ゲット・ダイバー 3

Last-modified: 2010-11-05 (金) 21:14:25

  3

 

「ねぇパパ、これなんかどうかな」
「知らん。ワシに聞いてどーしよんじゃ。それと、その呼び名はやめい言うとるじゃろうが。
喉の奥をミミズにはい回られるような気分じゃ!」
「嫌。やめない」
 と、繁華街の暑さから逃げるように入った百貨店の、水着売り場でアスカははしゃぐ。手に
もっているのは、流行のきわどいデザインからはかけ離れた、ずいぶん大人しいデザインのワ
ンピースだ。
 以前の彼女だったら一番、派手な水着を選ぼうとするかもしれないが、上下関係が全てを決
めるヤクザの世界で揉まれた彼女は、立場を非常にわきまえるようになっていた。学校の修学
旅行ならば、清潔感がまず求められる。
 なお、将造をパパ呼ばわりするのは、日本語で親を呼ぶとき一番親しみを込めた呼び方が
「パパ・ママ」だったからである。母語はドイツ語だが、ほとんどの日本人は理解してくれない
のでエヴァとの交信以外では使わないと決めているらしい。

 

 アスカはこの日、間近に控えた第壱中学校の修学旅行(目的地は沖縄。スキューバダイビン
グの予定もあった)へ備えたショッピングに、嫌がる将造をむりやり引っ張ってきていたのだ
った。
「ケッタクソ悪ぃ……」
「ねぇねぇ! パパは修学旅行、どこ行ったの?」
「ワシがガッコーなんぞ通ぅ思うか」
「あ、あはは、そりゃ、そうよね……パパだもんね」
「まあ少年院にはよう通ったがのう。そっちの思い出の方は多いぞ。ダチも居た」
 言いつつ、めずらしく感傷的になったのか少し目が細くなった将造を見て、アスカはありあ
りと少年時代の将造を思い浮かべる。
 が、今となにも変わらない姿だったのだろうな、としか考えられなかった。
 そうしてレジへ向かうと、背後の将造にあきらかに怯えている女性店員を哀れに思いながら
もアスカは紙袋を受け取るのだった。
 水着売り場を抜けると、なんとなく空腹感が襲う。
「お腹空いちゃった。なにか食べていこ」
「いわれてみりゃあ……もう六時けぇ。おどれ、何時間買い物すりゃあ気が済むんじゃ」
「女の子の買い物は長いのよ、パパだって知ってるでしょ」
「だから嫌じゃ言うたろーが! ちっ。まあええ。終わったことじゃ。それより、この時間な
ら、もうメシより酒じゃな」
「あたしまだ未成年だからお酒なんて飲めないわよ」
「歳なんぞ関係なかろうが。どっちみち、デパートじゃオモロくもなんもねぇ。湯本へ行くぞ。
お子様の時間は終わりじゃ。おどれももう一四じゃけぇ、ちっとは大人の味を勉強せんにゃ
あいけん」
「で、でも……」
「デモもストもありゃせんわい、行くぞ!」
 将造が「やれ」と言ったことに、逆らえる人間はいない。居たとすれば、それは竜馬だけだ
ろう。
 ただ、その場合も血の雨が降ることは確実だ。
 アスカは結局、引きずられるように旧箱根湯本へと連れていかれることになってしまった。

 

 ……湯本。
 箱根の繁華街であり、かつては日本有数の温泉街をのんびり楽しむ場所であったが、首都の
機能が移行してからというもの、歌舞伎町を由来とする人間が多く雪崩れ込んだことで、治安
は急激に悪化した。
 正式名称ではないが、新歌舞伎町という通称がほとんど定着してしまって、その姿もかつて
の歌舞伎町を彷彿とさせるぐらいに変貌してしまっている。もはや湯本という本来の名称を使
う人間の方が少なくなってしまったぐらいだ。
 ただ、将造は別の世界から来たために、箱根は箱根だろう、という感覚らしく、旧来の湯本
という名称を使っていたが。
 開発もセカンドインパクト後、いきあたりばったりに進行したため道が複雑化し、慣れてい
る人間でなければ、迷宮に等しいところも、ほとんど新宿界隈と変わらなかった。

 

 が、さすがに将造はこういうところは庭のようなものらしく、ずいずいとアスカを引き連れ
進んでいく。
 人は蟻のように溢れていたが、昭和のヤクザ映画に出てくる姿そのものの将造はよく目立つ。
場所が場所だけに、彼をよく知る人間も多いらしく、けっこうな数が避けて通ったり、会釈
があったり、下手をすると最敬礼していくことまであった。
 やがて、将造は路地の一角で、地下へ降りる階段を見つけると、ゆっくりとした足取りでく
だっていく。
 暗めの照明が彩られて、壁に酒にまつわる飾りや文字がちりばめられていることから、どう
やらバーであることはアスカにも解った。
 階段を下りきると、出迎えた戸を押して入店する。
 見えたカウンターに客は一人もいなかったが、代わりにクールジャズの音色が出迎えた。バ
ーテンが顔をあげる。 
「いらっしゃ……あ、これは岩鬼さん。お疲れ様です」
「お~う。しばらくぶりじゃな、宇津木ぃ」
「は。そちらは……ああ、噂の娘さんですね」
「ああん? 誰じゃ噂ひろげよるんは。しばくぞ」
「いや、滅相もございません。酒の席のことですから、ここは一つ穏便に……」
「ま、ええ。一杯くれ。いつものじゃ」
「ハイ。娘さんには?」
「初めてじゃけえ、軽いもんがええじゃろ。任せる」
「では、カシスオレンジなど」
「ありきたりじゃな」
「ありきたりですから、自信をもってオススメできます」
「相変わらず口のへらん小僧じゃ。ジャズなんぞ流してかっこつけておらんで、演歌でも流しゃぁ
ええんじゃ、おどれ。ここは日本じゃぞ」
「恐れ入ります」
「けっ」
 どすん、と将造がスツールに腰を下ろすと、となりにアスカがことんと座った。さすがの彼
女といえども、まだこういう空間には慣れていないらしく、落ち着かない様子だった。
 しかし将造は気にせず、ボトルから注がれた酒を一気に呷り始める。ボトルのラベルには
「魔王」と筆文字が粋に描かれていた。
 名前は大仰というか、まるで将造のためにあるようだったが、その味わいは芳醇で、奥行き
の深い甘みを楽しめる焼酎である。バランタインやマッカランといった西洋の高級蒸留酒にも、
決して引けは取らない東洋の蒸留酒だ。

 

 アスカがそんな将造を横目にしていると、バーテンがかち割り氷の入ったグラスに、クレー
ム・ド・カシスを少量注ぐ。その上から瓶入りのオレンジジュースをなみなみと注ぎ、マドラー
でさっとステアしてから、彼女の前へ「お待たせしました」の言葉と共に置いた。
 底に沈む深紅のカシスと上澄みのオレンジジュースの色合いが、フルーティなプリンのよう
に見え、とても美味しそうだった。
 手に取る。
 暑さを癒す、ひんやりとした感触がアスカの掌に伝わった。
「ん、いただきます」
 英才教育を受け、エリートになるべく修練を積む人生を歩んだアスカは、当然、若い体に悪
影響を及ぼすアルコールなど、飲んだことはない。
 別に、飲んでみたい、と思っていたわけでもないので、なにか後ろめたいような気持ちがあった
のだが、ここに至っては飲むしか他にあるまいと思考を切り替え、口をつけた。
 と。
「! ちょっとクラっとくるけど、すごい。美味しいじゃない!」
 新鮮な酸味と甘みが、喉を潤すように流れた。アルコールだということを、ほとんど感じさ
せないほどである。それでいて、アルコールがジュース的な甘みを抑えて、ほどよい清涼感を
もたらす。
 素材の鮮度が素晴らしいのであろう。リキュールとジュースを混ぜるだけ、という単純なカ
クテルゆえ、素材の出来が味わいのすべてを左右するといっても過言ではなかった。
「女性のお客様には、特と人気のあるカクテルでございます。もっとも通常、未成年の方には
お出ししませんが」
「そりゃ、あたりまえよね……ばれたらお店潰れちゃう」
「心配すなや。この店は岩鬼組のシマウチじゃけぇ、他の誰にも手出しさせん」
 シマウチとは、ヤクザの言葉で縄張りの意である。
 岩鬼組のシマウチともなれば、他のヤクザが手出しできないのはもちろん、ネルフや政府で
さえ、強制的に介入することは不可能であると言えた。
 バーテンは深々と頭を垂れる。
 すると、その垂れた頭にむかってグラスが差し出された。
「ね、もう一杯ちょうだい」
「はい、かしこまりました」
 さっと頭をあげ、バーテンは新しいグラスに氷を詰めると、さきほどと同じ要領で手早くカ
シスオレンジをつくりあげる。
 差し出された二杯目は、すーっとアスカの喉へ消えていくのだった。
 その様を見て、将造がニヤリとしつつも、釘を刺す。飲み慣れない人間が犯しやすいミスを
予想したからだ。
「アスカぁ、おのれハーフじゃけぇ。おそらく酒にゃあ強かろうが、最初は抑えんと、ひでー
事になりよるぞ。酔いはあとから回ってくるんじゃ」
「あたしはクォーター! ただのハーフよりフクザツなのよ」
「……回ってきよったかのう。はじめてで一気飲みして、ぶっ倒れんだけ大したもんじゃが」
「そのようで。お客様、チェイサーをどうぞ」
「なによ、ただの水じゃない」
「左様でございます」
「水はいいから、もっとちょうだい」
「お客様、少々お控えになったほうがよろしいかと」
「あたしはアスカっていうのよ。オキャクサマじゃないわ。いいからちょうだいよ」
 どうしたものか、とバーテンが将造に目をやるが、彼は手をひらひらと振りながら、魔王の
ボトルを一人で傾けているだけだった。
 はあ、と溜息を心で吐き、バーテンはふたたびカシスオレンジを作りにかかる。ただ酔った
舌には解りにくい程度に、リキュールの量を減らしつつ……。