No254 肇和/元ネタ解説

Last-modified: 2020-05-02 (土) 20:28:38
所属清朝新式海軍→中華民國海軍(1912)→中華民國北洋政府海軍(1923)→中華民國海軍(1928)
艦種・艦型肇和級防護巡洋艦
正式名称肇和(Chao Ho)
名前の由来肇和 中国語で調和の始まりという意味
起工日1910.10.7
進水日1911.10.23
就役日(竣工日)1912.3(1912.2.21)
北洋政府移籍日1923.12
中華民国海軍再就役日1928.12.29
除籍日(除籍理由)不明(1937.9.28沈没)
全長(身長)98m
基準排水量(体重)2460英t(2499.5t)
出力Yarrow式石炭重油混焼缶4基Parsons式蒸気タービン3基3軸 6000shp(6083.2PS)
最高速度20.0kt(37.04km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/4500海里(8334km)
乗員238~331名
装備(1930)6inch50口径単装砲2門
4inch50口径単装砲4門
14ポンド単装砲2門
オチキス3ポンド単装砲8門
ヴィッカース1ポンド機関砲2(2x1)
21inch単装魚雷発射管2基2門
装甲甲板:19~26mm 艦橋:76mm
その他ゲームとの性能違いゲーム内では軽巡洋艦だが、実態は防護巡洋艦
建造所Vickers-Armstrongs Limited,Elswick,Newcastle upon Tyne
(ヴィッカース・アームストロング社ニューキャッスル造船所 イングランド国北東イングランド地域タイン・アンド・ウィア州ニューカッスル・アポン・タイン市エルツィック)

ゲーム内では應瑞級となっているが正確には肇和級1番艦、なので実は肇和が姉。
中華民国海軍の防護巡洋艦1番艦。読み方はシャオホー。日本語読みすると「ちょうわ」。当時の清国が大日本帝國海軍に対抗するため、イギリスのアームストロング社に発注。
1910年11月7日に起工し、1911年10月23日に進水、1912年12月1日に竣工した。1913年3月、中国へ回航され引き渡された。
艦の受領者は北洋政府だったが、財政難に苦しむ政府は3隻を売り飛ばそうと考えていた。いわゆる転売である。
これに反発した海軍との論争を経て、どうにか肇和と慶瑞の2隻だけは受領する事が出来た。
ゲームでは巡洋艦とされているが、排水量は2750トン程度しかない。そもそも防護巡洋艦という一昔前の艦種なので他国の同期と比べて劣っているわけではない。
発注当時としては先進的な性能だったという。また中国唯一の蒸気タービン主機を搭載した艦でもあった。予備や替えの部品が無いため、ひとたび故障すると国内での入手は困難だったという。

 

1915年12月4日、袁政権に反旗を翻した楊虎(ようこ)が蜂起。上海で投錨していた肇和に反乱軍の小型船が接近、20名が艦内へ入り込んだ。反乱軍は乗員と通じており、艦を掌握すると江南機器局(兵器製造工廠)を砲撃した。たった一晩の出来事だった。
その後は護国軍の一員として江陰砲台を攻撃したが失敗に終わる。袁政権の兵力が強大だった事もあり蜂起は失敗。手引きを行った肇和の艦長は解任した上で監禁された。
1918年、法艦隊の傘下に入る。が、僚艦5隻とともに裏切り、1923年12月に北洋艦隊に編入され青島に駐留する。翌1924年11月3日に第二次奉直戦争が終結すると、肇和は広東軍閥へ身を移した。
1927年、肇和と応瑞は日本から技術提供を受けて改装。1928年5月12日深夜、アモイの砲台群と1時間に渡って交戦、最終的に肇和が撤退した。

1930年には所属先の東北艦隊が改名、第三艦隊に所属を変えた。1933年6月24日、第三艦隊司令の殺害計画に呼応して肇和ら所属艦艇が離反・逃亡。広東軍閥を頼り、7月22日に第四艦隊へ編入される。

 

第一次世界大戦時代に建造された老朽艦であったが、中国海軍の数少ない艦艇として支那事変に参加。
1937年9月14日朝、日本艦隊の接近を知った中国(広東)海軍は虎門要塞から肇和と砲艦海周を出撃させ、陸上砲台と連携させる準備を整えた。
接近してくる敵は大日本帝國海軍の軽巡洋艦夕張と駆逐艦追風・疾風の3隻であった。肇和と海周は敵艦を見つけると即座に砲撃。40分間に及ぶ砲撃戦の末、駆逐艦1隻を損傷させた。
しかし帝國海軍の巧みな動きにより肇和と海周は分断されてしまう。肇和には夕張が、海周には駆逐艦2隻が立ちはだかった。
夕張と一騎打ちする肇和だったが一方的に押され、命中弾が相次いだ。乗員にも死傷者が続出。それでも果敢に反撃し、夕張の煙突に命中弾を与えた。
ところが砲弾が旧式すぎて爆発せず、弾かれただけで終わる。そうしている間にも夕張からの砲撃で装甲を貫かれ、浸水が進む肇和。戦況は明らかに不利だった。
そして夕張に一発も与えられないまま反転、撤退を図った。しかし浸水が激しく、投錨地まで戻れないと悟った艦長は浅瀬へ乗り上げる事を決意する。肇和はその船体を意図的に座礁させた。
止めを刺されそうになるものの中国空軍のA-16が救援に現れ、夕張に急降下爆撃を浴びせる。小破し、5人の死者を出した夕張は撤退。
紙一重で助かった肇和だったが9月25日、日本軍の空襲に遭う。中国側の艦艇が迎撃するが、洪水対策用の旧式艦だったため弾幕は非常に薄かった。
間もなく肇和は命中弾を受け大破。28日に自沈処分され、艦歴に幕を下ろした。
だが、肇和の犠牲が中国軍に新たな沿岸防衛法を編み出させたとして、海戦の勝敗を中国側の戦略的勝利と記録している。