No26 アーガス/元ネタ解説

Last-modified: 2018-02-22 (木) 19:37:22
所属Lloyd Sabaudoと Lloyd Triestino di navigazione→Royal Navy
艦種・艦型客船→航空母艦(1916)→宿泊艦(1944)
正式名称Conte Rosso→HMS Argus (I49)
名前の由来Conte Rosso イタリアのサヴォイア家の当主Amedeo VII(1360-1391)の通称[赤い伯爵]
→Argus Panoptes ギリシア神話の全身に100の目をもつ巨人 普見者アルゴスと呼ばれ神の命を受け怪物を退治し多くの手柄をあげた
愛称Hat Box, Flatiron, The Ditty Box
起工日1914
進水日1917.12.2
イギリス海軍購入日1916.9.20
就役日(竣工日)1918.9.16
退役日(除籍後)1946.5.6 1946.12除籍(1946.12.5売却後解体)
全長(身長)172.2m
出力メーカー不詳重油専焼円缶12基Parsons式蒸気タービン4基4軸 20000shp(20277.4PS)
→Yarrow式重油専焼水管缶6基Parsons式蒸気タービン4基4軸 21500shp(21798.2PS)
最高速度20.3kt(37.59km/h)→21.8kt(40.37km/h)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/5200海里(9630.4km)
乗員495名
基準排水量(体重)14450英t(14682t)
装備(1943)4inch45口径単装高角砲6門
艦載機x18
装甲舷側:2inch 航空甲板:2inch
建造所William Beardmore and Company, Dalmuir, West Dunbartonshire
(ウィリアム・ベアードモア社 連合王国スコットランド国ダンバートンシャー郡ウェスト・ダンバートンシャー州ダルミール市)
  • イギリス海軍は大型巡洋艦フューリアスの前方に甲板を設けて航空機を発艦させるという方式により世界初の空母を手に入れるに至ったが、この艦形では着艦が不可能であるなど様々な問題を露呈したため、航空機の運用には船の上にまっ平らな滑走路、すなわち全通式の飛行甲板を設けなければならないという結論に達した。
    それによりグラスゴーで建造中だったイタリアに売る予定の商船を買い取り、これを空母に改装して完成したのが世界初の全通式飛行甲板をもつ空母アーガスである。
    完成後視察にやってきた日本海軍はこの船に感銘を受け、世界初の一から空母として建造された船「鳳翔」を完成させることになる。
  • 世界初の航空母艦には黎明期故に様々な苦労がつきまとった。着艦する飛行機を止める方法があれこれ模索され、アメリカとイギリスで今日のような横索式のワイヤーにフックを引っ掛ける方式が成功するまでは着艦した飛行機に整備員が一斉に飛びついて脚でブレーキをかけるというとんでもない方法まで取られた。
    更に艦橋も甲板の下に置いたため狭い湾内では航行に支障が出ることが懸念され、伸縮式の操舵用艦橋がついていた。これは後に本来の艦橋を広げたことで撤去される。
    煙突もまた大きな問題で、従来のように真上に立てる訳にはいかないから側面に大きな筒を付け、ファンで風を送ってお尻から排煙した。
    ところがこの筒のせいで格納庫は狭くなった他、居住区に熱がこもるという問題を引き起こした。ただし北海での活動時はそれなりに喜ばれてもいた。
    (2万馬力のアーガスだから良かったものの、この方式を真似た日本海軍の「加賀」は9万馬力の大出力であり、その発熱は凄まじく焼き鳥製造機とまで言われた)
    全通式甲板下に格納庫を設け、前後2基のエレベーターで昇降させるという基本形を守った構造と、ソードフィッシュなど複葉機を長く運用したこともあり、第2次大戦をの前半で様々な作戦に参加する。
     
  • アーガスの前身はイタリアに売る予定だった高速定期客船「コンテ・ロッソ」。ビアードモア社によってグラスゴー造船所にて起工、建造が進められていた。
    しかし第一次世界大戦の勃発で建造が中止になり、放置されていた。ビアードモア社は水上機母艦に転用する案を温めており、前部に発艦甲板を、後部に積み下ろし用のクレーンを装備し、
    艦中央には大型の格納庫を搭載する予定だった。この案は煮詰められ、最終的には空母として改装する事が決定。1916年8月にイギリス海軍が買い取り、空母への改装工事を始めた。
    1917年12月2日に進水し、竣工しないまま第一次世界大戦へ投入される。就役当時、船体にはダズル迷彩が施されていた。
  • 1918年7月、アーガスに初の任務が与えられる。それはロシアのアルハンゲルスクで活動する水上機母艦ペガサスに航空機を輸送する事だった。
    無事に初任務をこなすと、グランド・フリートに編入。10月1日、初めての着艦作業が行われた。同月中にヴィルヘルムハーフェンのドイツ艦隊を攻撃する予定だったが、ドイツ降伏により実行されず。
    12月19日までに36回の発着艦作業をこなした。そして残余の工事が行われ、1919年3月28日にようやく竣工。
  • 1924年2月26日に地中海艦隊に編入。翌年11月1日にチャタム工廠で魚雷防御用のバルジを装着する。1927年1月19日に工事を完了。極東方面艦隊に編入された。
    1936年には無線操縦標的機を遠隔操作する母艦に改装された。1937年、近代化改修を受け、排煙口と射出機を装備。イギリス空母と航空機の発展に尽力した。
     
  • そして1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発。開戦時、発着艦訓練用の予備艦として本国のライオン湾に配備されていた。
    アーガスは老朽艦だったため後方に留め置かれるはずだったが、ドイツ海軍との激戦で空母が足りなくなり、地中海方面で航空機の輸送を担当する事になった。
    地中海には敵国イタリアが存在し、ジブラルタルを突破したUボートも遊弋する危険地帯だった。敵中で孤立し、猛攻撃を受ける英拠点マルタ島を支援するため、アーガスの戦いが始まった。
    1940年4月までに対空兵装が強化され、実戦に向けての準備が進められた。
  • 1940年6月12日から14日にかけて、ニュージーランド発イギリス行きのUS3船団を護衛。ジブラルタル西方から護衛につき、無事に本国まで送り届けた。
    1週間後、デンマーク陥落に伴い、持ち主がいなくなったアイスランドのレイキャビクに第701隊を輸送した。
    7月24日、独伊軍の猛攻を受けるマルタ島を支援するため、ハリケーン戦闘機12機を積載してイギリス本国を出撃。ジブラルタルを経由し、地中海艦隊B艦隊の支援を受けて、サルディニア島南西沖より発艦させた。全機がマルタ島に到着し作戦成功。
    9月5日にはタコラディにハリケーンを輸送した。11月14日、再びマルタ島へハリケーン12機を送る任務に就く。ジブラルタルを通って地中海に突入したが、17日午前5時にマジョルカ島南方でイタリア艦隊発見の報を受ける。
    このため予定を切り上げて、誘導のスキュア1機とハリケーン6機を発進させた。が、2機が燃料切れで墜落。他の機は無事にマルタ島へ降り立った。
    午前7時15分、同じ編成で残りの6機を発進させたが、誘導のスキュアが何と、イタリア勢力下のシチリア島に不時着。これに続いていたハリケーンも全機が行方不明になってしまった。
  • 12月24日、WS5A船団とともにタコラディへ航空機を輸送していたところに黒い影が忍び寄った。ドイツ海軍の重巡アドミラルヒッパーが探信儀で船団を捕捉してきたのだ。
    敵艦は一晩中、船団を追い回した。そしてクリスマス早朝に戦端を開いた。アドミラルヒッパーは単身で輸送船団に襲いかかり、窮地に立たされる。
    船団には空母のアーガスとフューリアスがいたが、どちらも輸送任務中だったため航空機の発艦ができず、アドミラルヒッパーの襲撃に何ら影響を与える事が出来なかった。
    しかし多勢に無勢。すぐに護衛の重巡ベリックと軽巡ボナヴェンチュア及びデュネディンが迎撃し、ベリックが被弾しつつもアドミラルヒッパーを追い払い、事なきを得た。
    逃げ去ったアドミラルヒッパーを追跡するべくソードフィッシュの出撃準備が始まったものの、先に捜索を始めていたフューリアスが視界不良で捜索を切り上げたため中止。
  • 年が変わって1941年3月21日、イタリア潜水艦ラッツァロ・モチェニーゴから雷撃を受けたが回避。
    4月2日、またまたマルタ島へハリケーン12機を送るため地中海に進出。28日にはH部隊の護衛で20機を送り届けた。
    アーガスの輸送任務は地中海に留まらず、8月31日にムルマンスクへハリケーン24機を送り届けた。9月30日、マルタ島に届ける目的でジブラルタルにアルバコア雷撃機を運んだ。
    帰路に本国へ引き揚げる第804飛行隊を乗せる予定だったが、これは中止された。代わりに損傷した機体を載せて出発。空母イーグルとともに10月20日、本国に帰投した。
    11月8日、ジブラルタルを出港し、オペレーションパーペチュアルに参加。空母アークロイヤルと組んで、航空機輸送に従事する。
    2日後、シチリア島西方に到達し、11月14日にマルタ島へハリケーン34機を輸送。任務を完遂し、帰路についた。しかしこの輸送任務でアークロイヤルがUボートに撃沈され、
    船団の稼働空母がアーガスだけになってしまう。このため老体に鞭打って、防空任務を担当した。交代の空母が派遣されるまでの間、H部隊唯一の空母として現地に留まった。
     
  • 1942年1月、本国に戻ったアーガスは自衛用のソードフィッシュを搭載。
  • 1942年2月17日、マレーヤ等とともにWS16船団を護衛。いつものようにマルタ島へ向かい、新鋭のスピットファイアを届けようとしたが、途中で作戦中止となる。
    3月6日、気を取り直して再びスピットファイアを輸送。翌日、全機発艦させ、ジブラルタルから飛来したブレニム爆撃機とともにマルタ島へ送り込んだ。このスピットファイアは初めてマルタ島に配備された機体となった。
    この後も輸送作戦は続き、輸送を妨害しようと現れたイタリア潜水艦モチェニーゴにまた雷撃されたが、回避。
  • 5月19日にもマルタ島へスピットファイアとアルバコア雷撃機を運んだ。この輸送作戦ではちょっとしたトラブルが発生した。発艦したアルバコア雷撃機のエンジンが過熱し、
    アーガスに引き返してしまったのだ。検査の結果、空調が「冬」設定になっていたそうな。
  • 6月14日までに三度の輸送任務をこなし、マルタ島を支え続けた。献身的な活躍もあってか、マルタ島は独伊軍の猛攻を受けながらも陥落せず、ドイツアフリカ軍団の背後を脅かした。
    7月31日、スカパフローを出港し、大西洋上でバサーク演習に参加。8月9日、ペデステル船団と合流。
  • 11月8日、トーチ作戦に参加。東アフリカ海軍任務部隊に編入され、ヴィシーフランスが支配するアルジェリアに上陸した連合軍を支援。10日、ドイツ軍機に爆撃されて小破。4名が死亡する。
    上陸作戦が順調に推移していき、アーガスは結果を見届ける事無く後退する事になった。北アフリカからイギリスへ戻るMKF1船団を護衛しつつ本国を目指したが、
    15日午前に僚艦のアヴェンジャーがU-155に雷撃されて沈没している。ヒヤリとした一瞬だった。
    本国に帰り着いたアーガスであったが、そこで練習空母となり、前線に出る事は無くなった。新鋭空母が次々に就役し、バトンを受け継いだからである。
    ドイツ軍との苦しい戦いを強いられた戦争序盤から戦線を支え続け、ようやく後継者に後を任せる事が出来たのだ。
  • 1943年2月から5月にかけて徹底的な修理を受ける。そして1944年1月27日に新たな任務を受けるよう命じられたが、中止。9月27日まで訓練艦として活動した。この日が、艦載機が発艦した最後の日だった。
    年末に航空機輸送船に改装される予定だったがキャンセルされ、12月からチャタムで宿泊艦となる。同時に退役。余生をのんびり過ごしながら終戦を迎えた。
     
  • 1946年5月6日、宿泊艦の任を解かれる。そして12月に除籍され、5日に売却。ファイフ州インヴァーキーシングに回航され、解体された。彼女はフラットアイアンという愛称で親しまれていたという。

小ネタ

名前の由来はギリシャ神話における100の目を持ちそれぞれが交代で眠るという巨人アルゴスの英語読み。
このため中国語版の名前は「百眼巨人」。