイチの高利貸しで彼らに貸し与えていた。その後、扶桑は大連に向かう。当時は第一次世界大戦中で、大連をドイツから奪っていたのだ。
    青島半島の軍港に停泊した夜、突如中国軍から砲撃を受ける。日清戦争の恨みを晴らすため、扶桑を攻撃する。すかさず扶桑は抜錨し、砲弾が届かない沖合いに退避すると
    敵の砲台がある青島山麓に向けて主砲を放った。巨砲を操作する砲撃手の肩を誰かが叩いた。振り向くと、二等機関兵の姿があった。手には差し入れのおむすびがあったが・・・。
    今日は集金日だったのである。「戦闘中だぞ」と言い放つも、取り立ては続く。渋々有り金を渡すと、領収書を差し出して二等機関兵は去っていった。
  • 扶桑が所属していた第二戦隊は出撃する事が殆ど無く、柱島にずっと停泊していたため柱島艦隊と揶揄されたとか。
    • 扶桑に乗艦した少尉候補生は日記にこう漏らしている。「扶桑は概ね柱島にあり、第一段作戦に赫々たる戦果を挙げた空母、巡洋艦に乗り込んだ同期が羨ましかった。
      そこへ憧れの重巡鈴谷に転勤となる。今日まで蓄積した力をいよいよ発揮出来る、張り切って着任す」。
  • 扶桑は日本初の国産超弩級戦艦だが、先代の扶桑も日本初の装甲艦だった。何かと日本初に縁のある名前である。
    • 民間にも扶桑丸という船が3隻あったが、全て座礁して失われている。3隻とも死因が一緒という偶然の一致であった。
  • 戦後、呉海軍墓地に沈没していった艦船の慰霊碑が次々と建立されていった。しかし生存者が殆どいなかった扶桑は、最大級の艦でありながら慰霊碑が建立されなかった。(生存者の手で建立される事が多かった)
    そこで名古屋在住の野原朴氏が各方面に呼びかけ、扶桑の関係者たちによってようやく建立された。
  • 欠陥が多い事で有名な扶桑だが、1943年に艦長となった鶴岡少将は「24ノットで戦闘行動が出来、全く問題無かった」と証言。
    他にも「26ノットの速力が出せ、陸奥や日向などと戦隊を組んで歩けた」と証言している。度重なる改装が結実したのだろうか。
  • 扶桑とは中国神話に登場する、東の果てに生えている神木の名前である。
    「扶桑」に関する中国神話

    山海経によると、この樹の根元には9つ、上には1つの太陽があるという。
    10個の太陽は毎日順番に1つずつ昇り、空を巡っていた。ところが尭(ぎょう)帝の時代、10個の太陽が一気に昇って大地が焼け焦げる事態が発生。
    そこで尭帝は弓の名手羿(げい)に命じて、9つの太陽を射落とさせた。すると9羽のカラスが落ちてきた(古代中国では太陽にカラスが住んでいると信じられていた)。
    褒美として羿は西王母から不老不死の薬を貰ったが、妻の嫦娥(じょうが)がそれを奪って月に逃走。ヒキガエルになったという。

  • 改装を受け続けていたため、「艦隊にいる時よりドックにいる時の方が多い」と罵られていた。
  • 山本五十六中将の下で、鯨肉をテーマにした艦対抗料理コンテストが行われた。扶桑以外にも赤城、霧島、金剛、伊勢、大鯨、間宮が参加。扶桑は鯨肉の紅葉焼きを披露した。
  • 四国南方の海上で行われた大演習。扶桑は御召艦として演習を遠巻きに観戦していた。そんな中、加賀より発進した3機の編隊が、雲の切れ目より扶桑型戦艦を発見。
    新田機はこれを敵方の旗艦山城だと思い、降下。演習用魚雷をぶち込もうとする。しかし相手は皇族を乗せた御召艦扶桑だった。御召艦だと示す金の菊の紋をメインマストに印していたが、
    新田機は気づかない。一早く気づいた援護の青木機は、新田機の前に出て必死に翼を振るが全く通じず。皮肉な事に、見事な雷撃体勢から放たれた演習用魚雷は扶桑に命中してしまった。
    これは御召艦雷撃事件と呼ばれ、当事者の新田大尉は謹慎を命じられた。
  • 戦艦扶桑より、岐阜県の村に向けて無料軍事郵便が出された。出された日は1944年10月24日。この翌日に扶桑は沈没することとなった。
  • 1944年10月25日、アメリカ潜水艦ハリバットは扶桑型戦艦を雷撃し、撃沈したと主張。しかし相対していたのは小沢艦隊でその正体は伊勢型戦艦、しかも命中していなかった。
    後に仕留めたのは初月と改めたが、これも間違いだった。初月は水上艦との砲戦で撃沈されていたのである。
  • 異説によると扶桑はスリガオ海峡海戦時、午前4時10分頃まで生き残り、山城沈没の15分後に沈んだとしている。死因は集中砲火による弾薬庫への引火らしい。
  • 慰霊祭に参加した、ある扶桑乗員の遺族は海面をずっと見つめ、「兄貴、来たぞ!」と叫んだ瞬間号泣した。そしてレイテ島の石を兄貴に見立て、「兄貴、一緒に帰ろうな」と持って帰ったという。

*1 中国の伝説で「東海の日の出づるところにある同根から雄木と雌木が生えた神木を扶桑と呼んだ」が由来となっている。
*2 第二次世界大戦開戦劈頭、ドイツ海軍はイギリス本土を磁気機雷で封鎖した。その対策としてイギリス軍が作り上げたのがこの舷外電路であった。出師準備の発令で帝國海軍のほぼ全ての艦艇に常備された。
*3 志摩艦隊は2つの残骸を確認すると、それぞれを扶桑と山城と判断した。実際はどちらも扶桑であった。