No228 隼鷹/元ネタ解説

Last-modified: 2023-01-17 (火) 21:21:09
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型橿原丸級貨客船→隼鷹型航空母艦(1940)
正式名称橿原丸(かしはらまる)→隼鷹(じゅんよう)(1940)
名前の由来橿原神宮 奈良県橿原市
隼鷹 猛禽類のハヤブサとタカ
起工日1939.3.20
進水日1941.6.26
就役日(竣工日)(1942.5.3)
除籍日(除籍後)1945.11.30(1946.6.1解体)
全長(身長)220.0m→219.32m(1942)
基準排水量(体重)27700英t(28144.5t)→24140英t(24527.4t)(1942)
出力三菱式重油専焼缶6基三菱ツェリー式蒸気タービン2基2軸 56250shp(57030.2PS)
最高速度25.5kt(47.22km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/10000海里(18520km)
装備(1945)40口径八九式12.7cm連装高角砲6基12門
九六式25mm機銃x91(19x3+2x2+30x1)
12cm二八連装噴進砲10基280門
艦載機x48+5
装甲舷側:20+25mm 甲板:25mm
建造所三菱重工業長崎造船所 (現 三菱造船社長崎造船所) (日本国長崎県長崎市)
  • 隼鷹型航空母艦1番艦。飛鷹型とする説もあるが海軍公式記録は隼鷹型。
    ゲームでは軽空母となっているが蒼龍飛龍よりも大型。
    ワシントン海軍軍縮条約締結で、米英の6割しか空母を保有する事が出来なくなった帝國海軍は対策を迫られた。
    考えた結果、空母への改装が容易な給油艦や潜水母艦を建造して予備空母を用意しようという結論に至った。
    同時に民間の優秀な大型船舶を、有事の際は空母に改装できるよう助成金を出す事にした。この考えはイギリスからもたらされたという。

橿原丸について

  • 元々は日本郵船が建造した大型客船、橿原丸。1940年に開催される東京オリンピックに向け、大型優秀商船建造助成施設第一号として建造が決定。サンフランシスコ航路に投入される予定だった。
    有事の際は海軍に徴用するという条件で建造費に補助が出ていた。当初は軍が8割負担するはずが、何故か6割に減らされていた。
    日本郵船は採算が合わないとして建造には難色を示していたが、結局軍部と政府に押し切られ、1939年3月20日、900番船という仮称を与えられて三菱重工長崎造船所で起工。
  • 起工後間もない1939年6月1日には大阪朝日新聞に取り上げられ、姉妹船出雲丸ともども紹介された。2万7700トンの排水量は、当時東アジアに就役していた
    最大級のイギリス客船エンプレス・オブ・ジャパン(2万6000トン)を凌駕したと喧伝された。もし完成すれば、浅間丸級を超えた日本一の大型客船となるはずだった。
    橿原丸の船名は、奈良県の橿原神宮より取られている。
  • 橿原丸の内装は、建築家の吉武東里氏が担当。彼は開催予定の日本万国博覧会のパビリオンも手掛けていた。橿原丸のデザインもその一環であろう。
    吉武氏以外にも中村順平、村野藤吾、久米権九郎、前川國男、岡本薫が参加し、チームで内装設計を手掛けた。彼らが顔合わせを行ったのは京都嵐山であった。
    他の船室との調和、室内装飾に取り込まれた絵画の使用が盛り込まれた。備品や調度品は徹底的に国産の物が使用され、純和風の豪華客船であった。
    唯一、海水を使った消火装置だけは試験採用の意味合いでイギリスに発注している。また装飾の参考にするため、大西洋航路の豪華客船に視察団を派遣している。
    視察した客船の1隻、北ドイツ・ロイドのブレーメンをモデルシップとして造船の参考にした。
  • 海軍からの要求は、全長210メートル、幅25メートル、速力は公試運転半載状態で24ノット、片舷機で19ノット以上、馬力は全力6万軸馬力、定格4万8000軸馬力、総トン数2万6500~2万7000トン。
    そして3ヶ月以内に空母へ改装できる構造が求められた。2400万円(当時)の建造費には空前の高率補助金が出され、太平洋制覇を目指す日本国の海運界に大きな重みを与えたとしている。
    第一級国策船の道を歩むべく竣工が待たれていたのだが・・・。
  • 橿原丸は、商船としては初めてバルバス・バウを装備していた。船体の一部には防御の意味で二重外板を設け、空母改装を見越して格納庫やエレベーターの位置、電線通路の配置が行われた。
    船尾にはプールが設置されていたが、その正体は偽装されたエレベーターであった。これらの設置には非常に苦心したとされている。更に機関室を中央縦壁で左右に仕切られたため、
    建造には大変手間が掛かった。それでも順調に工事が進んでいった。
    改装に備えて、機関はタービンが採用された。このタービンは商船用にしては破格の性能で、出力は大東亜戦争が終結するまで日本船最大記録を維持した。
 

隼鷹への改装

  • そして戦争の足音が聞こえてきた1940年10月、建造中止。船台上での工事がほぼ終わった状態で、海軍に徴用される事になった。橿原丸は第1002号艦の仮称に改名。
    ただちに改装工事が始まった。空母への改装は徹底したものであり、もはや客船に戻す事は不可能だった。このため1941年2月10日に海軍が買い取った。
    仮に空母としての役目を終える場合、研究材料とし、それから将来の措置を決める方針であった。ともあれ橿原丸が航海する事は無かった。
    吉武氏の努力は徒労に終わり、しかも日本万国博覧会も開催中止。手掛けていたパビリオンは悉く建造中止となり、唯一勝鬨橋のみが完成した。彼の心労は計り知れない。
    引き渡し時、既に食堂や客室の艤装工事が一部完了していた。これらの部屋は木製だったが、工事促進のためそのまま流用。後に不燃化対策で大規模な撤去を要した。
    同年6月26日、進水を果たす。商船改装空母は他にも数隻存在するが、中でも隼鷹型は最大級であった。10月1日、艤装委員長に石井大佐が着任。
  • 船体と排水量は正規空母並みで、蒼龍や飛龍に匹敵するスペックを誇った。隼鷹は二段格納庫甲板を持っていたが、数ある商船改造空母の中でこれを持っていたのは
    世界広しと言えど隼鷹と飛鷹のみであった。対空兵装と発着艦装置の全てにこだわり、性能は改良後の龍驤、広大な格納庫は蒼龍に匹敵する優秀艦となった。
    しかし元が商船だけに防御力の低さが問題視された。船体防御が皆無だったのである。
    • 公試が終わって海軍に引き渡された隼鷹。その隼鷹に乗艦するべく、転勤してきた乗組員が小型艇で向かっていたところ、操舵手のミスで隼鷹に衝突。
      小型艇が沈没すると思い、乗組員たちはすぐに海へ飛び込んたが、小型艇は一向に沈まなかった。むしろ隼鷹の方がヘコんでいたのである。
      あまりの防御力の低さに、乗組員一同は不安を覚えたという。
  • 大鳳にアイランドと直立煙突を採用する事が決定したため、それに先立って隼鷹で試験運用を行った。隼鷹は日本初のアイランド型・直立煙突空母となった。
    艦首にバルバス・バウを持ち、舷外電路とパラベーン用フェアリーダーを装備。飛行甲板は木製で、橿原丸時代のプロムナードデッキを延伸したものだった。
    隼鷹は丸い艦尾をしていたが、それが元豪華客船である事を示す名残であった。
  • 豊富なスペースを活かし、隼鷹には移動用のトラックが積載されていた。上陸や乗艦する際に使用されたという。
  • 1942年4月6日、駆逐艦呉竹に護衛されながら佐世保を出港。翌日に呉へと到着し、仕上げの工事を行う。この時、お隣に戦艦武蔵が入渠しており
    武蔵が進水した後もドックを覆う幌が残されていた事から、「もう一隻武蔵がいるのか?」という噂が立った。4月26日、隼鷹の配備先が決定され、内令が下る。
    改装工事が終わり、1942年5月3日に竣工。海軍籍を持ったが特設空母の扱いだった。艦隊の集結地点である柱島へ回航し試運転を行った。その様子を僚艦の乗員に見られており、直立煙突に驚いていた。
  • こうして就役を果たした隼鷹であったが、出撃の時が目の前まで迫っていた。残された日数は僅か20日程度、乗員の訓練期間が短すぎた。
    また隼鷹の機関は特殊で、他の軍艦とは勝手が違った。高速こそ出せないが、日本空母の中で最も高圧・高温の機関を、機関要員は使いこなさなければならない。
    だが泣き言は言ってられない。隼鷹には岩国基地から零戦8機、九九艦爆19機が配備された。そして第四航空戦隊に編入され、角田中将の指揮下に入る。
    艦を視察した角田中将は「今はまだ、龍驤に一日の長があるが、いずれは旗艦として働いてもらう」と期待をかけた。
  • 戦力を秘匿するため、隼鷹には「UMI2」の暗号名が与えられた。

戦場へ

  • 初陣のミッドウェー作戦では第二艦隊の一員として北方のアリューシャン方面攻撃を担当。5月18日、佐伯湾で第六航空隊の機体が着艦し、出撃。
    隼鷹はミッドウェー島攻略後、同島に進出する第六航空隊の零戦12機を抱えていたため、搭載数がいつもより少なかった。同月20日、第四航空戦隊に編入され呉鎮守府所管特設空母となる。
  • 竣工後間もない隼鷹は、まともな訓練期間が取れないまま前線に投入される事になった。また敵情も不明で、アリューシャン方面は霧の多い気候と不安要素が山積した。
    隼鷹には猛将角田覚治中将が乗り込み、第二艦隊の指揮を執った。アリューシャン方面は6月でも寒かった。もし航空機が不時着水すれば、パイロットの命はほぼ助からない。
    また波も高く、空母ですら高速航行を阻まれるほど荒れていた。この海域は日本列島を縦断した台風が最後に向かう場所で、台風の掃き溜めと言われていた。
    それだけに大小の台風が矢継ぎ早に現れ、余計に海を荒れさせていた。荒天下に身を置く乗員たちの慰めとなったのは、クジラの大群とイルカの群れであった。
    駆逐艦に衝突されたらしく、流血するクジラとその周囲を囲みながら泳ぐクジラの一群が印象的だったという。
  • 5月27日未明、伊25潜から発進した小型水偵がアラスカのコジャック基地を偵察。第二艦隊に貴重な情報をもたらした。
  • 6月3日23時(現地時間)、ダッチハーバーの南西約180海里に到達した第二艦隊は早速第一次攻撃隊を発進させた。45機が出撃し、指揮は隼鷹航空隊の志賀大尉が執った。
    その後、カタリナ飛行艇から投弾されるが外れる。隼鷹隊は進撃中にPBY1機を撃墜。続いて地上施設や駐機中の飛行艇、自動車を銃撃した。しかし天候不良のため戦果が挙がらなかった。
    午前3時35分、全機帰投。第一次攻撃隊はマクシン湾に駆逐艦5隻を発見しており、角田中将は第二次攻撃を決意する。翌4日、午前5時45分に第二次攻撃隊が飛び上がった。
    PBY2機を撃墜するが、また天候不良に阻まれ、全機帰投する。敵機の空襲が考えられたが、天候が悪く雲層が低い事から恐れる必要は無いと判断。攻撃は続行された。
  • ミッドウェー方面で戦闘が始まった6月5日、水偵より、ウムナク島の飛行場にB-17が確認できないとの報告が入る。敵爆撃機は既にこちらに向かってきているのかもしれない。
    角田中将は対空戦闘の用意を下令した。相変わらず海は荒れている。船体が大きく揺さぶられる中で攻撃隊を発艦させるのは危険すぎるとして、時間を見合わせた。
    参謀と相談した上で、次の攻撃は出来るだけ熟練した航空兵を集めて行うと決めた。飛行甲板に零戦や艦爆が揚げられ、攻撃準備を行う隼鷹。しっかり係留しておかないと機体が海に転落しかねない。
    その時だった。第二艦隊はB-17爆撃機5機の襲撃を受ける。ぱらぱらとゴマのような爆弾が落とされ、高々と水柱を築き上げる。ただちに対空戦闘が始められ、護衛の艦艇が対空砲を撃つ。
    角田中将の命令で、第二艦隊はダッチハーバーに向けて猛進。攻撃隊の収容を容易にするためである。幸い命中弾は無く、対空砲火で1機のB-17が錐揉みしながら墜落した。
    対空戦闘の最中、連合艦隊より電文が届く。それは赤城加賀、蒼龍の被弾炎上を伝える絶望的なものだった。同時に第二艦隊は第一艦隊と合流せよ、と添えられていた。
    第二艦隊を助けを求めるほど追い詰められていると、角田中将は判断した。しかし上空にはB-17が飛び回っており、背中を向ける訳にはいかない。追撃されては命取りとなる。
    またウムナク島の大規模な飛行場を破壊せねば、アリューシャン攻略に支障をきたす。角田中将はその場に留まる事を選んだ。
    午前11時40分、三回目の攻撃を実施。合計31機が出撃し、今度は在泊艦艇や地上施設への攻撃に成功した。しかし迎撃も激しく、隼鷹の艦爆2機が撃墜され更に帰投中の2機が不時着して失われている。
    一方でP40戦闘機を6機を撃墜している。15時26分、第三次攻撃隊を収容。
    • 攻撃隊を収容中、こんなエピソードがあった。視界不良の中で必死に機体を操る搭乗員のため、角田中将は隼鷹より無電を発信し続けた。このおかげで何とか着艦に成功していた。
      ところが、とある1機の艦爆は被弾しており、無電の送信は出来るものの受信が出来ない状態であった。その艦爆から緊急電が飛んでくる。「我、機位を失す。探照灯つけられたし」。
      暗い海域で探照灯を照射すれば、敵潜水艦から丸見えである。ただでさえ無電の発信で危険を冒しているのに、これ以上危険を冒すのは無謀であった。
      逡巡している間にも「我、燃料後五分」と、悲痛な電文が寄せられる。沈黙が艦橋を支配する中、角田中将は「各艦、探照灯つけ!」と命令。驚いた参謀が一斉に角田中将を見やる。
      だが、一歩遅かった。「ただ今より着水自爆す」と電文を打ち、その艦爆は行方不明となった。角田中将は無言で海を見つめると「搭乗員は若かったのだろうな・・・」と漏らした。
  • ミッドウェーの大敗北を隠すため、短期占領に留めるはずのアッツ島及びキスカ島の支配は長期化を強いられた。一応、第二艦隊の作戦は順調に進んだ。
  • 主目標だったミッドウェー島の攻略が失敗し、第二艦隊は北上してきた瑞鳳や第三戦隊と合流。救助された蒼龍の生存者を駆逐艦から受け取った。
    一時は隼鷹をミッドウェー作戦に投入するとして南下させられたが、作戦中止。6月24日、大湊へ帰投した。
    第六航空隊の機体はそのまま隼鷹搭載機となり、パイロットのみ引き上げた。呉へ入港する時、進路を誤って座礁する事故が発生。石井艦長はその責任を問われ、左遷されたという。
    • 沈没する飛龍から脱出した機関科要員34名は後に米軍に救助され、捕虜となった。その後の尋問の際、米軍の情報士官から就役したばかりの隼鷹の写真を見せられ、驚愕したという。
      当時、隼鷹の存在は軍機だったのである。これは情報が漏洩している事を意味していた。
  • ミッドウェー海戦が惨敗に終わり、空母の数を減らした帝國海軍にとって隼鷹は貴重な大型空母だった。早速再編成が行われ、新生第二航空戦隊の一員となった。
    7月1日、飛行隊が岩国で訓練開始。7月3日、母艦の隼鷹が瀬戸内海に到着。8日には飛行隊が鹿児島へと移動した。7月14日、特設空母から航空母艦に類別。
    8月13日、呉工廠に入渠。日本空母初の21号レーダーを装備した。22日に出渠。9月14日、佐伯湾で総合訓練を実施。
    • ミッドウェー海戦を生き残った搭乗員は口封じのため、大隈半島の笠ノ原飛行場に軟禁されていた。外出は禁じられ、山の奥でひっそりと過ごす日々が続く。
      最初はお互いに遠慮し合っていたのだが、空母4隻を喪失したという現実に向き合わなければならなくなると荒み始めた。口論や喧嘩が増え、落ち込む者も出てきた。
      そんな中、彼らに朗報が届いた。新型空母が2隻完成したのでそれに乗り込めというものだった。その2隻こそが隼鷹と飛鷹であった。
      こうして隼鷹の下に蒼龍や飛龍の搭乗員が転属し、練度が向上した。
  • 間もなく形成されたソロモン戦線及びガダルカナル島争奪戦に投入。9月20日、発電機火災で反転した姉妹艦の飛鷹から第二航空戦隊旗艦の座を譲り受ける。
    10月4日、佐伯湾を出港しトラック諸島へ向かう。
    • 10月13日にガダルカナル島砲撃部隊の上空支援を行ったあと、10月17日午前4時15分、9機の艦載機がガダルカナル島泊地攻撃に向かう。800kg爆弾を抱えた艦攻が編隊を組み、零戦隊が護衛する。
      ところが発進後、すぐに誘導機が故障か何かで引き返してしまう。案内人を失ったものの艦攻隊は問題なくガダルカナル島上空に到達。目標に向けて爆撃を行おうとするが、
      技量に劣る分隊長の伊藤大尉が爆撃をやり直そうと、爆弾を落とさないまま目標を通過して左へ旋回。これを見た零戦隊は爆撃完了と見なして、その場から離れてしまう。
      そこへグラマンの迎撃に遭い、艦攻が次々に餌食となる。結果、隼鷹隊を中心に艦攻10機と零戦1機を失う。全滅に近い損害で、飛鷹航空隊の搭乗員は隼鷹隊が忽然と消えたように見えたという。
      同日、隼鷹隊の援護を受けた戦艦金剛霧島がヘンダーソン飛行場を砲撃したが、翌日には何事も無かったかのように150機が駐機していた。
      大損害を受けた隼鷹だったが、後退した飛鷹より航空機の補充を受け体勢を立て直す。
      • 被弾した一部の機体はガダルカナル島へ不時着。ある搭乗員は、グラマンの機銃に右腕をもぎ取られ、敵巡洋艦に突入しようと考えたが、後部の偵察員の声で我に返り、不時着を決意。
        ガダルカナル島西部に墜落した。その後、何とか救出され、ガ島の野戦病院に収容されたのち駆逐艦白雪に乗って生還している。
        とある艦攻は浜辺に墜落。その機体は3人乗りだったが機長は頭部に弾丸が貫通して即死。1人は無事だったが、残りの1人は大腿部を機体に挟まれ苦しそうだった。
        彼を救助すべく、無事だった者と後から合流した生存者が四方八方手を尽くしたが、工具が無いため救いようが無かった。徐々に衰弱していく彼にヤシの実の汁を飲ませるも、諦めの色が出始めた。
        そして「爪と髪を母に・・・」と言い残し、ガックリと息絶えた。2人は涙を流し、遺体にヤシの実と草花を添えて、翌日その場を去った。
        結局爪と髪を母親に渡す事は出来なかったが、2002年3月24日に生存者の1人が遺族と会い、彼の最期を伝えた。
  • 10月22日、隼鷹はガダルカナル島東方から南下。翌23日の陸軍総攻撃を支援するため、遊弋を開始する。
  • 続く10月26日、南太平洋海戦に参加。戦闘開始直後はガダルカナル島の米軍に攻撃を仕掛けていたが、第一次攻撃から戻った各空母の艦載機が続々と隼鷹に着艦。
    矛先を米機動部隊に向け、攻撃隊を送り出した。この攻撃で空母エンタープライズに至近弾を与え、戦艦サウスダコタと巡洋艦サンファンにそれぞれ1発の爆弾を喰らわせた。
    この時、敵部隊は航続距離の範囲外に位置していたが、隼鷹が全力で前進して帰還機を迎えに行き、回収した。隼鷹航空隊は9機を撃墜、5機不確実を報じた。損害として2機が未帰還、3機が不時着。
    艦長の角田中将は第三次攻撃を命令したが、既に飛行隊長と分隊長は戦死し、使える機体も艦爆4機と艦戦9機しかなかった。それでも攻撃を強行、艦爆隊は零戦に守られながら飛び立った。
    この第三次攻撃で空母ホーネットは致命傷を負い、船体は放棄された。そして未帰還機はゼロと、華々しい戦果を挙げた。これによりアメリカ軍の稼動空母は一時的にゼロとなった。
    午後11時24分頃、敵飛行艇2機が隼鷹に雷撃を仕掛けてきたが、命中しなかった。10月30日、トラック諸島へ帰投した。
    • 隼鷹分隊長の重松康弘大尉は、攻撃隊を護衛して出撃した。しかし故障により母艦に引き返す必要が出てきた。重松大尉は着艦するとすぐに機体を乗り換え、
      瞬く間に単機で攻撃隊の後を追ったという。彼は小柄だが、運動神経の塊と評されていた。
    • この戦果は、アメリカ軍に大きな衝撃を与えた。ミッドウェーで壊滅した南雲機動部隊を「アホウドリ」と揶揄したウィリアム・ウィンターというアナウンサーは、
      「この日ほど悲惨な海軍記念日を迎えた事は、アメリカ海軍創始以来初めてである」と歯軋りしながら悔しがった。
    • 南太平洋海戦終了後、戦力の出し惜しみをする連合艦隊司令部に対し角田中将は「戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、山城、扶桑を飛行場砲撃に投入しろ」
      「ガダルカナルに隼鷹を投入して制空を行うから、戦艦群を飛行場沖に居座らせて徹底的に砲撃しろ」と迫ったという。しかし動かす油が無いと一蹴されてしまった。
      この時、出撃可能な空母は隼鷹ただ1隻のみだったので、仮に行われても制空権を奪取されて腹筋ボコボコにパンチ喰らうのが関の山だったと思われる。
  • 11月9日から13日にかけて、ガダルカナル島北方を遊弋。12月18日よりム号作戦に参加。陸軍のウエワク輸送作戦に協力した。20日、作戦終了しトラックに帰投。
    環礁外で対潜掃討に従事し、之字運動を行った。竹島に用意してあった九七式艦攻が掃討中の隼鷹に着艦し、その直後からウエワク作戦に従事し始めた。
  • 12月における隼鷹の艦載機は、零戦27機、九九式艦爆12機、九七式艦攻9機の計48機であった。
     
  • 1943年1月15日、護衛の駆逐艦五月雨が対潜掃討を行った後、トラックを出港。第二航空戦隊の司令部をカビエンからウエワクへ移動させるため、その搭載機を洋上で発進させた。
    17日、ウエワクに進出した隼鷹航空隊は船団護衛に従事する。1月20日朝、B-24がウエワク港内の船舶を爆撃したが隼鷹隊の活躍で2機を損傷させた他、
    佐藤隆亮上等飛行兵曹の機がB-24に体当たりして撃墜するという壮絶な一幕もあった。この活躍により船舶への被害は全く無かった。
  • 1943年1月29日、争奪戦に敗れた帝國陸海軍はガダルカナル島より撤退。隼鷹は第二次撤退作戦を支援するべく、囮の機動部隊を編成。上空から援護を行った。
    2月16日、第二水雷戦隊の護衛とともにトラックを出港。21日、佐伯湾に帰投。3月3日、摂津を標的艦として訓練。そして3月22日に佐伯湾を出港した。
  • 同年3月27日、トラック基地へ入港。戦艦大和を標的として急降下爆撃の訓練を行った。
  • ろ号作戦により搭載機が陸上基地に供出される。搭載機を失った隼鷹は輸送船として運用される事になる。
    • 4月7日、抽出された隼鷹隊機はガ島方面の敵艦船を攻撃。他の空母から転用された機体と合わせて148機に及んだが、数隻程度の撃沈しか出来なかった。
      米軍の迎撃も激しく、多くの機体を損耗した瑞鳳瑞鶴は一部の搭乗員と機材を隼鷹及び飛鷹に託し、内地へ戻った。6月16日、隼鷹艦載機はルオット島へ進出。
      7月からはソロモン方面で戦闘を行ったが、僅か二ヶ月で損耗してしまい、残余の機体は現地部隊に吸収された。
  • 6月19日、隼鷹は駆逐艦谷風とともに沖島を出撃。第二哨戒配備についた。
    • トラック泊地に停泊する隼鷹での艦内生活は、味気ないものだった。ミッドウェーの戦訓から艦内の可燃物は極力陸揚げされており、木製の額や机、寝室の壁の木材まで取り払われた。
      私服、図書、書類といった最低限のものだけが残された。トラックの気候は熱帯であったが、艦上では熱射病の恐れが無いので、乗組員は半袖半ズボンの格好で過ごしていた。
      2万4000トンの大型艦にも関わらず、隼鷹には冷房が装備されておらず扇風機しか無かった。司令官室にすら通風装置しか無い有様で、とにかく暑かった。
      アイスクリームを作る装置も無く、乗員は給糧艦伊良湖の来航が待ち遠しかったという。しかし1ヶ月に来るか来ないかの確率であった。
      トラックには農園が無いので野菜不足が懸念された。主食に困る事は無かったが、副食は缶詰に頼らざるを得なかった。伊良湖が来航すれば一時的に解決されるのだが。
  • しばらくトラック諸島に停泊していたが、1943年7月19日に出港。25日に呉へ入港し、翌日から入渠。飛行甲板左舷後部の110cm探照灯を撤去し、そこに21号電探を設置。
    同時に25mm三連装機銃4基も増設されている。7月31日に出渠。8月9日、呉を出港していった。
    8月15日、第331航空隊を乗せて大分県の佐伯湾を出港。シンガポールを目指して南下していたが、27日に入港を取りやめて届け先をスマトラ島北部のサバンに変更。
    サバンの北650海里で航空隊は隼鷹から発進。艦戦35機、艦攻18機の計53機がサバンへと向かっていった。輸送を終えた後の28日、シンガポールのセレター軍港に入港。整備を行い、9月4日に出港。
    1週間後に呉軍港へと辿り着いた。9月19日、岩国港を出港。陸軍部隊の輸送作戦こと丁一号作戦に従事。彼らをトラック諸島へと無事に送り届けた。
  • 1943年11月5日、豊後水道の南東で米潜水艦ハリバットの雷撃を受ける。暗号解析により待ち伏せされていたのだ。艦尾に魚雷が命中。4名の死者を出し、大破した。
    隼鷹が巨体だったため、ハリバットは翔鶴型撃破と誤認したようだ。間もなく護衛艦から爆雷13発が投下され、ハリバットは逃げ去った。この時、戦艦戦隊が同行していたが
    「我、候補生乗艦中。お先に失礼。利根は隼鷹を曳航して呉に向かえ」と信号を送り、そのまま豊後水道へ滑り込んでしまった。利根1隻に押し付けた格好である。
    ちなみに戦艦に乗艦していた候補生は当直の者を除いて、隼鷹の被雷を知らなかったという。佐伯航空隊から2機の艦爆が対潜を行い、利根からも水上機が発進して上空哨戒を行う。
    その間に手負いの隼鷹は重巡利根に曳航されて、どうにか呉まで戻った。18日、戦艦山城より少尉候補生が隼鷹に移乗した。
    11月19日より修理を受けると同時に、客船時代に塗られた可燃性のペンキを剥がす作業が行われた。翌20日、江田島の海軍兵学校を卒業した少尉候補生7名が乗艦。
    11月25日、出渠。しかし12月21日に再度入渠する。
     
  • 1944年1月25日、隼鷹航空隊がラバウルに進出するが米軍機の激しい攻撃により損耗。2月20日にはトラックへ後退させられている。
  • 2月29日、修理が完了し出渠。3月26日より呉や岩国沖で活動する。5月6日、佐伯湾に入港。長らく航空機無しの状態が続いていたが、ここでようやく第652航空隊が乗艦。
    久々に艦載機を手にする事が出来た。零戦27機、彗星9機、九九式艦爆9機、天山6機を搭載する。同月10日、艦隊の一員として佐伯を出港。16日にタウイタウイへ入港した。
    6月8日、特設運送船北上丸から食糧品の補給を受ける。13日、タウイタウイへ回航。翌日にはギマラス泊地へ向かっている。15日、ギマラスを出撃。窮地のサイパン島を救うべくマリアナ諸島方面へ向かう。
  • 同年6月19日、マリアナ諸島の覇権を巡ってマリアナ沖海戦が生起。隼鷹は第三航空戦隊の一員としてこの決戦に挑む。午前8時30分、隼鷹から触接機の天山2機が出撃。
    午前9時15分、索敵機が発見した敵機動部隊「7イ」を攻撃するため、零戦5機と爆撃機9機、誘導用天山2機が出撃。第一次攻撃隊を形成して敵に向かっていった。
    1時間後の午前10時15分、第二次攻撃隊が出撃。零戦6機、九九艦爆9機が隼鷹から飛び立った。15分後には彗星9機が出撃。発艦後、彗星2機が脚故障によりヤップ島へ向かう。
    送る側もパイロット側も悲壮感に満ちた表情を浮かべていたという。
  • 午前11時40分、触接機が予想地点に到達するも敵艦隊発見できず。5分後に第一次攻撃隊が到達し、捜索を始める。正午頃、敵戦闘機40機の襲撃を受け、編隊を崩しながら退却を始めた。
    13時14分、第二次攻撃隊が予想地点に到達。やはり会敵ならず、捜索を始める。39分後、捜索を諦め大宮島に向かう。15時、大宮島上空に到達したその時、グラマン戦闘機30機の待ち伏せを受け交戦。
    燃料が少なくなっていた第二次攻撃隊は苦戦を強いられ、零戦15機、九九艦爆9機、天山2機が撃墜される大損害を受けた。
    13時40分、隼鷹から出撃した彗星隊が敵艦隊を発見。護衛のグラマンともども交戦状態に入る。10分後、「敵の空母を爆撃、敵1隻火災」という発信者不明の電文が届いた。
  • 翌20日、米機動部隊の反撃が始まる。第三航空戦隊は激しい攻撃に曝され、艦橋後部に2発の命中弾を受けて煙突が全壊、方位測定儀が半壊する。
    また多数の至近弾により発着艦装置も壊れ、50名の死者が出た。この被害で隼鷹は戦闘能力を喪失し、姉妹艦の飛鷹は撃沈、龍鳳ただ一隻が猛攻を捌いた。
    米軍機は空母に集中攻撃をかけ、直衛の駆逐艦には目もくれなかった。約40機が容赦の無い猛攻を加えてくる。爆炎と黒煙を吐き出しつつも、隼鷹は耐え凌いでいた。
    艦内は回避運動により激しく揺れ、また被弾の衝撃で電灯が消えていた。対空砲を発射する音が絶え間なく続く。飛行甲板には無数の弾痕と肉片があり、腹を撃ち抜かれた乗員が手すりに寄りかかる。
    めくれ上がった鋼板には黒こげとなった乗員が遺体となって引っかかっていた。この世の地獄が、眼前に広がっていた。
    致命傷を負った隼鷹にトドメを刺そうと敵機が突っ込んできたが、間一髪のところで長門が砲撃し、かろうじて難を逃れている。
    海戦終了後、戦死者を弔う海軍式の葬送式が執り行われた。僧侶出身の兵曹が読経し、半紙に書かれた軍艦旗を1枚1枚戦死者に供えた。
    この時の損傷により、煙突周りの空中線支柱と蒸気捨管が大きく変化している。
  • 満身創痍の隼鷹は沖縄を経由して6月24日に瀬戸内海西部に帰投。決戦に敗れ、マリアナ諸島は米軍に包囲された。7月3日、呉に入港。6日より入渠し、修理を始めた。
    同時に対空兵装の強化と13号、21号レーダーが新たに装備された。13号レーダーは元々陸上用の物だったが、コンパクトで分解運搬可能、それでいて優秀な性能と非の打ち所が無かった。
    飛行甲板後部にある甲板室の後ろを延伸し、信号マストと一体化。甲板室の天井に25mm三連装機銃1基と単装機銃2門を追加。艦首にも同数の対空機銃が増設された。
    艦橋の飛行甲板右舷にあった60cm探照灯を撤去し、代わりに25mm三連装機銃1基を装備。
  • 7月10日、第四航空戦隊へと転属。第652航空隊は解隊となり、また艦載機が無くなってしまう。4日後に瀬戸内海西部に回航され、訓練を行った。8月21日から呉、柱島、岩国沖を往来。リハビリに徹する。
    10月28日、佐世保軍港へ回航。
  • 日米の天王山、レイテ沖海戦が10月24日に生起した。持てる戦力をかき集めての総力戦、本来なら隼鷹もこの戦闘に投入されるはずだったのだが・・・。
    1ヶ月前に発生した台湾沖航空戦の影響で航空機が激減。隼鷹に載せる機体が無くなってしまい、またマリアナ沖海戦の傷を癒すため内地での待機と相成った。まさに幸運である。
  • 佐世保に停泊中の隼鷹に、高千穂降下部隊が乗艦した。ブラウエン飛行場奪還を行う、かの部隊を隼鷹が輸送するのだ。同時に大量のトラックや戦車が積み込まれ、
    航空機の代わりに飛行甲板を占有した。それに伴って航空要員は姿を消し、艦内は陸軍の兵士が物珍しそうに徘徊する。彼らは何処に行くにしても重武装で、武器を手放さなかった。
    このため狭い艦内ですれ違う時は一方がうつ伏せになり、もう一方がそれを踏んづけて行き交うのである。付いたアダ名はカニ族だったという。
  • 10月30日、佐世保を出港。米軍が上陸し、窮地に立たされているフィリピン方面への輸送任務に就くが、11月2日、ルソン島沖で護衛の秋風が米潜の雷撃から隼鷹をかばい、撃沈されている。
    この時、夕方だったため艦影がしっかり見えず、沈没した時の水柱で初めて秋風の異常に気がついたという。沈没はあっと言う間だった。
    何とかブルネイへ入港し、戦艦大和に砲弾を補給した。ブルネイ入港後の11月10日には駆逐艦卯月と衝突事故を起こしている。15日、栄えある第一航空戦隊に転属。
    レイテ沖海戦で撃沈された武蔵の生存者200名を乗せた隼鷹は、戦艦榛名等とともに出港し本土を目指した。11月30日、マニラ沖で米潜ハードヘッドに発見されるが攻撃はされなかった。
    12月3日、台湾の馬公へ入港。束の間の休息を得る。ここでレイテ沖海戦を生き残った戦艦榛名が合流。6日に馬公を出港した。
  • 1944年12月8日、米潜レッドフィッシュに発見され応援を呼ばれる。翌日、野母崎の南西で米潜シーデビルから2発の魚雷を喰らい、中破。この雷撃で艦首を失い、18度傾斜。速力も13ノットに低下した。
    先のレイテ沖海戦で沈没した武蔵の生存者が約200名便乗していたが、被弾の衝撃で沈むと早合点した者が海に飛び込んだ。が、艦長の判断で救助はされなかった。
    榛名からの指示で、先行していた護衛の駆逐艦槇(まき)が隼鷹の後方へ回ろうとした。その時、槇は新たな魚雷が隼鷹に伸びていくのを探知。このままでは隼鷹に直撃する!
    槇は自らの体を盾とし、最も被害を抑えられる艦首で魚雷を防いだ。艦首は失ったものの、機関は健在で浸水も軽微。航行可能だった隼鷹ともども、すぐさま佐世保へと逃げ込んだ。
    入港後、隼鷹乗組員からの感謝の言葉が絶え間なく掛けられたという。
     
  • 修理中の1945年1月1日、再編成が行われ第一航空戦隊は第二艦隊に編入される。もはや第一航空戦隊に往時の栄光は無く、ただの寄せ集め部隊に過ぎなかった。
    正月を迎え、艦内では酒宴が催された。その後、飛行甲板で記念撮影が行われた。
    2月11日、第一航空戦隊から外される。4月1日、佐世保軍港外の恵比須湾に回航される。爆撃の標的にならないよう偽装してから係留された。
    艦橋を漁網で覆い、飛行甲板には杉や松を始めとする雑木林を植え、植木鉢には担当官が水をやった。
    4月20日、修理終了。深刻な資材不足により破孔を塞いだだけの、やっつけ修理しかする事が出来なかった。主機が直っておらず、以降は佐世保に係留されたまま過ごす事になる。
    5月10日、最後の艦長となる前原大佐が着任。6月1日、特殊警備艦に類別される。
    6月28日深夜、雨の中をB-29が侵入し、佐世保市が大空襲を受ける。市街地を狙った空襲で、軍港は無事だったが隼鷹は何もする事が出来なかった。街は灰燼に帰した。
    7月2日、米軍機が飛来し恵比須湾を空撮。偽装中であるはずの隼鷹がはっきりと写り、位置を特定されている。写真に添えられた名前は「HAYATAKA」。
    慣れない漢字の読み方を必死に考えた結果なのだろうが、読み間違えている。ちなみにCVと書かれており、アメリカ軍は隼鷹の事を正規空母だと思っていたようだ。
    同月中、B-29が飛来。乗員は「偽装がバレたのではないか?」と身構えたが、敵は爆弾の代わりにビラを撒いていった。それには「私たちは爆撃に来たのではありません。
    船の上の木が枯れています。植え替えてください」と書かれていたという。挑発を兼ねたアメリカ人のジョークだった。
  • このままの状態で隼鷹は終戦を迎える。戦争には生き残ったものの、損傷が激しかったため復員船には使用されず、11月30日に除籍。
    武装解除され、無防備となった隼鷹の姿が写真に収められている。武装を失ったため軽くなり、喫水線が見えている。
    1946年6月1日、佐世保で解体工事が始められ翌年8月1日に完了。平和の象徴たる客船として生まれるはずだった彼女の運命は、戦争によって大きく捻じ曲げられてしまい、
    客船に復帰する事無く隼鷹はこの世を去った。一応、客船復帰案もあったが実行されなかった。
    解体によって生じた資材は、戦後の復興を支える重要な物となった。
  • 開戦劈頭から戦闘に参加し、終戦まで生き残った大型空母は隼鷹ただ一隻である。商船改装空母で生き残ったのも隼鷹と海鷹だけであり、いかに過酷な戦争だったかを物語っている。
 

小ネタ

余談

  • 完成する事が無かった橿原丸だが、完成予想図の模型が三菱重工長崎造船所資料館に展示されている。船内インテリアデザイン画も飾られている。
  • 橿原丸の空母改装が決まったとき、船内では女性のすすり泣く声が聞こえてきたという。泣き声は改装が終わり、艦隊に編入された後も続いた。
    止まったのは南太平洋海戦が終わった頃だった。船霊が空母として生きると決意したのだろうか。
  • 隼鷹は空母でありながら、改装後しばらくは艦首に菊の御門が無かった。ガダルカナル方面に進出した頃にようやく取り付けられたらしい。
  • 1942年5月1日、戦艦大和の艦内でAL作戦及びMI作戦の図上演習が行われた。その結果、隼鷹は沈没と判定されてしまった。
  • 1984年、元乗組員6名によって隼鷹戦友会が発足。元々は乗組員だけの会だったが活動を続けていくにつれ、南太平洋海戦で隼鷹に救助された他艦の乗組員や便乗の高千穂部隊の隊員が加わった。
    気がつけば、陸海軍の兵士が酒を酌み交わす珍しい戦友会となっていた。1983年、呉海軍墓地に隼鷹の慰霊碑が建立された。1991年、その慰霊碑のすぐ左に駆逐艦秋風の慰霊碑を建立。
    「秋風が身を挺してくれたからこそ、今の自分たちがいる」という念から建立に至ったのだという。互いに顔を合わせた訳でも無いのに、である。
    遺族探し、佐世保鎮守府所属の秋風の碑を呉海軍墓地に建てる交渉など多くの難題を乗り越えて実現した。精力的な活動を続けていたが、2005年に解散となった。
  • シブヤン海で沈んだ戦艦武蔵の乗員は、その後マニラ防衛戦に投入され殆どが戦死した。一方、隼鷹に乗って本土に帰還し、生き残った者も少数ながら存在した。
    彼らは佐世保で降ろされた後、監視が付けられた。武蔵の沈没を隠蔽するためである。横須賀への移動中や海兵団での生活にも番兵が付いていたという。
    ちなみに武蔵沈没を知った隼鷹乗員は、敗色濃厚である事に薄々気が付いたという。
  • 元々豪華客船だった隼鷹だが、当時の乗員は特に客船だと意識した事は無かったという。ただ速力の低さが難点だと思っていた模様。
    また隼鷹は大きな食料庫を持っていたため、三食欠かさず食事を摂る事が出来たらしい。他の軍艦同様に隼鷹にも艦内新聞(?)が発刊されていた。
  • 一部資料によると、隼鷹に12cm噴進砲が装備されていたとの事。しかし他に証言や資料が無い事から確証は無い。
  • 隼鷹が解体された時、その船底から亞鉛バラストが504個、亞鉛地金が384枚、電氣銅が140枚、故銅の地金が293箇、鉛バラストが437箇、亞鉛バラストが96箇が持ち出され、
    1947年4月頃に佐世保工廠第四ドックに隠された。後に衆議院会で言及されている。