No61 平海/元ネタ解説

Last-modified: 2018-03-15 (木) 00:41:09
所属中華民國海軍→大日本帝國海軍(1938)
艦種・艦型寧海級軽巡洋艦→海防艦八十島(1944)→二等巡洋艦(1944)
正式名称平海(Ping Hai)→八十島(やそしま)(1944)
名前の由来平海 中国語で友好的な海という意味、中華人民共和国福建省莆田市平海村
→八十島 数多くの島々という意味
起工日1931.7.9
進水日1935.9.28
就役日(竣工日)1936.6.18
日本海軍接収日1938.5.4
日本海軍除籍日(除籍理由)1945.1.10(1944.11.25沈没)
全長(身長)106.7m
基準排水量(体重)2409.3英t(2448t)
出力艦本式石炭専焼缶5基三段膨張式蒸気レシプロ機関2基2軸 7488shp(7591.9PS)
最高速度21.0kt(38.89km/h)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/5000海里(9260km)
乗員361名
装備14cm50口径三年式連装砲3基6門
8.8cm40口径三年式単装高角砲6門
ヴィッカース3ポンド単装高角砲8門
マキシム8mm機関銃x10
53.3cm連装魚雷発射管2基4門
爆雷投射機x9
装甲舷側:25~76mm 甲板:19~25mm 砲塔:25mm 艦橋:25mm
建造所江南造船厂,上海 (江南造船所 現中華人民共和国上海市)

中国海軍が建造した寧海級巡洋艦二番艦。読み方はピンハイ。
1931年7月9日、上海の江南造船所で起工。1932年9月28日に進水するも、中国国内は各軍閥による内戦でインフラが停滞していた。
このため艤装工事を日本に委託し、播磨造船所に回航されて工事を続行。そして1936年6月18日に竣工した。その出自は日本と中国の混血児と言えよう。
巡洋艦としているものの、実際は大型水雷艇の体躯であった。トップヘビーだった姉の寧海と比べて軽量化されているが
それでも外洋航行能力が乏しく、河川での運用が精一杯だった。代わりに重武装が施され、中国海軍の貴重な戦力となり得た。

 

竣工後は中華民国海軍に編入される。1937年6月、日華事変が勃発。生みの親同士が戦争を始める事態に陥ってしまう。
同年8月22日、平海は対空砲火で龍驤の艦載機を撃墜する戦果を挙げる。
しかし9月22日、揚子江で帝國海軍航空隊の爆撃を受け、脱出を図るも翌日に小破して擱座。身動きが取れなくなってしまう。
力尽きた平海は帝國海軍に鹵獲され、1938年に佐世保に移動した。

1944年6月10日、平海は海防艦「八十島」と名を改めて、帝国海軍に身を置いていた。
1944年11月24日、陸軍への戦車輸送の途上、最上型重巡洋艦4番艦「熊野」と合流する。熊野はサマール沖海戦を経て日本を目指す旅の最中だった。
平海改め八十島は熊野の負傷者を収容。11月25日早朝サンタクルーズ湾を出発、マニラに向かった。だが軽空母の航空部隊に見つかった八十島と熊野は空爆を受ける。
八十島は先に沈められ、熊野もその最期を目の当たりにしたが熊野もまた八十島の後を追い、熊野は最後の旅を八十島と共に終える事となった。
関係が悪化していく「両親」の間に生まれ、壮絶な父母喧嘩の中で傷付き、最後は片親の同盟国にしてもう片方の宿敵という存在によって引導を渡される艦歴はまさに波乱。
決して目立った活躍のある船ではないが混迷の戦争時代を体現しているといえるだろう。


因みに姉である寧海からオミットされたのは水上機の運用能力。高角砲や機銃の構成も少し変わっている。
その関係でゲームでも、平海は対空が若干低く水上機搭載数も0。機関構成が変わっているため、速力も少し低い。
回避が下がっているのはおそらく速力の分か。