No223 信濃/元ネタ解説

Last-modified: 2018-12-05 (水) 01:41:48
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型大和型戦艦→航空母艦(1942)
正式名称信濃(しなの)
名前の由来信濃 旧令制国 信濃国(現日本国長野県、岐阜県の一部)
起工日1940.4.7
進水日1944.10.8
就役日(竣工日)(1944.11.19 艤装前であるため事実上未完成)
除籍日(除籍理由)1945.8.31(1944.11.29沈没)
全長(身長)263.4m→266.0m(1942)
基準排水量(体重)64000英t(65027t)→62000英t(62994.9t)(1942)
出力ロ号艦本式重油専焼缶12基艦本式蒸気タービン4基4軸 150000shp(152080.5PS)
最高速度27.0kt(50.00km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/10000海里(18520km)
乗員2400~2515名
装備(戦艦計画)45口径九四式46cm三連砲3基9門
60口径三年式15.5cm三連装砲4基12門
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基12門
九六式25mm機銃x24(8x3)
九三式13.2cm機銃x4(2x2)
艦載機x7
装備(1942)40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x157(37x3+40x1)
12cm28連装噴進砲12基336門
艦載機x42+5
装甲(戦艦計画)舷側:200~410mm 甲板:35~50+200~230mm 砲塔:190~660mm バーベット:380~560mm 艦橋:200~500mm 隔壁:50~200mm
装甲(1942)舷側:160~270mm 甲板:20+75mm
建造所横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)
  • 大日本帝国海軍の航空母艦。艦名は旧国名の信濃国に由来する。生まれは横須賀海軍工廠。
    1940年4月7日起工、44年10月8日に進水、同年11月19日に就役した。
    110号艦(大和型)がミッドウェー海戦後に建造中止となった後に、航空母艦不足を補うため改装された経緯を持つ。
  • 建造途中であった大和型戦艦3番艦である110号艦を、途中から空母に設計変更したもので、特筆すべきはその巨躯にあった。
    それ故に船体は巨大であり、1961年にアメリカ海軍のキティホーク級に破れるまで世界最大の航空母艦としての記録を持っていた。
    設計に関しては、航空母艦大鳳の存在が色濃く反映されている。
    • ちなみに同時期に建造中だった111号艦は建造中止の後解体されたのだが、110号艦は船体が粗方出来てしまっていて解体も難しかったことや、
      大和型の46センチ主砲の砲身を運搬する唯一の専用輸送艦「樫野」がこの時期に撃沈されてしまったことなども空母改装に影響している。
  • 巨大な飛行甲板、さらに大和型の船体を応用した重装甲から非常に打たれ強い航空母艦であった。
    しかし、その反面格納庫は1層のみで、搭載機の大型化に伴って搭載数はその大きさに反して控えめな数値*1になっている。
    圧倒的な凌波性と安定性を誇り、本来それ1基だけで秋月型駆逐艦と同等の質量の46cm三連装砲を3基も搭載する大和型の船体であれば飛行甲板の装甲化を施したとしても巨大な格納庫を搭載できたが、資材の不足や竣工を急ぐ事情もあり格納庫は一層で妥協された。
  • 空母への改装が進む中、戦局は刻一刻と悪化。日本海軍の空母は次々とアメリカ軍に沈められ続け、その数を減らして行った。
    設計の都合や人員の問題から空母への改修作業は遅々として進まず、信濃の竣工時期はもつれにもつれ続けた。
    ようやく44年7月1日、正式に110号艦は「信濃」と命名されるも、今度は「10月までに進水させよ」との命令が決まり、総力を結集し超スピードで建造が急がれた。
    この間に過労と事故で10名以上の死人を出すなど、文字通りのデスマーチが現場で繰り広げられていた。
    こうして幾多もの簡略化を含む設計・仕様変更の後に信濃は進水したが、10月5日の進水式ではヒューマンエラーで船体とソナー、プロペラを損傷している。
     
     
  • 残された艤装と兵器の搭載と横須賀地区への空襲を避けるため信濃は、呉へ回航される事となる。
    11月28日、帰還したばかりの第17駆逐隊に護衛され、信濃は横須賀を出航。
    しかし、この出航が信濃最後の出航となった。
    信濃追撃戦についてはアーチャーフィッシュのページも参照されたし。
  • 11月29日。潜水艦アーチャーフィッシュの追撃を受けた空母信濃は、午前3時13分に魚雷を撃ち込まれ沈没した。
    就役からわずか10日以内の出来事であった。
    1080名の乗員が生存したが、791名の乗員が沈没に巻き込まれ戦死。さらに同乗していた工員28名、軍属11名も死亡した。
  • アーチャーフィッシュのエンライト艦長の冷静な判断もあるが、この沈没は日本側の問題が多かった。
    乗員が配置されたばかりの新米乗組員ばかりであり艦の運用に不慣れで、防水扉の閉鎖などの適切な応急処置が出来なかった。
    さらに排水ポンプの故障、突貫工事による建造で船体に不備が目立ち容易に浸水を許したのである。
    そして護衛の17駆逐隊は浜風・雪風・磯風からなるわずか3隻のみという小規模な護衛であり、雷撃を許すには十分すぎるほど戦力不足。
    加えて、信濃の回航の際、護衛の駆逐艦の艦長らが歴戦の経験から潜水艦の奇襲が多い夜間を避け昼間に陸岸近くを航行したほうが良いと進言したが、敵潜の奇襲より昼間の敵航空機による空襲を恐れた信濃艦長は空母艦載機の空襲のない夜間に沖を航行するという判断を下し、その結果信濃は潜水艦に沈められた。この時駆逐艦長が進言した『敵潜のウラをかいて、沿岸すれすれに航行する』という戦法は空母海鷹が輸送船団護衛時に使用しており当時前後の輸送船団が相次いで潜水艦に徹底的に叩かれていた中、無事に護衛を成功させている。
    また、第17駆逐隊はレイテ沖から帰還したばかりで乗員は疲労困憊の状態であった上、損傷修理もまともにできておらず一部の艦は対潜警戒に不可欠な水中探信儀(アクティブソナー)が損傷で使えなかった。
  • 信濃の沈没は、まさに大日本帝国海軍機動艦隊の終焉を物語るかのような、呆気ない悲劇であった。

*1 諸説あるが47機であった計画が主流とされている。文献や資料によっては72機・甲板繋止で+13機という物もある