No205 デューク・オブ・ヨーク/元ネタ解説

Last-modified: 2020-10-24 (土) 23:29:57
所属Royal Navy
艦種・艦型キング・ジョージV世級戦艦
正式名称HMS Anson→HMS Duke of York (17)
名前の由来George Anson, 1st Baron Anson(1697-1762) イギリス海軍元帥 海軍大臣として海軍増強計画を推進し、対フランスの植民地での勝利に大きく貢献した。
→Duke of York イギリスの王族が有する公爵位 皇太子が存命中に限り、第二王位継承権を持つ男子に与えられる。
この艦が就役していた当時のデューク・オブ・ヨークは存在しない。現在はエリザベス2世の次男アンドルー王子がデューク・オブ・ヨークである。
愛称DOY
起工日1937.5.5
進水日1940.2.28
就役日(竣工日)1941.8.19
退役日(除籍後)1951.11(1957.5.17売却後解体)
全長(身長)227.1 m
基準排水量(体重)39150英t(39778t)
出力Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 110000shp(111525.7PS)
最高速度28.3kt(52.41km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/15600海里(28891.2km)
乗員1556名(1945)
装備(1945)14inch45口径Mk.VII四連装砲2基8門 連装砲1基2門
5.25inch50口径Mk.I連装両用砲8基16門
ヴィッカース2ポンド機関砲x88(8x8+6x4)
ボフォース40mm機関砲x9(2x4+1)
エリコン20mm機関砲x55(8x2+39)
UP 7inch20連装対空ロケットランチャー4基80発
艦載機x4
装甲舷側:5.4~14.7inch 甲板:5~6inch 砲塔:12.75inch(主) 1~1.5inch(副) バーベット:12.75inch 艦橋:3~4inch 隔壁:10~12inch
建造所John Brown and Company, Clydebank, Scotland
(ジョン・ブラウン社 スコットランド国ダンバートンシャー郡ウェスト・ダンバートンシャー州クライドバンク市)
  • キングジョージ五世級戦艦の三番艦。
    デューク・オブ・ヨーク(ヨーク公)とは伝統的に国王の次男に与えられる爵位で、ジョージ5世の次男アルバートが該当する。
    本艦の竣工時点でアルバートはすでに国王ジョージ6世として即位し、イギリス国民を勇気づける立派な国王であった。
  • 1941年11月に竣工したのち訓練を兼ねて翌月、首相ウィンストン・チャーチルを乗せてアメリカへ向かい、バミューダ島などを巡って帰国後本国艦隊に所属する。
    しかしこの旅の途中太平洋に展開していた二番艦プリンス・オブ・ウェールズの撃沈を知らされる。
  • 1942年にはスカパフローに配属されたが、すでにドイツ水上艦戦力はビスマルク沈没以降目立った活動ができず、したがって対する英国戦艦も大きく動くことはなかった。
    しかしそんなデューク・オブ・ヨークに試練が待ち受ける。
    • 時間を少し巻き戻して、1941年6月。
      ドイツはソ連との協定を一方的に破棄しソ連へ侵攻するバルバロッサ作戦を発令した。
      当初こそ破竹の快進撃を続けたドイツ軍であったが、ソ連軍が組織的な反撃と遅滞戦術を繰り返すようになるとその侵攻は鈍り、冬の訪れもあって最終的にモスクワ攻略はとん挫する。
      この戦いにおいて英米はソ連に援助物資を送ることを決め、8月ごろからせっせと輸送船団を北海航路で送りこんでいた。
      モスクワ攻略に失敗したドイツはソ連軍の反撃を撃退したことで、42年4月には第二次ソ連侵攻(ブラウ作戦)を発令する。
      それと同時にソ連への援助物資を運ぶ北海やインド方面の輸送船団を水上・水中艦の双方で攻撃し、ソ連の戦力を削ごうとした。
      さらに地中海でもイタリア・ドイツ軍が連動してきたアフリカで攻勢をかけ、イギリスは地中海と北海の量方面に注力する必要に迫られる。
  • こうしたドイツの動きにより北海の輸送船団はドイツ空・海軍の重要標的として激しい攻撃に晒されることになり、この護衛のためデューク・オブ・ヨークは出撃した。
    特に戦艦ティルピッツの出撃を考慮するとそれに対抗可能な速力と火力と防御力を兼ね備えているのは本級のみであった。
  • PQ12船団の護衛には成功するものの、PQ17船団は混乱もあり大きな損害を出してしまう。
    (PQ17船団はアメリカ海軍とも共同し、戦艦ワシントンや重巡ウィチタも参加していた。)
    その後地中海で大規模な船団護衛ペデスタル作戦があったこともあり、北海航路ではアメリカ軍護衛空母を借り受けてPQ18船団が発進、被害を出しながらもなんとか輸送を成功させた。
    北海の輸送船団を再編する傍ら、デューク・オブ・ヨークはジブラルタルへ向かいH部隊としてアフリカ北西岸への連合軍の上陸(トーチ作戦)を支援すると再び本国に戻る。
  • 1943年の正月はイギリスにとっては朗報だった。JW51B船団の護衛により戦闘艦艇には被害が出たものの、輸送船団を無傷で送り届けることに成功したのである。
    またこの作戦成功(ドイツにとっての大失敗)にヒトラーは激怒し、ドイツの水上艦艇解体命令を出すなどで混乱する。
    その間デューク・オブ・ヨークはイギリス国内で修理を受けた。
  • 1943年10月にはアメリカの空母レンジャーを主軸としてノルウェーにいるドイツ輸送船団への攻撃(リーダー作戦)を支援しこれを首尾よく成功させると、12月にはJW55B船団の護衛について出撃した。
    この船団を狙いドイツ海軍は汚名返上のためシャルンホルストを出撃させたが、悪天候の中逆探知を警戒してレーダーを使わず隠密での接近に固執したシャルンホルストはレーダー探知に引っ掛かり、軽巡洋艦の砲撃でレーダーを破壊されてしまう。
    悪天候の中目視に頼らざるを得なくなったシャルンホルストはしかし、ここで後退しても汚名を濯げないとばかりさらに危険を犯して輸送船団捜索に当たるが、デューク・オブ・ヨークはレーダーでその艦影をとらえ、距離11000mまで接近してから砲撃を開始した。
  • シャルンホルストは砲撃を受け一目散に逃走を開始し、これを追撃するデューク・オブ・ヨークもレーダーマストを吹き飛ばされながらの砲撃戦となったが、シャルンホルストは最大でも3ノットほど早い脚を生かして距離20000mまで稼ぎ、逃走成功かに思えた。
    だがデューク・オブ・ヨークの主砲は安定装置が付いた最新式であり、ビスマルク追撃戦で発生した故障を検討し十分に対策が練られ練度も抜群であった。
    20000mという荒天の中では驚異の長距離で放たれた主砲弾がシャルンホルストの機関部を直撃し、30ノットの船速は一時的に10ノットまで落ち込んでしまう。
    迅速なダメコンにより22ノットまで回復させたシャルンホルストだったが、その隙に突撃してきた駆逐艦ソーマレズ以下の部隊は主砲を浴びせられながらも雷撃を敢行。
    シャルンホルストの船足を止めると、追いついてきたデューク・オブ・ヨークらとさらなる砲撃が展開され、合計5時間余りの激闘の末シャルンホルストは北海に散った。
  • その後もデュークオブヨークは本国艦隊に所属し残る戦艦ティルピッツのもはや特攻しかないような出撃を警戒していたが、度重なる空母部隊の攻撃により無力化されると、45年には本国を出港してインドを回り太平洋艦隊に所属。
    日本の降伏調印式にもイギリスの代表艦艇の一隻として参加した。
  • 第二次大戦後は最新鋭戦艦の一隻であったことから本国艦隊に戻ったものの、51年には除籍され、57年に解体された。