No22 赤城/元ネタ解説

Last-modified: 2023-03-31 (金) 18:24:32
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型天城型巡洋戦艦→天城型航空母艦
正式名称赤城(あかぎ)
名前の由来赤城山 日本国群馬県にある山
起工日1920.12.6
進水日1925.4.22
就役日(竣工日)(1927.3.25)
除籍日(除籍理由)1942.9.25(ミッドウェー海戦/英Battle of Midway1942.6.6自沈処分)
全長(身長)252.37m→260.21m(1927)→260.67m(1938)
基準排水量(体重)?→26900英t(27331.7t)(1928)→36500英t(37085.7t)(1938)
出力ロ号艦本式重油専焼缶11基ロ号艦本式石炭重油混焼缶8基艦本式蒸気タービン4基4軸 131200shp(133019.7PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶19基艦本式蒸気タービン4基4軸 133000shp(134844.7PS)(1938)
最高速度32.5kt(60.18km/h)→31.2kt(57.78km/h)(1938)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/8000海里(14816km)
→16.0kt(29.63km/h)/8200海里(15186.4km)(1938)
乗員1400名(竣工時) 1627名(改装時)
装備(巡戦計画)45口径三年式41cm連装砲5基10門
50口径三年式14cm単装砲16門
45口径十年式12cm単装高角砲4門
61cm魚雷発射管8門
装備(建造時)50口径三年式20cm糎連装砲2基4門単装砲6基10門
45口径十年式12cm連装高角砲6基12門
艦載機x60
装備(1938)50口径三年式20cm単装砲6門
45口径十年式12cm連装高角砲6基12門
九六式25mm機銃x28(14x2)
艦載機x66+25
装甲(戦艦計画)舷側:10inch 甲板:3.7inch 砲塔:5~12inch 艦橋:10~13inch
装甲(1935)舷側:5inch
建造所呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市)

日本海軍の航空母艦であり、素体は八八艦隊に基づいて建造中だった天城型巡洋戦艦の2番艦「赤城」である。世界初の空母機動部隊である第一航空艦隊の旗艦にして、後に聯合艦隊司令長官となる山本五十六が艦長を務めた艦でもあり、数ある日本空母の中でも屈指の人気と知名度を誇る。

八八艦隊とは

八八艦隊とは、第一次世界大戦中に発生したユトランド沖海戦の戦訓を元に、日本海軍がかねてより思案していた艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とし、所要の補助艦艇並びに第一線を退いた艦齢8年超の主力艦群を主軸として整備する建艦計画。
同時期に列強各国も同じようなことを考えており、アメリカの「ダニエルズ・プラン」、イギリスの「対独二倍構想」、フランスの「装甲艦28隻整備構想」等が特に知られる。
なお艦齢8年未満の艦を第一線に、ということは、8年を超えた艦も第二線級として保有し続けるということであり、当時想定されていた主力艦運用年数は24年であることから、帝国海軍は最終的に48隻の主力艦を整備・運用し、毎年2隻の新造艦を起工し続けることとなる。これが八八八艦隊となれば毎年3隻、総数72隻の戦艦・巡洋戦艦となり、特に財政面で当時の日本の国力限界を遙かに超えるものであった。
しかし、列強各国が同時期に大規模な軍拡競争を際限なく繰り広げたため各国の国家財政を大きく圧迫することとなり、ワシントン海軍軍縮条約を皮切りに世界は一旦軍縮へと向かっていった。同時に八八艦隊も中止となり結局計画通りに竣工したのは長門型戦艦2隻のみだった。

天城型巡洋戦艦とは

八八艦隊で8隻の建造予定であった巡洋戦艦として、最初に計画されたのが本型である。41cm主砲10門という加賀型戦艦と同等の攻撃力を持ちながら速度は30ktの高速を発揮するよう設計されており、その結果装甲は加賀型より若干薄くなったものの、それでも尚、長門型戦艦よりも強力な防御力を持っていた。どこが巡洋戦艦なんですかね?
ワシントン海軍軍縮条約締結時に「天城」「赤城」「高雄」「愛宕」の四隻が建造されていたが、起工後間もない「高雄」と「愛宕」は解体され、既に船体が殆ど完成していた「天城」「赤城」の二隻は巡洋戦艦としての高速力を買われ、空母に改装されることが決定した。しかし、改装中に関東大震災が発生し天城が造船ドッグ内で大破し修復不能と判断されたため廃棄された。代わりに廃棄予定だった加賀型戦艦の「加賀」が空母へと改装された。同様の経緯で建造された空母に米海軍のレキシントン級航空母艦がある。

航空母艦「赤城」

当時、まだ空母という艦種そのものが生まれたてであり、赤城を空母に改装するにあたっては数々の試行錯誤(迷走ともいう)が行われた。
空母の命ともいえる飛行甲板はイギリス海軍の改装空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式(フューリアスは二段)となっており、最上段を着艦専用とし、中段を戦闘機等の小型機用、下段を攻撃機等の大型機の発艦専用として各段を目的別に使い分けることで着艦と発艦が同時にできるように考案された。しかし実際には、中段には20cm連装砲2基と艦橋が設置され飛行甲板としては使用できなかった。しかも下段は短すぎてほぼ使われていないという有様だった。そのため着艦と発艦は専ら最上段の発着甲板で行い、下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。当時の航空機は複葉で航続距離も僅かだったため空母にも砲撃戦の機会がありうるとの判断から赤城と加賀は上述の20cm連装砲2基に加え、艦尾両舷にそれぞれ同単装砲を3基ずつ据え合計で20cm砲を10門装備し、額面上は妙高型重巡洋艦と同等の砲撃力を持つ。しかし実際に運用してみると、砲撃時の爆風で飛行甲板が破損する危険性が高い20cm砲は三段甲板ともども無用の長物であると判明し、後の大改装の一因となっている。このほか、建造当時は各国が空母の煙突の処理の仕方について模索していた時期であり日本においても加賀がイギリス海軍の空母アーガスを参考にした集合煙突を採用したのに対し、赤城は後の日本空母のトレンドとなる湾曲煙突を採用しており様々な模索を行っていたことが窺える。
 ⇒竣工当初の三段甲板時代の赤城。中段に搭載された20cm連装砲が確認できる【https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/Akagi_1929.jpg
 ⇒大改装前の赤城と当時最大の戦艦だった長門。赤城の巨大さがよくわかる【https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/Akagi_and_Nagato.jpg

様々な不具合に加え劇的な進化を遂げる航空機の性能に次第に対応できなくなってきたことを受けて、先に大改装を行っていた加賀を参考に1935年11月15日~1938年8月31日にかけて全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠で施された。中段・下段の飛行甲板が撤去されたことで格納庫の拡張も行われ、搭載機数も大幅に増え1941年12月7日時点では常用66機 補用25機となっている。しかし慢性的な予算不足によって赤城の改装は加賀の改装と比べると、飛行甲板の仕上げが雑であったりと丁寧ではなく略式なものにとどまり、対空火器の更新も見送られ旗艦でありながら真珠湾攻撃に参加した六隻の空母の中でも対空能力は最も貧弱であった。また、各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから31.2ノットに低下した。航続距離もあまり延長されなかったため、遠距離外洋航行が問題になる真珠湾攻撃作戦の計画段階では蒼龍飛龍とともに作戦から外されることが検討されたこともあった。
艦橋は大改装後の加賀とは違い左舷中央部に設置され、外見上の最大の特徴となっている。これは将来艦上機も単葉、大型化するであろうために滑走距離も長くなる、着艦距離はワイヤーで制止されるため誘導設備が発達すればむしろ短くできるとの予想から、前寄りの位置では邪魔になると判断されたためである。しかし右舷のままでは煙突と重なるため、世界に類例のない左舷に艦橋が配置されることとなった。
左舷艦橋には
 ・煙突と反対側に配置されるため船体が左右均等に近くなりバランスがよい
 ・士官室からの艦橋への交通が有利となる
 ・格納庫の形状が良好となる
といった利点があり日本海軍は後の空母にも左舷艦橋を採用するつもりだったが、実際に運用すると煤煙が艦橋に流れ込む、気流が乱れて着艦しづらくなる等のデメリットが判明したため、竣工直前の飛龍はやむなく左舷艦橋で竣工したものの、同じく左舷艦橋で設計されていた翔鶴型は急遽右舷艦橋に設計変更され、後の空母では二度と採用されることは無かった。

 ⇒大改装後の赤城。独特の三段甲板からオーソドックスな一段甲板に改装された【https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/AkagiDeckApril42.jpg

主な戦歴 日中戦争~太平洋戦争直前

赤城は長らくドックで改装を行っていた為、日中戦争における戦歴は龍驤鳳翔や先に改装を終えていた加賀とは大きく差がある(加賀の活躍は個別項目を参照されたし)。不運なことに赤城が改装を終えた時には既に戦域が内陸に移行しており、航空作戦は陸軍航空隊や海軍基地航空隊の手に移り航空母艦からの航空作戦は本来終了していた。1939年、日本本土に戻った加賀と入れ替わるように第一航空戦隊旗艦となり、米内光政海軍大臣や草鹿龍之介軍令部第一課長等が主導する海南島攻略作戦に参加する。2月3日、香港島万山諸島万山湾に投錨。その後、南支方面艦隊と共に2月10日の海南島制圧作戦を実施した。ここで赤城の航空隊は水上機母艦千代田、特設水上機母艦神川丸、陸海軍基地航空隊と協力し、海軍陸戦隊や陸軍部隊の上空掩護、地上支援を行った。南島制圧作戦をもって日中戦争における赤城の出番は終了し、有明湾に帰投して飛行機隊の訓練にしばらく従事した。
1941年では9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制では最新鋭の翔鶴型航空母艦を第一航空戦隊に配備し、従来の一航戦の赤城と加賀は第五航空戦隊に再編成される予定たったが、完成直後の翔鶴を訪れた第一航空艦隊司令部は翔鶴型の飛行甲板にたいして不満を持っており、その影響もあってか赤城・加賀が第五航空戦隊に配属されることはなかった。翔鶴型の飛行甲板は艦の長さより15m以上短く、他の空母と比べて著しく短かった(赤城、蒼龍、飛龍の飛行甲板は艦体より約10m短く、加賀の飛行甲板は艦体より約1m長い)。

1941年4月、真珠湾攻撃の準備のため世界初の空母機動艦隊となる第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将)が編制され、赤城は加賀および駆逐艦二隻とともに第一航空戦隊として編入された。第一航空戦隊所属の艦上機部隊は、艦上攻撃機隊64機が海軍航空隊鹿児島基地、艦上爆撃機隊45機が海軍航空隊富高基地、第一航空戦隊ならび第二航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地を訓練基地とし、錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、11月16日佐世保基地にいた加賀以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦上機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。この時期の第一航空艦隊搭乗員の練度は最低でも飛行時間が1000時間、最高練度の者は2000時間に達するような怪物級であり、その練度は『世界最高峰』と評され、また事実であった。

11月13日、岩国航空基地で連合艦隊の最後の打ち合わせが行われた際、山本五十六聯合艦隊司令長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。これに幾人かの指揮官が不服を唱えたが、山本は「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言い放った。

各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時、第一水雷戦隊旗艦阿武隈と駆逐艦9隻が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を個別に目指した。赤城は同日午前9時に動き出し、単冠湾へ向かった。
11月19日、八丈島沖で飛行甲板上に全飛行機搭乗員が集められて真珠湾攻撃が訓示され、艦隊集結予定日通り11月22日の朝に南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。
11月23日、旗艦赤城において、二つの会合が行われた。一つは機動部隊各級指揮官の会合であり、もう一つは航空機隊士官の会合であった。各級指揮官の会合ではハワイ遠征の作戦行動についての、航空機隊士官の会合では真珠湾空襲計画についての最後の詰が行われた。
各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日に赤城は単冠湾を出港し、南雲機動部隊の旗艦として一路ハワイ・真珠湾へと向かった。

主な戦歴 真珠湾攻撃

12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。
12月2日17時30分、大本営より赤城以下機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「X日を12月8日(日本時間)と定める」の意の符丁である。

12月5日(ハワイ時間)、機動部隊はハワイの北700里に達し米軍PBY飛行艇の哨戒圏内に入った。機動部隊はここで最後の燃料補給を行い、補給部隊と分離した。
12月6日(ハワイ時間)、午前6時30分、機動部隊は速力を24ノットに増速した。
同日午前10時30分(ハワイ時間)、山本長官からの『皇国の興廃繫りて此の征戦に在り、粉骨砕身各員その任を完うせよ』との電文を受信。この訓示は直ちに機動部隊全乗員に達せられ、各艦のマストには日本海海戦以来36年目のZ旗が掲げられた。
同日午後5時25分(ハワイ時間)、先遣部隊の伊号第72潜水艦から『米艦隊はラハイナにあらず』との偵察報告が入った(ラハイナはハワイにおける米太平洋艦隊の停泊地の一つ)。

12月7日午前5時30分(ハワイ時間)、各空母の飛行甲板には攻撃準備の整った航空機が、翼を並べて所定の位置に並んでいた。整備員達は、それぞれ受持の機にしがみついて艦の動揺から機を守るのに必死であった。指揮所からの号令により各機の発動機が始動した。赤城は発艦のため取舵に転舵して風に立った。マストにはZ旗と並んで戦闘旗が開かれた。発着艦指揮所から発進を指示する緑色の信号灯が大きく円弧を描いて振られた。前方の零戦を始めとして九九式艦爆九七式艦攻が次々と発艦した。万歳の響とともに、帽子が、ハンカチが、素手が、ちぎれるほどに打ち振られた。
こうして第一波空中攻撃隊の戦雷爆連合の計183機は6隻の空母から飛び立った。そして各群の指揮官機のオルジス灯で誘導されて編隊を整えた。赤城飛行長兼攻撃隊総隊長の淵田美津雄中佐の九七式艦攻はその一番機として編隊を率い旗艦赤城の上空からオアフ島へ針路を向けた。オアフ島へ向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、淵田中佐の総指揮官機が先頭に立ち、その直後に淵田中佐の直率する水平爆撃隊49機(長門型戦艦の41cm九一式徹甲弾改造の800kg徹甲爆弾を搭載した特殊仕様)が続く。右側に500m離れて高度200mを下げて村田少佐の率いる雷撃隊40機が随伴。左側には同じく500m離れて高度200mを下げて高橋少佐の率いる急降下爆撃隊51機が随伴。そして板谷少佐の率いる制空隊43機の零戦これら編隊群の上空を警戒援護しながら随伴した。
同日午前7時30分(ハワイ時間)、淵田中佐の九七艦攻のラジオ方位探知機はハワイのホノルル放送のラジオ天気予報を受信し、「オアフ島上空は半晴で視界良好」の情報を得た淵田中佐は奇襲成功を確信したという。
やがて展開(進撃隊形から突撃準備隊形に映ること)下令の時期となった。この展開下令の時に総指揮官は奇襲でいけるか強襲となるかを判断し支持する必要があった。奇襲でいける場合は突撃順序を雷撃隊に強襲の場合は急降下爆撃隊を先頭にしてある。これは、敵の対空砲火が開かれないうちに超低空で敵の懐に飛び込む雷撃隊に先陣をやらせ、強襲となる場合は先に爆撃で敵の対空砲火を潰しその隙に雷撃隊を飛び込ませるとの狙いがあった。
同日午前7時40分(ハワイ時間)、米軍の反応が一切ないことから奇襲成功と判断した淵田中佐は、信号拳銃一発を放ち奇襲の展開を下令した。展開命令を受けて急降下爆撃隊と雷撃隊はそれぞれ所定の配置に移動し始めた。ところが、制空隊が本来ならば増速して前に出るはずが、動かなかったため、折柄断雲が邪魔して制空隊が信号を見落としたと思った淵田中佐はもう一発信号弾を放った。今度は制空隊もすぐ反応して速度を上げてオアフ島上空に進出した。だが、急降下爆撃隊指揮官の高橋少佐がこの二回目の信号弾を見て強襲の展開命令と誤解(信号弾二発は強襲の展開命令)。強襲の場合は急降下爆撃隊が先陣のため、強襲と誤解した急降下爆撃隊と奇襲の展開下令に従った雷撃隊が先陣あらそいをする格好となった。しかし、結果的には同時攻撃となって寧ろ怪我の功名であった。
同日午前7時48分(ハワイ時間)、第一波空中攻撃隊は真珠湾に目標の米太平洋艦隊を捕捉。
同日午前7時49分(ハワイ時間)、淵田中佐は略語ト連送を行い第一波空中攻撃隊に全軍突撃を下令。
同日午前7時53分(ハワイ時間)、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、空中攻撃隊総指揮官淵田中佐機より『トラトラトラ(我奇襲に成功せり)』が発信された。そして『トラトラトラ』は時を移さず、台湾へ、仏印へ、マレーへ、ボルネオへ、香港へ、上海へ、グアムへ、ウェーキへと放送されて、固唾を呑んで耳をそばだていた各方面所在の帝国海軍はそれぞれ戦闘行動に入った。この『トラトラトラ』の発信は赤城の中継を待つまでもなく、東京の大本営も、広島の聯合艦隊旗艦長門も直接受信したという。太平洋戦争(大東亜戦争)の始まりとなった真珠湾攻撃を象徴する『トラトラトラ』は今日世界で最も有名な電文の一つとして広く知られる。

 

真珠湾攻撃の結果、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。
さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まることとなったことにより、真珠湾攻撃が「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝されることとなったことも、アメリカおよび連合国の世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。