No267 島風/元ネタ解説

Last-modified: 2023-06-13 (火) 13:34:55
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型島風型駆逐艦
正式名称島風
名前の由来島風 島から吹く風 島へ吹く風
起工日1941.8.8
進水日1942.7.18
就役日(竣工日)(1943.5.10)
除籍日(除籍理由)1945.1.10(1944.11.11沈没)
全長(身長)129.5m
基準排水量(体重)2567英t(2608.192t)
出力ホ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 75000shp(76040.2PS)
最高速度39.0kt(72.22km/h) 40.9kt(75.74km/h)(軽荷時過負荷)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/6000海里(11112km)
乗員294名
装備(竣工時)50口径三年式12.7cm連装砲3基9門
九六式25mm機銃x4(2x2)
九三式13.2mm機銃×2(1×2)
61cm五連装魚雷発射管3基15門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装備(1945)50口径三年式12.7cm連装砲3基9門
九六式25mm機銃x21(4x3+2x1+7x1)
61cm五連装魚雷発射管3基15門
爆雷投射機x2
爆雷投下軌条x2
装甲なし
建造所舞鶴海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社舞鶴事業所) (日本国京都府舞鶴市)
  • 島風型駆逐艦1番艦。
    島風型は次世代の艦隊型駆逐艦として設計された艦であり、陽炎型&夕雲型の甲型、秋月型の乙型に対して丙型駆逐艦とも呼ばれる。
    駆逐艦の主力として16隻の建造が決定していた高速で重雷装の艦隊型駆逐艦であった。
  • アメリカ軍の新型艦に対抗すべく速度と雷装が強化されており、特に速力が有名。
    陽炎型駆逐艦9番艦「天津風」にて試験採用された新型の高温高圧缶の採用などにより、7.5万馬力*1の出力を発揮。公試(本来の2/3搭載ではなく1/2搭載で過負荷最大)にて40.9ノットの日本艦最速記録を打ち立てた。
    もっとも、世界的に見れば戦艦少女Rに実装されている艦だけでも上には上がいる。とはいえ、測定条件が異なっている事には留意すべきである。
    島風が真に誇るべきは、後述する重雷装でなおかつこのスピードを発揮できるということだ。
  • 雷装も非常に強力で、新規設計の5連装発射管を3基装備している。ただし次発装填装置はないため、魚雷の総数は従来艦と大差ない。
  • 速度と雷装ばかりがクローズアップされがちだが、日本軍の駆逐艦としては珍しくレーダー装備も充実しており、竣工時から22号電探と三式超短波受信機(逆探)を装備していた。
  • 一時は16隻の量産も計画されたが、高コストかつ複雑な機関などが量産に向かない構造だったことや、太平洋戦争における戦術の変遷、戦局の悪化などの要素が重なり、量産計画は頓挫。
    駆逐艦の量産は対空能力の高い秋月型や生産性に優れた松型の方が優先され、島風型はネームシップの島風1隻に終わった。
  • 島風の名前を持つ駆逐艦としては2代目である。初代は峯風型で、この艦も当時の最高速で名を馳せたが、2代目の就役を待たずして戦没している。
 
  • 1941年8月8日に起工、1943年5月10日に竣工。
    しかし同型艦がなく、1隻だけ傑出して足の速い島風は艦隊にとっては扱いやすい存在ではなかった。
    訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属し、訓練を受ける。
  • この頃には日本の劣勢が明確になりつつあり、アリューシャン方面で撤退・玉砕が相次いだ。
    その中で立案されたキスカ島からの撤退作戦において、司令官の木村昌福少将はレーダーを装備した艦の派遣を要請。
    この作戦は濃霧に紛れて強行突入し、守備隊を収容して一気に離脱する作戦であり、見張りの効かない霧の中でも索敵可能なレーダー類が不可欠だったのだ。
    そしてこの要請に応え、新鋭駆逐艦であった島風が抜擢・派遣されることとなる。
  • 第1次作戦は突入前に霧が晴れてしまい、木村少将は「帰ればまた来られるから」と言い残して撤退を決定。
    何の戦果もなく帰還した木村少将に対し上層部は非難轟々だったが、島風を含む各艦の艦長は撤退は当然の判断として逆に抗議している。
  • 7月22日、再び濃霧が発生するという予報を受けて再出撃。上層部の督戦を受けながらキスカ島に向かい、途中で味方艦同士が接触するトラブルもありながら、現地に到着。
    7月29日、突入開始。この時島風は味方が発見した敵艦に対し、旗艦である軽巡洋艦「阿武隈」と共に魚雷を発射。全弾命中したが、これは軍艦に似た形の島であった。
    皮肉にもこの雷撃が、島風が雷撃で挙げた唯一の「戦果」となった。
  • この作戦は守備隊の装備を放棄させて収容を迅速化させるなどの手際のよさや、直前にアメリカ軍が補給のため1日だけ包囲を解いて後退していたという幸運なども重なり、約5,200人の守備隊を1時間足らずで迅速に収容し、撤収することに成功。
    「無傷で全員撤収成功」という戦史史上でも稀に見るレベルの大成功を収め、奇跡の作戦として歴史に名を残すことになる。
     
  • その後、島風は第二水雷戦隊に配属され、対潜哨戒任務などに従事。
    護衛任務などにも従事するものの、これらで戦果を挙げることは出来なかった。
    1944年には護衛中にアルバコアを含む部隊と交戦しているが、この時も僚艦の駆逐艦「漣」や護衛対象のタンカーを撃沈された上、逃走を許している。
  • マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦といった大きな戦いにも参加したものの、これらの戦闘でも雷撃のチャンスには恵まれず、戦果を上げられなかった。
    11月4日、レイテ沖海戦で沈没した軽巡洋艦能代に代わり、第二水雷戦隊の旗艦となる。
  • 1944年11月、レイテ島への輸送作戦「多号作戦」の第3次作戦に旗艦として参加。
    この部隊は旧式・低速の輸送船を主体とした部隊であり、高速艦での護衛は当初から懸念されていた。
    結局強行され、敵に発見されにくい悪天候の中出撃したものの、途中で輸送船の座礁や天候の回復などが起こり、状況は徐々に悪化する。
    11月11日、オルモック湾内でついにアメリカ軍機動部隊に捕捉されてしまい、第38任務部隊から空襲を受ける。13隻の空母からのべ350機という、真珠湾攻撃にも匹敵する規模の航空部隊が、旧式輸送船と僅かな護衛部隊に襲いかかった。
    島風は誘爆を防ぐために速やかに魚雷を投棄し、自慢の速力と必死の操艦で魚雷や爆弾の直撃を避け続けた。
    しかし至近弾や機銃掃射によるダメージの蓄積は避けられず、船体の随所で浸水が発生、さらに機関がオーバーヒートして航行不能になってしまう。
    やがて機関部が爆発を起こし、沈没。第二水雷戦隊の司令部を含む多数の乗員が戦死した。船団自体も駆逐艦「朝霜」を除いて全滅し、第3次作戦は完全な失敗に終わった。
    次世代の艦隊型駆逐艦として申し分ない性能を誇りながら、その性能を活かし切ることは遂に出来なかった。

*1 排水量20倍以上の大和型戦艦の約半分、排水量10倍以上の扶桑型戦艦に匹敵する