手力雄神社

Last-modified: 2013-10-05 (土) 16:23:16
 

手力雄神社
てぢからおじんじゃ
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(参拝日:平成24年11月24日)
住所:岐阜県岐阜市蔵前6丁目8-22mapionlogo.gif
主祭神:天手力雄神
社格:郷社
主な祭礼:4月第2土曜日(手力の火祭)

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
木曽川を東から京に上った軍勢は、源範頼が最初であったと思われる。

東海道を西進し、熱田に至ると、通常七里の渡しで桑名に至る。木曾三川の渡河を一度で済ますためだが、
何千、何万の軍勢が敵前を渡河するには、北進し、徒歩で渉れる長森口を渉るしかない。

これに最初に気付いたのは坂上田村麻呂と思われる。当否は別にして東軍の防ぎに、
美濃側の防御点として戦略上の要衝である長森に手力雄神社は築かれたと思われる。

貞観二年とは坂上田村麻呂が宮城(みやぎ)を築いた直後である。

延喜式に「鄙守神社」とあり、美濃雑事記に「ひなもり神社、いま手力雄神社といふ」とある。

平安朝の荘園時代、厚見郡の大半「鶉・茜部」は東大寺領であったが、長森は花園天皇(後醍醐天皇の父君)の
代まで皇室領であった。花園天皇の寄進により、京都大徳寺の荘園となった。

【おふじ伝説と雨乞】
昔ある年旱天の年がありました。蔵前から「円城寺村」に雇われて行った小娘の「おふじ」が
「手力様に願掛けすれば御利益がある。」と言ったので、村中で手力様に願をかけました。

しかし、一向雨は降らず、嘘つきよばわりされた「おふじ」は木曽川に身を投げて死んでしまいました。
するとその日から雨が降り続き、秋の実りを得ることができました。

円城寺の人達は「富士神社」を建て、雨乞い踊りとして芭蕉踊りを奉納するようになりました。
天保三年・嘉永六年・明治二十六年・四十二年・大正二年・昭和五十六年に芭蕉踊りの奉納の記録があります。

【火祭りの始まり】
始まりは不明と言わなければならない。

明和年間(一七六四~一七七二)村の頭百姓と火打拓之丞(ひともしたくのじょう)とが争論(裁判)になったため、
中断。文化二年(一八〇五)争論が収まり再開した。と記録にある。

鉄砲火薬とは関係なく、全国各地の農村では手作りの花火が行われていた。

昭和三十年代各地の花火が中断する中で当地の花火が珍しくなった。

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↑拝殿↑

(以下、余談)
東海北陸道の岐阜各務原IC近くの住宅地内に神社はあります。
北東へ数km先には当社と同名の手力雄神社があります。少しややこしいです。

当社の鎮座する長森は中世において、唯一の木曽川渡河点として交通の要衝でした。
そのため、当地で戦火を度々交えています。

特に、関ヶ原の合戦では当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため、
東軍が攻撃し、灰塵に帰しました。

神社にまっすぐ伸びる道路(昔の参道)の半分くらいを占めるように鳥居が建っていますが、
これは三の鳥居です。その先の中山道との交点あたりに二の鳥居がありますが、一の鳥居はありません。

実は、一の鳥居は木曽川を隔てた先、大垣市赤坂にあります。
中山道が開設当初は舟路だったことの名頃だそうです。こんなに遠い一の鳥居は初めてです。