古来、この地方は、浪華八十嶋として、風光明媚な場所であり、延暦二十三年(八〇四年)に遣唐使一行が、
この島の美しい景色に感じ入り、一泊することと成った。
その時島の住民は、遣唐使一行の今後の長い航海の安全と、無事に任務を終えて帰還出来る様にとを祈り、
住民同士の合力により島の一角に祭壇を設け、住吉の大神をお祀りし、この事が縁起となって祭壇跡に祠を建て、
それと共に、出発の際の約束どおり、一行の帰路を迎えるのに便利な様に「みおつくし」を建てた。
これが現在の「澪標住吉神社」の社名と当社の御神紋「みおつくし」(又は、みをつくし)の由来である。
その後も、諸国を廻る船や防人の用船も寄泊し、住民の数も増加して、当社も氏神(産土神)として、発展して来た。
豊臣秀吉が大阪城を築いてから、当地は「伝法口」として大いに賑い、
江戸時代初期にかけては、この地方の最盛期を迎えた。
又、当地は、良質の水に恵まれていたため各種酒造の本場(神戸や西宮の灘五郷はこの後のことである)としての賑いも見せ、
江戸時代には、江戸を始め遠く東北や北海道まで、樽廻船が販路を伸ばすようになり、当社も土地や海の守護神として、
航海や交通・商売繁盛等の神として、さまざまな崇敬を受けるようになったが、このことは、現存するご本殿
(四間流造れ造り・大阪では当社だけのようである)の規模の大きさや石燈籠や狛犬からも伺う事が出来る。
明治の中頃まで、当社の南にあった浜辺に、大きい「澪標」があり、二基の燈籠が水面に映え、
樹木を背景に朱塗りの大鳥居が建ち、誠に壮麗であったとの事で、氏子や航海中の人々等、
夫々に心の拠り所として存在していたようである。
大鳥居は、航海を終えた船主が、感謝の為に帆柱を奉納し、それを材料として次々に建立されたが、
残念なことに昭和九年の室戸台風によって倒れ、現在はコンクリート造の大鳥居が建っている。
明治四十二年十二月には、旧伝法五丁目の住吉神社とも合祀された。
昭和になって、度々の風水害により、殆どの樹木が無くなったが、戦後氏子の協力によって整備され、
氏子崇敬者の協力で、平成七年の阪神淡路大震災の被害も乗り越え現在に至っている。
(以下、余談)
新淀川と正蓮寺川に挟まれた伝法地区に鎮座しています。
阪神なんば線伝法駅があり、すぐ近くには和風屋敷に洋館をつけた和洋折衷の鴻池組の旧本店があります。
その昔、浪速津の川口に立てられていた澪標が神社の由来となっています。
大阪市の市章、京阪電鉄の社章など、いくつかの団体に澪標を象ったものが使われています。
和歌では「難波なる」の枕詞は「みをつくしても」に掛かりますね。それくらい難波の象徴だったのでしょう。
この後は、同じ伝法地区にある鴉宮まで歩いていきました。