ゲッターロボ+あずまんが大王 第2話-(3)

Last-modified: 2010-01-12 (火) 01:25:01

ゲッターロボ+あずまんが大王 第2話-(3)
第2話

 
 
 

「私は可愛いと思うけどなー、あの人形」
「人形…なのか、アレ?」
「少なくとも、生物には見えん」

 

夕焼け色に染まる世界を、智、神楽、暦の三人が歩いていく。

 

「でも、お前今日は寝すぎだぞ。あの後もぶっ通しで寝てたじゃないか」
「だから寝不足なんだってばー」
「もういい。せいぜい反省文に苦しめ」
「反省文!くぁー!こいつあやっぱ罰って感じだなー!」
「…バカだな」
「ああ、大バカだ」

 

ため息を付いた暦の隣で、神楽が身を乗り出した。

 

「で、お前は今日は夢見れたか? 最近、『めっきり見れないー!つまんねー!」って言ってたじゃねえか」
「見たよ」

 

凛とした声で、智は答えた。

 

「お前と逃げてた、あの日の夢」

 

暫くの間、歩を進める音だけがした。

 

電柱を二つ横切った時、やっとそれは破られた。

 

「…お前もか」

 

沈んだ声だった。

 

「…あんたも?」
「ああ」

 

暦は、静かにその話に耳を傾けたが、
参加しようとは思わなかった。
とても思い出したくはないからだ。

 

「でも、悪い気はしないなー。なんか面白かったし」

 

暦の心境を否定することを、この女は堂々と言った。
ずるりと、彼女のメガネが傾く。

 

「面白いってお前…不謹慎だぞ、こんなご時世で」
「いいじゃん、あんたもそうだろ?」
「私は、なんつうか…スカッとしたって言うか、爽快だったというか…」

 

意味は同じである。
ただ、智と神楽の認識には差異があるようだ。

 

「言うだけ言って何もしてこなかったよなー、あいつら」
「できなかったんだろ」

 

突っ込み役を欠き、アホらしい会話がその息吹を上げ始めている。

 

「強かったよなー…あれ」
「実は智ちゃん、今度からあれを目指すんだー」
「ああ頑張れよ、お前一人でな」

 

「実は私、もうあれより強いんだぜ?」
「そうかよ。じゃあ私より早く泳げるんだな」

 

「隠してたけど、実は智ちゃん空を飛べるんだ。だから泳げない」
「海適応Cとでも言いたいのか?甘えるなといいたい」

 

「実は、もうこのやりとりに飽きてきたんだ」
「奇遇だな。私も突っ込むのに飽きてきたんだ」

 

何も考えてない顔×2が、暦のほうをぐるりと向いてこう言った。

 

「「早く突っ込めよツッコミ眼鏡!!」」
「…このボンクラどもが!!!!!」

 

それは、某西洋の大妖怪に似ていたという。

 

「でも、さ。 冷静に考えて、あそこであいつらが来なかったら……」
「…今日の晩飯って何だっけ?」
「ホルモン焼き」
「…それはオカズにできるのか?」

 

振られた話を、晩飯が何であるかに変える空気かどうかは、微妙である。

 

「あーあ。 早く疎開、終わんないかなー」

 

空を見上げ、智は言った。
夕焼けが息を潜め始めていることを、星の光が示した。
ふとそこに、

 

ドグッ

 

星の光と似つかわしくない、肉を殴る音がした。
三人の足音が、呼吸と共に弱くなる。

 

路地の端で、二人の男が、一人の男を蹴っていた。
壁際に追い込まれ、身動きできないそれを狙って、執拗に、機械的に繰り返している。
がす、ごすと、繊維が擦れ、打撃が肉の中を通る音がする。

 

「…眼を合わせるなよ」

 

神楽は言った。
二人もそれに遵う。
幸いにして、そこは無事に通れた。
あちら側も、彼女らに気付かなかったらしい。

 
 

「…やなもんみちまったな」

 

音がしなくなるのを見計らい、暦は言った。

 

「ここ最近、通るたびに眼にするな、あんなの。ったく、男のクセに情けねえよ」
「いや、そんなことでも…いや、やっぱいい」

 

こんなご時世だから、とは付け加えたく無かった。
滅亡した鬼の帝国に、屈する気がしたからだ。
そのとき、トラブル好みの少女が会話に加わらないことに対し、暦は小さな不信感を覚えた。

 

「どうした、智」
「い、いや。怖かったなんてことはないからね」

 

声が震えていた。

 

「へっ、声が震えてんぞ。だらしねえなあ」
「なんだとぅ!」
「あ、手も震えてる。それは何だよ?」
「これは…武者震いだよ!武者震い!武者震いったら武者震い!」
「はいはい、臆病な武者もいたもんだな」

 

臆病、か。
そういえばこんな節がこいつにもあったな。
表面は活発なくせに、いざって言うときに強いくせに、
暴力にだけはてんで弱い。
昔からこうだな、と暦は思う。

 
 

その眼に、人影が留まった。
数は、一つではなかった。

 
 

「ねえ、お姉さんたち」

 
 

背後でも左右からでもなく、正面からそれは来た。
先程のことに気を取られていた三人の視線が首を引かれたように前を見た。

 

「こんなとこ歩いてるなんてどうしたの?道に迷ったの?」

 

確かに、既にここは町外れだ。
共同で生活を送る場所は、更にその奥にある。

 

彼女らのいる地面は舗装がされてなく、土と、砂利によって構築されている。
民家と商店も、この場所からは遠い。

 

5つほどの影の中のうちの、中央に立つ一つに赤い光が燈っていた。
口元で紫煙を吐き出すそれは少なくとも頭一つ、他のものよりも小さかった。
身長は、160ほどだろうか。
暦よりは、小柄に見える。
ごく普通の少年にも見えるが、顔に浮かんだ笑みは常人のものではなかった。

 

「心配ありがとう。別になんでもないんだ」

 

神楽が言った。
下手に刺激をする必要は無い。
無視するよりも、相手に与える印象は薄い。
あっけにとられるそこを、逃げればこちらの勝ちだ。
荒廃が生んだ、弱き心の持ち主の群れは死ぬまで相手にしたくない。

 

「よ、よみぃ…」
「黙ってろ」

 

怯える声を、叱咤のように暦は遮った。
きつい声は、黙らせるというより、彼女と自身を勇気づけることに意味がある。

 

「つれないなあ、学校どこ?」

 

分かりきっているはずだと神楽は思う。
学校なぞ、もうこの界隈には一つしか残っていない。

 

「悪いけど、私らの門限が近いんだ。結構厳しいから、そろそろ」
うるせえよ

 

氷のような声が少女たちの背筋を凍らせた。
根本近くまで焼け焦げたそれが、ぴんと跳んだ。
神楽の右耳の近くを通り、背後の智の肩に当たり、それは砕けた。

 

ジャリ、と地を鳴らす音がした。
だらしなく伸び、不自然な茶髪に染色された髪の隙間と輪郭に、下賤な光が沿っている。
快楽を商品として立ち並ぶ店々から発せられる
情欲の色に染められたそれと同じ類の色が、潰れた種子のような眼に宿っていた。

 

左右からも、同様の音がする。
草と瓦礫を踏み締める音につられ、奥からも姿を現す。
薄汚れた衣類を被る様は、溝鼠を連想させた。

 

その正体は、想像に難くない。
まともなんかじゃない、人間どもの群れである。

 

周囲を囲む連中の顔が、星の光に照らされる。
それは、にたにたとした笑みを浮かべた生首がそこに並んでいるようだった。

 

「逃げるぞっ!!」

 

背後から抱き抱えるように伸ばされた腕の主の鳩尾に、神楽の肘打ちが入っていた。
一瞬早く覚醒した暦が、智の腕を掴んだ。

 

「おい!ボーっとすんな!!」

 

智の手を掴んでいる腕に、別の感触が発生した。
暦の手首を別の手が掴んでいる。

 

「逃げられないよ」

 

走り出す姿勢をとった智の腹のあたりで、声がした。
腹から上へ突き抜ける、犯すようなその声に
眼だけを向けると、上着とスカートの間の地肌に、
小岩のような拳を切っ先にした、鉄棒のように伸びきった腕が食い込んでいく様が見えた。

 

智の口から、嘔吐のような息が漏れ、視界が反転する。

 

「ともっ!?」

 

暦が、それを支える。
その肩を、ごつごつとした手が掴んだ。

 

耳元から流れ出た吐息がやけに薬品染みて甘いのは、そいつに吸われたシンナーのせいだろう。

 

ぶんと振られた鞄の一撃をごろつきの頭部に見舞った神楽が、
危険も顧みずに背後を向いた。
眼を苦悶で見開いた智を支える暦の肢体に、男達の手が溢れていく。

 

「うああああッッ!!!!!!!!」

 

引き倒される友人を前に、神楽の肉体が地を蹴って跳んだ。
その手の指の第一関節は総て、ほぼ直角に折り曲げられていた。

 

思わず振り返った男の両目蓋の上を、少女の爪が走った
爪と肉の間に、目蓋の皮が入り込み、男の口が悲鳴を吐き出した。

 

抉ったのは薄皮一枚。
眼球までは届いていないことは神楽にも分かったが、
男の怯え方が、神楽の心に光を与えた。
爪が肉に食い込むのも考えず、神楽は拳を強く握った。

 

「このぉッ!!」

 

友人の肉体に、いやらしく手を這わせる男のにやけた面に拳を振るった。
それに対し、男は前に手を翳した。
渇いた音を立て、それが男の手に吸い込まれるや、鋭い痛みが神楽を襲った。

 

「ぅッ!?」

 

腹を押さえ、神楽が膝を着く。

 

「うぐぉぉ…」

 

だらしなく開いた口からは血の混じった唾液が垂れた。
下を向いた視線の先に、小汚いスニーカーとだぼだぼの作業服のズボンが見えた。
肉を丸めたような腕が、神楽の目線を引っ張り上げる。
頭を掴まれて持ち上げられる中、神楽は肥満気味の狂った顔に、自分が付けた爪跡が残っているのを見た。

 

「この糞アマぁ!!!!」」

 

神楽の前髪を掴んだまま、男は骨が隆起した腕で神楽の頬を張り飛ばした。
留められることにより衝撃が繊細な顔の中で暴れ、掴まれた前髪は、
拘束する腕から離れるとき、何本かがぶちりと絶たれた。

 

その様子を、小柄な男は面白そうに眺めている。
実際、面白いと感じているのだろう。
煙草を噛む口元が、くちゃくちゃと鳴り、唾液を湛えながら揺れている。

 

神楽の弱弱しい呼吸音を踏むように、男たちの荒い息使いも
闇色の空気を揺らす。

 

「僕ら、これでも空手をかじってたんだ。何をしようと、お前らなんかに負けないよ」

 

げほ、げほと投薬を受けた実験動物のように空気を吐き出す智の前に腰を屈め、男が彼女の前髪を掴んだ。
悲鳴に似た声を上げてそれを引き剥がそうと動き出した暦の背中に、鈍痛が響いた。
背中から腹に留まる圧迫感、背中を踏みつけられていた。

 

「よく見ると、君可愛いね。名前、何て言うの?教えてよ」

 

童顔に似合わず、吐く息の香りは腐敗していた。
引っ張られた頭部の中で蠢く嘔吐感を、吐きかけられた息が助長し、
あうぅ、と智は嗚咽を漏らす。
男はにやりと哂うと、握り締めた腕を下に向けて振った。
むき出しになった地面の、ざらついた感触が彼女の顔面を迎えた。

 

一瞬、暦と神楽の動きが止まったが、すぐに両者は絶叫を上げた。

 

「てめぇえええええ!!離せ!離せよぉおお!!!!」
「うぁぁぁああああああああああ!!!殺してやる!!今すぐ殺してやる!!!!」

 

うつ伏せにされ、腕を締め上げられながらも、神楽と暦は叫んだ。
持ち上がった頭部を、全身を、複数の男が押さえつけた。
視線はがっちりと固定され、背けたい光景を見せ付けられる。

 

引き剥がされた智の顔に、地面から赤い筋が伸びる。
鼻と口から、漏れた血液だった。

 

「教えろよ、さあ」

 

今度は、顎に手は伸びた。
握るのではなかった。
穏やかな手付きで智の顎を上げ、背けようとする顔を、無理やり自らの視線と交わらせた。

 

「早く言わないと、友達にも同じ事するよ」

 

男は、天使のような満面の笑みを浮かべた。

 

「たきの、たきの…とも」
「へえ、タキノちゃんか。いい名前だね」

 

親友と異常者の会話を、見せられる暦の苦痛は尋常ではなかった。

 
 

「ねえ、ちょっといい所に行かない? 僕たちさあ、最近時間がなくって
 女の子と口をきいたのも久々なんだ」
「そう…なの…」

 

切れた唇の痛みを堪え、智は無理やりに口を動かした。

 

「うんうん。ちょっと溜ってるんだよね、色々と。だから手伝って欲しくってさ」
「な、なにを」

 

再び、顔面を鈍痛が襲った。

 

「莫迦かてめえ。『×××××』んなれっつってんだよ」

 

声の一部は、戦慄となって少女たちに届いた。
どっと、笑い声が上がった。
男たちのものである。

 

「あれ?もしかして君、処女?そうは見えなかったんだけどなぁ。いかにもバカっぽいし」

 

僅かに眼が背いたのを見て、男の嗜虐心が燃えた。

 

「ついでにさっきのあれ、お腹の中の君の子宮を狙ったんだ。気持ちよかった?」

 

智は応えない。
下腹部の痛みだけが、感覚の中で響く。

 

「ああやって叩いてくと、仕舞いには上から降りて来るんだよ。子宮が。
 で、最後はヤれなくなっちゃう。昔の拷問であったらしいよ、怖いねえ」

 

ひひひ、と嘲笑が挙がり、彼女の裂けた唇に男の人差し指が這った。
激しい痛みが走ったはずだが、智は僅かにも動かない。

 

「うん、やっぱ好みだわ。君の眼、君の鼻。それに、あの肉の殴り具合なんてもう。きっと下の方も可愛いはずだか」

 
 

がりっ。

 

その音がした途端、男の言葉と、周囲のざわめきが消えた。
背けることも敵わないため、暦と神楽は誰よりもその光景を克明に見た。

 

唇の切れた智の上体が口が、肉食獣の動きをした。
受け流す間も避ける間もなく、男の首筋に智の顔が埋まった。

 

「は…は…ぁぁあああああああがががああああがああああ!?!?!?!?」

 

数秒を置いて、男が喚き始めた。
肉がみりみりと裂けるのを感じながら、男は智の身体に拳をぶつけた。

 

右肩の方に噛み付いていた智の鳩尾に、男の拳が入り、肋骨が衝撃でめこりと軋んだ。

 

防御機構としての筋肉が殆ど無い智の肉体にとって、
空手を嗜んだとされる男の一撃は、金属バットで殴られるのと同義だった。
内側に向けて緩いくの字に湾曲した肋骨が肺にその身をぶち当て、
中に詰まった空気を火薬のように爆ぜさせる。
粘膜は傷付き、吐く息は微かな鉄の味を帯びた。

 

だが、智の身体は、離れなかった。
華奢な少女の臼歯は釘と化し、男の肉体の更に奥へと這入った。

 

痛みは強くなり、絶叫も激しさを増した。

 

「この、糞がああああああ!!!!!!!!」

 

男は、智の腰のあたりを掴む。
体位のようにその身体を持ち上げると、折り曲げた右膝を、
皮一枚隔てて、はらわたのある場所へと突き込んだ。

 
 

「…うぐ…はっ……」

 
 

少女の喉の奥から、むわっとした酸の匂いが押し寄せる。
突き刺していた歯が引き抜けると同時に、彼女の右の頬が歪んだ。
握り、振られた拳の跡が、そこに刻まれている。

 

息のように吐瀉物を吐き出しながら、智の肉体は壁面に激突した。
重力に従ってずるりと落下するのを、男の足が停めた。
それは一瞬だけ支えとなって智を壁面に固定すると、痛烈な蹴りとなって肉の袋に衝撃を刻んだ。
苦痛に顔を歪める前に、男は再び、容赦ない蹴りを同じ箇所に見舞った。

 

この糞アマ!!このメスが!!メス豚がぁあああ!!!!!!

 

赤みが混じる吐瀉を吐く少女の腹を、何度も何度も、狂った動きで蹴り続ける。

 

智が蹴りに反応しなくなると、彼は首筋に手を置いた。
そこはべっちゃりと血に塗れ、本来そこにあるはずの肉が削られていた。
噛み傷は皮膚と肉を裂き、骨にまで達している。
出血が酷くないのは、奇跡に近い。

 

「おい、こいつ押さえろ。ちいと痛い目、見せてやる」

 

上ずった声を上げ、倒れた少女の頭を掴んで引き上げる。
これ以上、何をするというのか。
にやにやとした笑みを浮かべる男のごつい手が、
眼の焦点を失った少女の虚脱した肉体の脇から手を回し、
震える足を無理やりに直立させた。

 

膨れ上がった頬のすぐ近くに開いた裂け目から、僅かな呼吸音が聞こえる。

 

その方向に回されたものがある。
暦と神楽の顔である。

 

暦は、自分の長年の友人に降り注ぐ暴力を、噛み締めながら見た。
口の端から、血が垂れている。
噛み締められているのは、彼女の内側の頬肉と、舌だった。

 

神楽は、拷問の光景を見続けていた。
動きは、僅かといっていいほどにない。

 

ただ、眼がこれ以上ないぐらいに開いていた。
瞳孔も、暗所の猫のように拡大している。
その中に、渦を巻いているものは、例えようもない怒りだった。

 

「もうこんなに暗い。誰も来やしねえから安心してよ――ここで犯ってやるよ」

 

男が、彼女の腰と尻に手を回した時。

 

「い、や、だ」

 

少女の欠けた歯が、言葉を打ち鳴らした。

 

唾を吐き棄て、つまらなそうな眼を智の背後へ向けると、智を拘束する男の腕が力で滾った。
腕を折る気であることを、智は分かっていた。
骨が軋む、腕の腱が悲鳴を上げる。

 

それでも、智は悲鳴を上げなかった。
彼女は、暴力に晒される中、何故かそのことを僅かに誇らしげに思い、裂けた唇の端を緩ませた。

 
 
 
 
 

おい

 

どこからともなく、声がした。
智が浮かべた表情は、その声によって消えた。

 

一声から時間も置かず、智を拘束する男の間近に、それはいた。
視線の動きと同じくして。

 

邪魔だ

 

声と、炸裂音がした。

 

ぎゃあ!と悲鳴を上げ、男は智という支柱から弾かれるように崩れ落ちた。

 

崩れる少女の肢体を、何かが支えた。

 

「立てるか」

 

と、それは小さく呟いた。
智はそれに、僅かな首の振りで応えた。
首は縦に振られていた。

 

道に残った壁面に智を預け、声の主は進んだ。
傍らを通る両足が、前に迫出た肩に引き摺られるように動いたことを、神楽と暦は見れただろうか。

 

男達は少女たちから手を離し、跳び下がる。
悲鳴が上がったとき、小男は真っ先に逃げていた。
そして殺気立った視線を、すぐさまに送った。

 

少女たちを背後に、闇色を纏った男が一人、立っていた。

 

太陽は既に落ち、暗闇が世界を覆っている。
日没と同時にネオンの光も数と力を増したが、光源は遠く、そして闇よりも弱かった。
月と星の光が、男のシルエットを照らしている。
年齢は分からないが、身長は170の後半か、180はあるかないか。
肉体を支える足元で、ひらりと靡くものがあった。
男が羽織った、褐色のオーバーコートの末端である。

 

足元の近くにあるためか、裾はぼろぼろで、処(ところ)によっては切り込みが入っている。
そこだけではなく、垂れ下がった両腕の裾も、不整合な形に切れている。
唯一まともな場所として、首元を覆う襟だけが、従うように立っている。
前の開いたコートの中に鎮座する、アンダーシャツとジーンズは夜の闇よりも黒い。
拡散する闇ではなく、そこに闇が集っているように、黒くはっきりと、暗闇の中でもそれは見えた。

 

黒という黒が闇の坩堝の中に満ち、
オーバーコートを着込んだ、男の形を作っていた。

 

風の中で揺れる炎を具現化したような髪型の宿った頭部から、声がした。

 

「女三人に野郎の群れか。穏やかじゃねえな」

 

獣の唸りのような、声だった。

 

途端、狂ったように、地に伏せた男が喚き出す。

 

喚きながら、男は耳元を押さえた。
脳みそを掻き回されるような感覚に混じり、彼の指は
ぬるりとした感触を脳に伝えた。
近くのものが騒ぎ出し、覗き込む。

 

無遠慮にそこを触れた小汚い手に、ぬるぬるとしたブツブツが付着した。
砕かれた外耳と頬肉、そして脂肪の欠片であった。

 

「おい、お前ら」

 

声は、拘束を逃れながらも、未だに動けない少女たちに向けられた。

 

「もっと下がってろ。邪魔だ」

 

怯えた少女たちが後ずさる音をバック・コーラスにして、
殺気に満ちた眼光たちが、檻から放たれた獣のように声の主へと向かった。
一際大柄な男が、飛来するように跳躍し、一番手を切った。

 

引き絞られた肉の塊が、猿の様な動きで男に迫る。

 

拳を繰り出そうとした刹那、眼前に広がる壁を、彼は見たか。

 

「ぶぎっ!?」

 

醜い音を吐き、お仲間達の足元にその肉塊は転がった。
仲間達は、痙攣するそれをほんの一瞬だけ視界に入れると、睨みを再び前方に向けた。

 

「弱えな」

 

声の後に、粘着音が続いた。
音は、彼らの足元でした。

 

醜く腫れ上がった顔であることは、口腔から突き出た、砕けた歯が示している。
内側にめり込み、ミンチとなったそこが呼吸によって盛り上がったのだ。
殴打によるものと、この時になって分かった。
ひい、という悲鳴が、薬品臭い口内で上がった。

 

「血を見るのは初めてか?違ぇだろ?」

 

潰れた顔に向いて落ちていた視線は、その声に引き寄せられた。
傷跡が尋常ではないと、男たちは悟った。
智を拘束した男の顔が肉塊と化す際の烈しい音から、爆発物でも使ったのかと思ったが、
閃光は発せられていない。
また、訝しい煙の香りもしない。
猫を手持ち花火や爆竹で虐め殺したことから、彼らはそれを心得ている。

 

すれば、この破壊は彼らにとっては未知のものであった。
火を見た原人の如く、興奮の熱による発汗とは対象に、その背筋は冷気で満ちた。

 

そこに。
銀光が、臆した配下の尻の上で走った。
ナイフに切り裂かれた現実の痛みに、配下の男たちは狂ったように男へと向かった。

 

「さっさと来な。撫でてやるぜ、駄犬ども」

 

闇夜の中、不敵な笑みが浮かんだ。
角度の加減により、智だけがその表情を覗えた。
不敵さの奥に憎悪が浮かんでいるのを、智は見た。

 

地を鳴らし、複数の人塊がそこに殺到する。

 

二番目にそこへ至った男が蹴りを見舞う。
軽い錯乱状態にあるにも関わらず、その動きは紛れも無い空手の有段者の動きをした。

 

放たれたのは頭部を狙った、上段回し蹴り。
それがふわりと、コートの奥の闇へと消えた。
足先の感触の無さを知る前に、男は倒れた。
眼が半分飛び出し、痙攣する顔を、オーバーコートの裾が薙いだ。

 

その切り込みに触れたとき、眼球は泡のように砕けた。

 

弾けた水音と悲鳴と時を等しくして、二対の影が男に迫った。
至近距離からの一撃を避けた男の前後で、二つの拳が空を切った。
腕が伸びきった両者を、前が後ろに、後ろが前に、お互いの顔面が出迎える。
二つの鼻梁と額と唇が真っ平らになり、二つの影は一つの肉塊となって、
重なった犬の糞のように転がった。

 
 

たった一人で、複数の技の砲火を受ける男の動きは鎖で縛られているかのように重く、鈍い。
息遣いも恐ろしいほどに小さく、針のように細い。
それが体力の低下を表していることは、肉薄した全員が気付いた。

 

だがそこに、技は一撃として当たらない。
コートとアンダーシャツの繊維の上を撫でる様に、掠るだけだ。
肉の筋一本、薄皮一枚、細胞の一欠片も、抉れやしない。

 

そのくせに、技を放った者に降りかかる現象は不可解なことこの上ない。

 

打ち砕くべき放ったものを自らが喰らったかのように、全身が激しくぶれて、崩れていった。
蹴りを繰り出したのなら、その輪郭がひん曲がり、
拳を出せば、それは闇の中で肉と骨が混ざって爆ぜる。

 

ごしゃり、ぐしゃりと、闇の中で音が響く。

 

咀嚼音に似た音が響く中、配下を気遣いもせずに、
小男はポケットをまさぐり、金物を一つ取り出した。

 

かしゃりと音を立てて展開されたバタフライナイフの刃渡りは、20センチにもなった。
ぎらついた光が光源に触れて一閃したとき、少女たちは小さく悲鳴を上げ、手を地面に擦らせて後退さった。
だが対照的に、男は何のリアクションも起こさなかった。
切っ先を求め、銀の光がネオン光を帯びて向いた先。
弱っているとしか思えない肉体とは対照的に、力が滾る瞳が見えた。

 

この時、自らの力で立っているものは彼と男、そして、滝野智しかいなかった。

 
 

一年前になる。
刃を構える彼は、空手の全国試合へと足を運んだ。
選手としてではなく、一介のギャラリーとしてである。

 
 

決勝戦が終わりを迎えたとき、そこに悪魔が現れた。

 

それは、現れるとほぼ同時に審査員と優勝者を葬り、
心底からの愉快な笑い声を上げると、舞台を血で染め上げた。
その暴虐と戦えると踏んだ連中を蹴散らし、老館長の額を残酷に砕くと、
目的を果たしたかのように去っていった。

 

その日から、彼は空手から身を引いた。
たった一人を倒せない、やわな武道に絶望したのではない。
恐怖したのだ。

 

あの男に。
遠くから観たにも関わらずはっきりと観えた。
殺意と破壊本能に満ちた、見たものを崩壊させることを使命としているかのようなあの眼光。

 

同じ道を歩んでいれば、いつかは出会うかもしれない。
弱きを虐げ、強きに媚びる、真の弱者の生き方が選んだ結論だった。

 

目の前のこれはなんだ?

 

悪事を働き、ハクがついていた自分に恐怖を植え付けた、根源そのものだ。
戦争で荒廃した日常で、再び暴虐を働けるまで、忘れるようにして押し込めていた恐怖の、
その源に違いは無かった。

 

しかも、手下たちを差し向けて見た限り、とても勝てる相手ではない。
自分と配下の実力はそれほど開いていない。
にも関わらず、一人で十数人を従えられたのは、彼がもつ残虐性と
か弱い女を襲って集団で辱め、壊す。
そのためにあった。

 

それが、なんということか。
自分の身長ほども離れていない先に、その威光が存在している。

 

恐ろしさに刃を持つ手が震える。

 

途方もなく大きな獣の、牙と爪に刺し貫かれた獲物のように、男の足は動かなくなった。

 

土と、石と、呻き続ける倒れた仲間を無造作に踏み拉きながら、その眼は近づいてくる。

 

発狂するかと思ったその時、状況は変わった。

 

闇の中、ただ一人立ち尽くすその男の姿が、何にも触れられてないのに、
唐突に、大きく体勢を崩したのである。

 

「ちっ」

 

脚に力を込め踏みとどまると、男は、そう吐いた。
膝こそ地についてはいないが、上体が傾き、オーバーコートの裾が地面に触れて、歪む。

 

「…く」

 

そしてこのとき、男は明らかな苦痛の声を洩らした。

 

恐怖の代わりに、歓喜が小男の心を満たした。

 

ぎぃぃいいいいいいえええええええええええええ!!!!!!!!

 

声にならない声を上げ、男たちの尻を切ったものと、
新たに加えたもう一つ、逆手に構えた二つの刀を見舞った。
瞬時に間合いを詰める脚捌きと、行動のおこりを生じさせずに放った跳躍が重なる。
間一髪で交わしているのなら、その間を更に詰めればいい。

 

切り裂くのではなく、突き刺すのを旨として、その二刀は振るわれた。
体勢を崩した男の頭の高さは、小男よりもわずかに低い。
二つの刃の先端は、男の眼光に向いていた。

 
 

目標の、文字通り眼前まで迫ったところで、刃の光が消えた。
同時に鳴った二つの破壊音によって、小男は握り締めた獲物の質量が、
手元を除いて消失していることに気付いた。

 

その時、男の姿をした黒を中心に途方も無い力が流れ、突風となって吹いた。

 

力の渦中の中、それを具現化した眼光があることを、視覚ではなく
全身を噛み砕かれるような恐怖によって彼は知った。
恐怖は脳髄を焼き、彼の意識は混濁を極め、視界の中の総てが歪み始めた。

 

走馬灯のような視界の中、眼前に、魔獣の眼光が広がっている。
濁った感覚が、ゆっくりとした映像の動きを神経に伝え、
脳は、それを狂った現実として彼の意識へと送り届ける。

 

それは、眼の輝きではなかった。
闇の中で燃える瞳の色を宿しているものは。

 

男の、牙のような歯で喰い千切られた彼の得物だった。

 

血と唾液の線が砕かれた刃の断面に絡み付いて堕ちると、
男が翻ったコートは翼のように広がり、一瞬、小男の世界を覆った。
恐怖と絶望に歪んだ目の中に、暗黒の翼を広げた鷹がいた。

 

「なんだそりゃ。そいつはあれか、新手のダンスか?」

 

歪んだ世界で、男の声だけが、はっきりと脳内に響いた。

 
 

砕け、引き裂ける音がして、小柄な肉体が物理法則を超越した力に遵って飛んだ。
くしゃくしゃにした紙袋のような姿が月光に晒されるのが見えた。

 

そして、皮と肉が路地裏の壁面を削る音の最後に。
ごしゃりという、紛れも無く、汚物が散る音がした。

 
 

踊りてえんなら、一人でやってろ

 
 

対峙した時、ほんの一刹那だけでも、こう思考すればよかった。
何故、満身創痍であると見えた全身の中、何故、眼光がより力を増しているのか、と。
考えたところで、何が変わるでもないが。
気持ちは少しは晴れるだろう。
思考を行えるほど、脳の機能が残っていれば、だが。

 

次の獲物を求め、眼光は地面を睨んだ。
汚物のように横たわる男たちが、血に染まった箇所も抑えず、
芋虫のような挙動で、這いずりながら逃げていくのが眼には映った。

 

万物に恐怖しているのか、ある者など、自らが陵辱せんとしていた
少女が視界に映っただけで、発狂したかのような声を上げた。

 

怯えた顔面を突き抜けるような蹴りが入った。
神楽が放ったものだ。

 

「……さっさと行け。―――ブッ殺すぞ」

 

最初の、逃げるための言葉ではなかった。
少女の声に、本来備わっていないはずの性質が混じっていた。

 

屠殺場に入れられた豚の悲鳴を上げ、男が背を向けて逃げた。
三歩も歩かず、膝のあたりが捻じ曲がり、転んだ男は同様の動作を
何度も何度も繰り返し、その度に醜い悲鳴をあげ、彼女の視界から失せた。

 

「クズどもが。手間かけさせやがって」

 

獲物が消えた後に放たれたその声は、荒い息を伴っている。
それに合わせて上下する肩が体力の状態を克明に表している。

 
 

「畜生……、あの野郎……しこたま引っ掻きやがって………」

 
 

ふらつきながら、男は呟いた。
その口がべっと何かを吐き出した。

 

ほんの僅かな唾液が絡んでいるそれは、黒く濁った血塊だった。

 
 
 

「とも、大丈夫か!?」

 

男の背後で少女が二人、傷ついた友へと駆け寄った。
緊張が解れた為か、壁に寄りかかっていた肢体は既に崩れ、尻が地面についていた。
唇に溝が出来た口が無気力に開き、胃液と唾液が溢れ出し、
胸の谷間のあたりで川を創っている。

 

神楽がポケットをまさぐり、何か拭ける物を探す。
ポケットに突っ込んだ手が何かを掴み、引いた。
感触もまともに確かめずに取り出したのは、配布されたプリントだった。
憎悪を込めて、神楽はそれを握り潰した。

 

「くそっ!!」
「私もだ。体操着に忘れたらしい」

 

暦の口調も、憎憎しげである。
呪詛と言っても良かった。

 

「何でこんな時に…畜生、智、なんでお前がこんな目に…」
「病院は……駄目だよな」

 

弱弱しく息をする智を中心としたそこに、男の影が降りた。
友に対して集中していた全神経のうちの、恐怖に対するものがこちらへと傾いた。
危害を加えるつもりではないようだが、この男の得体がしれない以上、それは脅威となる。
守護するように、暦と神楽は智の姿を男の影から遮った。

 

コートの中で、何かをごそごそと漁る音がして、男の腕はそこへと伸びた。

 

「使え」

 

影と見まごう手の先に、四角く畳まれた何かが見えた。
戸惑った彼女を促すように、その影は更に前へ伸びた。

 

恐る恐る、神楽はそれを受け取った。
奪うようにして触れたその布は渇いていたが、冷水の冷気を帯びていた。

 
 

「お、おいあんた…」

 

訝しげな表情を持ち、暦が男に聞いた。
すぐには応えは帰ってこなかった。
数秒の時間を要し、

 

「…ん…ああ、悪い。ちっとばかし気ぃ失っちまってた」

 

と男は返した。

 

「…大丈夫か?」

 

と、暦が問う。

 

「分からん」

 

と、男が返す。
即答だった。

 

「…本当に大丈夫か?」
「多分…いや、十中八九か五分五分ぐらいは……」

 

どっちだよ、と神楽は思う。

 

「まぁ、寝床もあるからなんとかなんだろ」
「そ、そうか…」
「つうか、そこだ」

 

暦たちの隣の奥の空間を男は指差す。

 

「そいつが俺の棲家らしい」

 

外見はよく分からないが、恐らくそれは建物だった。
少なくとも戸があり、その上には雨よけの小さい屋根があった。
男同様に、闇の色に満ちていたが、家にしてはやたら大きく見えた。
らしいと言った事については、言及しなかった。
智の顔の腫れが、思ったよりも酷いことに気付いたからだ。

 

「お前、大丈夫か?随分ひでえことされてたじゃねえか」

 

智は、僅かに口を開いた。
何かを言おうと、小さな口がもごもごと動く。
彼女の頬を拭く神楽の動きが、ぴくりと止まった。
緩やかな動きで、暦に布を渡すと彼女は男の方を向いた。

 

『されてたじゃないか』…? まさか、お前、見てたのか」

 

その一言により、神楽の心は怒りで染まった。

 

「智が…こいつがあんなことされるのを、まさか最初っから見てたってのか!?」

 

憎しみで出来た叫びを、神楽は挙げた。

 

「ああ」

 

受け止めるように即答したそこに、ぶんと振られた鞄が這入る。
鈍い音を立て、鞄は男の脇腹に吸い込まれた。

 

「言い訳ぐらいは、聴いてやるぞ……!」

 

吐き棄てた後に、鈍い衝撃が、神楽の腕に伝わった。
ごろつきどもが恐怖の中で必死に手に入れようとしていた感触でもあった。
物理法則に従い、肉とシャツに先端を減り込ませた通学鞄が、吐き出されるようにずるりと堕ちた。

 

「しねえよ、んなもん」

 

少女の全力を架けた激突から今に至る間、男の姿は微動だにしていなかった。
呻き声の一つさえ、発してはいなかった。

 

「あぐ…あん…ぁ…」

 

喘ぎの様に、智が声を零した。

 

「おいおい無理すんな、傷に障んぞ」

 

きっと睨み返す神楽の方に向けて、男は何かを投げた。

 

「ワビってわけじゃねえが、くれてやる。
 そいつに塗ってやれ。傷にならなんにでも効くはずだからよ」

 

気が付くと、それは神楽の手の中にあった。

 

柄の無いチューブに入ったそれは、一種の軟膏のようだった。
だが、こんな薬品は見たことが無い。
部活柄、よくドラッグ・ストアに行っていた神楽はそう思った。
だがこの際、使えるものは使うだけだ。
例の代わりに、歯をぎりりと噛み鳴らしながら、怒りの目線を送ってやった。

 

「今日中に使えば明日の朝には痛みも引く。信じる信じねえのはてめぇの勝手だ。
 だがそいつには必要なモンだ。 ダチが大事なら使ってやれ」

 

動揺の欠片も見れない口調で、むしろあっけらかんとした様子で男は返した。
心なしか、声が強みを増している。
掠れた声が、本来の声に近い声質を持った。
投げ返そうとしたそれを、神楽は強い力で握った。
アルミチューブ一枚隔て、内部で粘物体が蠢いた。

 

「分ぁったらさっさと行け。俺はもう疲れた」

 

ふらり、とした足取りで、男がそちらに向かう。
暦と神楽が、智を庇う様に彼女を前を覆った。
それを崩したのは、護られているもの自身だった。

 

揺れるような歩みが、二歩目の半ばで止まった。
眼だけを動かし覗うと、智の手がコートの裾を掴んでいるのが見えた。

 

否、掴んではいない。
掴むほどの、力も無い。
彼女は、コートの裾を、指の先端で触れていただけだ。

 

赤子以下の、ほんの僅かな力であり、普通なら気付くのも無理に値する
微量な力であったが、男はそれで、歩を停めた。

 
 
 

「……ありがとう

 

うつむいたまま、掠れる声で、智は男にそう言った。
腫れた頬が傷ついた指に握られ、正常の発声を無理に生じさせた。

 
 

おうよ

 
 

ぶっきらぼうに告げると、コートにかかる力が消えた。

 

「じゃあな。ゆっくり休めよ」

 

戸に手を触れると、彼は軽く手を振り、そう告げた。
少し間を置き、神楽は智の左肩に手を回し、暦は智の右肩を持った。

 

神楽と暦が互いに智の左右の肩を持ち、彼女に負担をかけないようにゆっくりと歩いていく。

 

智を除いて、彼女たちは一度も振り向かなかった。

 

しかし彼は、三つの影が彼の視界を離れるまで、そこから全く動かなかった。
壁に寄りかかりもせず、剣のような脚を突き刺すように地面に当てて、巨木のように立っている。
少女たちが、彼女たちの住居の明かりに照らされるのが見えてから、
闇色の男は、溶けるようにして戸の奥へと這入っていった。

 
 

乱雑に戸を閉める音が消え、闇夜に切れ込みが入った月光の中、一匹の猫が
道のど真ん中を堂々と歩いてきた。

 
 

路面に散らばる、肉と脂、血とそれらがべったりと密着した衣類の端を赤い舌が包んだ。
ぴちゃりぴちゃりと噛み潰して飲み下すと、その喉がごろごろと鳴った。

 

猫の毛の色は、闇の坩堝と同じ色。
渇いた血肉を肉球で潰しながら、生まれながらに不幸を友とした猫は
男が消えた戸の前を横切り、一瞬口内に収まった大きな牙を覗かせて、
坩堝の中に溶けるようにして消え去った。

 
 
 
 
 
 

直後、男が消えた戸の奥で烈しい落下音が響き、
何かが飛び散る音がしたが、気付いた者はいなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

つづく