ゲッターロボ+あずまんが大王 第7話-(4)

Last-modified: 2011-12-20 (火) 00:02:38

ゲッターロボ+あずまんが大王

 

第7話-(4)

 

熱い泥の中に堕ちたような感覚が、彼女の全てを包み込んでいた。
きめ細かな、染みの一つも無い美麗な肌を侵すように、それはじわじわと、
足の爪先から美脚へと至り、張りの良い臀部と脇腹を撫で上げた。
熱いまどろみが、自分の周囲で蠢いているように感じられた。
二重、三重に取り巻くように。
熱いまどろみの一片が頭を撫でた時、彼女はこれが、目覚めであると知った。

 

「……ぅ……」

 

微細な呻きを上げつつ、榊は顔と上体を持ち上げた。
引き剥がれる様に、顔と床が離れた。
覚醒前に体中に纏わり着いた感覚は、未だにしぶとく残っている。

 

立ち上がろうとした時に、両脚の膝小僧に震えが奔った。
転倒へと至る身を、咄嗟に伸ばした手が支えた。
硬く冷たい鉄の感触を捕らえた指の間に、暗い室内の中で、異彩を放つものが閉じ込められていた。

 

「…ひかり……」

 

自分でも分からないうちに、それは言葉として出ていた。
華奢な指の上を、淡い光が滑っていた。
不思議と、穏かな気持ちになれた。
深緑に囲まれたような、そんな気がした。

 

そしてその安堵の笑みと吐息は、硬直と怖気に変わった。

 

思考と臭気が、この部屋の扉の先にあるものを彼女に思い出させた。
目蓋と咽喉に張り付く粘着感が、彼女の心に焦燥を抱かせた。
自分はどれほどの間、こうしていたのか、と。

 

恐怖と硬直を振り払うように、彼女の手は伸びた。

 

そして、

 

「神君!!」

 

今まで生きていた中でも、滅多に出したことが無い大声を上げて、扉の外へと身を乗り出した。
分厚く重い鉄の扉の重量を感じるよりも先に、むせ返る様な狂気の香りが、彼女の身を舐め上げた。

 
 
 

扉から飛び出した榊の傍らを、何かが通り過ぎた。

 

それは、物体と液体の落下音を立てながら、部屋の中へと崩れていった。

 

何かの大きさは、榊の身長よりもほんの少しだけ高かった。
嫌な予感が、彼女の脳裏を掠めた。

 

だが、彼女は振り返らなかった。
振り返ることは出来なかった。

 

目の前の、視界に広がるものに、挙動と思考が縛られていた。

 

薄暗い電燈の燈った回廊の至る所に、赤紫の色が奔っていた。
滑らかだった壁面は歪に歪み、泥を叩きつけたような凹凸が、
ひび割れの裂け目に穿たれていた。

 

壁面にあったそれは、人間のようなシルエットをしていた。
ただしその姿は、かろうじてヒトガタと分かる程度に歪み、
経込み、抉られ、引き裂かれた場所は、薄暗い中でもはっきりと認識できるほどだった。

 

それが、至る所に広がっている。

 

床に倒れ付したものは、頭頂から咽喉もとの近くに至るまでの間に、
光が窪めるほどの大孔を作り、その四肢も、一片たりとも無事な場所は無かった。

 

ただ、それが酷いものかと言えばそうでもなく、上と下に分けられたものや、
赤紫の泥としか形容できないものさえもあった。

 

それが、まるで河原に広がる漂着物や石の如く、路の至る所に広がっていた。

 

濃厚な鉄錆と、汚濁と、酸の匂いが、彼女の体に纏わりついた。
最後のものが特に濃厚に感じられるのは、
それが彼女の咽喉の近くまで競り上がっていたためでもあった。

 

口を押さえて眼を細め、彼女は一歩踏み出した。
部屋へ後退するのではなく、更に暗い、路の奥へ。

 

ぴちゃりと滴る液体が、彼女の靴に降掛かった。
口を覆っていた右手を鼻梁までスライドさせつつ見上げると、
天井に填め込まれたパネルが見えた。
僅かな光が、その縁からは漏れ出していた。

 

パネルの中央が、異様な形に膨れているのが見えた。

 

光は、これによって遮蔽されているようだった。
天井の機械に半ばまで埋没したそれからは、太く長い一筋の塊が垂れていた。
微妙なバランスによって天井にへばり付いていたのか、彼女が歩いたことによってか、
所々が抉れた鱗の上に血肉の色をこびり付かせた尾を跳ねながら、それは落下した。

 

解放された光が、外路を一気に照らし出す。

 

落下する肉塊を挟んで、黒色のシルエットが浮かんだ。

 

遺骸よりも、それが照らされて生み出された闇よりも、
それは黒い色を纏っていた。
奥の回廊では横たわるもの等が、赤紫の、血肉の泥と化していた。

 

臓物をぶちまけ、脳髄をずたずたにされて息絶えた異形、
ハチュウ人類の肉塊を挟んで、両者は対峙していた。

 

片幾層にも重ねられた凄惨な黒塗りを。
切り取られた夜ような美しい黒髪を。

 

光の中に浮かび上がる、黒というイメージを、互いに持ちながら。

 
 

「もう、起きたか」

 
 

腕も上衣も軍靴も、ほぼ一色に染まった長身が口を開いた。
その発声は、驚くほどにはっきりしていた。
唇と唇の間は、赤紫の糸で結ばれていた。

 

「……うん」

 

視界が潤むのを、榊は感じた。

 

それでも、真っ直ぐに彼を見据えた。
ごしごしと、口元をコートの襟で拭い去り、彼は

 

「まだ、痛むか」

 

と言った。
拭う前、彼の口元は赤紫に染まっていた。
拭われた今であっても、それは色濃く名残を留めていた。

 

「…大丈夫………」

 

潤んだ眼から、再び液体が溢れた。

 
 

抱えられた彼の両手は、獲物を引き裂いた時の形のままの、
狂気を宿した形のままで固まっていた。

 

異形の血肉で染まりきった掌の上を、
赤く鮮やかなものが流れ伝って、血肉の海へと滴っていた。

 
 

凄惨であった、としか想像の出来ないほどの狂気と破壊の旋風が巻き起こった
この回廊の、遺骸と破壊で埋め尽くされたこの空間においてもっとも凄惨な姿を、彼はしていた。

 

ロングコートの節々に、様々な形状の筋が走っていた。
ひびのように歪なもの、滑らかな切り口のようなもの、丸ごと、抉り取られたようなもの。

 

それらが、注視していなければ見落としてしまうほど影を潜めているのは、
その隙間を、血肉と脂が層を成していた為だ。

 

異形の体液をそのまま纏ったような姿をしていた。

 

その様子はコートのみならず、身体の至る所に見えた。

 

整った顔立ちの、口元や頬に走る線から流れるものは、赤紫のそれではない。
特徴的な前髪の先端からは、赤黒い珠が湧き、床に汚濁の珠を作っている。

 

その中で最も、彼女の眼に留まったものがあった。

 

彼の腕。

 

肉を引き裂くために、臓物を抉り出すために、
立ち向かう気力も体力も削ぐ苦痛を与えるために、対象の生命を、確実に終焉に導くために。

 

肉を引き裂くために降るわれた時のまま硬直した細長い指が、彼女の胸を締め付けた。
眼を背けることはしなかった。

 

口元を覆う毒々しい色彩と、既に渇きの兆候を出し始めている骸の傷の断面は、
ほぼ等しき色合いを見せていた。
何によって出来た傷なのか、その想像は容易かった。

 

床に散らばる異形の胸元と、口蓋から零れている破片が、元は何であったのかも。

 

立ち昇る血臭の中、榊はこの光景を胸に刻んだ。
彼の背後と左右、そして自分を取り巻くこの地獄絵図を。

 

その中に立ち聳える、人の形態をした知性と狂気の姿を。

 

眼を背けずに見つめた理由が、そこにあった。

 

安らぎとは無縁な、凄惨な姿―――それが。

 

それが、とても。

 

とても―――。

 
 

「眼が覚めたばかりで、眼が染みたか」

 

はっとして震えた榊の眼から落ちた涙は、
床に僅かに残った本来の色の上で、珠となって跳ねた。

 

「…大丈夫」

 

言葉に、平然と返していた。
そのことに何故か、驚きは無かった。

 

「ひでぇな」

 

何に対して言った言葉か。
疑問にすらならなかった。

 

「もう二度と、この服は着れん」

 

その足元に散らばるものに対してではないことは、最初から分かっていた。
敵対するものにかける情けや容赦など、この少年には存在しないことは、とうの昔に知っている。

 

「ここにいた連中は―――倒した」

 

しばし開いた言葉の紡ぎは、言い方を彼なりに選んだためだろうか。

 

「君は…大丈夫なのか?」
「少しむず痒い。それだけだ」

 

ふらり、と。
風に吹かれた柳の枝のように揺れ動いて、壁へと伸びた手と空間の隙間に、
這入り込む陰があった。

 

「無理はしない方がいい」

 

発した言葉の息が鼻先に掛かる距離に、榊の顔があった。
壁に預ける為に伸ばした左腕は、彼女の両肩の上を這っていた。
彼の言うところの「むず痒さ」が通う腕に、柔らかな感触が伝わっていく。

 

「…服が汚れるぞ」
「替えがあるから、大丈夫」

 

彼の分も、異形の亡骸を避けつつ、榊は血の海を進んだ。

 

「髪は―――」
「洗えばいい」
「女の命だろ」
「それなら、君が守ってくれた」

 

血肉の中で、両者の歩みが停止した。

 

「そうかい」

 

皮肉のような言い方だが、悪意は感じられなかった。

 

「借りができたな」

 

ちら、と榊の後頭部を見て、隼人が呟いた。
腕の触れた部分に早くも、汚濁がじわりと広がっていた。

 

「何か、要望はあるか?」

 

好くないことになることは明らかだったが、言わずにはいられなかった。

 

「今度来たときに、あの本を読ませて欲しい」

 

早速、ずきんと来るものが彼の脳内に木霊した。

 

「…他には」
「ダメ」
「…結論を出すにはまだ「ダメ」」
「わか「ダメ」」

 

嫌な予感と嫌な未来しか浮かばなかったが、彼に選択の余地は無かった。
残酷な未来に段階があるとすれば、
きっとこれはその一片に違いないとさえ、彼は思った。

 

「あれ、全部持ってきてたんだよ。麓の町に。来る途中に思い出した」

 

だとすると、面倒だな。と彼は加えた。――睨まれていることに気付きつつ。
じゃあ…と榊が続いた。

 

「学校に寄付すればいい。図書館とか」

 

沈黙が、10秒ほどその場に下りた。

 

「……責任はお前が取れよ」

 

榊自身、自分の発した言葉に気付いたか、左右に振られる首の勢いは儚げであった。
危うく、皆を暗黒劫洞に突き落とす処であったと思い知ったのだ。

 
 

「…随分、真剣だな」
「真面目だよ。数少ない俺の財産の危機だ」
「お金は、たくさんあるんじゃないのか?」
「あんなもの、どこに預けたかも忘れたね」

 

数歩歩くと、回廊にも変化が生じてきた。
床に散らばる遺骸の数が、肉片となっているものも多いとはいえ、
眼に見えて少なくなってきていた。

 

「やはり、お前随分変わったよ」
「君も、ね」
「お前は、今よりずっと無口だったな」
「君は、もっと無愛想だった」

 

ふっと息を吐いたのは、殆ど同時だった。

 

「麓に戻ったら、友人どもと仲良くやるんだな。これから忙しくなりそうだ」
「君も、友達とは仲直りをした方がいい」
「………」
「………返事は?」
「…………考えてやる」

 

そういいつつ、選択の余地などないことは、分かっていた。

 

そして、時間が無いことも。

 

こいつらが来ているのは、ここだけでは無いのは、分かりきっていた。

 

榊も同じであった。
肩に回した彼の手首に触れている、白く細い手は時折、か弱い痙攣のように震えていた。

 
 

震え以外の動きを、彼は感じた。
それは、背後で生じた。

 

榊の手を払った手が、異形を屠ったときの形で、榊の頭部を捉えた。
歪んだ五指が榊の頬と睫に僅かに触れ、その身体を前方へと押しやった。

 

ほんの僅かに緩んだ五指が頭部から離れる瞬間、榊は小さな舌打ちを聴いた。
背後をちらと見ながら彼が漏らしたそれに続いて、その矛先を見た。

 

どす黒さを増した赤紫の泥濘の一角が盛り上がるのを、彼の視覚が捉えた。

 

遺骸の層を突き破り、現れたものの姿が見えた。

 

捻れ、肉を削がれた手に煌く、一本だけ残った鋭角の形と長さと、その軌道も。

 

避けることは出来た。
喰らいたくは無かった。
そのために、犠牲が要ることが分かった。

 

結果、彼は退くことをしなかった。

 

ぞりっ、という、引き裂くよりも削り取ると言ったような音が、血肉の海を震わせた。

 

赤紫塗りのコートの上に、巨大な亀裂が走り、その中から溢れた鮮やかな紅が、
天井と彼とを繋いだ。

 
 

瞬間、異形の顔に、明らかな歓喜の色が映えた。
抉り取られた咽喉元からは、歓声のような震えが上がり、口吻から頬にかけて、
顔の大半の肉を抉られて、顎の骨の大半が露出した口からは、
僅かに残った赤紫の舌が、その断面を躍らせた。

 

刹那に、異形の表情は停止した。

 

歪んだ手刀は、肉を貫く音を生じさせなかった。
既に、その腹腔には、巨大な洞が開いていたためである。

 

その洞に、もう一本の、先程まで榊の黒髪に触れていた方の左腕が叩き込まれた。
傷口は押し広がり、異形の身体は、胸元から二つに裂けつつあった。
腹部に吸い込まれた手首の先から巨大な液胞が弾けたような音がした。
肉の散らばる音と相まって、それは爆破音にさえ近かった。

 

忌まわしき形で捻れた両手の中で爆ぜた心の臓腑を、異形の身体からねじ切りつつ、
隼人はその身を、己が陥没させた壁面に打ち付けた。

 

全身を同胞の血肉で染め上げた異形は、ほぼ平坦になりかけた顔面でむき出しとなっている、
鋭角の殆どをもぎ取られた牙の隙間から、全身を染め上げるそれよりも新鮮な色の液を噴出し、
再び泥濘の中へと沈んでいった。

 

鱗も肉の筋も、骨でさえもごっそりと抉られて眼窩から垂れ下がる
異形の左目が捉えた映えた色は、恐怖のそれだった。
まともに残った方の眼に映ったものを焼付けながら、異形の意識は絶えた。

 

「……嫌なものを……見せたな」

 

隠しようも無く、その発音からは、力や、強さに慨するものが欠けつつあった。
首を左右に激しく振って、榊は応えた。

 

「猫だって」
「……」

 

背中から溢れるものの多さを感じながら、隼人の思考に複雑なものが思い浮かんだ。

 

「仔猫だって、小鳥や魚を貪る時がある」

 

思い描けかけた、彼の悪夢の権化を、彼女の表情が消した。

 

「だから……大丈夫」

 

無理をしているのは、誰の眼にも明らかだった。
だが、榊は微笑を浮かべた。
この回廊に広がる地獄の色さえも、色褪せさせそうな微笑を。

 

それによるものだろうか。

 

全身に張り詰めていた殺意と高揚感は、この時に止んだ。

 

そして、彼の全身に、意識を曇らせる何かが広がった。

 

殺戮の中、体表を掠めた疼きの全てが、引き裂き、潰し、
抉り取るために酷使した各部が焼かれるような感覚が押し寄せる。

 

「…………………お前は…………」

 

口内に広がる、己と異形の血を噛み締めながら、彼は呟いた。

 

意識が絶える直前、崩れ落ち、冷血の海に沈んだはずの身に
柔肌以上の柔らかな感覚と、強かな心音の刻みが届いたのを、彼は感じた。

 
 
 

神の名を冠する少年の沈黙と、人の姿をした竜の目覚めは、奇しくも同時であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

つづく