歴史

Last-modified: 2009-10-06 (火) 12:28:48
 

アメリカ選挙の歴史

1500~1700年代にかけて、フランス、スペイン、イギリス等ヨーロッパの国々から多くの人が北アメリカにやってきました。この頃の開拓者たちは金・銀を探し求め、その他の人々は植民地を形成していきました。
1700年代になるとイギリス人が次々に北アメリカに移住し、東海岸一帯に定着して13の植民地を建設。これらの植民地はそれぞれ独自の発展をとげ、北部(ニューイングランド植民地)では多くのピューリタンが定住し、自営農業と商工業を発展させました。一方、南部植民地では宗派も様々で、黒人奴隷を労働の糧として綿花・たばこなどのプランテーション(大農場経営)を発展させました。
フランスは西部に領土を広げ、多くの開拓者たちが西へ移動していきました。当時フランスとイギリスは折り合いが悪く、植民地をめぐってついに戦争が勃発しました。イギリスはフランスとアメリカ大陸の先住民族(インディアン)の両方と戦わなければならず、この戦争はフレンチ=インディアン戦争(1755-63)と呼ばれました。数年間に及ぶ戦争の結果ついにフランスが破れ、イギリスはミシシッピ川東側のフランス領土を全て獲得しました。

しかし、この戦争でイギリスは多くの負債を抱える結果となり、これらの負債にあてる資金調達のため1764年に砂糖法を定めて砂糖に対して課税を行い、植民地住民の反感をかいました。また、貨幣法を定め、植民地の住民達が勝手に紙幣を印刷することを禁じ、本国の紙幣を使用することを強要しました。更に、1765年には印紙法を制定し、植民地で出される全ての証書・出版物などに対しての課税を行いました。この他にも、イギリス軍に対して馬や食糧を差し出さなければならないという条例もありました。

植民地の住民達はこれらの条例に強く反発し、 この結果「代表なくして課税なし」"No taxation without representation"という主張やイギリス製品のボイコット運動が広がり、印紙法はついに廃止されましたが、1773年には新しく茶法が制定され、植民地に対する茶の独占販売権が東インド会社に与えられました。これに反対する植民地住民がボストンに入港してきた東インド会社の船を襲撃し、茶を海中に投じました。これがボストン茶会事件です。 この報復手段として本国はボストン港を一時封鎖し、これによって植民地と本国との対立が一層激化したのです。

1774年には13植民地の代表がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議を開催しました。彼らは課税や他の本国からの弾圧について話し合い、植民地住民の基本権利を確認、本国に対してこれを主張しました。しかし本国政府はこれを無視したため両者の対立は更に激化し、1775年にマサチューセッツのコンコードで武力衝突が起こりました。この武力衝突を抑えるために本国からもイギリス軍がやってきました。植民地軍の小さな部隊がレキシントンでイギリス軍と衝突し、ついに独立戦争(1775-1783)が勃発しました。
この直後の第2回大陸会議においてジョージ ワシントン(1732-99)を司令官に選出して大陸軍が結成され、その後1776年7月4日に再びフィラデルフィアに集まった植民地代表者は、トーマス ジェファーソン(1743-1826)らを起草者として独立宣言を公布しました。

イギリス軍はブランディワインとジャーマンタウンで大陸軍を打ち破りました。植民地側には独立に反対する大地主・商人もいて陣営も整わなかったため、大陸軍の兵士たちは十分な食糧、衣料、武器もないまま厳しい冬を過ごさなければなりませんでした。しかし、独立宣言に補筆したベンジャミン フランクリン(1706-90)がヨーロッパ各地を訪問し、アメリカ独立の合理性を主張・運動に対する指示を訴えたことが功を奏し、イギリスの宿敵フランスは植民地側に応戦、スペインもフロリダの奪還を目指して参戦するなど、戦局は次第に植民地側に有利に展開していきました。

1781年10月19日にヴァージニアのヨークタウンで大陸軍は決定的な勝利をおさめ、ついにイギリス軍は降伏。2年後の1783年に平和条約(パリ条約)が締結され、アメリカ合衆国が誕生しました。
大陸会議では連合規約が準備され、新しい国家を納めるための最初の憲法として1781年に採択されました。この頃はまだ個々の州が強い権力を持っていたため連合会議という中央機関に力はなく、税制はおろか州間取引を調整する法律すら制定できませんでした。

イギリス13の植民地は合衆国設立後に州となりましたが、それぞれの足並みは全く揃っていませんでした。ジョージ ワシントン、アレキサンダー ハミルトン、ジェイムス マディソンや他の政治家たちはこの憲法による政治に満足できず、1787年に憲法制定会議が開かれ、ここで初めて新しい憲法が制定されました。各州をとりまとめるには統率力のある強い政府が必要だったからです。
新しい憲法は、まず3つの政府機関を設け、三権分立を取り入れました。それが、Executive Branch(行政機関)、Judicial Branch(司法機関)、Legislative Branch(立法機関)です。

Executive Branchは最高責任者としてここに大統領を置き、法の遵守を監督し、国民は4年毎に大統領を選出することになります。Legislative Branchは新しい法律を作る最高機関で、Senate(上院)とHouse of Representatives(下院)の2つから構成され、これを議会(Congress)と呼んでいます。Senateには、それぞれの州から議員を2人選出して送り込むことがでます。House of RepresentativesはSenateよりも多くのメンバーから構成され、各州の人口に比例して代表者の数が決められます。人口の多い州は、人口の少ない州よりも代表者を多く選出することができるわけです。 Judicial Branchは、最高裁判所(Supreme Court)と他の連邦裁判所から構成されます。
1787年9月17日、代表者たちはこの新しい憲法に署名しました。13州のうち少なくとも9州の賛同を得なければなりませんでしたが、まず最初に9つの州が合意し、1789年にはアメリカ合衆国初代大統領としてジョージ ワシントン(在職期:1789-1797)が選出されました。後に彼は"Father of This Country"と慕われました。1790年までには全ての州が新しい憲法に署名しました。新しい憲法は権利章典が欠如していることに数々の指摘を受けましたが、紆余曲折の後に1791年11月に10条からなるBill of Rights(権利章典:人民の基本的人権に関する宣言)がようやく唱えられました。

ジョージ ワシントンの大統領就任式は1789年4月30日にニューヨークで行われましたが、この時首都をどこに置くかはまだ決まっていませんでした。その後、憲法制定会議などが行われたペンシルバニア州フィラデルフィアに臨時的に首都を構え、最終的に現在のワシントンDCに首都建設計画が進められることとなったのです。
1860年にアブラハム リンカーン(1809-1865)が大統領に選出されると、まもなくしてサウスカロライナ州がアメリカ合衆国から脱退、ジョージア州、テキサス州などもこれに続き、1861年に軍人だったジェファーソン デイヴィス(1808-1889)を大統領とするアメリカ南部連合国(Confederate States of America)を新たに立ち上げました。彼らは首都をヴァージニア州のリッチモンドに移し、ロバートEリー(1807-1870)を南軍の将軍に指名しました。
この頃、共和党全体で奴隷制度廃止の気運が高まり、共和党出身のリンカーンが大統領に選出されたことで、綿花栽培が中心で奴隷制を推進したい南部連合国とのぶつかり合いがますます激しくなっていきました。1861年4月12日、リー将軍率いる南軍がついに北部領土を攻撃し、ここに南北戦争が勃発しました。
リンカーンは1863年に奴隷解放宣言を発布し、同年7月のゲティスバースの戦いで情勢は北部に好転しました。その後1865年に連合国の首都であるヴァージニア州リッチモンドが陥落して南軍は降伏し、1861年から4年間続いた南北戦争がようやく終結しました。
南北戦争終結後、合衆国憲法修正第14条により、かつて奴隷だった全ての黒人たちにも市民権が与えられ、彼らはフリードメンと呼ばれるようになりました。
1920年以前のアメリカでは女性に対して選挙権が与えられていませんでした。1860年代の初頭からスーザンBアンソニーをはじめとする女性たちが、女性の地位向上を訴え、各地で運動が活発化しました。第一次世界大戦中に多くの工場等で働いて戦いを影から支えた女性たちこそがアメリカの勝利に重要な役割と果たしたとし、男性と平等の選挙権を与えるべきだと主張したのです。これにより1920年にようやく合衆国憲法修正第19条が可決され、国内全ての州において女性の選挙権が認められるようになりました。