ジョージ・ネクロフ(George Necroph)(1973年3月26日ー)は、日本の映画監督、映像クリエイター、俳優、ミュージシャン。クリエイティブ集団ザ・フェッツのフロントマン。本名非公開。別名、田中友幸。ニックネーム、ウナムー。CG専門学校の講師。
来歴
1973年、東京神田の薬局に生まれる。父は製薬会社勤務、母は薬剤師として薬局を経営。兄がいる。
1991年、新宿区内の成城高校を卒業、早稲田大学第二文学部に入学。早稲田大学映画研究会(映研)に所属する。映研では監督や俳優として活躍する。ザ・フェッツのメンバーであるタマーやトニー・カニバルとは、映研でのサークル活動を通じて交流を深める。
1992年1月、共に合宿委員であったタマーとトニーと、冬合宿の下見で長野県野沢温泉村を訪れ、そこでザ・フェッツを結成。メンバーの中では一番社交性があり、ザ・フェッツではフロントマンを務める。
『ザ・フェッツの解放宣言』は同年の冬から春にかけて撮影された。ジョージは主役の一人として主演する。またトニーと共に演出と、撮影、照明、編集をメインで担当した。
同年、ザ・フェッツの名前の由来ともなるフェティシズム研究サークル『ブルーベルベット』を創設。幹事長となるも、実稼働なく閉鎖。
1993年、早稲田大学映画研究会の第70代の幹事長となる。幹事長選挙では、同期のO氏と争って勝つ。O氏はその後ある政党に所属し、国や地方の各選挙でサポーターとして活動を続けるが、幹事長選挙の落選がきっかけとなっている。
当時映研の2年先輩で、早稲田のみならず自主映画界で評価を得ていたK氏の作品や、同期でその後映画プロデューサーとなるA氏の作品に、俳優として出演している。
1995年、早稲田大学第二文学部社会学専修を卒業。レコード卸の会社に就職するも、仙台営業所への転勤となる。
1996年、コーエーテクモゲームス(当時は光栄)に就職していたトニーに誘われ、コーエーテクモゲームスのSP本部デザイン部に入社。トニーと同じく映像チームに所属する。映像チームでは、上司のM氏の元、3名でゲーム内の映像や、TVCMを制作する。
トニーとは職場で毎日会っていたが、トニーに誘われ社会人映画サークル『クラッパーボード』を立ち上げた。
その後、コーエーテクモゲームスからトニーが退職した後も、しばらくコーエーテクモゲームスに所属し、数々のゲーム内映像とTVCMを制作する。現在に続くコーエーテクモの映像手法は、ジョージがコーエーテクモのE会長とともに作り上げてきたものである。
コーエーテクモゲームス退職後は、映像制作、CG制作会社を複数渡り歩く。
2020年、CG専門学校の講師となる。
人物
- 子どものころから映画が好きで、テレビ東京で放映していた「ザッツ・ハリウッド」という映画紹介番組を良く見ていた。
中学生のころ、ジョージが映画好きであるということを知っている近所の人からの情報で、松竹が募集していたシナリオ講座に申し込み通う。このシナリオ講座は全5回程度ではあったが、神奈川県鎌倉市大船にあった松竹の大船撮影所で行われ、「男はつらいよ」のセットを見学したり、新藤兼人、野村芳太郎、山田洋二ら錚々たる講師陣から講義を受けた。中学生のジョージは参加者の中で断トツで一番若いため、野村芳太郎からは親しく声を掛けられた。「好きな映画はなに?」という問いに、ジョージは「ヒッチコックの作品」と答え、野村芳太郎を関心させた。その当時は野村芳太郎のすごさを理解していなかったが、40代となってから『砂の器』や『八甲田山』『八つ墓村』を監督した野村芳太郎監督の偉大さを実感した。
本人は野村芳太郎の弟子を自認し、松竹大船調の正当なる後継であると言い張る。
- 体重の増減が激しく、70キロ台~100キロ台と変わる。
中学生のころ太っていたため相撲大会に駆り出されたが、明大中野中学校相撲部の花田光司(のちの第65代横綱貴乃花光司)と対戦。まったく相撲経験のないジョージは、花田の突き押しに土俵外に押し出され、耳から出血した。
- 中学生のころ、デビット・リンチ監督の『ブルーベルベット』(1986年)を見て、フェティシズムにはまる。映画に出てきたちぎられた耳を再現すべく、自分の耳の石膏型を作ろうとして耳の穴に粘土を詰めてしまい、耳鼻科へ行く。
名前
ジョージは本名から。ネクロフはネクロフィリアから。
