No279 サミュエル・B・ロバーツ/元ネタ解説

Last-modified: 2018-11-04 (日) 20:38:36
所属United States Navy
艦種・艦型ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦
正式名称USS Samuel B. Roberts (DE-413)
名前の由来Samuel Booker Roberts, Jr.(1921-1942) アメリカ海軍の兵士 ガダルカナル島の戦いで自分を犠牲にし海兵隊員を救ったことから勇気をたたえNavy Crossを授与された
起工日1943.12.6
進水日1944.1.20
就役日(竣工日)1944.4.28
除籍日(除籍理由)1944.11.27(サマール沖海戦/Battle off Samar 1944.10.25沈没)
全長(身長)93.3m
基準排水量(体重)1350英t(1372t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶2基Westinghouse式蒸気タービン2基2軸 12000shp(12166.4PS)
最高速度24.0kt(44.44km/h)
航続距離15.0kt(27.77km/h)/6500海里(12038km)
乗員指揮官14名 乗組員201名
装備(建造時)5inch38口径Mk.12単装両用砲2門
21inch三連装魚雷発射管1基3門
ボフォース40mm機関砲x10(1x4+3x2)
エリコン20mm機関砲x10
爆雷投射機x8
Hedgehog対潜迫撃砲1基24発
爆雷投射機x8
爆雷投下軌条x2
装甲なし
建造所Brown Shipbuilding Company, Houston, Texas
(ブラウン造船 アメリカ合衆国テキサス州ハリス郡フォートベンド郡モンゴメリー郡ヒューストン市)
勲章Presidential Unit Citation
不明(1 stars)

サミュエル・B・ロバーツについて

  • アメリカ海軍ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦。艦番はDE-413。艦名は同名のアメリカ海軍軍人に因む。
    後述の戦歴から「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」の異名で呼ばれている。
    1943年の12月6日に起工、翌年1月20日に進水、4月28日に就役。アメリカの大量生産を物語るように素早く作られた。
    同級は293隻が発注予定であったが、たった3分の1にも満たない83隻の建造で中止、206隻の発注がキャンセルされた。
    余談だが同級の中には「アバークロンビー」というモニター艦と同名の艦も存在する。
  • 護衛駆逐艦とは、アメリカ海軍で主に採用された商船・船団護衛用の駆逐艦。
    日本で言う大戦末期の松型駆逐艦や海防艦、イギリス海軍で言うフリゲート艦に相当する役割の艦船である。
    艦隊決戦の補助役ではなく、船舶護衛用のため対空・対潜に特化した性能を与えられた艦が多い。
    一方で、通商破壊用の水上艦に対する攻撃能力のため、火力や雷撃能力を付与された物も存在する。
    また、こうした艦種は護衛対象の貨物船と同等の速力を求められたため、駆逐艦に比べて低速の艦が多かった。
    • 武装に関しては、第二次大戦の後半からは水上艦への攻撃能力よりも対空戦闘に重きを置く武装へとシフトしていった。
      これら護衛駆逐艦の中には魚雷発射管を撤去し、代わりにボフォース対空機関砲などを搭載した艦も登場している。
    • また、一部の護衛駆逐艦は、旧式の駆逐艦と共に高速輸送艦として改装され、役割を代えて運用されている。
  • サミュエル・B・ロバーツも性能は同様で、速力は24ノット。
    武装は38口径5インチ砲が2門、3連装魚雷発射管1基、残りは対潜装備と対空機銃のみという極めて簡素な作りであった。
    もちろん大量生産を目的とした艦であるため装甲は皆無、ブリキ缶と揶揄される程であった。
    本来の船団護衛以外では使い道のない艦船ではあったが、サミュエル・B・ロバーツは同級の中で最も過酷な戦いに参加する事になる。
  • 就役からまもなく、太平洋戦線へ投入されたサミュエル・B・ロバーツは、10月までに第77.4.3任務群「タフィ3」に参加。
    サマール島沖に派遣されたサミュエル・B・ロバーツは後に激戦となったサマール沖海戦に巻き込まれる事になる。

運命のサマール沖海戦

  • 1944年10月25日朝。サマール沖にて活動中のタフィ3はサンベルナルジノ海峡を突破した日本軍艦隊の攻撃を受けた。
    この日本艦隊こそ、栗田健男中将が率いた栗田艦隊であった。
    戦艦大和、長門金剛榛名、さらに羽黒を筆頭とする計6隻の重巡。さらに軽巡2隻、駆逐艦11隻の大艦隊である。
    • 一方でタフィ3の戦力は護衛空母6隻。護衛駆逐艦4隻、駆逐艦3隻からなる小艦隊。
      船団護衛と哨戒活動のみ任務部隊であり、日本軍艦隊と正面から戦うだけの火力も装甲も無かった。
      さらに駆逐艦の護衛対象である護衛空母は速力19ノットが限界で装甲も薄い“ジープ空母“、接近を許せば全滅必至の非力な部隊であった。
      タフィ3は援軍要請を出すが、アメリカ海軍主力艦隊は囮である小沢艦隊の攻撃で手一杯であり、僅かな部隊の増援しか望めなかった。
      さらに唯一の巡洋艦隊は補給により駆けつけるまで時間を要し、タフィ3に残された手段は栗田艦隊の攻撃を逃れる事のみだった。
       
  • タフィ3の護衛空母を護るため、随伴の駆逐艦たちは絶望的な戦いに身を投じる事になった。
    煙幕を張り、スコールへ突入するなどの回避策を取りながら護衛空母が栗田艦隊からの攻撃をかわす中、ジョンストンホーエルを含む駆逐艦は果敢に栗田艦隊へと立ち向かった。
    サミュエル・B・ロバーツもまた、非力な武装でこれらの強敵に立ち向かった。
  • 7時35分、サミュエル・B・ロバーツは栗田艦隊との対決に打って出た。
    煙幕を張り、栗田艦隊の重巡に突撃を敢行。まさに無謀極まりない戦いの始まりであった。
    この際、艦長のコープランド少佐は乗組員たちに対して「結果はどうなるか不明だが、これより雷撃を敢行する」と通達。
    護衛空母ガンビア・ベイへの攻撃を妨害すべく、鳥海・羽黒・利根と思われる重巡に対して魚雷3本を発射。
    さらに、距離を詰めて鳥海に肉薄し、相手の主砲が撃てなくなる程の近距離まで詰め寄り、砲撃を敢行した。
    しかし多勢に無勢であり、日本艦隊からの集中射撃を受ける事になる。
    大口径砲による砲撃を受けながらも、たった2門の5インチ砲をありったけ発射し、さらに対空機銃、機関砲までを使用し日本艦隊へ猛攻を加えた。
    また、この際に速力全開で戦い、28ノットという速力を叩き出している。
    • 乗員たちも必死になってこの戦闘に臨んでいた。中でもポール・H・カー兵曹に纏わるエピソードは強烈である。
      砲塔で装填手として戦闘に参加したカー兵装は砲撃により重症を負い、瀕死の状態になり一度は仲間の手により砲塔から出されるも再度砲塔へ戻り装填を試みた。
      結果、負傷により戦闘中に命を落としたのだが、彼は砲弾を抱えて、最後まで砲撃を続行しようとしたまま息絶えたという。
       
  • しかし、護衛駆逐艦としての装甲も火力も限界があった。
    戦闘に加わった金剛の砲撃により、主砲弾の直撃を受け機関と船体を大幅に損傷。
    次々に日本軍の砲撃が命中し、沈没は時間の問題となった。
    3発の魚雷と、600発近い主砲弾を撃ち切ったサミュエル・B・ロバーツにもはや戦う力は残されていなかった。
    9時35分、二時間以上に渡る戦いの末にコープランド艦長は総員退艦命令を発し、乗員の脱出が開始された。
    その後、放棄されたサミュエル・B・ロバーツは軽巡矢矧と第17駆逐隊からの集中砲撃でついに力尽き、沈没した。
    この戦いで89名が戦死、艦と運命を共にした。脱出に成功した残る120名は50時間わたる漂流の末に救出されている。
  • 駆逐艦の勇敢な反撃と護衛空母の奮戦により、タフィ3は護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦ジョンストンとホーエル、そしてサミュエル・B・ロバーツの喪失という損害に留まった。
    また、これらの戦いで米軍側は栗田艦隊に対して損害を与え、この1日で鈴谷・筑摩・鳥海を沈める戦果を挙げている。

その後と余談

  • 戦闘後、タフィ3はその英雄的な行動から殊勲部隊章を受章。
    この戦いでサミュエル・B・ロバーツは従軍星章を受章、その戦いぶりから「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」と呼ばれた。
    ブリキ缶とも揶揄されたこの小さな護衛駆逐艦の奮闘はアメリカ海軍内でも伝説として語り継がれていく事になる。
  • その艦名は戦後まもなく就役したギアリング級駆逐艦DD-823に引き継がれた。
    ギアリング級のサミュエル・B・ロバーツはレバノン危機などの実戦を経験しつつも無事に退役、1970年に標的艦としてその軍艦としての生涯を閉じた。
  • この戦いで事切れる瞬間まで後部砲塔で砲撃を続け戦死したポール・H・カー兵曹は死後シルバースター勲章が授与された。
    さらに戦後、アメリカ海軍のオリバー・ハザード・ペリー級フリゲートの1隻にその名が冠されている。
  • また、当時戦闘を指揮した艦長、ロバート・W・コープランド少佐(後に海軍少将)もその名を関しており、
    そしてサミュエル・B・ロバーツ自体も同級の艦名として三度名を冠している。
    • オリバー・ハザード・ペリー級フリゲートの「サミュエル・B・ロバーツ」は“サミーB”の愛称で呼ばれていた。
      こちらは1988年4月14日、ペルシャ湾でのタンカー護衛任務中に機雷と接触し損害を受ける災難にも見舞われた。
      その後2015年5月22日に無事に退役している。