No88 パンジャビ/元ネタ解説

Last-modified: 2018-02-24 (土) 19:00:36
所属Royal Navy
艦種・艦型トライバル級駆逐艦
正式名称HMS Punjabi (F21)→(G21)(1940)
名前の由来パンジャーブ語:پنجابی 南アジアのパンジャーブを中心に生活している民族 パキスタン最大の民族である。
起工日1936.10.1
進水日1937.12.18
就役日(竣工日)1938.3.29
除籍日(除籍理由)不明(1942.5.1沈没)
全長(身長)114.9m
基準排水量(体重)1854英t(1884t)
出力Admiralty式重油専焼缶3基Parsons式蒸気タービン2基2軸 44000shp(44610.3PS)
最高速度36.0kt(66.67km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/5700海里(10556.4km)
乗員190名
装備(建造時)4.7inch45口径Mk.XII連装砲4基8門
ヴィッカース2ポンド機関砲x4(1x4)
ヴィッカース0.5inch機関銃x8(2x4)
21inch四連装魚雷1基4門
爆雷投下軌条1基
爆雷投射機2基
装備(1940?)4.7inch45口径Mk.XII連装砲3基6門
4inchMk.XVI連装両用砲1基2門
ヴィッカース2ポンド機関砲x4(1x4)
エリコン20mm機関砲x4(4x1)
ヴィッカース0.5inch機関銃x8(2x4)
21inch四連装魚雷1基4門
爆雷投下軌条1基
爆雷投射機2基
装甲なし
建造所Scotts Shipbuilding and Engineering Company,Greenock, Inverclyde
(スコッツ・シップリング・アンド・エンジニアリング社 スコットランド国レンフルーシャー郡インヴァークライド州グリーノック町)

イギリス海軍が建造した、トライバル級駆逐艦2番艦。1935年6月、計画駆逐艦として建造が決定。建造費として34万3005ポンドを投入し、1936年10月1日にグリーノック造船所にて起工。
1937年12月18日に進水し、1939年3月29日に竣工した。竣工後、第6駆逐小隊に編入された。

 

初めての任務として、リヴァプール湾に沈んだ潜水艦の捜索及び救助を請け負った。その後、本国艦隊に加わり訓練に従事。
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。パンジャビは北海や北西海域での対潜任務や護衛に従事した。10月、墜落したドイツ軍の飛行船を救助しようとしたが発見できず。
12月2日、エイリアン・モレイズ南方にて商船と衝突事故を起こし、損傷。このため12月15日から翌1940年2月下旬まで修理を強いられる事となる。

 

1940年4月上旬、ドイツ軍によるノルウェー侵攻作戦が開始される。パンジャビはドイツ軍を阻止するため、本国艦隊とともに出撃。4月8日、レナウンと合流し、消息不明のグローウォームを捜索したが
既にアドミラルヒッパーによって撃沈された後であった。次に与えられた任務は、ナルヴィクを占領したドイツ駆逐隊の殲滅だった。
4月13日、戦艦ウォースパイトに率いられ、ナルヴィクに突入。第二次ナルヴィク沖海戦に参加する。前回の海戦では双方2隻の駆逐艦と指揮官を失った痛み分けに終わった。
今度こそドイツ駆逐隊にトドメを刺すべく、その増援に選ばれたのだった。海戦中、複数の敵駆逐艦の攻撃を引き付けたが、6発の命中弾を受け、1時間ほど沈黙させられた。
この海戦でナルヴィクのドイツ駆逐隊は文字通り全滅し、損害はあったもののイギリス側の勝利に終わった。傷ついたパンジャビはデボンポートに回航され、修理を受ける。同時に武装を新調した。
6月に戦線復帰を果たす。同月17日、サンナゼールから民間人と連合軍人を避難させる。20日からはポーランド軍人の引き揚げを行っている。
8月9日、本国艦隊の駆逐艦とともに、ジブラルタルから出港するH部隊の護衛を行う。9月、ヴィシーフランス軍の勢力圏であるダカール攻撃に参加。損傷した巡洋艦フィジーを護衛してイギリスに帰投。
10月23日、パンジャビは僚艦とともにノルウェー沖でドイツの天候予測船アドルフ・キリングを砲撃して撃沈。

 

1941年2月、スカパフローに寄港し修理を受ける。同時に新型レーダーを搭載した。3月から4月にかけてはロサイスで修理を受けている。
5月下旬、フッドを撃沈したドイツ戦艦ビスマルクを追撃する本国艦隊の護衛を務めた。7月27日、スピッツベルゲン島を護衛隊の給油基地に使えるか確かめるため、オーロラとナイジェリアの護衛として出港。
8月1日、ベア島からノルウェー国民を避難させる。その途上でノルウェー沿岸からドイツ軍の攻撃を受け、スカパフローへ退却。30日、ソ連にハリケーン戦闘機と基地要員を供給するため
アーガスとシュロップシャーを護衛。その護衛任務を終えると、12月からニューカッスル・アポン・タイン社のドックで修理を受ける。夏の暑さによって機器が損傷していたらしく、その修理だった。

 

1942年1月末、修理完了。3月からソ連行きのPQ12船団を護衛し、帰路にはQP8船団を護衛した。この間、船団の周りに不吉な影が忍び寄っていた。
あのドイツ戦艦ティルピッツが、偵察のため海に出ているという情報が入ったのだ。3月11日、パンジャビは船団から離れ、ティルピッツを捜索するも操舵関係に問題が発生しスカパフローへ戻った。
死神ティルピッツはそのまま港に戻り、船団は事なきを得た。4月12日、U-453から雷撃を受けたが外れる。続いてPQ10船団をアイスランドまで護送。4月12日に到着し、護衛隊から外れた。

 

イギリスに献身的な奉仕を続けてきたパンジャビに突然悲劇が訪れた。4月26日、PQ15船団の航行を支援するため遠方に配備されたパンジャビ。29日にアイスランドを出港し、予定の場所へと向かった。
5月1日、濃霧に包まれた海域にて機雷を避けようと転舵する。すると、目の前に突如戦艦キングジョージ五世が現れ、避ける間もなく左舷に衝突。
船体は真っ二つに引き裂かれ、前部と後部に分かれてしまった。後部はあっという間に沈没し、船尾に残っていた乗員は船体とともに海中へ引きずり込まれた。
深海で搭載していた爆雷が爆発し、全員が死亡した。死者は49名に上った。
一方、前部はしばらく浮いていたため艦長以下乗員209名が何とか救助された。戦艦ワシントンが曳航しようと接近していたが、後部の爆発の影響で僅かに損傷。艦歴がここで終わっている事から曳航に失敗したようだ。
衝突されたキングジョージ五世も無傷とはいかず、修理のため港へ戻る事を余儀なくされた。