No23 加賀/元ネタ解説

Last-modified: 2023-03-31 (金) 18:25:11
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型加賀型戦艦→航空母艦加賀(1923)
正式名称加賀(かが)
名前の由来加賀 旧令制国 加賀国 (現日本国石川県)
起工日1920.7.19
進水日1921.11.17
就役日(竣工日)(1928.3.31)
除籍日(除籍理由)1942.8.10(ミッドウェー海戦/英Battle of Midway 1942.6.5沈没)
全長(身長)234.09m→238.51m(1928)→247.65m(1935)
基準排水量(体重)?→26900英t(27331.7t)(1928)→38200英t(38813.0t)(1935)
出力ロ号艦本式重油専焼缶12基Brown-Curtis式蒸気タービン4基4軸 91000shp(92262.1PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶8基Brown-Curtis式蒸気タービン2基艦本式蒸気タービン2基4軸 127400shp(129167.0PS)(1935)
最高速度27.5kt(50.93km/h)→28.34kt(52.48km/h)(1935)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/8000海里(14816km)
→16.0kt(29.63km/h)/10000海里(18520km)(1935)
乗員1271名(竣工時) 1705名(改装時)
装備(戦艦計画)45口径三年式41cm連装砲5基10門
50口径三年式14cm単装砲20門
45口径十年式12cm単装高角砲4門
61cm魚雷発射管8門
装備(建造時)50口径三年式20cm連装砲2基4門単装砲6基10門
45口径十年式12cm連装高角砲6基12門
九三式13.2mm機銃x8(4x2)
艦載機x60
装備(1938)50口径三年式20cm単装砲10門
40口径八九式12.7cm高角連装砲8基16門
九三式13.2mm機銃x12(6x2)
九六式25mm機銃x28(14x2)
艦載機x72+18
装甲(戦艦計画)舷側:11inch 甲板:2.5+1.5inch 砲塔:9~12inch 艦橋:14inch 隔壁:9~11inch
装甲(1935)舷側:5inch
建造所川崎造船所社 (現 川崎重工業船舶海洋カンパニー神戸工場) (日本国兵庫県神戸市)
艤装横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)
 
戦艦「加賀」から航空母艦「加賀」へ
  • 元々は帝國海軍が建造するはずだった加賀型戦艦1番艦。長門型の拡大発展型として、第9号甲鉄艦(八八艦隊計画三番艦)の仮称を与えられて建造が決定。
    1918年5月16日、軍艦加賀と命名される。1920年7月19日、川崎重工神戸造船所にて起工。1921年11月17日に進水式を挙行し、伏見中将宮殿下が臨席した。
    1922年12月15日に竣工する予定だったが、建造半ばでワシントン海軍軍縮条約締結により建造中止。一応進水はしたが、横須賀に回航されて処分を待つだけの存在となってしまった。
    • 加賀の建艦には約2500名の職工が充てられていたが、建造中止により仕事を失ってしまう。だが川崎造船所は「失業者は1名も出さん」と宣言。
      2隻の特務艦の建造が決定していたため、浮いてしまった職工をそのまま充てたのだった。
    • 加賀の建造期間は約16ヶ月とされていた。これは当時の世界記録を破る驚異的な建艦速度で、1921年10月27日の大阪毎日新聞で取り上げられた。
  • そのまま解体され、材料になる予定のはずが実行前に関東大震災が発生。温存されるはずだった巡洋戦艦天城が震災で大破し、放棄される事が決定したため急遽穴埋めのために加賀が残される運びとなり、ワシントン条約の承諾を得て空母へと改装される事になった。1923年11月19日、加賀型航空母艦に艦種を改め、12月13日より工事が始まった。
    1925年4月22日、加賀は二度目の進水を迎える。1927年8月24日、竣工前に基本演習に参加するが、美保関事件に遭遇する。1928年3月31日、竣工。佐世保鎮守府所属となる。
    最初の任務は、加賀に搭載されている30フィートのカッター2隻と伝馬船1隻を戦艦比叡に譲渡する事だった。えーどうしてぇ・・・。
  • 形式上、引き渡しは完了した事になっているが、事実上は第四予備艦として工事が続行されていた。同年12月4日の特別観艦式に参加するため、9月から公試を開始。27.5ノットを記録した。
    特別観艦式に参加した加賀は、外見上は完成状態にあった。しかし肝心な航空艤装は未了で、20cm砲も搭載されていなかった。
    幸い、1928年3月25日に加賀の改装費2800万円を勝ち取っていたため、滞りなく改装を行う事が出来た。1929年に入っても工事は続けられ、年末の12月6日にようやく完了。
    • 改装中の1928年11月22日、加賀国(石川県)在住の総代加藤八太郎と倉知知誠夫両人から、兼六公園霞ケ池景木彫額一面が献納された。
      1929年5月7日、艦載の内火艇1隻を戦艦山城に貸与。山城が9月上旬に横須賀へ帰投するまで、貸し出している。
  • 発着艦訓練を行うため横須賀航空隊に預けていた艦攻や戦闘機28機を収容。8日に母港の佐世保へと向かった。これに先立って11月30日、加賀は第一航空戦隊に編入され、旗艦の座を赤城から譲り受けている。
    1930年、赤城と初めて艦隊行動を取るも、年末に佐世保工廠へ入渠。フランスから仕入れたフュー式制動装置を搭載した。同時に13.2mm連装機銃4基も装備された。
装備と予算、演習
  • 基本排水量2万6900トン、全長238.5メートルの巨体を誇る加賀は、赤城同様に三段式飛行甲板を採用したが使い勝手は悪かった。また長大なダクトを艦内に通したため、隣接する区画が蒸し焼きにされた。
    更に艦尾から排煙される仕様だったが故に煙で発着艦にも支障が生じるという、設計にかなり欠陥がある艦として生まれてしまった。
    当時は試行錯誤の時代で、またジュットランド沖海戦から間もない頃だったため、加賀は敵巡洋艦との戦闘を想定して20cm砲10門を装備した。空母そのものに重武装を施したのは、後にも先にも加賀だけである。
    対空兵装として12cm連装高角砲6門を装備したが、反舷側への射撃が出来ない欠点を抱えていた。これらの火砲は実戦はおろか演習でも殆ど使用されなかったらしい。
    20cm砲は重巡の主砲で、それを10門も装備していた加賀は空母でありながら妙高型に匹敵する大火力を有していたのである。
    この火砲は赤城にも装備されたが、途中で撤去された。一方で加賀は戦没するまで装備していたという。一説によると撤去費用が工面できなかったらしい。
  • 艦内神社として石川県の白山比神社から分祀を受けている。小型の社殿が寄贈された。
     
  • 艦隊役務中、どうしても必要として加賀艦長から信号弾600個の補充を佐世保鎮守府に依頼。1930年2月7日、鎮守府より認許の回答があった。
  • どの国も、予算不足は強敵であった。1930年10月下旬、昭和六年度予算を獲得するため海軍省は予算閣議に意見を送った。特に加賀の航空機維持費は是が非でも復活させたかったようである。
  • 予算獲得に向けて各省庁に権謀術数が渦巻いている頃、同年10月18日午前6時から21日未明にかけて、昭和五年度海軍特別大演習が本土南方で行われた。演習には昭和天皇が臨席。
    参加艦艇は186隻、人員は約6万5000人と大規模であった。行うのは攻防対抗演習で、艦隊は赤軍と青軍の2つに分かれる。前者が攻撃側、後者が防衛側である。加賀は青軍に属した。
    19日、帝都と青軍本拠地横須賀に空襲を仕掛けてきた赤軍・赤城の艦載機に対し、鳳翔と共同で迎え撃つ。演習最大の熾烈な空中戦が行われた。
    翌20日も両軍とも激しくぶつかり合った。が、この日から次第に天候が悪化し始めてきた。21日に潮岬沖合いで最後の決戦を行い、演習は中止となった。
    この演習は貴重な経験を生み出し、加賀の最適な運用法を掴む糸口にもなった。演習中、軽巡阿武隈が北上と衝突。1名の機関兵が行方不明になっている。
  • 1930年12月4日、羅針盤橋通信科事務室間伝声管を増設。また同年、艦長の河村大佐と20数名の乗員が石川県白山市に参拝。その時、料理旅館和田屋に2日滞在、当時珍しかったコーヒーを堪能した。
  • 1931年5月28日、艦首繋留用錨鎖孔を新設。
1932年1月〜 初陣、改装工事
  • 1932年1月9日、上海の新聞社こと民國日報は桜田門事件の記事で「不幸にも天皇が生き残ってしまった」と書く。これを受けて上海在住の邦人が激怒。
    同月18日には日本人僧侶襲撃事件が発生し、1名の僧侶が死亡。*1怒り狂った在住邦人は犯人の拠点となった三友寶業社を襲撃し、1名が射殺、1名の警官が斬殺された。
    民國日報はこの事件を「帝國海軍陸戦隊が支援した」とデマを書き、塩沢少将と論争になった。上海市に抗議するため帝國海軍は加賀とともに巡洋艦2隻、駆逐艦12隻、陸戦隊925名を上海近海へ繰り出した。
    この脅しによって上海市長は、日本側が提示した要求を全て呑み込むが、これに反発した中国人が市役所を襲撃。中国当局は日本人を含む全ての外国人は租界に避難するよう通達した。
    中国当局から退却するよう指示された蒋介石は、前線の部隊に後退を命じた。ところがその部隊が後退に応じず日本軍の部隊を襲撃。90名以上が死亡する事態となった。
    すかさず帝國海軍は応戦し、第一次上海事変が始まった。
  • 1932年1月29日に勃発した第一次上海事変で加賀は鮮烈なデビューを飾り、対中戦に参加。作戦に空母が参加した初の事例となった。上海市上空の偵察を行った後、市内を爆撃した。
    31日、艦載機17機が上海上空で示威飛行を実施。危険を察知したのか、国民党は首都を洛陽へと移す。
    2月に入ると上海の沖合30キロに配置された加賀から艦載機が飛び立ち、地上部隊と呼応して市街地に爆撃を行った。
    2月22日、加賀所属の三式艦戦3機が艦攻と協同で、ボーイング218を機銃にて撃墜。パイロットはロバート・ショートという、中国軍に雇われたアメリカ軍の中尉だった。
    ロバート中尉はそのまま墜落死。中国に肩入れしていたアメリカを非難すべく、上海の村井総領事からカンニンガム総領事に抗議文を提出した。
    ともあれ、これが帝國海軍初の空中撃墜の戦果となった。そして両軍の停戦まで戦い続け、3月3日の上海事変終息を見届けた。同月25日、加賀に研究用兵器が供給された。
    内訳は機銃弾頭塗料(赤)(青)(黄)、機銃手入用フランネル、ニッケルソルベント等である。
    5月5日、上海停戦協定が成立。中国側の非が認められ、上海に近づく事が出来なくなったとか。
  • 世界に自らの存在を知らしめたためか、1932年度のブラッセー海軍年鑑に加賀の事が掲載された。
    「加賀は元々4万2000トンの巡洋戦艦として起工されたが、今は排水量2万6900トン、速力25ノット、搭載機数60機の航空母艦と化している。またスペリー式動揺止装置をも備えている」と紹介された。
    補足として加賀と赤城は、アメリカ海軍のレキシントンサラトガに相対する存在としている。
  • 1932年6月10日、佐世保湾に停泊する加賀を標的として対艦訓練を行っていた村岡健寿海軍一等航空兵の機体が、飛行中に艦橋へと接触。そのまま海面に墜落し、殉職する事故が発生した。
    2日後、村岡航空兵に白色桐葉章が授けられた。7月18日、館山への航海中に行われた演習で、1kg爆弾による爆傷事故が発生。事故の原因は渡辺三空曹(殉職)と現場の指揮官の不注意とされた。
    8月4日、殉職した加賀航空兵に対し大正天皇から御菓子料が下賜された。1人につき金5~7円が支給されている。9月1日、加賀のレントゲン室に電気暖房器具が設置された。
    ただし予算は出ず、費用は軍事費から抽出。続く14日、佐世保工廠で主ダルビンを改造。12月3日には塔型補助艦橋及び飛行科指導所を仮設した。
  • 1929年11月より艦隊に編入され、様々な作戦に従事してきた加賀であったが、それに伴って数々の欠陥が浮き彫りになってきた。
    本来、加賀は戦艦として建造されたため赤城と比較しても船体が短く、上部飛行甲板も約20m短かった。速力も26ノット程度と空母の中では鈍足だった。
    特徴的な三段式飛行甲板は新式機の大型化によって役に立たなくなり、改善の必要が出てきた。
    同時に艦尾から排出される排煙もまた厄介者だった。艦尾付近の気流が乱され、艦載機の運用に支障が生じるとともに煙路側の居住区が高温となり、夏には居住不可となる程だった。
    艦隊配備後、間もなく改装計画が持ち上がったが、予算の都合で延び延びになり、1933年に入ってようやく予算が認められた。海軍技術会議によって改装計画が検討され、実行と相成った。
  • 1933年5月、中部飛行甲板の艦橋が不便すぎたため、1ヶ月かけて上部飛行甲板に仮設の艦橋を設置した。6月26日には予算500円(当時)で前後錨甲板に側幕を新設。10月からは改装に伴って予備艦となる。
    仮設艦橋と艦橋甲板の艦橋を撤去。上部飛行甲板右舷前方に小型の艦橋(蒼龍型に類似している)を設置。艦橋後端の露天式甲板には探照灯管制機兼上空見張り方向盤が置かれ、
    最上部の露天式甲板には双眼鏡、60cm信号用探照灯、方位測定器用ループアンテナ、1.5m測距儀、九一式高射装置などが配置された。
  • 1934年6月25日からは佐世保工廠で大規模な改装工事を受ける。三段飛行甲板の一段化や缶の換装、艦尾の延長、バルジの装着、格納庫の拡大などが施された。この改装でようやく様々な欠陥が改善された。
    だが、速力だけは改善されなかった。改装の結果、排水量は3万8200トンにまで増加。着艦制動装置を呉式四型に換装し、空技廠三型滑走静止装置を新たに装備した。
    前部飛行甲板両端にはカタパルトの実用化を見越して、余剰スペースを用意していたが、後に実用化に失敗した事で無用の長物となってしまった。
    艦橋は右舷前方寄りに位置し、友鶴事件の反省から小型化。トップヘビーを防いだ。主缶はロ号艦本式専焼缶8基を搭載し、馬力を12万5000にまで強化。
    1935年6月、改装完了。加賀が受けてきた数々の大改修は、帝國海軍史の中でも一、二を争うほど大掛かりな物であった。
  • 10月21日、川崎造船所の技師3名を便乗させ、試運転を実施。24日には公試を行った。強力な空母に生まれ変わった加賀は11月15日付けで第二艦隊第二航空戦隊に転属。
    名前の由来は石川県の旧国名からであるが、同時に「喜びを増加する」という意味もあった。加賀がこれから挙げる戦果は帝國海軍にとって喜ばしいものだった。
1936年1月〜 訓練、第二次上海事変、第一航空戦隊
  • 1936年1月11日、恵比寿湾で訓練。翌12日、相澤八郎一等航空兵の九四式艦上軽爆機が空中分解する事故が発生。分解後の機体を調査し、加賀艦長が報告書として提出。
    悲劇は続く。同月20日午後2時、松下国忠三空曹の艦上軽爆機が発進。しかしその後、未帰還となり遭難と判定された。決死の捜索にも関わらず発見されなかった。
    2月26日、あの二・二六事件が勃発。同日17時、加賀は第二艦隊とともに志布志湾を出撃し、大海令第二号に従って大阪湾の警備を行った。西日本にクーデターが飛び火した際は
    鎮圧を行うはずだったが、29日に帝都の反乱軍が投降した事で事態は収束。
    3月25日午後0時24分、大村航空隊飛行場内で訓練飛行を行っていた小福中尉の九〇式艦上戦闘機が事故を起こしている。
    5月2日13時10分、佐伯湾外の鶴見崎南南東で編隊を組もうとした高橋平治朗三等航空兵曹の機体が突然発火。消火ポンプも作動せず、大破してしまった。
    7月7日、佐世保工廠に入渠中の加賀に、戦艦榛名から取り外された電気冷蔵庫が貸与された。暑い夏を乗り切るための強い味方になったのは間違い無い。貸与期間は加賀が出港するまでの間であった。
    7月31日13時4分、澎湖島北方にて佐藤清一等航空兵曹の八九式二号艦上攻撃機が墜落。機体は水没。何かと事故が続く加賀であった。
    8月27日午後4時5分、横須賀軍港に係留中、飛行科火工兵器庫より火災が発生する。幸い弾薬には引火せず、午後6時に鎮火した。
    9月7日15時45分、館山湾で龍驤の鍵谷中尉の機体(爆撃訓練中)と、加賀の千頭三等航空兵曹の機体(第二航空戦隊の訓練に参加中)が空中で接触。両機体は墜落した。
    鍵谷中尉は頭蓋骨単純骨折、千頭三等航空兵曹は右肋骨を骨折し、右肺を損傷と診断された。
    9月22日、加賀は伊勢湾に停泊。乙種戦技を見学する陸軍の関係者を乗せた。彼らは25日に佐丸湾で退艦した。
     
  • 1937年2月16日、大分県南部の沖合いにて飛行訓練を実施。加賀から池内清一海軍中尉の機が発艦したが、強風にあおられて墜落。同日中に殉職してしまった。
    翌17日、悲劇の死を遂げた池内中尉に六等授単光旭日章が授与され、大尉に昇進した。5月17日、要求していた演習用1kg爆弾と4kg爆弾が補充される。6月10日、航空機の燃料品種を統一。
    7月21日、第二魚雷格納及び調整所の通風装置を改良。
  • 8月13日、第二次上海事変の勃発で上海に駐留する邦人及び日本軍部隊が危機に立たされる。彼らを救援するため加賀も出撃し、兵員輸送船団の護衛と上空援護に徹した。
    幾度となく生起した空戦では国民党軍の航空機を8機叩き落とした。8月15日、台風による悪天候に悩まされながらも杭州へ16機の八九式艦攻を、南京へ13機の九六式艦攻を放った。
    南京方面に向かった機は、乱気流と厚い雲に阻まれて反転、帰還した。しかし杭州方面は悲惨だった。蘇州飛行場が当初の攻撃目標だったが、より台風から遠い紹興飛行場に変更。
    目的地を目指して飛行していると、飛行場を発見。加賀搭載機はこの飛行場を標的の紹興飛行場と思い、攻撃を開始した。ところが、この飛行場は中国空軍が設営したばかりの曹娥飛行場で、教官を務めるエースパイロットがいたのだ。激しい抵抗を受けた上、当時はまだ爆撃機に護衛が付いていなかったため6機が撃墜され、2機が水没した。
    出撃した機の半数が失われた。この時に蒙った大きな損害が、海軍内で渦巻いていた戦闘機無用論を消し飛ばし、後に零戦の開発へと繋がっていくのである。
    16日、17日にも空戦が生起。江湾上空で5機を撃墜した。8月22日、待望の九六式艦戦6機を受領。だが、悪天候では発艦が出来ないという反省から艦上で運用される事は無く、陸上の公大基地に集中配備された。
  • 8月26日からは陸戦隊を支援するため再び南京を空襲し、長江の中国艦艇も攻撃。中国海軍の艦艇、應瑞にも爆撃を仕掛け、冥府への片道切符を渡している。*2
    9月4日に九六式艦戦がカーチスホーク戦闘機3機を、9月7日の空戦で敵機5機を撃墜し、自力での航空機生産が出来ない中国軍を締め上げた。
    9月19日、南京への航空攻撃が開始された。南京は中国空軍の拠点で、50機もの戦闘機が配備され難攻不落だった。加賀からは6機の艦載機が参加した。
    南京近郊の句容から敵戦闘機隊が上がり、編隊の最後尾にいた水偵隊に襲い掛かった。すかさず反撃し、4機を撃墜して防空網を突破。南京に到達し、待機していた敵戦闘機約20機と交戦。
    15分の空戦で敵は壊滅し、迎撃に現れる敵機はいなくなった。南京への攻撃は20日から25日に渡って行われ、僅かな敵機が上がってきては全滅を繰り返した。
    第7次攻撃以降に至っては、もはや上がってくる敵機すら見えなくなってしまった。12月2日の空戦を最後に、南京の制空権は日本の手に収まった。
  • 11月1日、杭州へ上陸する部隊を支援し、上海への上陸部隊も援護した。
    一連の戦闘を通して加賀航空隊はメキメキと力量を上げていった。赤城は大規模改装中だったため、支那事変に投入できる大型空母は加賀一隻のみだった。のちに加賀からは多くのエースパイロットが輩出された。
    そして広東攻略が終わるまで台湾を前進拠点として出撃。南支那の要地に対して熾烈な爆撃を加え続けた。
    11月11日、飛来したノースロップ3機から投弾される。爆弾は加賀の3000m横にそれて着弾し、高々と水柱が上がった。これに対し加賀は対空砲で反撃し、九六式艦戦と協同で2機を撃墜した。
    1937年12月12日、加賀の艦載機が揚子江にてアメリカの砲艦パナイを撃沈し、先導していたメイピン号、メイシア号、メイアン号にも損傷を与えた。
    後にパナイ号事件と呼ばれ、当時敵国ではなかったアメリカの艦を沈めたとして大きな問題となった。悶着の末、約二週間後に概ね決着した。
  • 搭載機を南京や上海に派遣しつつ、制空権の維持に腐心する加賀だったが、敵の反撃も増してきた。1938年4月13日、天河・白雲の鉄道攻撃でグラジュエーター戦闘機と交戦。
    6機を撃墜したが、九六式艦戦1機と九五式艦戦2機を喪失した。8月30日の南雄攻撃の際は、艦戦6機に対し21機の敵機が迎撃。数の上では圧倒的に不利だったが奮戦。
    2機が犠牲となったが、9機を撃墜、2機不確実の大戦果を得る。この空戦以来、日本軍機に向かってくる中国軍機はいなくなってしまったという。
    中国上空で国民党軍の航空機を片端から撃ち落とし、都市を爆撃していった事から中国軍に「悪魔の軍艦」と恐れられた。
    1938年12月11日、佐世保へ帰投。支那事変から身を引き、内地で訓練を行うようになった。15日、第二予備艦となり佐世保海軍工廠へ入渠。改装工事を受けた。
    飛行甲板と格納庫を拡張し、艦橋を整備。排水量は4万トン以上になり、搭載機数は104機に増えた。この工事は1940年まで続いた。
    1940年秋から年末にかけてカタパルトの試験運用を行ったが、成果が乏しかったため実用化は諦めている。実験後、カタパルトは撤去された。
  • 1941年4月10日、第一艦隊第一航空戦隊に所属する。この部隊は世界で初めて誕生した機動部隊となった。そして真珠湾攻撃に備え、九州方面で過酷な訓練に臨む事になる。
    鹿児島県の錦江湾に優秀なパイロットが集められた。訓練の地、錦江湾は真珠湾と形が似ていた。
    東南アジアの産油地や製油所を押さえる南方作戦を実行するにあたって、真珠湾の存在は大いなる脅威だった。南方部隊の背中を真珠湾の艦隊に刺されてはひとたまりも無い。
    何が何でも黙らせる必要があったのだ。攻撃範囲の広い空母は特に叩いておく必要があった。日米関係が悪化していくにあたり、軍部は真珠湾攻撃の研究を始めた。
    真珠湾の水深は僅か12メートルしかなく、通常の魚雷では海底に突き刺さってしまう。そこで帝國海軍は浅瀬用の特殊魚雷こと浅沈度魚雷の開発を行った。
    ハワイの攻撃作戦は8月に完成した。9月16日と17日には海軍大学で特別図上演習が行われた。10月9日から5日間、室積沖に停泊中の戦艦長門の艦上で引き続き図上演習を行っている。
    演習では赤城、加賀、蒼龍飛龍の4隻を投入。しかしアメリカ軍(赤軍)の察知により、日本艦隊(青軍)は全空母沈没という大打撃を受ける結果が弾き出された。
    9月24日、この結果を踏まえて会議。ハワイ攻撃については連合艦隊上層部の反対が強かったが、山本五十六長官の強い意志と翔鶴型の竣工で実施が決定され、
    10月19日に軍令部総長は正式に決済を与えた。このハワイ攻撃については、イギリス軍が行ったタラント空襲を参考にしていると言われている。
    10月30日、浅沈度魚雷が完成し、5~10本が第一航空艦隊へと引き渡された。その日から11月4日まで講習を受け、発射訓練を開始するという忙しさであった。
    発射法は2種類編み出され、それぞれ第一法と第二法と呼ばれた。実戦では第一法が使用される事になった。
真珠湾攻撃の骨子を作る日本側の動き

10月22日、日本政府の指示で、横浜から日本郵船の大洋丸が出港した。日本在住の外国人800名が乗っていたが、その中に海軍軍人の鈴木少佐と前島中佐が混ざっていた。
彼らが軍人である事は秘匿され、事実を知るのは船長と事務長だけであった。大洋丸の行き先はハワイで、現地で外国人を降ろした後、日本へ帰国する邦人を乗せて帰る予定だった。
また松尾中尉も極秘裏に乗船していた。軍令部からの命令で、ハワイの敵情偵察に向かうのだ。松尾中尉は後にシドニーを特殊潜航艇で攻撃し、戦死する。
大洋丸は一般的な航路を使わず、大きく外れた北寄りの航路を使った。この航路は真珠湾攻撃に向かう機動部隊が通る航路で、鈴木少佐らは下見に来ていた。
11月1日早朝、大洋丸はホノルルに到着。米海兵隊員が船に乗り込み、米海軍が沿岸の警戒をする中、鈴木少佐たちは警備の目をかいくぐって米艦船の動向や飛行場の動きを盗み見た。
また密かにホノルルの日本領事館の関係者が大洋丸を訪れ、集めた資料を鈴木少佐に手渡した。この情報を総括すると、日曜日に艦隊が集結する可能性が高いと見られた。
前島中佐は潜水艦畑出身である事から、真珠湾の港湾状況や防潜網の展開状況などの調査を行った。予定より1日遅れ、11月5日午後にホノルルを出港。
復路は南寄りの航路を使用した。鈴木少佐、前島中佐は帰路についた後も邦人からハワイの情報を聞き集めた。11月17日、無事に横浜へ帰りついた。
得た情報を報告書にまとめ、鈴木少佐は横須賀の海軍軍令部に、前島中佐と松尾中尉は空路で呉へ向かった。彼らが持ち帰った情報が作戦の骨子を作ったのは言うまでも無い。

1941年11月〜 真珠湾遠征・大東亜戦争勃発
  • 大東亜戦争の際は帝國海軍の切り札と言える第一航空戦隊に所属。他の空母が集結地点の単冠湾へ向かう中、加賀だけは佐世保で待機。*3
    1941年11月17日、浅瀬用の特殊魚雷が仕上がるとそれを積載して佐世保を出港。同月23日、他の空母から遅れる事一日、加賀も単冠湾へ集結した。そして各空母に魚雷を渡した。
    11月24日、赤城に集結した各航空隊員に対して、オアフ島の詳細な模型を使った説明が行われた。ホノルルの日本領事館の関係者からも情報を得ている。
    11月26日、出撃。日本史上、かつてない大遠征が始まった。
  • 単冠湾を出発して数日が経過した12月1日、機動部隊はハワイまでの航程の約半分に達した。波は高かったが、天候に恵まれていた。
    荒天下での洋上補給は困難を極める事から、片道3000海里の旅路に耐えられない艦には大量のドラム缶が積み込まれていた。当然、艦内は禁煙だった。
    幸運な事に数十年の統計に無いほど海が静かだったため、危惧された火災は発生しなかった。未曾有の大遠征は意外なほど順調だった。
    この瞬間にも日本政府とアメリカ政府の交渉が続けられており、次第によっては攻撃中止命令が下る可能性があった。踏ん切りのつかないままの航行は不安を呼んだ。
    12月2日午後8時、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無電を受けた。これは日米交渉決裂、12月8日午前零時以降に戦闘行動を開始せよ、という意味だった。
    翌3日から、軍令部より続々と情報が送られてきた。日本潜水艦の偵察でラハイナ泊地に敵艦艇がいない事が判明した。
    また、ホノルル領事館に外務省書記生として潜り込ませている森村正(本名は吉川猛夫予備海軍少尉)が探査した、米艦艇の真珠湾在泊状況も送られた。
    この情報提供は5日まで続けられ、真珠湾の状況が手に取るように分かった。
     
  • 戦争の幕開けである1941年12月8日、真珠湾攻撃を敢行。午前0時30分、オアフ島北方約250マイルの地点に到達した機動部隊は、遂に総員戦闘配備の号令が下った。
    空はまだ暗く、月齢19日の残月が暗雲の中で見え隠れしていた。東北東の風は強く、風速12メートルを記録。波のうねりも高く、艦を揺さぶった。
    午前1時20分、6隻の空母は風上に舳先を向け、24ノットの速力で波を蹴り始めた。10分後、旗艦赤城より「全機発進せよ」の号令が下った。いよいよである。
    特殊魚雷を15機に搭載し、183機の航空機が第一次攻撃隊として各空母から飛び立っていった。波浪で艦が揺れる中、全機が無事に離陸。搭乗員の錬度の高さを如実に示していた。
    日米開戦―――歴史に残る出来事が今、始まろうとしていた。
    総指揮官機に搭乗する淵田中佐は、アメリカ製ラジオ「クルシー」から流れる放送に耳を傾けていた。この放送が、攻撃隊を導くのである。
    気象放送を聞き、オアフ島は絶好の天候であると判明。また、利根搭載機からの報告でラハイナ泊地に敵艦艇は認められなかった。となれば、狙う標的は真珠湾ただ一つ。
  • 午前3時19分、現地時間午前7時49分、突撃を意味するト連送が発信された。4分後、真珠湾の上空に辿り着いた3つの隊が眼下に艦艇や地上施設を認めた。トラトラトラ、奇襲成功せり。
    戦闘機隊はヒッカム飛行場に、爆撃機隊は対空砲陣地に殺到した。そして雷撃機隊はヒッカム飛行場を通過し、艦艇群に雷撃を敢行していった。
    ホイラー、ベローズ、ヒッカムの陸軍基地の兵士たちは唖然としていた。彼らは陸軍機が演習をしているものだと思っていた。しかし胴体の日の丸を見て、真実に気付く。
    ワイルペ海軍無線局ではワシントンに平文で緊急電を打ち続けた。「パールハーバー空襲さる、これは演習ではない!」
    停泊していた戦艦オクラホマカリフォルニアウェストバージニアに命中弾を与え、米艦艇群に打撃を加えていく。日頃の猛訓練が、狭い水路での魚雷投下を可能としたのだ。
    港内は火の手と黒煙に覆われ、視界が悪くなった。この黒煙は敵を守る煙幕にもなり、敵機や対空砲火と並んで警戒すべき相手となった。
    ホイラー飛行場でも黒煙が上がり始めた。ここには200機に及ぶ米軍機が整然と並べられていたが、爆撃機隊と制空隊が片端から破壊していった。
    浅沈度魚雷は訓練時よりも良好な性能を見せ、放たれた40本の魚雷のほぼ全てが命中した。空襲開始から僅か30分で、戦艦全てが被弾。炎上、転覆、座礁の運命を辿っていた。
    • 第二次攻撃の際、ヒッカム飛行場を攻撃していた五島飛曹長は煙の中に降下し、着陸した。そして火の手が上がっていない航空機にピストルを撃ち込んで回ったという。
      また日系人の基地要員を見つけると「君たちに危害を加えるつもりはない、早く安全なところへ避難しろ」と叫んだという。この驚くべき荒武者、五島飛曹長は未帰還となった。
    • 加賀搭乗員の雷撃隊第二中隊長・鈴木三守大尉と急降下爆撃機隊第12攻撃隊指揮官・牧野三郎大尉が燃料不足から軍事施設に突入し、壮絶な死を遂げた。
      同様に突入して戦死した飯田大尉と合わせて、「真珠湾偉勲の三勇士」と称えられ、全員が中佐に昇格した。
  • 戦果は戦艦4隻、標的艦1隻、機雷敷設艦1隻撃沈。飛行機破壊231機と最大級であった。この攻撃により真珠湾は機能を失い、南方作戦の背後が安全となった。
    だが不安が残る結果にもなった。最大の標的だった空母が不在で、全く手出し出来なかった事、また燃料タンクを破壊しなかった事が後々尾を引いた。
    むしろ大艦巨砲主義の象徴たる戦艦群を撃破した事で、空母機動部隊への刷新を促進する結果になったとも言えよう。
    攻撃を乗り切った残存の米艦艇や、ハルゼー中将の機動部隊が索敵を行ったが、いずれも日本艦隊に逃げられている。
     
  • 米艦隊を痛めつけた加賀は12月23日に悠々と凱旋帰国し、柱島へと回航された。そして正月を内地で過ごす。加賀たちの活躍もあって南方作戦は順調に進んでいった。
〜1942年6月 ラバウルの戦い・ミッドウェー海戦
  • 1月9日、次なる作戦に参加するため柱島を出撃。15日に最前線基地であるトラック諸島に入港した。準備を整えた後、ビスマルク諸島を攻略するR作戦に従事。
    連合軍から奪取した東南アジアの各拠点を守る「城門」を得るため、ビスマルク諸島を占領下に置く必要があったのだ。
  • 1942年1月20日、加賀より零戦9機と九七式艦爆27機が発艦し、豪軍拠点のラバウルを空襲した。2つの飛行場と大きなシンプソン湾を有するラバウルは良好な泊地であった。
    港と飛行場の周辺には砲台があり、航空兵力としてワイラウェイ練習機改造の戦闘機7機とロッキードA28ハドソン爆撃機4機があったが、最高の錬度を誇る第一航空戦隊の前では微力だった。
    守備隊として1500名が駐留していたが、脆弱な戦力しか持ち合わせていなかった豪軍は簡単に蹴散らされた。加賀から発進した9機の零戦を含む制空隊は、離陸寸前の敵機2機を攻撃。
    瞬く間に豪軍機を殲滅した。後はもう敵機の姿は無かった。飛行場にも空域にもいなかった。
    • 指揮官の淵田中佐は爆弾の処理に困った。陸上施設を破壊しては占領時に復旧を要する。そのまま母艦に持ち帰れば着艦時に危険が生じる。かといって海上に投棄するのは勿体無い。
      爆弾の標的を探しながら旋回していると、シンプソン湾に大型輸送船が1隻停泊しているではないか。逃走させないよう軽く1発投下しようと接近。その瞬間、数機の味方機が急降下爆撃を敢行。
      輸送船から爆煙が上り、海岸に向かって動き始めた。自ら座礁して沈没を避ける気らしい。獲物を取られた淵田中佐は新たな標的を求めて飛び回る。
      すると活火山のふもとに平射砲台の一群を発見。これは上陸時に邪魔になると考え、800kg爆弾を叩き込んだ。攻撃後、活火山の活動が活発になったとか。
    • 真珠湾攻撃時、加賀戦闘機隊の分隊長を務めていた志賀大尉も、このラバウル攻撃に参加していた。ブナカウナの対空陣地に銃撃を加えた後、二番機がガソリンの尾を引いているのを発見。
      やがて発火し、白い煙が出てきた。異変に気がついた志賀大尉は、二番機の平岩兵曹に脱出するよう手信号を送るが、彼は大尉に習ってパラシュートを装備していなかった。
      次第に火の手は機体を飲み込んでいく。志賀大尉が接近すると、火の中から右手で挙手する平岩兵曹の姿が見えた。そして海に墜落し、帰らぬ人となった。
  • 航空隊は獲物を奪い合うように在泊艦艇や港湾施設、砲台を攻撃した。戦闘機4機撃墜、商船1隻大破、陸上施設多数破壊という華々しい戦果を挙げ、第二次攻撃は中止となった。
    翌21日、機動部隊を分離。加賀は赤城とともにカビエンの空襲を実施した。合わせて52機の航空機が発進、抵抗らしい抵抗は無く、戦闘は一方的だった。
    豪軍は帝國陸海軍の侵攻を察知して、事前に戦力を引き揚げさせていたのだ。僅かに残った、少佐率いる200名の海兵隊が貧乏くじを引いた。爆撃により税関の建物とコプラの倉庫が炎上。
    敵がいない零戦隊は兵舎に銃撃を加えていった。空襲後、カビエンの維持が困難となり、海兵隊は南方に逃走した。午前8時15分、全機が母艦に着艦。あとは後詰めの攻略部隊に任せて退却。
    その夜には民間のオーストラリア人も脱出。ニューアイルランド島から姿を消した。
    22日、ラバウルに対しトドメの第二次攻撃を敢行。プラエド岬の海岸砲を破壊し、重要施設を瓦礫の山に変えた。損害は艦爆2機のみに留まった。
    空母による徹底した攻撃により大した抵抗を受けずに、攻略部隊が上陸。月明かりの中、ラバウルに突入した。海岸砲は沈黙し、既に防戦不能だった守備隊は退却。
    間もなくラバウルとカビエンは日本軍の手に落ちた。両拠点は前線基地として機能し、後に大きな支えとなる。1月24日、大本営はラバウルの占領を発表した。
    ビスマルク諸島の制圧を終えた加賀は東南アジア方面へ転戦。
    2月9日、パラオのコロール泊地で転錨した際、海図に載っていない暗礁に乗り上げ座礁。艦底を損傷したため急遽応急修理を受ける。調査の結果、作戦に支障が無いとしてそのまま活動を再開する。
     
  • 2月19日、敵の退路を断つためオーストラリアのポートダーウィンを空襲する。まず零戦9機が飛び立ち、制空権の奪取を試みる。空戦でP-40を8機撃墜し、地上の飛行艇を銃撃して炎上させる。
    次に午前7時15分、九九式艦爆18機が発艦。午前9時58分にダーウィン上空へと到達。合わせて188機の爆撃機が殺到し、空は日本軍機で覆われた。
    対するオーストラリア軍は対処に遅れ、空襲警報を発令する前に攻撃が始まった。人口6000人程度の町は一気に戦場と化した。港に停泊していた船舶が狙われ、一斉に爆弾が投下された。
    同時に東飛行場格納庫及び西飛行場格納庫、兵舎を爆撃し、駐機中の航空機と砲台に銃撃を加えていく。
    またダーウィン南方に係留されていた5000トン級商船2隻を撃沈せしめ、装甲車と哨戒艇を銃撃して前者を炎上させた。この攻撃で1機が撃墜された。午前10時10分頃、第一次攻撃隊は引き揚げていった。
  • 続く第二次攻撃では官庁街と商船2隻を爆撃。対空砲火で1機が被弾し、着艦が出来なくなったため海面に不時着。駆逐艦谷風に回収される。
    二手に分かれた54機の爆撃機が、軍事基地を中心に市街地を攻撃。軍事施設と公的施設が破壊され、ダーウィンは都市機能を喪失した。オーストラリア軍は4機の日本軍機を撃墜しただけだった。
  • このダーウィン攻撃は、真珠湾攻撃以上の規模となった。ストークヒルの石油タンクが爆破炎上し、商船バロッサとネプチュナも被弾。ネプチュナに積載されていた爆雷が爆発、空襲中最大の爆発を起こした。
    郵便局にも爆弾が落とされ、25名が死亡。猛攻撃で多くの建物が破壊され、軍民合わせて10隻の船舶が沈没もしくは破損。犠牲者は243名、負傷者は350名に上った。
    被害はオーストラリア軍に限らず、米駆逐艦ピアリが沈没。バロッサ、ポートマールも撃破された。
    • 総指揮官を務めた淵田中佐は、民家や病院を一切狙わないよう命令。市民を傷つけないよう計らったが、命令を無視した一部の部下によって民間への被害が拡大したとされる。
    • ダーウィンには広大な陸軍基地が存在していたが、敵国の攻撃を全く想定していなかった。このため帝國海軍による爆撃が始まると、兵士は一目散に脱走。
      市民ともども南へ逃げ続け、115キロ南にある村アデレード・リバーまで全力で逃げたという。当然、オーストラリア政府はこの事実を隠した。
  • 作戦後の2月21日、スターリング湾に入港。体勢を整えた26日に出港し、ジャワ島南方へと舳先を向けた。
  • 3月1日、偵察帰りの九七式艦攻がジャワ島南方で米給油艦ペコスを発見。これを攻撃するため午後12時55分に、加賀から九九式艦爆9機が発進した。
    13時21分、加賀隊はペコスを発見し爆撃。命中弾1発と至近弾4発を与えるも、対空砲火で4機が被弾させられた。加賀隊が引き揚げるのと入れ替わりで蒼龍攻撃隊が殺到。
    依然強力な対空砲火で抵抗したが、命中弾3発と至近弾1発を喰らって致命傷を負う。蒼龍隊が引き揚げた後、ペコスは艦首より沈没していった。
  • ジャワ南岸唯一の良港であるチラチャップに、脱出艦艇が多数集結しているとの情報が入ってくる。これを逃走前に一網打尽にしてやろうと、5日にチラチャップを空襲。
    それに先立つ3月1日、ジャワ方面の海軍司令官コンラッド・ヘルフリッヒはチラチャップ停泊の全艦艇に脱出命令を下していた。このため大半の艦艇は脱出した後だったが、
    それでも停泊していた商船17隻を大破並びに撃沈せしめ、全滅に近い損害を与えた。
    撃沈した敵船の内訳は輸送船11隻、アメリカ砲艦1隻、イギリス船2隻、アメリカ船2隻。加えて4隻の輸送船が拿捕されている。
    攻撃に参加した淵田中佐は、あと二日もすれば日本軍の手に落ちるであろうチラチャップを攻撃するのは、少々もったいないと考えていた。
    一連の戦闘で東南アジアから連合軍を一掃し、勢力圏の拡大に貢献した。今や西太平洋の制海権は日本の手中に収まり、南方作戦は大成功に終わろうとしていた。
    3月11日に一度スターリング湾に入港。そして損傷した艦底の修理を行うため、機動部隊から外され15日に出港。内地に向かった。3月22日、佐世保へ到着し、艦底の修理を受けた。
    このため4月から開始されたインド洋作戦には参加できなかった。また珊瑚海海戦への出撃も考えられていたが、結局損傷の修理で出られなかった。
    4月18日、ドゥーリットル隊による日本本土初空襲が行われる。追撃のため加賀航空隊は第二六航空戦隊に編入され、12機の零戦が索敵に当たったが発見出来なかった。
    5月1日、呉に停泊する戦艦大和の艦上でミッドウェー作戦の図面演習が行われた。さいころを振って行われたこの演習では、空母2隻(赤城・加賀)撃沈、1隻大破という惨憺たる結果だった。
    その後、宇垣参謀によって赤城は蘇ったが加賀は死んだままだった。ところが、ミッドウェー戦後に続くフィジー、サモア作戦に加賀が復活して参加するというトンデモ展開になった。
    この作戦演習は4日まで続けられた。
  • この頃、加賀の艦尾に大きな日の丸が描かれた。これは先の珊瑚海海戦で、日本側の艦載機がヨークタウンを翔鶴型と誤認して着艦しそうになった事件を受け、対策として描かれたものだった。
    しかしこの日の丸が、ミッドウェー海戦時に格好の標的となった。アメリカ軍からはミートボールと揶揄されたとか。
    5月24日、ミッドウェー作戦のため航空機と操縦士の補充を受ける。そして同月27日、機動部隊は瀬戸内海西部を出撃して作戦海域へ向かった。
ミッドウェー海戦での最期、除籍
  • 最期はミッドウェー海戦の最中で迎えた。6月5日、ミッドウェー島の北方に展開した機動部隊は108機の航空機を放つ。
    第一次攻撃で加賀は敵機を12機撃墜。同時にミッドウェー島への空襲も行っている。イースタン島の発電所を破壊し、サンド島の油槽や水上機格納庫、病院、倉庫を炎上させた。
    また迎撃に上がった敵戦闘機隊を散々に打ちのめし、生き残ったのは僅かだった。しかし飛行場の破壊には失敗し、敵の航空兵力は残った。
  • 加賀の飛行甲板には第二次攻撃隊が敵機出現に備えて待機していた。上空には各空母から3機ずつ発進した零戦12機が警護。この時、ミッドウェー島を攻撃した飛行隊から第二次攻撃が必要との報告を受ける。
    これを受けて南雲司令は、雷装していた搭載機の装備を地上施設攻撃用の800キロ爆弾に換装する命令を下す。これが加賀の生死を分けた。換装作業中に敵機の襲撃を受けたのである。
    ただちに直掩機が迎撃し、加賀隊は32機を撃墜した。敵の攻撃を避けるため高速で回避運動を行ったが、艦全体が振動し換装作業を更に手間取らせてしまう。
    戦闘の最中、利根偵察機から報告が入り、前方に敵空母が控えている可能性が出てきた。南雲司令は装備を雷装に戻すよう命令。
    二転三転する命令で、格納庫には爆弾と魚雷が散乱。現場も混乱し始めた。そこへミッドウェー島攻撃を行った第一次攻撃隊が帰還。
    ただでさえ換装作業で混乱しているのに艦載機の収容まで加わり、遂に混乱は頂点に達した。おかげで加賀と赤城の換装作業は遅延し続けた。
    無力化し損ねたミッドウェー島の飛行場からB-17爆撃機が発進。空母群に爆撃を仕掛け、4発の命中弾を与えたと主張したが、実際は1発も当たらなかった。
    次にドーントレスが編隊を組んで日本空母に迫る。が、護衛の零戦が襲いかかり、敵は慌てて戦艦榛名に標的を変えた。
    アメリカの猛攻は続き、敵の増援である雷撃隊が出現。零戦は雷撃機を迎え撃つため高度を下げた。雷撃隊は零戦によって血祭りに上げられたが、上空よりドーントレスが忍び寄っていた。
    完全な奇襲だった。午前7時23分、加賀は9機から投弾を受け、4発が命中。瞬時に大爆発が起こった。格納庫に転がっていた魚雷や爆弾に引火し、ガソリンにも誘爆。消火活動すら行えなかった。
    反撃により攻撃を仕掛けてきたドーントレス28機のうち、14機を撃墜したが時既に遅し。
    更に発艦準備中の艦載機にも引火し、巨大な火だるまと化した。艦橋が溶岩のようにドロドロ溶け、崩れていった。艦橋の要員は全員戦死する。山本長官は加賀の曳航を求めたが、無理な話だった。
    御真影(天皇の写真)は直ちに駆逐艦へと移され、相当数の乗員が脱出したが、一部の乗員は艦内に留まり決死の消火活動を敢行した。
    あまりの惨状に、護衛を務めていた戦艦榛名の乗組員は、加賀乗員が全滅したと思ったという。14時、激しく燃え盛る加賀に米潜水艦ノーチラスからトドメの魚雷が放たれたが不発に終わり、装甲に弾かれた。
    加賀が今際にもたらした幸運か。不発の魚雷は浮き輪のように海面を漂った。数名の生存者はプカプカ浮かぶ魚雷に掴まり、一時の安息を得た。
    護衛の駆逐艦が集まり、放水を行ったり手押しポンプを譲渡する等の支援を始める。だが加賀の舷側が高く、消火ははかどらなかった。
    また時折起こる誘爆が、高角砲弾や機銃弾の破片、火の粉、焼け落ちた塗料を駆逐艦に降らせた。それでも各艦は懸命に踏みとどまり、船体から逃げ出してきた乗員の救助にも尽力した。
    救助された乗員の殆どが重度の火傷を負っており、駆逐艦内は人の焦げる臭いで充満したという。帰投してきた加賀艦載機もいたが、帰る場所を失っていたため駆逐艦を目印に着水した。
    一方で冷静さを欠いていた兵員により、撃墜された味方機もいた。また、存命中の飛龍に向かった零戦も存在した。
    絶望的な消火活動の指揮を飛行長と工作長が執っていたが、これ以上は危険と判断。戦死した艦長に代わり総員退艦を命じた。生存者は海へ飛び込み、護衛の駆逐艦に救助された。
    次第に傾斜が増していく加賀。周囲の駆逐艦も救助活動を切り上げ、その場から去っていこうとした。すると加賀の機銃座に人影が確認された。よく見ると手を振っている。
    萩風の乗組員数名がそれを確認したが、もはや戻る事は出来なかった。
  • こうなってしまっては最早助かる道は無く、日没後の16時25分に天を衝く大爆発を起こして加賀は海の底へと沈没していった。爆発の衝撃は凄まじく、1km離れた舞風の方位盤が壊れた程。
    岡田艦長以下800名が戦死。戦死者の殆どが機関科の人員だった。
    1942年8月10日、除籍。
  • ミッドウェーの大敗はひた隠しにされた。大本営は空母1隻喪失、1隻大破と発表。これが虚偽で粉飾された最初の大本営発表となった。
加賀に関するエピソード
  • 時代は流れ、1999年。アメリカの深海調査会社ノーティコスはミッドウェー島沖の海底で四つの残骸を発見したと発表。
    そのうちの一つが加賀ではないかと言われている。
     
  • 艦内が非常に蒸し暑かった事もあって、乗員は凶暴化。一時期加賀乗員の風紀は異常に悪く、艦内では体罰が絶えなかった。他にも盗み、上官が芸者を呼ぶ、自殺、脱走と荒れに荒れていた。
    また改装前は誘導煙突のせいで海鷲の焼き鳥製造機と揶揄されるほど居住区が暑かったという。乗員は蒸し焼き、艦載機は燻り焼きと環境は最悪だった。
    • 加賀艦内は広く、竣工以来使われていない倉庫や空き部屋が多数存在した。どの軍艦でも銀蝿(ぎんばえ。砂糖や缶詰めといった軍需品を盗む事)が横行していたが、
      とりわけ加賀の銀蝿は激しく、かつ巧妙であった。酒保倉庫の下にある空き部屋に忍び込み、マンホールを開けて倉庫内に侵入、銀蝿を繰り返し、盗んだ物品で宴会を開く輩もいた。
      しかもマンホールは酒保倉庫側からは開けない細工まで施されていた。この銀蝿に気付いた板倉中尉は、ボルトナットの孔から泡沫消火器を突っ込んで宴会中の室内に噴射。
      犯人たちは泡を食って這い出してきたという。この者たちの悪行はただちに上へ報告されたが、普段の素行が良かったため厳罰は下らず、被害額の全額負担と未使用倉庫の清掃等が命じられた。
      しかし以降も銀蝿は続き、より巧妙になっていった。
  • 真珠湾攻撃の際も一番未帰還機が多かったり(4機)、パラオで座礁してインド洋作戦に参加できなかったりと、何かとドジを踏む事が多かった。
    • 四国南方沖で行われた演習では加賀から発進した3機の編隊が、御召艦扶桑を敵方の旗艦山城と誤認して雷撃するという前代未聞の不祥事をやらかしている。
      命中はしたものの演習用魚雷だったため、起爆しなかった。扶桑には御召艦だと示す金の菊が印され、異変に気付いた青木機が慌てて翼を振ったが、止められなかった。
      雷撃をした新田大尉は謹慎を命じられた。

*1 この事件に関しては、満州事変に対する国際的非難をかわすための日本側の自作自演という説がある。
*2 この攻撃は、航空機による世界初の対艦攻撃である。
*3 航続距離の関係で、当初は加賀と翔鶴型2隻しか真珠湾攻撃に参加できない事になっていた。が、艦内に燃料を入れたドラム缶を敷き詰める事で赤城、蒼龍、飛龍の参加を可能とした。