タマー(Tama)(1971年10月11日ー)は、日本の俳優、ミュージシャン。クリエイティブ集団ザ・フェッツのリーダー。本名非公開。
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来歴
1971年、栃木県出身。自営業の親の元に生まれ、姉が二人いる。栃木県立宇都宮高校を卒業。
1991年、二浪して早稲田大学商学部に入学。早稲田大学映画研究会に所属する。早稲田大学映画研究会(映研)では主に俳優として活躍する。ザ・フェッツのメンバーであるジョージ・ネクロフとトニー・カニバルとは、映研でのサークル活動を通じて交流を深める。
1992年1月、共に合宿委員であったジョージとトニーと、冬合宿の下見で長野県野沢温泉村を訪れ、そこでザ・フェッツを結成。1973年生まれのジョージとトニーと比べ年長のタマーがザ・フェッツのリーダーとなる。
『ザ・フェッツの解放宣言』は同年の冬から春にかけて撮影された。タマーは主役の一人として主演する。また音響効果を担当。大学の近く、早稲田鶴巻町にあるタマーの居室はザ・フェッツのスタジオとして利用され、特大の編集機器が持ち込まれ、「ザ・フェッツの解放宣言」の編集やアフレコが行われた。
同年、早稲田大学ガンダム研究会の元となるサークル『ラ・ゴダール・デ・ズゴック』を創設。幹事長となるも実稼働なく閉鎖となるが、すぐにトニーが同期のO氏とともに引継ぎ、早稲田大学ガンダム研究会として改組し、研究本を出版し、現在まで続くサークルの礎を作った。
1995年、早稲田大学を卒業。自動車の専門学校に入学する。
早稲田鶴巻町から、新宿区戸山に引っ越すが、引っ越しの最中に引っ越し業者により、テレビ台のガラスが割られ、ショックを受ける。
1996年、専門学校のスキー合宿で、バスから降りたところ凍結した道路で転倒し、足を骨折。矢板の病院に入院する。
レコード卸会社の仙台支社に勤務していたジョージの元を訪れたあと、トニーが見舞う。
1997年、専門学校を卒業。栃木県内の自動車会社の研究所に勤務。近くのアパートから、インテグラに乗って出社する。
ジョージとトニーが遊びに行き、トニーがタマーのMacintoshをメンテナンスしたところ、以降Macintoshの調子がさらに悪くなる。
インテグラに乗って、宇都宮市内の大谷資料館に行く。トニーが助手席のドアを開けたところ、インテグラのドアを大谷石にぶつけてしまったが、トニーはそのことを知らんぷりする。
その後時期は未定だが、実家がやっている会社に入社する。実家は会社から車で数分の距離にあるが、タマーは会社の敷地内の部屋に居住する。
その後、父のあとを継いで社長となり、会社を経営する。
人物
- タマーは自分の苗字が珍しいことを好まず、ファミリーレストランなどで客待ちの名簿には別名で書く。
タマーの苗字は全国で100名ほど。タマーが住む土地が発祥の地と言われ、集中している。
「タマー」は名前ではなく、名字から取っている。
ジョージとトニーからは「(苗字)くん」と呼ばれている。
- ザ・フェッツのメンバーの中では最もおしゃれに気をつかう。ジョージやトニーは、高田馬場のジーンズショップ「ユーエス・バンバン」が格安であるという理由だけでお気に入りだったが、タマーはユーエス・バンバンを嫌っていた。また専門学校時代から通う文京区内の理髪店に、栃木県内に居住してからも月1回のペースで通っている。ただし2020年以降、コロナ禍となってからは栃木県内で散髪している。
- 大学時代に住んでいた柳ビルは、六畳のワンルーム(情報求む!)で、バスタブは無くシャワーのみ。早稲田大学の本部キャンパスや映研の部室からは歩いて5分程度の住宅街にある。近所には新宿区立鶴巻図書館や鶴巻南公園、そして〇〇がある。
映研の部室が22時に閉まるため、ジョージとトニーが部室から流れていくパターンが多かった。
部屋にはVHSのVTR、CDプレイヤー、スーパーファミコンがあった。テレビ台の上には、誕生日にトニーからプレゼントされた吉田戦車の「伝染るんです」のキャラクターである椎茸のぬいぐるみが飾られていた。
1992年春、映研のおさがりである特大のVHS編集機が持ち込まれ、編集室となった。この編集機は「ザ・フェッツの解放宣言」だけでなく、杉浦先輩の映画でも使われ、杉浦先輩が毎晩やってきた。
- 清潔好きで、部屋の掃除や片付けは怠らない。ジョージやトニーがポテトチップスを食べた手で、スーパーファミコンを使うことやこたつ布団で拭うことを嫌った。
