Tag: 出来事 戦争 南プーヴェル大陸 エティア連邦共和国
概要
第二次統一戦争は1939年に勃発した1911年に始まり1914年に終了した第一次統一戦争に連なる、南プーヴェル東部地域で行われたエティア-フィア間の戦争である。
最終的に両者に痛み分けに終わった事や戦中の連合化思想による後のエティア連邦共和国の成立など、南プーヴェル大陸現代史の黎明と言われる。[誰によって?]
歴史的背景としては、1800年代に諸侯の政治的反乱により帝政が崩壊した一方で、まだ国内の専門家や軍部には帝政思想が根強く残っていたフィアによる帝国復古が大きな土台とされており、いわば大陸東部に一大帝国を築くことで、アークと並ぶ大陸二大カデア国家の思想が当時王国政治を主導した者たちにはあったとされる。また、当時のフィアではエティア経由で労働者権利運動の波を押し寄せており、これを危惧した資本家・実業家が帝国復活の構想を支持し、経済的に王国を支援した事で結果的に戦争は長期化した。
| 第一次統一戦争 | ← | 第二次統一戦争 |
|---|---|---|
| 第二次統一戦争 Seconda guerra di riunificazione Andra återföreningskriget (Tweede herenigingsoorlog) | ||
| 年月:1939年9月13日~1948年10月16日 | ||
| 場所:南プーヴェル大陸、現エティア連邦共和国領全域 | ||
| 結果:白紙講話(スゥェス和平協約) | ||
| 交戦戦力 | ||
| エティア共和国 | フィア王国(+クラキ自治領・フロナ自治領) | |
| 指揮官 | ||
| Dawid Gala(共和国大統領・1936~1940) Maksymilian Koprowski(共和国大統領・1940~1948) Mieszko Barylski(共和国国防相・1936~1944) Wawrzyniec Mostowski(共和国国防相・1944~1952) Krzysztof Zawistowski(共和国軍参謀本部長・1932~1953) | Sylvain Erlingen(フィア国王) Alex Ström(国防大臣・1936~1956) Alan Saar(王国軍元帥) Emil Svensson(王国軍参謀総長・1930~1945) Elis Östlund(王国軍参謀総長・1945~) | |
| 戦力(師団以外にも師団の人数に換算している、1師団は1万人である) | ||
| 歩兵師団約39師団 自動車化歩兵師団約12師団 機甲師団約14師団 砲兵師団約15師団 航空機約1700機 | 歩兵師団約48師団 自動車化歩兵師団約9師団 機甲師団約11師団 砲兵師団約21師団 航空機約2100機 | |
| 損害(軍属の人間のみ) | ||
| 約39万人 | 約51万人 | |
| 第二次統一戦争 | ||
| ヘダー計画 - 第一次ピルニッツ攻防戦 - サザの戦い - ヘルトルン市街戦 第一次ペシリア攻防戦 - スリアーク防衛戦 - メドリーの戦い - ハルヴモーネ湾海戦 第二次ピルニッツ攻防戦 - チロウィエク湾逆上陸作戦 - 第二次サザの戦い - 第二次ペシリア攻防戦 ラタ平原戦車戦 - リタン地域奪還作戦 - 第三次ピルニッツ攻防戦 - 第三次ペシリア攻防戦 アルワーデン・ライン - ファニー・ウォー - クエリア上陸戦 - リタン大航空戦 - 第四次ピルニッツ攻防戦 (ホク-アンジェラ狙撃戦) 第五次ピルニッツ攻防戦 - ポルクシエチク湾海戦 - グリフィス海戦 - 第六次ピルニッツ攻防戦 第二次ハルヴモーネ湾海戦 - 第四次ペシリア攻防戦 - リマナ東平原戦車戦 - ラタ大航空戦 参謀本部第229号令 - シルヴァイン・プラン - 北部大攻勢 - 南部大攻勢 | ||
背景
第一次統一戦争から約15年、フィア王国はしばらくの回復期間を終えて、隣国であり長年のライバルであるエティア共和国に対する侵攻の態度を露わにし始めた。
フィア王国にとっては、大陸東側地域の統一はある意味の悲願であり、もし統一に成功すればアークと並ぶ大陸二大カデア国家が誕生することになる。
一方で、共和制を取り13世紀頃から商人の活躍などによりこの地域の経済大国であったエティア共和国にとって、フィアによる併合は非常に不都合であった。
エティアも、政治・行政では中央集権化がなされていたが、当時は比較的経済方面では自治状態となっており、政府は犯罪以外ではほぼ経済活動に介入していなかった。
そして、この不介入の方針は成功しており、年々GDPは増加傾向にあり、平均所得も向上していた。
だが、フィアは経済政策の面でも中央の指示に従う必要があり、そのような経済活動の自由に制約があったため、エティアはフィアによる併合をなんとしてでも防がなくてはならなかった。
開戦前
1938年7月、フィア軍は総動員を開始し、エティア国境へと多くの軍が向かっていた。
エティア側のその動きは既に察知しており、少し遅れた6月に前線に既に配置されている要塞駐屯部隊を除く共和国軍や内務省の国家保安隊などを動員し、侵攻に備えた。
また、フィア軍は初期の侵攻計画として「ヘダー計画」を立案し、それが承認されていた。
この計画は以下の6つの段階に分かれており、これを持ってエティア共和国を平定するとされていた。
- 民需産業地域たるリタン地域の占領ことで、国民の厭戦気分を発生させる
- 山中都市や要塞の並ぶストレーヤ地域の占領、及び防衛戦の破壊
- 2と平行したストレーヤ地域北部の沿岸部都市の占領
- ストレーヤ地域の平定が終了次第、共和国の軍需産業地帯であるラタビア地域を占領、これをもって継戦能力を破壊する
- 4と並行し、ラタビア地域北部沿岸部の港湾都市を占領し、そこから侵攻、西部前線と合流
- この時点で敵産業基盤は崩壊したため、後は首都占領、及び降伏勧告により共和国政府を講話の席につかせる
対するエティア側はストレーヤ地域を中心に要塞や山岳を利用した防衛戦を構築しており、それが無い平原の多く、工業地帯であるリタン地域に軍の比重を集中しており、これが奇跡的にヘダー計画と噛み合っていたが、フィア軍は北部と南部の軍量の比重の分析をしていなかったため、後にこの戦争は長期化する原因となった。
緊急予算案:第977号通過
総動員開始の少し前、1936年6月。王国議会では激論が巻き起こっていた。
保守聖教民主党(現KNP)・国民民主党(現N)・中央党を中心とする動員派(戦争派)、民主労働者党(現FSA)・労働共同体党(現DF)・左翼民主党などの社会民主系政党を中心とした反戦派(融和派)による、事実上の戦争認可法案である『第977号王国政府緊急予算案』可決の是非が問われていた。
この予算案は戦費の大部分を戦時国債の発行を持って調達することになっており、この法案は可決されるということはその調達方法を認可すること――
――即ち、戦時国債の発行を国権唯一の立法機関たる、王国議会が認可を降ろす事になっていたのだ。
これは戦争の際に兵士階級の大部分を占める事になる、労働者・農民からの支持が中心であり、党是で労働者保護を訴える社会主義系政党にとっては絶対に許容できない法案であり、戦争を避ける最後の機会であった。
法案の委員会通過前から街頭では党、及びその支援団体による反戦運動が巻き起こっており、それを中央党やその支援団体などが妨害活動を行うというのが日常となった。
また、エティアとの戦争というのは当時の政権与党であった保守聖教民主党内において反対意見が多く、主流派こそ動員派が多かったものの、4割ほどは反戦派が非主流派として存在していた。
1936年6月1日、第977号案は議会内小委員会を通過し、本院審議に掛けられる事が決まった。
これにより、おおよそ2週間に及ぶ『騒乱議会』が勃発する事となった。
―国民民主党を代表とする急進右派政党の議員や聖教民主の主流派議員が『愛国演説』を行うと、社民左派の左翼民主党の議員が野次を飛ばし、それに対して極右の中央党議員が殴り込み、それを民主労働者党議員が宥める。
―民主労働者党議員が『反戦演説』を行えば、国民民主党議員が野次を飛ばし、それに極左の労働共同体党議員が殴り込み、反主流派の聖教民主党議員が止めに入る。
このような光景が977号案議決までの間、常態化した。
開戦
1939年9月13日午後13時29分、フィア王国政府はエティア共和国に対して宣戦を布告した。
両国は即座に前線部隊や司令部に対して動員を発令し、エティア軍は静的防御、フィア軍はヘダー計画に基づく行動を開始した。
9月13~15日にかけて、フィア軍はエティア共和国内務省国境警備隊や現地州兵による遅滞戦闘による妨害を受けながらも、現在のリタン州西部地域に当たる非都市地帯(田園地帯)から越境を行った。
越境後、しばらくの間フィア軍は目立った組織的抵抗を受けず、最初の戦術目標であるエスレヴ市の占領に向け行軍を行っていた。
しかし、17日の午後に非都市地帯の真ん中に差し掛かった王国軍は突如として大量の砲火を浴びる事となった。
この時、王国軍は先鋒を務める第一梯隊と多数の戦力を保有する第ニ梯隊、その他補給部隊などの後方支援部隊を第三梯隊として一→ニ→三の順で行軍を行っていたのだが、この時の砲火では主に第ニ・三梯隊が中心として砲撃を受ける事となった。
これにより、リタン州西部地域を進軍していた王国軍部隊は大きな損害を被る事となり、進軍速度は大きく低下することとなった。
ここで共和国軍の戦略に目を向けてみると、この時共和国は既にリタン州西部の非都市地帯は「占領も致し方無い」として捉えており、逆にこの広大な田園地帯を巨大な「漸減地域(キルゾーン)」としており、この地帯のみで王国軍の初動を挫こうとしていた。
共和国軍は『待ち伏せ』によって王国軍の初動を崩そうとしたが、王国軍は依然として規律を保って当初の計画通りの行動を進めた。
―これが、おおよそ9年間南プーヴェル大陸東部で発生した超長期間に渡る大戦争の始まりであった。
ヘダー計画
結論から言うと、ヘダー計画はフィア軍史上において最も失敗した作戦となった。
