No209 ミズーリ/元ネタ解説

Last-modified: 2022-12-23 (金) 21:50:22
所属United States Navy
艦種・艦型アイオワ級戦艦
正式名称USS Missouri (BB-63)
名前の由来State of Missouri アメリカ合衆国ミズーリ州
愛称Mighty Mo, Big Mo, The War Pig
モットーStrength for Freedom
起工日1941.1.6
進水日1944.1.29
就役日(竣工日)1944.6.11
退役日(除籍後)1992.3.31 1995.1.12除籍(真珠湾で記念館として保存)*1
全長(身長)270.4m
基準排水量(体重)45000英t(45722t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶8基General Electric式蒸気タービン4基4軸 212000shp(214940.4PS)
最高速度33.0kt(61.11km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/14890海里(27576.3km)
乗員2700名
装備(竣工時)16inch50口径三連装砲3基9門
5inch38口径Mk.12連装両用砲10基20門
ボフォース40mm機関砲x80
エリコン20mm機関砲x49
艦載機x3
装備(1983)16inch50口径三連装砲3基9門
5inch38口径Mk12連装両用砲6基12門
BGM-109トマホーク巡航ミサイル発射管8基32発
RGM-84ハープーン対艦ミサイル発射管4基16発
20mmファランクスCIWSx4
AAI RQ-2 パイオニア無人偵察機x5
装甲舷側:12.1inch 甲板:1.5~6.0inch 砲塔:19.7inch バーベット:11.6~17.3inch 艦橋:17.3inch 隔壁:14.5inch
建造所Brooklyn Navy Yard,Brooklyn, New York
(ブルックリン海軍工廠 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区)
勲章Combat Action Ribbon
Navy Unit Commendation
Navy Meritorious Unit Commendation
Navy E Ribbon(Wreathed Battle E device)
China Service Medal
American Campaign Medal
Asiatic-Pacific Campaign Medal(3 stars)
World War II Victory Medal
Navy Occupation Service Medal
National Defense Service Medal(1 star)
Korean Service Medal(1 silver star 5 campaigns)
Armed Forces Expeditionary Medal
Southwest Asia Service Medal(2 stars)
Navy Sea Service Deployment Ribbon(2 stars)
Republic of Korean Presidential Unit Citation
United Nations Service Medal
Liberation of Kuwait Medal

戦艦ミズーリについて

  • アメリカ海軍が建造した最終型の戦艦、アイオワ級の3番艦。
    「マイティ・モー」「ビッグ・モー」の愛称でも呼ばれている。
  • 艦名はアメリカ24番目の州、ミズーリにちなむ。
    当時の大統領であるハリー・S・トルーマンがミズーリ州出身であった事が選定の理由とされる。
    命名はトルーマン大統領の娘であるメアリー・マーガレット・トルーマンによって行われた。
  • アイオワ級は日本海軍の戦艦に対抗するべく建造された戦艦であり、サウスダコタ級と同程度の砲戦能力・装甲を持ち、
    加えて空母部隊に随伴できる高速力を持った33ノット級の速力を持つ戦艦として設計された。
    また、パナマ運河を通過するために船体の幅が大きく制限されている。
    アイオワ級が戦線へ投入される頃には戦いの主力は戦艦から空母に取って代わられた後であり、
    大戦中において日本の戦艦と戦う事は無かったが、空母艦隊に随伴できる高速戦艦として役割を果たしている。
    • 余談であるが、アメリカはアイオワ級の原型となる案を計画していた際、もう一つの戦艦設計案の計画を立てていた。
      速力はそこそこ程度の代わりに火力と装甲を強化した低速戦艦プランと、火力と装甲はほぼ据え置きで速力を追求した高速戦艦プラン。
      これを検討した結果後者がアイオワ級プランに発展したのであるが、前者が後にモンタナ級戦艦と呼ばれることとなるプランへと発展していった。
      が、海戦の主力は航空機と空母に取って代わられ、戦局は米軍優勢に傾き、もはや作る必要は無いと判断され、全艦建造中止となった。
      これにより、アイオワ級はアメリカ海軍が最後に建造した戦艦となった。
    • 理由として、アイオワ級が1938年末に海軍から建造承認が降りたのが対して、当時のモンタナ級は設計が難航していたこと。
      1940年中にアイオワ級の建造促進が決定されたこと、モンタナ級の最終設計の承認が下りた1941年には建造の優先度が低いので起工されなかったこと。
      そして1942年には大統領が「戦艦よりも空母を優先して建造せよ」と決定したこと等が重なっている。

太平洋戦争でのミズーリ

  • ミズーリはニューヨーク海軍工廠で1941年1月6日に起工、44年1月29日に進水、同年6月11日に就役した。
    アイオワ級最後の就役艦で、キャラハン大佐の指揮下に入り、太平洋艦隊に編入された。
    就役後の1944年11月11日、ニューヨーク沖で戦闘訓練を実施。18日にパナマ運河を通過し、12月24日に真珠湾へ到達した。翌1945年1月3日、真珠湾を出港。
    1月6日、最前線拠点のウルシーへ到着。ミッチャー中将から臨時司令部を継承する。そして2月16日、レキシントン(CV-16、二代目)を中心とする機動部隊の護衛として初めて実戦を迎えた。
    2月19日には硫黄島の戦いへと参加、日本軍の守備隊に対して艦砲射撃を実施し、日本軍機1機を撃墜している。
    その後もミズーリは日本本土攻撃に参加し、空母護衛や艦砲射撃を実施している。3月18日に南九州空襲を支援し、日本軍機を4機撃墜した。24日からは沖縄攻略戦に参加。
    4月1日午前、海岸に上陸した海兵隊を支援するため砲撃、日本側の反撃を頓挫させた。4月5日、徳島沖から戦艦大和率いる第二連合艦隊が出撃したとの報告を受けたミズーリは、攻撃に向かう機動部隊を護衛。
    翌日、大和は空母の艦載機によって撃沈された。
  • 沖縄攻略戦中の4月11日、ミズーリは日本軍の特攻攻撃により零戦1機*2が右舷甲板に突入、戦死者を出している。
    特攻機の燃料が引火して火災が発生したが、すぐに消し止められている。装甲の表面に少しの損傷を負っただけで、ダメージは殆ど通らなかった。
    この特攻機突入直前の様子はカメラで撮影され鮮明に記録されており(参考、外部リンク)、後年の特攻作戦を語り継ぐ資料写真として多くの資料等で取り上げられている。
    • この特攻機突入後、パイロットの遺体が40mm機銃座から回収されている。だが、下半身は無かった。
      当時のミズーリの艦長、ウィリアム・キャラハン大佐はこのパイロットを「名誉を以って自らの任務を全うした」と賞賛し、遺体を丁重に葬るよう命令した。
      一部乗組員からの反発もあったが、「死んだ敵兵は敵ではない」として艦長は譲らなかった。翌日、日の丸が書き足された星条旗で遺体を包み、弔砲を5発発射。海軍式の水葬で手厚く葬られた。
      これが戦艦ミズーリで行われた唯一の葬儀であった。キャラハン大佐は日本軍の攻撃で兄を失っていた。その上で手厚く弔ったのである。
      この時に負った損傷は修理されず、記念艦となった現在でもヘコみが残っており「カミカゼ・アタック・サイト」と呼ばれている。
  • ちなみに4月16日にも第三次菊水作戦の特攻機が突入し、さらなる損傷を負っている。
  • 4月17日23時頃、回天母艦の伊56を探知。護衛の駆逐艦4隻と護衛空母キャラバンに撃沈させた。5月5日、沖縄沖から離れ、一度ウルシーに帰投。敵機を5機撃墜したと報告した。
    5月18日、グァムのアプラ港へ入港。第3艦隊司令部となる。5月21日に出港し、沖縄近海へ再度進出。艦砲射撃を行い、日本軍部隊を攻撃。6月2日から3日にかけて飛行場や施設を砲撃。
    そんな中、6月4日に台風の襲来を受ける。これは後にバイパー台風と呼ばれるもので、アメリカ軍に相当な被害を与えた。幸いミズーリは無事だったため作戦を続行。四日後に九州を砲撃した。
  • 沖縄戦への参加後は、日本に対して多くの艦砲射撃を実施、7月15日には室蘭艦砲射撃に参加した。
    この艦砲射撃で製鉄所を含む軍需施設を多数破壊したが、それと同時に400名以上の民間人に犠牲者が出ている。
    続く7月17日・18日には茨城県日立市の工業地帯に艦砲射撃を敢行。日本の工業施設を破壊した。
    東京、横須賀、瀬戸内海の在泊艦艇、本州北部への攻撃も支援しており、日本の継戦能力を見る見る削いでいった。砲撃は25日まで続いた。
  • そして8月15日に日本がポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終戦を迎えた。
    翌日にはイギリス太平洋艦隊司令ブレーザー大将が訪問し、ハルゼー司令官にナイトの称号を贈った。
    9月2日の降伏文章調印式の舞台とされたミズーリは東京湾に入り、日本代表団の降伏文章サインにより正式に降伏を迎える。
    こうして長きに渡った第二次世界大戦の幕引きは、ミズーリの艦上で行われた。
    • 降伏文章調印式にはチェスター・ニミッツ海軍元帥、連合軍最高司令官のダグラス・マッカーサー陸軍元帥、
      イギリス海軍の太平洋艦隊司令官ブルース・フレーザー海軍大将など名だたる将軍が乗艦。
      日本側は重光葵外務大臣、参謀総長の梅津美治郎陸軍大将などが乗艦、日米英ソ中など各国の代表が一同に集結した。
      この降伏文章の調印された甲板には現在降伏記念プレートが埋め込まれている。
      カナダ代表のコスグレーブ大佐が署名する場所を間違え、後に署名する人々が一つずつズラす&欄外に書かざるを得なくなったというトホホな逸話がある。
      • 余談だが、わざわざ戦艦の甲板上で調印式を行ったのは、戦艦は保有国の領土として扱われるからである。つまりアメリカの領土で調印を行った事になる。
        数ある戦艦からミズーリが選ばれたのは、当時の大統領トルーマンの出生地だったからとか。

平和な時代と新たな戦い

  • 降伏調印からまもなく、ミズーリは東京湾を発つとグアム、真珠湾を経由しパナマ運河を通ってアメリカ東海岸へと凱旋した。
    10月23日、ニューヨークへ入港すると大西洋艦隊の旗艦となる。4日後の海軍記念日にはトルーマン大統領が訪問した。
    1946年4月9日、客死した駐米トルコ大使エルテグンをイスタンブールまで送り届け、ピレウスに入港した。5月9日、ノーフォークへ帰投。
    1940年代終盤までは、ミズーリは海軍の演習や式典行事への参加など、平時の作戦活動に参加し世界を旅して回り、精力的に活動を行っている。
    1947年からは海軍士官学校の練習艦として運用されるようになる。しかし1950年1月17日にミズーリは座礁事故を起こしてしまい、船体を損傷。ノーフォーク工廠で修復が行われた。
    アメリカ海軍はこれを契機にミズーリを退役するよう準備をし、ミズーリは現役引退という危機を迎える。
    ところが、トルーマン大統領から「任期中はミズーリは現役任務に置くように」と大統領命令が下され、ミズーリは退役という危機から逃れている。
  • 戦後、一時の平和を味わっていたミズーリであったが朝鮮戦争の勃発に伴い、再び戦争に参加する。1950年6月25日の開戦時、アイオワ級唯一の現役艦であった。
    朝鮮半島に展開する国連軍支援のため、ミズーリは1950年8月19日にノーフォークを出航。翌月14日、九州の西方海域で第7艦隊と合流し、スミス少将から旗艦を継承する。
    • 国連軍の指揮を執るのは、ミズーリとも縁が深いマッカーサー元帥であった。この時、国連軍と韓国軍は危機に立たされていた。
      北朝鮮軍の高い練度と、後方にまで浸透したスパイによって連戦連敗。半島南端にまで追い詰められていた。ここでマッカーサー元帥は成功率5000分の1と言われた大博打に出る。
      国連軍側が有している制空権と制海権を最大限に使って、半島北部の仁川に決死の上陸作戦を仕掛ける事だった。
  • 9月15日、国連軍の反抗作戦である仁川上陸作戦の支援のため艦砲射撃を実施、三陟の北朝鮮軍に攻撃を加えている。10月14日に一度佐世保へ帰投するが、一週間後に再び前線へ舞い戻り、瑞川と元山を砲撃。
    北朝鮮軍の補給線を破壊し、後退を余儀なくする効果を挙げた。ミズーリの火力は7個師団に匹敵し、韓国陸軍が保有する全火力をも凌駕していた。この故に艦砲射撃の威力は絶大で、北朝鮮軍は逃げ惑ったという。
    16インチ砲弾1発が1万ドルだった事から、水兵が砲弾を高級車のキャディラックに例えていたというジョークがあったとか。
    北朝鮮を支援していた中国が国連軍に対し、外交的警告を出してきたものの、真剣に受け止められる事は無かった。そして遂に中国は軍隊を派遣し、北朝鮮軍を援護し始めた。
    中国の参戦により国連軍は退却せざるを得なくなった。12月23日、ミズーリは興南へ移動し、第3歩兵師団の海上撤収を実施。
    そして1951年3月19日まで東海岸の沿岸を砲撃した。3月24日、横須賀へ帰投し、極東での任を解かれた。ミズーリはノーフォークに戻り、戦争から一時的に解放された。
    大西洋で訓練を行ったあと、1951年10月18日にノーフォーク海軍工廠へ入渠。オーバーホールを行い、1952年1月30日に復帰した。同年10月17日、横須賀に寄港し朝鮮戦争に復帰。
    1953年1月下旬、半島東海岸をパトロール。3月25日、最後の砲撃任務として高城地区を攻撃。
  • 朝鮮戦争に従軍したミズーリは、その後1955年2月26日に一時退役する。そして船体はブレマートンで展示された。
    この時からミズーリは観光名所として人気であり、多くの見学者が詰め掛けている。

再就役とミズーリ最後の戦い

  • 時は流れ1984年。時の海軍長官ジョン・F・リーマンの「600隻艦隊構想」*3により、ミズーリの再就役が実現する。
    1985年5月25日、再就役に伴ってミズーリは最新鋭武器が装備され、トマホーク・ミサイル、ハープーン・ミサイルの発射装置、CIWSなどの武装を施された。
    1986年5月10日に再び歴史の表舞台に立ったミズーリは、同年後半に世界巡航を行い、世界を一周。1987年7月25日からはペルシャ湾へ派遣され、タンカーの護衛を務めた。
    88年と90年にはリムパック演習*4にも参加した。
  • そして1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻。多国籍軍支援のためミズーリは11月に出動、91年1月にペルシャ湾へ到着した。
    1月17日、ついに湾岸戦争が勃発、多国籍軍対イラク軍の戦いが始まった。「砂漠の嵐作戦」の一環としてミズーリは火力支援を担当する。
    しかし沿岸部には浮遊機雷が敷設され、シルクワーム対艦ミサイルの脅威もあった事から陸地に接近する事は出来なかった。このためミズーリは沖合いから28発のトマホークミサイルをイラク領内に発射した。
    この戦争でもミズーリは艦砲射撃を実施、1月29日にイラク軍の燃料庫と司令部に艦砲射撃を浴びせた。2月4日、対機雷用のソナーを装備したフリケード艦カーツの先導を受け、サウジアラビア沖到達。
    海兵隊の射撃管制や弾着観測を受けながら主砲弾112発と5インチ砲12発を発射。23マイル先にあるクウェートのイラク軍砲台を攻撃した。
    2月6日、海兵隊の観測機ブロンコの報告によりクウェート南部にイラク軍砲兵陣地を確認。砲撃要請を受けたミズーリは31km離れた場所から砲撃をお見舞いし、砲兵陣地は無力化された。
    これにはイラク側も黙ってはおらず、対空砲による反撃が行われたが全て外れている。9日、砲撃を終えたミズーリは補給のため、ペルシャ湾中央に展開していた味方艦隊と合流。洋上補給を受ける。
    2月11日、カフジへ60発の主砲弾を発射。2月23日には陽動としてファイラカ島へ133発の砲弾を撃ち込んだ。翌日未明、クウェート沖に接近し、イラク軍の予備部隊の移動を妨げるべく砲撃を行った。
    ミズーリの陽動作戦により、イラク軍は南部の部隊を北上させ、アメリカの目論見通り南側が手薄になった。そして24日に地上部隊がクウェートに進攻し、頑強な防御線サダム・ラインですら初日で突破してしまった。
    ここでイラク軍の反撃を受け、シルクワーム対艦ミサイル2発がミズーリへ撃ち込まれたが、1発はチャフに撹乱されて海面に墜落、
    もう1発はイギリス艦グロセスターから発射された迎撃ミサイルによって破壊され難を逃れている。
    2月28日に湾岸戦争は終結、最後の戦いを終えたミズーリはアメリカへと帰還した。艦砲射撃が与える心理的恐怖は凄まじかったようで、
    停戦後に観測機パイオニアがイラク上空を飛行していると、停戦を知らずに戦っていたイラク軍将兵1405人が投降してきた。理由は艦砲射撃が来ると思ったから、だったとか。

退役から現在まで

  • 長らく戦い続けてきたミズーリはついに退役を迎える。
    機関の老朽化による速力低下、運用の高コスト化、さらに戦艦という存在自体が兵器の技術革新で不要となった事からミズーリは再び軍用艦艇としての役割を終える事となった。
    • とりわけ湾岸戦争では命中しなかったとは言えミサイル攻撃を受けた事もあり、目標に接近する必要のある前時代的な艦砲射撃による支援攻撃は時代的にも不要とされていた。
      また、対艦ミサイルや高度な電子装備を備え、より強力な武装を得たミサイル駆逐艦、イージス艦の台頭が戦艦という存在そのものを不要としてしまった。
      主砲が持つ目標に対する破壊力もまた、航空機から投下される精密誘導爆弾や巡航ミサイルの発達により非効率かつ不要とされた。
      さらにミズーリを再就役させる切欠であった仮想敵国であるソ連の崩壊もあり、ミズーリの活躍もここまでとなった。
  • 1991年の真珠湾攻撃50周年記念式典でミズーリは軍艦としての最後の任務を終え、翌年1992年3月31日に退役した。1995年1月12日、除籍。
    その後、1998年5月4日にハワイ州へ寄贈され、真珠湾で記念艦としての公開が決定。1999年1月より公開が始まった。現在でもハワイの観光名所として健在である。
    現在ミズーリが停泊する場所は真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナ記念館の後方であり、この位置の選定は物議を醸した*5と言われている。
    日本の降伏文章調印の場という歴史的な艦ではあるが、冷戦時代の大改修によりアメリカ国定歴史建造物としての資格は有しておらず、登録もされていない。
    1971年5月、国定歴史記念史跡に登録された。
  • 2009年10月14日、修理のため一旦公開を取りやめ、2km離れた海軍工廠ドックへ入渠。1800万ドルの資金を投じて修理を行い、2010年1月7日に完了。フォード島に戻って再び公開された。
    後述の映画「バトルシップ」では、海軍工廠へ回航される途上のミズーリが撮影に使われている。
    降ろされたミズーリの砲身9本(降伏文書調印式に搭載していた物)はアメリカ海軍が保存していたが、2016年に処分が決定。そのうち1本はマイルズ要塞に引き取られ、永久保存された。
  • 日本軍、北朝鮮軍、イラク軍、宇宙人と数多くの敵と戦ってきた英雄は、静かに余生を送りつつ歴史を後世に伝えている。

小ネタ

  • アイオワ級自体は近年撮影された映像も多く現在でも4隻全てが博物艦として現存している身近な戦艦であるため、小説・架空戦記・アニメ・漫画・ゲーム等様々な作品でも目にする機会が多い。
    このため、名前は知らないがアイオワ級自体はどこかで見た事がある、というユーザーも数多いだろう。
    ミズーリはアイオワ級戦艦の中でもメディア露出は多い方で、様々な映画に出演している。逆に長女のアイオワはメディア露出が少ない。
  • 特に有名な作品ではスティーブン・セガールの出世作となった「沈黙の戦艦」(最初と最後以外は戦艦アラバマで撮影)が存在する。
    セガールが演じた最強のコックことケイシー・ライバックのキャラクターが強烈であるが故に、ミズーリ=セガールを思い出すという洋画ファンも多い。
  • そして日本ではバトルシッパー一部洋画ファンからカルト的な人気と支持を誇る2012年のSF映画「バトルシップ」などが有名である。
    大味なB級映画ながら、CGや一部実写シーンなどでミズーリが登場し、近年の映像作品では稀な戦う戦艦としてスクリーンに登場した。
    • 特に「バトルシップ」では敵の宇宙船に目掛けて強烈な主砲一斉射撃を食らわせるシーンや戦艦ドリフトなどで絶大なインパクトを残している。
      戦艦少女でのミズーリ実装に沸いた同映画のファンもそれなりにいるのではないだろうか。
  • 戦艦少女に収録されている艦船で、2016年現在でも現存し一般公開されている数少ない船舶のひとつ。
    ハワイの真珠湾で公開されているため、ハワイ観光のついでに寄って見るのも可能である。
    ただし現在一般公開されているのはミズーリ艦上のみで、船内の詳しい観光は予約と別料金が必要とされている。
    前述の「バトルシップ」のソフト映像特典には戦艦ミズーリの内部ツアー映像が収められているため、そちらでも見る事が可能。
  • 先述の通り、特攻機の突入を受けた箇所は修復されておらず。ヘコみが現存。カミカゼ・アタック・サイト(神風攻撃の場所)と呼称されている。
    また甲板上には日本代表の一団が降伏文書に署名した場所があり、仕切りで囲まれている。ここは重光ポイントと呼ばれ、記念プレートが埋め込まれている。
    また艦内には降伏文書調印式の際に掲げられた二枚の星条旗が保存されている。

*1 ミズーリは1955年一度退役し1986年再就役している
*2 鹿屋航空基地所属、第五建武隊の石野節雄二等兵曹搭乗機
*3 当時、増大しつつあったソ連軍艦隊に対抗するべく発足された海軍戦力強化計画
*4 Rim of the Pacific Exercise、環太平洋合同演習。アメリカ海軍主催の国際的な大規模軍事演習
*5 ミズーリの公開によりアリゾナ記念館の存在意義が薄れるのではないか、と問題になった。